我が闘争(抄訳)
『我が闘争(抄訳)』の全文突撃隊への解散命令
ナチ党にとっても、突撃隊にとっても、重大な意義を持つ一九二三年になった。
この年突如フランスが、ルール地方を占領したのだ。
ルールの占領は、ナチ党にとっては、さのみ驚くに足りる程のことではなかったが、兎も角今日以後のドイツは、フランスを目標として立ち上り、今日までの怯懦極まる退却政策を一擲して、多分に積極性を帯びて来るであろうという希望を持たせるには充分であった。突撃! このことが、あらゆる意味に於てドイツには必要であった。突撃隊は、国家の情勢が新興ドイツの誕生に向うなれば、その国家的奉仕に参加することに、非常に大きな期待と、無限の感激を覚えざるを得なかった。そこで将来のために、突撃隊の組織を軍隊的に編成換えすることになった。しかし、若し、没義道にルールを占領したフランスに対して、ドイツの積極的な抵抗が新たにはじめられるに違いない、という仮定が正しいものでなかったなれば、突撃隊の軍隊的改変は有害であったかも知れない。
一九二三年の末、ドイツ政府はナチ党に解散を命じて来た。それと同時に突撃隊も亦解散の止むなきに至った。このことは我党にとって実に痛恨極まる出来事であった。しかし後日考えれば、之が寧ろナチ党のために幸せを齎したものであった。
一九二五年にナチ党は再生した。時を同じくして突撃隊も編成された。しかしその時の突撃隊は軍隊的編成ではなく、これが生れた当時の最初の原則に従って編まれた。
突撃隊は防衛同盟でもなければ、秘密組織でもない。――ナチの民族運動のためには、一万人の親衛隊が必要である。
(注――一九二三年、ルール地方に独佛間の危機が孕まれるや、ナチ党は政府の命令によって解散を命ぜられ、ヒットラーは投獄の憂き目に会った。「我が闘争」の前半は、この獄中に於て書綴られたものである。ナチ党はヒットラーの出獄を迎えて一九二五年再び建設され、今日に至っているもである。尚ヒットラーがナチ党の指導者の位置についたのは、一九二一年の夏であった)