我が闘争(抄訳)
『我が闘争(抄訳)』の全文附 ヒットラーの小伝説
『我が闘争』は、主としてヒットラーの思想と精神との成長過程を示したものである。しかし、之を読了することに依って、我々は人間ヒットラーの経歴をも略知ることが出来る。けれども所詮「我が闘争」はヒットラーの思想史であって、彼の今日まで経て来た人の子としての道筋を明かに知ることは不可能である。従ってそのことが「我が闘争」の時間的経過への了解を妨げる懸念もなしとしない。その不安を除くためにヒットラーの略伝も亦必要であろうかとの老婆心から、以下系統立てて五十一歳までの歩みを映し出すことにする。
一八八九年四月十一日、この日アドルフ・ヒットラーは抓々の声をあげた。ドイツとオーストリアとの国境にあるブラウナウと云う小さな税関町が、即ち彼の産湯を使ったところである。彼の父はこの町の税関の官吏をしていた。
父母ともにバヴアリア生れではあったが、その国籍はオーストリアに属していた。従ってヒットラーは、ドイツ系オーストリア人としてこの世に生れたわけである。
彼がその少年時代をランバッハで送ったことや、十三歳にして父を失い、十六歳にして母と死別したことや、画家となるべき希望が美術学校の入学試験不合格で挫折し、将来建築家たるべき志望を抱いたこと、ウィーンで五ヶ年間建築場の手伝いや、貧しいペンキ職としてドン底の生活を舐めねばならなかったこと等は、既にヒットラー自身が本書の初めに於て語っているところであるから省略して、ここでは当時の感激し易い彼の心を刺激したオーストリアとドイツとの間の空気について一応の説明を加えておきたい。そのことの方が「我が闘争」の、少年時代の背景を了解するのに却って役立つと思うからである。
始めオーストリアのハプスブルグ王家は、ドイツ民族諸邦をその傘下に集めて、中欧に覇を唱えていたのであるが、十九世紀の半ば過ぎになると、次第にその国威に衰えを見せ始めた。そしてオーストリア国内に包含せられていた異民族、即ちスラヴだとかマジャールなどの民族が、徐々に勢力を増大し始めたのである。この時に当って、ドイツ民族諸邦中最も北部にあったプロシヤのフレデリック大王が蹶起し、一八六六年、鉄血宰相と歌われたビスマルクに大軍を与えて一路南下、遂にドイツ諸邦の支配者であったオーストリアと一線を交えることになった。要するにハプスブルグ王家の覇胖から脱して、昔のプロシヤ王国を建設したいがための戦いであった。
老大国オーストリアはビスマルク軍との戦いで、脆くも大敗を喫した。その勢いを以てビスマルクはフランスをも攻略(普仏戦争)、遂にウィルヘルム一世を援けて大ドイツ帝国の建設に成功したのである。しかしこの大ドイツ帝国の建設に当って、オーストリアは除け者にされてしまった。
元を洗えばオーストリアもドイツも同民族である。それが二つに分れて相睨み合うことになったのであるから血で血を洗う状態を生んでしまった。そうなってみると、オーストリアは既に戦敗国であり、ドイツにそのままの力では対抗出来ないことは明かであるから、国内に住む異民族、特にスラブ民族に頼って、それらの民族の母国(ロシア)の庇護の下に、オーストリアの安泰を計らねばならなくなった。親スラブ政策は斯くして生れたのである。従ってこの国の中のドイツ民族は事毎にハプスブルグ王家からの圧迫と干渉とを受ける立場に置かれた。殊に独墺国境地方近いオーストリアのドイツ人は、具さに被圧迫民族の辛惨を嘗めさされたものである。
ヒットラーをして「何故我々はドイツ人でありながら普仏戦争に参加出来ないのか」との疑問を抱かせたのもまた「ああドイツ!」と、火のような憧がれの心を起させたのも、みな斯かる社会情勢の生ましめたものであったのである。
ヒットラーの胸中に、ドイツへの憧憬と、ハプスブルグ王家への反抗とが芽生えたのは、十三四歳頃からである。その後十六歳から二十一歳までの間、ウィーンに於て送った生活中に、彼は完全にハプスブルグ王家を憎悪するようになり、それに正比例して身を以てドイツのために尽そうという決意が燃え上った。
ウィーンに於て彼の思想はあらゆる方面に成長した。
横暴なハプスブルグ王家の中央集権主義や、この大都市の中に現われた資本主義の矛盾、ユダヤ人の怖るべき陰謀、堕落し切った議会、オーストリア政府の汎民族、反ドイツ政策。生来研究的であり物事に熱中し得た彼はこの五年の間オーストリアをすっかり解剖した。そしてこの国の中には、ヒットラーを生かし得る何物もないことを洞察したのである。時に彼はまだ僅か二十三歳の青年に過ぎなかった。
一九一二年に彼はウィーンに見切りをつけて、憧がれのドイツミュンヘン市へ走った。ミュンヘンは七十万の人口を擁する大都市であり、そこには渇望久しかったあらゆるドイツの文化が充満していた。彼はこの町にはっきり彼の祖国を見出したのである。
彼はここで建築製図の仕事を見付け出して働きながら、外交、政治、経済等の問題に対して常に真剣な勉強と研究とを怠らなかった。そしてこの研究の中から、ドイツがオーストリアと同盟を結んでいることは、百害あって一利もないこと、この同盟はオーストリアの瓦解にドイツが巻き添えを食う危険が多分にあることを発見して、ドイツのために真剣に独墺同盟の破棄を希望した。又オーストリアとバルカンとの間に醸されつつある政治的不安が、近く大事変勃発を予想させるに充分のものがあったことも見抜いていた。
果して彼がミュンヘンへ移ってから三年目の一九一四年七月二十八日、遂にオーストリアとセルビアとの間に戦争が起り、それが瞬く間に欧州全土に広がる大戦争となってしまったのである。
ドイツがロシアへ宣戦を布告したのは、それから五日目の八月一日であった。ヒットラーは時を移さず国王に従軍志願書を出して、バイエルン予備歩兵第十六連隊に入隊を許された。
その後の彼の戦線に於けることや、二回に亘る負傷(第一回は足に砲弾の破片を受け、二回目は毒瓦斯のため眼をやられた)のこと、及びその前後の国内と戦線のことは、彼自身が「我が闘争」の中で相当詳しく語っているから、重ねてここで述べる要もあるまい。
ドイツ瓦解の導火線となったものは、一九一八年十一月九日、共産主義者の扇動に乗せられたキール軍港の水兵約五百名が赤旗を翻えして政府反対、戦争反対を叫びつつ、トラックの縦列を作ってベルリンへ乗り込んだことから始まる。この反戦運動は燎原の火のような勢いで瞬く間に全ドイツ国内に燃え広がり、時の政府も最早如何ともなす術を失ってしまった。その結果はアメリカからの降伏勧告となり、カイゼルの退位、ヒンデンブルグ将軍の亡命、続いて社会民主党のエーベルトやシャイデマン等のドイツ共和国誕生、戦争の即時停止という大革命が起きたのである。
このことを目撃して、身自ら第一線で死生の間を彷徨し、幾多の忠勇なる戦友の殆れるのを見て来たヒットラーが、如何に憤激し、哭き、悲しんだかということは、彼自ら血涙を以て物語っている。
ヒットラーが偉大なる建築家になろうという希望を捨てて、政治に依って祖国を救おうと決心したのは、この時からである。
その後のドイツは全く蜂の巣をつついたような騒ぎに陥ってしまった。
元々この革命を扇動したのは共産主義者のスパルタカス団首領リーブクネヒトであったが、政府を乗っ取ったのは社会民主党のエーベルト一派であった。うまうまと裏を掻かれた共産党がこれを見て黙っている筈ではない。彼等はその親分であるソ連の援けをかりて積極的な攻勢を取り、国内至る処で悪質の騒擾を起した。之に対して共産党撲滅の旗を押し立てた海兵旅団や、ドイツ愛国青年将校団などが蹶起して、随所に小戦闘を演じるという騒ぎであった。
ミュンヘンに於ても同様であった。ミュンヘンの在る地方はバイエルン王国であったが、それが倒れてレーテ共和国と云うソヴィエート王国になった。ここでは共産主義の活躍が実に猛威を逞しうしていた。それだけに右翼即ち愛国主義者の反抗心も相当熾烈なものがあったのである。
ヒットラーは戦線から帰って後、伍長勤務としてこの土地の兵営に起居している中、新聞記者上りのヘラーが結成したドイツ労働党に加盟した。
この間にバイエルンのソヴィエト政府が中央政府から睨まれ、遂に中央政府の討伐軍の為に亡ぼされて、フォン・カールの社会民主党政府が樹立されるという事件が起り、引続いてヴェルサイユ条約の締結に依って、連合国に対するドイツ人の呪詛、無能なる共和党政府への反抗等の風潮が助成されるようになって来た。
党員僅か七人のドイツ労働党は、この機運に乗じて、次第にその勢力を加えて来た。この党の中でヒットラーが受持った役は「宣伝委員長」だったのである。ドイツ労働党の初期に於ける忍耐と苦闘とは、本文に於て矢張りヒットラー自身が具に述べている通り、我々の想像以上のものがあった。それだけに、ヒットラーとしては全身全霊を打込んで闘った。自然その闘争はハラハラさせるようなものがあった。その結果比較的穏健派の首領ヘラーと事毎に合わなくなって、遂にヘラーの引退となり、党の独裁権は自らヒットラーの手中に帰すこととなったのである。
彼は事実上支配者となると間もなく党の名称を変べた。「国民社会主義ドイツ労働党」即ちナチ党という看板に塗り代えたのである。そして愈々共産主義とユダヤ人に積極的な闘争を挑み、中央政府猛攻の手をゆるめなかった。
「嵐の分体」として怖れられたナチ突撃隊が生れたのはこれから間もなくのことである。そしてナチ党は、この突撃隊のために益々強くなると共に、民衆の絶大な人気を獲得することも出来たのであった。
一九二二年頃になると、国粋諸団体の中でナチスは最大最有力の団体にまで生長した。そしてその勢いは日増しに全ドイツへ広がらんとする様子が見え、それにつれて他の右翼団体も益々活気づいて来たので、ベルリンの中央政府は「共和国治安維持法」を作り、之に依って右翼団体を抑圧しようと企てた。やや圧迫され気味だった共産主義者達は、この治安維持法の発布を見てが全精力を盛り返しそうになったので、之に憤慨した国民主義諸団体は、全国に檄を飛ばし、ミュンヘンの王宮広場前で大示威運動をやってのけた。何故ミュンヘンが選ばれたかと云うに、勿論そこにはナチス党本部があったにも依るが、今一つはフォン・カールが国民主義者であり、中央政府の指令にお構いなく、之等の右翼団体を陰に陽に庇護していたことも大いに預かって力があった。
ミュンヘン王宮広場の大示威運動、次に行われたコーブルグの大会合(本文参照)は、共に大成功裡に終ってナチ党とヒットラーの声明は愈々広く宣伝されるに至ったのである。
一九二三年一月十一日、フランスはドイツがヴェルサイユ条約に定められた義務を履行しないこいうことを口実にして、ドイツのルール地方に五ヶ師団の軍隊を進め、之を不法に占領して了った。之には全ドイツを挙げて憤激した。殊にヒットラーの憤懣は大きかった。機会ある毎に中央政府の無能を痛烈に攻撃し続けて来た彼は、最早単なる攻撃では済まされなかった。よろしく実力を以て中央政府を仆し、その勢いを以てルール地方を奪還しなければならぬと思い立った。
そのためには六千の突撃隊だけの力では不充分であった。そこで彼は国民主義者であるフォン・カール総監を動かして、エーベルト政府の軍隊と合流し、ベルリン進撃をしなければならぬと計画した。この計画はうまく行った。カールは賛成し、その上前ドイツ参謀総長ルーデンドルフ将軍も、一軍の指揮者たることを快諾した。後は只進軍の機会を待つばかりの手順となった。
ところがカールは承諾を与えたのみで容易にその兵を動かそうとはしない。何故かというに、彼が中央政府を憎悪し、之から独立しようという気持を抱いていることは事実であったが、それは単にエーベルト政府の独立のみのことであって、ヒットラーの全ドイツ民族合流と云う考えとは根本的に食い違っていた。だから彼は中央政府に反対を宣言し、中央軍のエーベルト進攻を迎えて之と一戦を交えるのなれば否やはなかったが、こちらから進んで中央政府を攻撃することには不同意だったのである。
このことを見抜いたヒットラーは、ルーデンドルフ将軍と諜し合わせ、ミュンヘンのビュルガアブロイの酒場で国民大会が開かれ、そこでカールが演説するを機会に、カールを捕えて強制的にでも彼等の意に従わせようと計画した。
一九二三年十一月八日の夜である。ビュルガーブロイの表裏に武装した突撃隊のトラックが停り、その中からヒットラーとルーデンドルフ将軍の姿が現われた。そして二人は、会場に入るや否や演壇に駆け上って、今し政見発表中のフォン・カールの横に立つや、一発のピストルを天井向けて発射して、ざわめき立つ数千の聴衆に叫んだのである。
「諸君、ただ今国民主義の革命が勃発した。バイエルン国防軍と警察とは、今から凡てハーケンクロイツの旗の下に立っている!」
斯うして、色を失ってそこに立ちつくしているカールを別室へ引張り込むと、ピストルを擬しつつ彼の決心を促したのである。之ではカールと雖も反対の仕様がなかった。話は立ち所に決まった。ヒットラーはルーデンドルフ将軍にカールの監視を任せて、自分は諸般の準備のために本部へ帰ったのである。
ところが、カールは僅かの隙をうかがって巧みにそこから逃れ、直ちに放送局へ駆けつけるや否や、ラジオを通じて全国に向い「ヒットラーは暴徒を引連れて大挙ベルリンを衝かんとしている。自分は今彼のピストルに依って心にもないことを云ったが、あれは全然嘘である。私はエーベルトの総監としてここに彼等暴徒の鎮圧を宣伝すると共に、ナチス及び之に従う団体の一切の行動を禁じ、合せてナチ党の解散を命ずるものである」と云う放送をやった。
その夜から翌日にかけて、裏切られたナチ党と、裏切ったエーベルト政府の軍隊及び警官との間に猛烈な市街戦が演ぜられたが、時利あらず、遂にヒットラーは単身国境を越えてオーストリアへ亡命を余儀なくされた。そして、今一歩でオーストリア領へ入ると云うところで、不運にもドイツ憲兵のために補縛されたのであた。時に十一月十一日である。
ヒットラーはこのために「五ヶ年の禁錮、但し服役六ヶ月にして仮出獄を許すと」云う判決を受けた。そしてランヅベルグ城の監獄で、静かに六ヶ月を送りながら、ナチ党の再建を考えたり、「我が闘争」の前半を書き綴ったりしたのだ。
一九二四年十二月二十五日、ミュンヘンの街がクリスマスの賑わいで華やかな雰囲気を醸し出している日、ヒットラーは遂に出獄した。
出獄後ヒットラーが第一回の演説会を開いたのは、思い出も深いホーフブロイの酒場であった。二、三千人しか収容出来ないその会場からは、約一万人もの聴衆がハミ出していた。依然としてヒットラーの人気は素晴らしいものであり、ナチ党の健在が明かに立證される盛況であった。慌てたバイエルン政府はヒットラーに箝口令を施いた。これにならって、全ドイツの各州が同様ヒットラーに箝口令を与えた。しかしこのことは却ってヒットラーの偉大さを裏書し、彼の名声を高めてやることにしか役立たなかった。
箝口令が解かれてから、第一回の党大会はワイマールで行われたが、この時には約一万人のナチ党員が集まった。次に一九二六年七月、ニュールンベルグで開かれた第二回党大会には、実に十数万人の党員が、雲霞の如く集まったのであった。
しかしベルリンだけはナチ党にとってまだ一指も染められない処女地であった。流石のヒットラーもベルリン攻略には久しく手を焼いた。中央政府のお膝元であり、共産主義者の牙城があるから、生なかな力を以てしては容易に侵食を許しそうにもなかった。とは云えベルリンは如何にしても攻略せねばならぬ心臓部であった。
愈々ナチ党の地盤が確立したと見るや、ヒットラーは党内で最も宣伝上手なグレゴール・シュトラッサアをベルリンに潜り込ませて、ナチ党の宣伝に着手させた。だがシュトラッサアは失敗してしまった。そこで今度はゲッベルスを送ったのである。倭躯の上に蟹股で、一向風采のあがらないゲッベルスではあるが、人心を、特に都会人の心を捉えることには天才的な才能と手腕とを持っていた。そして彼がベルリンへ乗り込んで百日とはたたない一九二七年二月十一日には、既に第一回のベルリン支部の党大会が開かれ、即製の突撃隊が「突撃隊の歌」を高唱しながら、ベルリンの大通りを行進すると云うところまで漕ぎつけた。斯くてナチスの勢力は、遂にドイツの心臓部にまで及びことになったのである。
ヒットラーは議会主義を排撃していた。然しナチ党が大きくなるに従って、国会の議員の中から加入して来る者も出て来て、ここに一つの問題が起きた。議会を認めないナチスの中に、国会へ出席する議員があると云うことは従来の主義に反する。そこで幹部とヒットラーの間にこのことに就て種々研究が積まれた結果、「ナチ党は飽までも議会を否定する。故に議会を叩き潰さなければならぬ。そのために議会に党員を入れて合法的に之を破壊する方向を採らなければならない」という宣言を発した。国家に対する非合法運動が極めて成功率の少いことを見抜いて、ここにナチスが合法化へ転身したことは、ヒットラーの達見と云わなければなるまい。
一九二八年に行われた総選挙に、ナチ党は候補者を立て、始めて選挙運動をやった。その結果はゲッベルス以下十一人の代議士を国会に送ることが出来た。
之を機会として当時クルッブ鉄工場やウーファ映画社を持ち、ドイツ国内に特殊の地位を有していた国権党の総裁フーゲンベルグとヒットラーとの握手が成った。之はナチ党のために、新らしい勢力を加えることになったのである。このためにヒットラーの股肱と見られていたシュトラッサ―は、ヒットラーが資本家と握手して、ナチスを資本主義化せしむるものだと云ってヒットラーを攻撃したために、その弟と共に追出されると云うような事件もあった。
一九三〇年に再び総選挙があった。この選挙からナチスの選挙運動は本腰となった。何でも構わず国会の中の
絶対多数党となり、第一党となれば、嫌でも応でもナチ党の理想を実現出来ると見たからである。従って選挙運動は極めて猛烈であった。その結果、ナチ党からは第一回の十二名の代議士に引かえ、今度は一躍百七名の代議士を国会へ送ることになったのである。このことは明かにナチ党の飛躍を物語っている。しかし議席五百七十六に対して百七名の代議士では、絶対多数どころか、第一党にもまだ相当の距離があった。この時の第一党は矢張り政府党たる社会民主党であり、その数は百四十三名にも達していた。
時の大統領はヒンデンブルグであり、総理大臣は中央党のブリューニングであった。ブリューニングはヤング案即ち米国の提出した大戦の賠償金を支払う案に賛成して、可なりの無理をしながらも之を実行して行くことがドイツの安泰を図る結果であることを信じていた。しかしヒットラーもその盟友フーゲンベルグも之に大反対であった。それはまるでドイツを米国に売るものだとの見解を抱いていた。従ってブ首相とヒットラーの間は、事毎に面白く行かなかった。
斯かる情勢の中に、ヒンデンブルグの大統領任期が終り、一九三二年には大統領の選挙が行われることになった。
大統領の選挙は原則としては国民投票に訴えるのであるが、議会が一致して大統領を推薦するなれば、国民投票に依らなくてもよいことになっていた。ブリューニングはヒンデンブルグを推薦するつもりでいた。しかしそれには議会の一致が要る。そのため彼はヒットラーを招いて、ナチ党の賛成を求めたのである。ヒトラーはそのことを申込まれると、
「ヒ元帥が大統領に再選されることは私も賛成です。しかしあなたの意見に賛成するためには、あなたが首相の席を退いてくれなければ駄目です。」
と答えたものである。勿論ブリューニングがこの申出を素直に受けよう筈がない。そのため議会の推薦はお流れとなり、国民投票に依ることになった。
ヒットラーはその当時また大統領になるには少し早いと思って居り、また当選するとも思わなかったが、一つにはナチ党の存在を益々明かにするためと、今一つはブリューニングへの反抗から大統領選挙に立候補した。この時の候補者はヒンデンブルグ、ヒットラー、国権党のデュスターベルグ、共産党のテールマン、それからウィンターの五名であった。
ドイツ全土を湧かせた選挙は終って、三月十三日開票の結果はヒンデンブルグが千八百六十余万票、ヒットラーが千百三十余万票、その他は五百万票以下という、大体予想通りの得票数が国民に示された。しかし之ではヒンデンブルグが大統領に再選するわけには行かない。時のワイマール憲法は、全投票数の半分以上を一人で得ない限り当選とは認めなかったからである。そこで今度はテールマンを除く他の候補者は退却し、ヒ元帥とヒットラーの一騎打を以て選挙のやり直しをすることになった。この選挙ではナチスの反対党からあらゆる妨害が加えられたが、よくその間隙を縫って奮戦し、予想通りヒ元帥の再任となったとは云え、ヒトラーは前回の得票よりも約二百万票余の投票増加数をかち得たのであった。
一九三二年ブリューニング内閣は辞職してその後へはフォン・バーベン内閣が出来た。バーベンは比較的強力な背景を持たなかったので、ヒットラーの援助を求めて来た。そこで、ヒットラーは国会を直ちに解散すること突撃隊その他に加えられている種々の禁止条項を解除することを交換条件として、バーベンの援助を承諾した。
この年の六月議会は解散となり、七月にはナチ党にとって第三回目の総選挙がめぐって来た。バーベンの選挙運動はヒトラーとの獣契もあって不干渉主義を採用したから、まるで戦争の様な騒ぎであった。
開票の結果、ナチ党は遂に宿敵社会民主党を葬って第一党となった。社民党が百三十三名の議員と七百九十五万の票を得たのに対して、ナチスは党選実に二百三十八人、得票千三百七十万と云う圧倒的且つ記録的な大差を以て凱歌を奏したのであった。しかしヒトラーも党の幹部も之を余り喜ばなかった。と云うのは、彼等の目標が「絶対多数」の獲得にあったからである。
バーベン首相はヒットラーに副総理の椅子を与えるから入閣して貰いたいと交渉した。しかしヒットラーともあるべきものが、何を以て一バーベンの下に座ることを承諾するであろう。彼は「全権を与えぬ限り御免だ」と云って、大統領からの慫慂があっても頑として応じなかった。
バーベンは間もなく桂冠した。シュライヘル将軍に組閣の命令が下った。しかし之も一九三三年一月でその命数が尽きた。茲に到ってヒンデンブルグ大統領は、ヒットラーの起用を決意するに至ったのである。
一九三三年一月三十日!この日こそ一介の労働者から身を起したアドルフ・ヒットラーが、遂に総理大臣の印綬を帯びるに至った最も記念さるべき日である。ドイツ全土に亘って、
「ハイル、ヒットラー!」
の歓声が津波の如く湧き上った。
当然この時の総選挙はナチ党の絶対多数の理想を実現させた。時にヒットラーは僅かに四十四歳の血気盛りであった。
この年の三月二十一日、総理ヒットラーの前に第一回の国会が開かれた。彼はこの日壇上に於て、二十数年来叫び続けて来た新ドイツ再建の抱負を余す処なく全国民に獅子吼した。そしてその次に、歴史的に有名な賠償金支払義務の放棄、国際間の差別撤回、マルクス主義の全滅、中央集権等の爆弾的宣言を発表した。それから更に彼は厳然たる態度を以て議会即ち国民に次のことを要求したのである。
「爾今国家の一大事を一大決心を以て断行するに当って、一々国会に相談したり、大統領や参議員に諮ってなすことは私の主義と反する。依って今後一切の権利を私に任されたい」
というのであった。ヒットラーを総理大臣とする限りは、ヒットラーの独裁を認めよというのである。之は今日迄のワイマール憲法を破棄する重大な問題であった。しかし既にヒットラーに圧倒されてしまった国会は、九十四票対四百四十一票の大差を以て、彼の申し出を可決して了った。斯くて名実共にヒットラーの独裁政治が展開され、全ドイツはナチ党の綱領に従って一大民族国家たるスタートを切ったのであった。以下その政策の主なるものを摘録して大要を窺うことにしよう。
世界の耳目を驚かせたのは、ヒットラーのユダヤ人国外追放である。何故彼が斯かる一見非人道的に見える政策を執ったかは、本文の随所に現われているから説明を省くが、このためドイツ民族の血の純潔は、今日より以上汚される憂いはなくなったわけである。
次に一国一党主義の採用をあげなければならぬ。多数の政党に依る会議は独裁権の喪失を意味し、そのことは同時にドイツ民族の結団力を弱めるという見解から、彼は一国一党即ちナチスを以て唯一の政党たるべきものとなしている。
更に彼は「結婚奨励法」を発布して、ドイツ民族の増殖を図ることにも非常に意を用いている。それには健康が第一であるとなして、規律ある生活と、真摯なスポーツを積極的にすすめている。
失業者の救済にも非常に力瘤を入れた。一九三二年頃のドイツの失業者は六百萬と注され、世界第一と云われていたが、種々の方法を講じて、之が解決問題に腐心し、その成果は驚くべき程のものがあった。
斯様にして徐々に国内体勢を整える一方、一九三三年十月十四日に至り、彼は敢然として国際連盟脱退を慣行したのであった。最早ヴェルサイユ条約もヒットラーによっては一片の紙切れに過ぎぬ。彼は諸外国の思惑などにはお構いなく、之を契機として、どんどん軍備の拡充に力を注いで行った。
ところで茲に許らずも「突撃隊騒動」が起った。それは再軍備に当って五十万の突撃隊を、従来の国軍へ合併させようとするヒットラーの考えに反対意見を持つロエームが企てたことであった。ロエームは突撃隊の参謀総長であった。彼は僅か十万の軍隊へ、ドイツの今日をあらしめた突撃隊が合併されるということに反対を抱いた国軍こそよろしく突撃隊へ合併すべしというのである。その結果国軍の反感を買い、両者の調停に流石のヒットラーも大いに悩まされたのであった。然るにロエームが斯様な強硬な意見を吐いてヒットラーに屈しないのは、単なる反対ではなく、ヒットラーを窮地に追い込んでおいて、あわよくば彼を倒し、その後釜として自分がナチ党の天下を乗っ取ろうと云う陰謀から出発していることが分ったので、ヒットラーを心の底から怒らせてしまった。その結果ヒットラーの抜き打的ミュンヘン襲撃となり、ロエーム一派七十名は、瞬く間に捕えられて銃殺に付された。この陰謀が発かれなかったなれば、今日果たしてヒットラーが健在であり得たかどうか分りかねる大事件だったと云える。
一九三四年八月二日、ヒンデンブルグ大統領が死んだ。その後を襲って大統領となるべき者は、もちろんヒットラーを措いて他にはなかったが、彼は敢て大統領の椅子には上らず、国民の「指導者」として自らを呼び、大統領と総理とを兼任するような地位を取った。ワイマール憲法の置土産たる「大統領」の名称なんか真平御免だと云うわけである。この日からヒットラーを総統と呼ぶことになったのである。
一九三五年一月には、フランスの手からザール地方を取り返した。この年の軍備充実には目覚しいものがあり一ヶ年に六十万の軍隊と、一千台の飛行機とを持つようになった。工業界もがぜん活気を呈し、海軍力も急激に充実し始めた。
ヒットラーは依然としてソ連を憎んでいたが、この国を牽制するには日本と提携するより外ないと云うことを見抜いて、一九三六年十一月に日独防共協定を結んだ。イタリアがこれに加わったのはその翌年のことである。かくてヒットラーとムッソリーニとは、日本にとって海の彼方の人々ではなく、壁一重の隣人となったのであった。
電撃的なヒットラーの政策は、次から次へと展開された。近年に起ったドイツ民族国家建設への諸問題は、既に一般の熟知するところであるが、尚一つの記録として次に摘記しておく必要があろう。
◎オーストリア併合問題
ヒットラーの故郷であるオーストリアには、多数のドイツ民族が住んでいる。のみならず彼自身がドイツの総統である関係上、オーストリアを一個の独立国として置くことは不都合なこともある。そこで当時既にこの国の中にも結成されていたナチ党支部に指令を発し、ドイツ合併の運動を起させた。之を知ったドルフス首相はイタリアと結んでナチ運動の妨害を行ったため、遂にナチ党員に依って暗殺されてしまった。親伊派のドルフスを殺されたイタリアは怒って、飽までドイツがオーストリアを併合する積りなれば、敢て一戦を辞するものではないという強硬な態度に出て来た。まだ国内の軍備が充分に整っていなかったドイツは、今イタリアと戦うことは極めて不利益であることを知って、一先ず手を引いたかに見えた。その間にヒットラーとムッソリーニとの会見があり、何等かの了解がなされたようである。ドルフスの後を受けて立ったシュシュニック首相は、ナチ党の勢力を駆逐するには、国民投票の形式をとって政府が国民を引きずり込み、国民全体の声を以てドイツ合併反対を表現するのが賢明の策なりとしてこのことを発表した。勿論ナチ党はこの国民投票には反対である。ヒットラーは直ちにこの投票を延期すること、シュシュニックは辞職して親独派のインカーに首相の椅子を与えることを要求した。シュシュニックはこの申出を一蹴した。彼には私かにイタリアの援助が期待されていたからだ。申出を拒否されたヒットラーは突撃隊に命じて直ちに国境を越え、オーストリア内へ進軍せしめた。これを見て急をイタリアに報じ救援を求めたが、両巨頭会談で話合のついているムッソリーニは、今度は全然相手になってくれない。致し方なしにシュシュニックはイタリアへ逃込み、プログラム通りにインカートが内閣を組織した。斯う云う過程を経て一九三八年三月、遂にオーストリアはドイツに合併されることになったのである。
◎ズデーテン問題
ズデーテンとは、チェッコの一地方であり、大戦前はドイツ領であった。失地回復とドイツ民族救済のために、オーストリアを併合するや間もなくヒトラアーは、この地にも突撃隊を派遣して返上を迫った。イギリス人はドイツがそう大きく強くなって呉れては困るので、何等かの手を打とうとして「止め役」に立ったが、ドイツは何がどうあろうと奪還するという強腰であり、之に対抗して戦うには英仏とも自信がない。仕方なく長い物には巻かれろと、あべこべにチェッコをなだめて、ズデーテン地方をヒットラーに献上させた。これが一九三八年十月一日のことだ。
◎チェッコの併合
この問題に端を発して、チェッコとスロバキヤ紛争が生じた。スロバキヤはチェッコの一部分ではあるが、チェッコとは全然人種が違う。そこでこの機会に独立を計ろうとしてドイツに援助を乞うた。ヒットラーはスロバキヤを助けることはチェッコを弱らせる結果になると見て之を承諾した。そのためスロバキヤはチェッコに対して独立を宣言した。斯うなっては最早チェッコもバラバラである。ドイツとスロバキヤに挟まれては、今後到底安んじて生きてゆけぬ。それよりは寧ろ大木の影に立寄るに如ずと観念して、一九三九年遂にドイツへの合併を申入れたのであった。
◎メーメル地方の奪回
メーメル地方とはリトアニア東部地方で、矢張舊独領に属する。もちろん多数のドイツ人が居住していたが、引続いての失地回復にはリトアニアは怖気ついてしまい、ドイツからいじめつけられない中に返上して了う方が後生安楽と諦めて、三月二十一日我からこの地方の返上を申出た。
◎ダンチビ・回廊問題
ここまで順当に行ったが、ダンチヒ自由市及びポーランド廻廊地方をも奪還せんと企てたヒトラーは、遂に英仏の堪忍袋の緒を切らせてしまった。この地方をドイツに取られると、ポーランドは唯一の海への出口を塞がれて窒息状態に陥る。そこでポーランドはイギリスとフランスへSOSを発して援助を求めた。英仏ともポーランドを救うと共に、飽なきヒットラーの失地回復運動をこの辺で食い止めなければ果てしがないと感じた。交渉は幾度も重ねられたが仲々結着がつかない。その間にヒットラーは手際よくソ連と不可侵条約を結んで、若しポーランドと戦うことになっても、ソ連からの干渉と攻撃からは免れ得るように芝居を打った。兎角する中に、国境に待機していた両国の兵が越境としたとかせぬとかの悶着となり、それがきっかけで遂にドイツ軍が雪崩を打ってポーランドへ侵入、僅かに半ヶ月の戦いで完膚なくこの国を叩き潰ぶした電撃戦の序幕を見せたのである。
◎第二次欧州大戦勃発す
一九三九年九月三日午前十一時十五分(日本時間昭和十四年九月三日午後七時十五分)、面目を丸潰しにされた英・仏は同盟を結んでドイツに宣戦を布告した。斯くて驚天動地の第二次世界大戦は勃発してしまったのだ。
その後の経過は今茲に書くまでもない。
ハーケンクロイツのナチ旗は、デンマークを被い、ノルウェーを屈し、転じてオランダ、ベルギーを一瞬にして蹂躙し、遂にフランスをも只一蹂みに蹂みつぶしてパリー城頭高く翻っている。時を移さずイタリアは共同戦線を張った。世紀の二巨人ヒットラーとムッソリーニとは、今やドーブア海峡の彼方に運命の戦いを控えて、黙然として浮ぶ大ブリテン国を謁見しながらmここん未曾有の大敵前上陸の機会を静かに窺っているのだ。
「ハイル・ヒットラー!」
の叫びが果して幾世紀かの叫びとなるか否かは、怖らく茲数旬にして、髪の審判台に載せられることになるであろう。