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試訳:航空写真と矛盾している12の「目撃証言」

ジョン・ボール

 

歴史的修正主義研究会試訳

最終修正日:20071014

 

 

本試訳は当研究会が、研究目的で、John Ball, 12 'Eye-Witness' Stories Contradicted by Air Photosを試訳したものである。
 誤訳、意訳、脱落、主旨の取り違えなどもあると思われるので、かならず、原文を参照していただきたい。
(online:
http://www.air-photo.com/english/)

 

(第1の論点)

 

「目撃証言」

航空写真

屋根の穴は「ガス室」にシアン化水素ガスの丸薬を投下するために使われた。

いわゆる「ガス室」の屋根には穴は存在しない。

 

 

ビルケナウの「ガス室」の屋根には1944年には換気穴が存在しないという証拠。

 

http://www.air-photo.com/grap/evidence_map.gif

1.      焼却棟

2.      地下死体安置室のセメントの屋根。ここは194344年に数十万が殺された「人間ガス室」であったとされている。いわゆる「目撃者」の大半が看守のSS隊員がこの屋根の穴からシアン化水素の丸薬を犠牲者に投げ落としたと述べている。

3.      1993年に私が調査した2つの穴は、1944年の航空写真には見られない。だから、この二つの穴は、屋根を重要な目撃証言と一致させるために1944年以後、誰かによってあけられたものである。

4.      1944825日の航空写真の上にある4つの点。1993年に私は屋根の内部と外部を調査したが、この場所には穴は存在しなかった。だから、航空写真の4つの点は、穴ではない。私は4つの点が写真の上に描かれたものであると思っているが、そうであるにせよ、あるいは屋根の物体の影であるにせよ、4つの点が穴ではないという重要な事実に変わりはない。

5.      結論:「目撃者」は屋根の穴を通じて丸薬が投下されるのを見たと述べているが、1944825日の航空写真にある4つの点に位置には穴はないので、それは1944年には穴ではなかった。

*今日屋根の上に存在する2つの穴は1944年の航空写真には対応する点がない。だから、それらは1944年以降に屋根にあけられたものである。

*だから、1944年には屋根には穴は存在しなかった。したがって、シアン化水素の丸薬が屋根の換気口から投下されたという「目撃者」の話は物理的に不可能である。

 

 

http://www.air-photo.com/grap/evidence_photo1.jpg

現存している穴の位置

 

http://www.air-photo.com/grap/evidence_photo2.jpg

手を加えられていない航空写真

 

 

 

 

19975月に撮影された地上写真

 

 

一つの穴のある崩壊したセメント屋根

http://www.air-photo.com/grap/foto2k2.jpg

崩壊したセメントの屋根、壁の端には赤い煉瓦、左前方に穴1。屋根は、この場所の支柱が爆破によっても崩壊しなかったので、隆起している。穴1は隆起のちょうど前にある。屋根は隆起の中央を横切って幅9.6m、赤い煉瓦から写真の左の焼却棟まで長さ30m

 

 

曲がった鉄筋ロッドのついた左の穴

http://www.air-photo.com/grap/foto4k2.jpg

前の写真の前面にある左の穴、筆者は1993年にここから降りた。

この穴は、厚さ10cmのセメント板を切断し、鉄筋ロッドをカットすることで作られている。切断されたロッドは、穴から後方に曲げられている、穴は85cm×50cmほどの大きさであり、人がそこから降りていくことも簡単である。この大きさであれば、1944年の航空写真にも十分に写っていたことであろうが、実際には写っていない。

 

 

ぎざぎざの端をもつ同じ穴

http://www.air-photo.com/grap/foto5k2.jpg

1(左の穴):崩壊したセメント板のぎざぎざの端、切断されて曲げられた鉄筋ロッド。もしも、1943年にドイツ人がこの作業をやったとすれば、きれいに切断し、余分な鉄筋ロッドを取り除いたことであろう。この作業を行なったのは、戦争中のドイツ人ではなく、戦後の共産主義者であろう。

 

セメント屋根に粗雑にあけられた右の穴

http://www.air-photo.com/grap/foto7k2.jpg

2(右の穴):この穴は、おそらく大きなハンマーを使って、セメントを壊して作られた。3つの鉄筋ロッドの1つは折り曲げられる前に、弓鋸で切断された。穴の大きさは、60cm×45cm。この場所で、屋根は地上にある45cmの壊れたセメントの内側に向かって崩壊している。1944年にこの暗い穴が存在していたとすれば、航空写真に写っていることであろうが、実際には写っていない。

 

煉瓦の壁の方角へ向かう死体安置室の内部

http://www.air-photo.com/grap/undergk2.jpg

換気穴のない死体安置室は1945127日から218日のあいだにソ連軍が行なった爆破によって崩壊しているにもかかわらず、1943年当時のままのようである。1944年の写真に写っているしるしの場所には、以前そこに穴があったことを示すセメントの斑点がない。もしも、1943年のオリジナルの天井にそのようなものがあったとすれば、直線状に並んだ斑点が見えることであろう。1945年の爆破によって傾き、部分的に崩壊してしまったが、1944年の換気穴のない死体安置室もこのようなものであったろう。

 

 

屋根に開けられた穴

birk15.jpg - 56,13 K

1945年以降に屋根に開けられた幅70cmの大きな穴に入っている人間。

birk16.jpg - 57,92 K

「ガス室」の部分的に崩壊した屋根(1997年の写真)

 

 

すべての柱は固形であり、中空ではない

birk18.jpg - 24,73 K

重要な「目撃証人」は戦後の裁判で、シアン化水素の丸薬は中空の柱に落とされて、そこから針鉄網柱を介して、ガスが部屋に放出されていったと証言している。この柱は、アウシュヴィッツ博物館の展示物でもあったが、1991年に取り除かれた。柱はすべて固形のセメントであるので、この話は虚偽である(1997年の写真)。

birk21.jpg - 59,54 K

焼却棟3では、固形のセメント柱が崩壊した屋根から突き出ているが、これもまた、シアン化水素の丸薬が中空の柱を介して投下されたというはずがないことを証明している。

 

 

 

(第2の論点)

 

「目撃証言」

航空写真

日々の大量殺戮は1943年、1944年と1年以上隠匿されていた。

大量殺戮はたとえ1日であっても隠匿することは不可能である。

 

http://www.air-photo.com/grap/extview.gif

1.    広場

2.    1つの建物につき 1日に750名以上(注1)が強制的に地下の脱衣室と「ガス室」に送り込まれたとされている階段。しかし、実際にはこの階段は死体安置室への階段であった。もし、1日に一人の囚人が殺されたとしても、アウシュヴィッツ戦闘集団のメンバーはこれを目撃して、収容所の外にいるスパイに通報したことであろう。この組織は194344年に活動し、連合国のスパイとつねに連絡を取っていたからである。

3.    日常的な大量殺戮は19434月に始まり、秘密裏に隠されていたので、逃亡したとされる囚人の書いた報告が1年後の19446月に公表されるまで、スパイにも連合国政府にも知られていなかったという。しかし、もし、1日だけの大量殺戮であったとしても、村人やスパイは、鉄条網のフェンス(注2)越しに目にしたり、囚人から話を耳にしたにちがいない。スパイや連合国政府が日常的な大量殺戮について知らなかった唯一の理由は、それが起らなかったということである。(注3

4.    地下の死体安置所のセメントの屋根、開口部や換気口はない。

5.    いわゆるガス室。そこでは、たった1つのドアはガス処刑ののちに20分間の換気(注4)が行なわれているあいだ閉じられたままにされ、その後作業員がドアを開けて、すぐに中に入ったとされている。窓や換気口もなく、1つのドアも閉じられたままで、部屋を換気することは不可能である。たとえドアを開けていたとして、作業員が安全に中に入ってしたいを除去することを可能にするためには、死体のつまった地下室を何時間も換気しなくてはならない。(注5

6.    壕と2つの小屋

7.    女性収容所の3つの厨房の1つ。焼却棟から50mの距離。

 

(注1

 戦後の裁判での「目撃者」の証言によると、1941年から194410月のあいだに、アウシュヴィッツでは「ガス処刑」その他の手段で150万から420万人の囚人が殺されたことになっている。

  最近モスクワの文書館から公開された『アウシュヴィッツ死亡者記録』はアウシュヴィッツでの死亡者を、姓名、年齢、原因、日付など入念に記録しているが、それによると、19412月から194312月のあいだに69000の囚人が死んだことになっている。平均すると2000名(165名)である。1944年の記録はまだ公開されていない。しかし、1941年から1943年の資料にもとづいて算出すると、約90000チフス、その他の疫病、老衰、自然死で死亡した。処刑によるものは比較的少数である

 

(注2

 

マウトハウゼンの高い壁とアウシュヴィッツの鉄条網フェンス

http://www.air-photo.com/grap/maupool1.jpg http://www.air-photo.com/grap/maupool2.jpg

マウトハウゼンは、オーストリアの田舎の丘の上にあった、高い防壁に囲まれた監獄であり、重い刑を宣告された犯罪人や、治安維持の脅威とみなされた人々が収容されていた。マウトハウゼンの外側から撮影された写真には、緊急貯水池、監視塔のついた8mの高さの壁、中央ゲートが写っている。1つの建物の屋根は壁を越えて見ることができる。

http://www.air-photo.com/grap/m_castle.jpg

収容所内部の写真。集合場所、運動場、後景には厨房をもつバラックが写っている。8mの高い壁をもつマウトハウゼンのような監獄では、大量殺戮は行なわれなかったという。しかし、もしもドイツ人が囚人の殺戮を計画していたとすれば、処刑を見たり聞いたりするのを防ぐためには、鉄条網のフェンスをもつアウシュヴィッツのような収容所よりも、高い壁に囲まれた監獄の方を選択したことであろう。

http://www.air-photo.com/grap/maubeg1.jpg

集合場所を見下ろす収容所長フランツ・ツィエライスSS大佐。彼と彼の部下は、国際赤十字が証明しているように、ドイツが署名しているジュネーブ協定にしたがって、囚人を処遇した。1943年ごろまで、彼らの最大の関心はチフスの流行の阻止であった。(1942年-1943年に撮影)

戦後、連合国はマウトハウゼンのような壁に囲まれた収容所では大量殺戮は起こらなかったが、隙間を通して中の様子を見ることができる鉄条網のフェンス、道路、町に囲まれたアウシュヴィッツ、トレブリンカ、マイダネクのような収容所では、1年以上にわたって秘密裏に大量殺戮が行なわれたと主張した。しかし、このような収容所では、1日であっても大量殺戮を秘密にすることが不可能であろう。

1945年、ソ連の宣伝機関は、壁によって秘密を保つことのできるマウトハウゼンのような収容所ではなく、外から見ることのできるアウシュヴィッツやトレブリンカのような収容所で秘密の大量処刑が行なわれたと主張したが、そのことであやまちをおかしてしまった。彼らは、その後、このあやまちに気がついたがすでに遅かった。アウシュヴィッツはすでに、もっとも有名で最大の大量殺戮収容所となってしまっていたからである。

m_broth1.jpg - 24,38 K

保健衛生施設についての収容所博物館の説明標識

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オートバイ修理工場の隣の就寝バラックの後ろにある売春宿

m_dusche.jpg - 17,49 K

地下にある最大の部屋。シャワーヘッド、温水と冷水の水道管、床の排水溝が写っている。囚人たちは毎日仕事が終わると、ここで熱いシャワーを浴びた。

m_kitchen.jpg - 17,49 K

収容所最大の厨房、今では博物館に変わっている。

 

(注3

 McLelland, Roswell. War Refugee Board Telegram - July 6, '44. WRB representative in Berne, Switzerland, to Secretary of State, Wash., D.C. Cover letter and 14 page report from Leland Harrison, U.S. Ambassador in Switzerland. Gutman, I. Ed. Encyclopedia of the Holocaust. N.Y. U.S.A. 1990.

 

(注4

 チクロンBの丸薬がガスにかわった後、推奨される換気時間は、ドアや窓が開いたままで、換気扇が作動していた場合には、最低10時間、窓や換気口、換気扇がない場合には、最低20時間である。The Leuchter Report

 

(注5

 McLelland, Roswell. War Refugee Board Telegram - July 6, '44. WRB representative in Berne, Switzerland, to Secretary of State, Wash., D.C. Cover letter and 14 page report from Leland Harrison, U.S. Ambassador in Switzerland. Butz, A. The Hoax of the 20th Century. Institute for Historical Review. Costa Mesa, Cal., U.S.A.

 

(第3の論点)

 

「目撃証言」

航空写真

焼却棟の周囲には倉庫と使われていない畑があった。

焼却棟に隣接して厨房、バラック、使用可能なサッカー場があった。

 

http://www.air-photo.com/grap/cremab.gif

19434月から194410月にかけて、2つの焼却棟では、毎日平均1000名ほどが小集団に分かれて、地下の脱衣室に入り、次に、隣の部屋に入ったという。そこでは、シアン化水素の丸薬が屋根にある4つの穴から投入され、15分で泣き叫ぶ犠牲者を殺したという。20分後に、1つのドアが開けられ、作業員が死体を上の階に引き上げ、速やかに焼却されたという。

 

1.          ゲートのない収容所にはいる主要道路

2.          1944年には耕され、収穫を得ていた畑(注1

3.          樺とポプラの木

4.          模式図の視点(注2

5.          焼却棟模式図の視点(注3

6.          下水道

7.          鉄条網のフェンス外の2階建ての監視塔

8.          下水(注4)沈殿タンク。腐敗した悪臭を放っており、生存者によると、それは、腐敗した死体、焼却された死体からの悪臭であると信じられていた。

9.          各焼却棟の周囲にめぐらされた3mの高さの鉄条網(注5)。しかし、棟を結ぶ道路には壁も門もない。

10.      焼却棟の周囲のフェンスの鉄条網の門。1989年まで、この場所にあった記念碑は、400万人が殺されたと述べていた(注6)。今日の公式の数字は約150万人である。

11.      良く手入れされた広場

12.      地下死体安置所につづく階段。194344年、各棟1750名以上の囚人が、あるいは1日で全体では1500名が穏やかにここを通って、衣服を脱ぎ、速やかに殺されたという。しかし、地上は数千の人の目に触れており、殺害は1日たりとも隠匿することはできなかった。囚人は処刑を妨げるために戦うこともできたはずである。

13.      死体安置所(注7)として作られた地下室の地上1mのセメントの屋根。それは、焼却以前に疫病が広まるのを防ぐために死体を冷却しておくためのものであった。ガス処刑の犠牲者が脱衣した場所といわれている。

14.      地下死体安置所のセメントの屋根(注8)。看守がこの屋根の換気口(注9)から泣き叫ぶ犠牲者の上にチクロンBの丸薬を投げ込み、その後、ガスはこの換気口から排出されたという(注10)。しかし、1944年の航空写真と1993年の調査は、セメントの屋根には穴はなかったことを明らかにしている(注11)。犠牲者の叫び声は他の数千の囚人や収容所の外の村人に聞かれたことであろう。(注12

15.      2mの深さの壕

16.      2つの大きな焼却棟(注13)。1942年夏のチフスの流行後、増大した死体を処理するために建設された。1943年と1944年に、75万から100万の殺された犠牲者の死体がここで焼却されたという。しかし、ドイツ側の『アウシュヴィッツ死亡者記録』(注14)は、3つのおもな収容所――アウシュヴィッツ1、ビルケナウ、モノヴィツ――で、1941年から1945年にかけて、推定130300名ほどの囚人、その名前、年齢、死因を記録している。

17.      下水処理溝と貯水池(注15

18.      女性収容所の厨房

19.      有蓋貨車

20.      降車場。新しく到着した囚人はここから西の方に、焼却棟を通過して、中央サウナに向かった(注16)。ここでシャワーを浴び、髭剃り、散髪などの防疫措置を受けた。

21.      ここで、日曜日の午後の晴天の日その他の日に、80名の女性交響楽団、120名のブラスバンド、収容所の合唱団が囚人のために定期演奏した(注17)。(注18

22.      運動場(注19)。囚人たちは、5月から10月の日曜日ごとに、サッカーを観戦した。囚人たちは、ボクシング、レスリング、バレーボール、陸上競技も楽しんだ。(注20

23.      1944年には耕され、収穫を得ていた畑(注21)。1945219日の写真には写っているが、121日の航空写真には写っていない5つの大量埋葬地の場所(注22)。ソ連軍が、127日にアウシュヴィッツに入る前後に死亡した数百の囚人を埋めるために、その埋葬地を作ったのであろう。ビルケナウの航空写真に写っている唯一の埋葬地である。1944年末まではほぼすべての死体が焼却されていたので、このことは理解しうることである。(注23

 

 

(注1

 

農家

birk11.jpg - 39,77 K

焼却棟の回りのフェンスから見た農家。農民たちはここから収容所の全景を見ることができたであろう。

 

(注2

 

http://www.air-photo.com/grap/cutaway.gif

 

     セメントのフェンス・ポスト

    

     管理が行き届いた広場

     地下の死体安置室に行くことのできる唯一の階段。1日に数百の囚人がこの階段を下っていったという。

     収容所のフェンスの外の監視塔

     ガス室に入る前に囚人が脱衣したとされるこの部屋は実際には地下に作られたセメントの屋根を持つ死体安置所であった。そこには、死体が焼却されるまで、チフスその他の疫病が広まるのを防ぐ目的で死体を冷やしたままにしておくために、窓も換気口もついていない。

     いわゆる「人間ガス室」。ここでは、「チクロンB」の丸薬が屋根の換気口から、泣き叫ぶ犠牲者の上に投下されたとされている。しかし、この部屋は開口部を持たない堅いセメントの屋根を持つ第二の冷たい死体安置所であった。いわゆる丸薬は針鉄網柱を介して投げ込まれたとされているが、柱は実際には針鉄網柱のない堅いセメントであった。(注a

     この屋根は、シアン化水素の丸薬がその4つの換気口から投げ落とされたものとされているが、実際には、鉄筋コンクリート・セメントの15㎝の厚さのものである。私が1944年の航空写真を研究し、1993年に屋根を調査したところによると、1944年には換気口はなかった(注b)。1944年以後、支柱から2/3m離れたところに2つの穴が、セメントの屋根に粗雑に開けられたが、それは、屋根を証言に合わせようとしたものである。

     いわゆるシアン化水素の丸薬(注c)はセメントの床に投下され、それはガスに変わって、315分で人を殺したという。しかし、冷たいセメントの床は15℃であり、シアン化水素の丸薬が効果的にガスを放出する温度よりも11℃も低い(注d)。この温度では、ガスはゆっくりとしか放出されず、部屋の中の人間に作用するには、15分ではなく数時間かかる。(注d

     198893年に、3人の個々の科学者(注e)が内部の壁と屋根の一部をはがして分析したが、シアン化水素化合物の痕跡はゼロに近かった。逆に、収容所の別の地区にある「シラミ」処理部屋の壁からはシアン化水素化合物の高い痕跡が得られた(注f)。ここでは衣服についたチフス菌を持つシラミを駆除するためにシアン化水素が使われていた。

     3つのドアを持つ5つの焼却炉では、少なくとも1日に750の死体が焼却されたとされているが(注g)、実際には最大1日に160の死体を焼却することしかできない。焼却に1.5時間、冷却と再び加温するのに最低1時間必要である。それは炉に使われている煉瓦の破損を防ぐためである。また、一つの死体につき35kgの石炭が必要であり、150の死体を焼却するには16トン(5.5トン)の石炭が必要である。(注h

 

(注a

 McLelland, Roswell. War Refugee Board Telegram - July 6, '44. WRB representative in Berne, Switzerland, to Secretary of State, Wash., D.C. Cover letter and 14 page report from Leland Harrison, U.S. Ambassador in Switzerland.  Nyiszli, in Auschwitz-Zeugnisse und Berichte (Reported Documents) By Adler, Langbein, and Lingesn-Reiner. Frankfurt, Germany.

 

(注b

gassing.jpg - 28,15 K

「ガス処刑」、デイヴィッド・オレール作

 オレールは、ビルケナウのガス室からの死体の除去作業に短期間従事したと主張しているが、シアン化水素の丸薬の投下穴、毒ガスの排気穴が地下の死体安置室には存在しないので、この光景はありえない。また、45年後に採取された壁のサンプルには微量のシアン化水素化合物の痕跡しかない(殺菌駆除室のサンプルには高い濃度の痕跡が残っている)。

Ref: A Living Memorial to the Holocaust, N.Y.- David Olère: L'Oeil du Témoin/The Eyes of a Witness. N.Y.: Beate Klarsfeld Found., '89, p.54.

 

(注c

Zyklon B Pellets

チクロンB:一般的な殺虫剤

チクロンBの丸薬の写真。これは一般的な殺虫剤であり、酸に浸すか、熱い空気に触れさせた場合、シアン化水素ガスを放出する。丸薬は、アウシュヴィッツの地下死体安置所のような冷たい空気にさらされた場合には、数時間かかってゆっくりとシアン化水素ガスを放出する。

 

(注d

シアン化水素の丸薬チクロンBがガスを放出し、効果を表すのに必要な時間

説明

室温

効果を表すのに必要な時間

シアン化水素の丸薬への温度の効果

摂氏

華氏

凝固を阻む温度

31

90

3

比較的短時間に丸薬からシアン化水素ガスが放出される最低気温

チクロンBの沸点

25.7

78.3

6

ガスが効果的に放出される最低温度

地下の死体安置室の床の温度の見積もり幅

20

68

14

丸薬がガスに変わるのはひどく遅い

15

59

18

10

50

24

5

40

32


戦後裁判での「目撃証言」では、チクロンBが屋根の穴から投下されてから、犠牲者は夏には3分で、冬には15分で死亡したという。

 

(注d

 Proceedings of the International Military Tribunal at Nuremberg, Germany. Pub. H.M. Attourney General, London, England. 1948., vol.20, p. 466.

 

(注e

3人の個々の科学者によるビルケナウの壁のサンプルの分析

科学者

訪問年

焼却棟の「ガス室」の分析
(milligrams/kilogram of CN-)

「シラミ」処理室の分析
(milligrams/kilogram of CN-)

採取サンプル数

処刑専門家ロイヒター

1988

2.1 average

1050 average

5

化学者ルドルフ

1991

3.6 average

4190 average

9

地質学者ボール

1993

3.6 average

2980 average

3

 

(注f

http://www.air-photo.com/grap/lice.jpg

シラミ処理施設の建物の壁の青いしみ

ビルケナウには二つのシラミ処理室があるが、そのうちの一つの内部。チクロンBは温風の中で分解してシアン化水素ガスを放出する。このガスは壁に接触・浸透して「プロシアン・ブルー」と呼ばれる風雨に強い青いしみを生成する。アウシュヴィッツやビルケナウの「人間ガス室」の壁には青いしみはまったく存在しない。

 

(注g

hoess.gif - 3,64 K

アウシュヴィッツ所長ルドルフ・ヘスの自白の中のありえない話

 大量殺戮についてのもっとも重要な証人であるアウシュヴィッツ所長ルドルフ・ヘスは、殴打と眠らせてもらえないという拷問を受けた。1946415日、ニュルンベルク裁判には、彼の署名のある、英語の自白が提出されたが、そこには物理的な不可能な話が数多く含まれている。

 

ヘス:「私は…、1943121日までアウシュヴィッツ所長でした。その間、少なくとも250万の犠牲者がガス処刑と焼却によって処刑・絶滅されました。」

不可能250万プラス194312月から194411月までの150万の10分の1でさえも焼却することは物理的に不可能であったろう。この数字は、1990年に19411944年の合計が100万に減らされるまで、公式の数字であった。

 

ヘス:「私はアウシュヴィッツに絶滅施設を設立したとき、青酸の結晶であるチクロンBを使いました。それは、小さな穴から死の部屋に投入されました。」

不可能:ガス室が存在したとされるビルケナウの地下死体安置室、アウシュヴィッツ1の死体安置室のセメントの屋根には、まったく穴が存在しなかったことが1944年の航空写真でも、1993年の収容所調査でも確証されている。

 

ヘス:「私たちは、叫び声がやんだとき、人々が死んだことを知りました。普通30分ほど待ってから、ドアを開け、死体を取り除きました。」

不可能:屋根には穴も換気口もない。ひとつのドアがあるだけである。このような条件のもとでは、部屋に入って死体を取り除くことができるようになるには、何時間もかかるであろう。そして、死体が取り除かれるときには、残余ガスが放出されて、作業中の人々を危険にさらすであろう。

 ヘスの拷問と供述について詳しくは、http://www.corax.org/revisionism/misc/hoess.htmlを参照

 

(注h

Leuchter, Fred. The Leuchter Report - Auschwitz: The End of the Line. Focal Point Publications, Lon., Eng. 1989.  Polson, C. The Disposal of the Dead. Englsh Univ. Press, Lon., Eng. 1975.

 

(注3

 (第2の論点)を参照

(注4

birk12.jpg - 27,53 K

囚人たち

縞模様の囚人服を着た囚人と平服を着た収容所外部の労働者

 

(注5

 (第2の論点)の(注2)を参照

 

(注6

 

birk1.jpg - 23,64 K

記念碑

二つの焼却棟のあいだにあった記念碑。1989年に除去された。(1988年撮影)

 

(注7

 

birk13.jpg - 36,67 K

死体安置室

二つの大きな焼却棟と地下死体安置室のための土台の穴の掘り起こし。(1942年秋の写真)

 

(注8

 

birk14.jpg - 43,08 K

焼却棟に隣接する「ガス室」であったとされる地下の死体安置室の崩壊した屋根(1997年撮影)。

 

(注9

 (第1の論点)の写真「屋根に開けられた穴」を参照。

 

(注10

 

birk19.jpg - 33,68 K

焼却棟

焼却棟を後ろから眺める、地下の死体安置室の屋根には雪が積もっているが、換気穴はまったく存在しない(1943年初期に撮影)。

 

(注11

 (第1の論点)を参照。

 

(注12

 McLelland, Roswell. War Refugee Board Telegram - July 6, '44. WRB representative in Berne, Switzerland, to Secretary of State, Wash., D.C. Cover letter and 14 page report from Leland Harrison, U.S. Ambassador in Switzerland.  Butz, A. The Hoax of the 20th Century. Institute for Historical Review. Costa Mesa, Cal., U.S.A.  

 

(注13

 

Camp Life #1

19445月に撮影された写真

降車場に新しく到着した人々の向こう側に、鉄条網のフェンス越しに、高い煙突を持つ焼却棟が見える。ドイツ人は新しく到着した囚人たちから焼却棟をまったく隠そうともしなかった。白いコートを着た女性は笑いながら手を振っている。

 

(注14

アウシュヴィッツ死亡者記録

1942年、病気や老齢で毎日100名ほどが死亡していたが、その数は、510月のチフスの流行によって、毎日280名ほどにまで増えた。チフスの蔓延を防ぐために、死体を焼却しなくてはならなかった。増大する死体を処理するために、19429月、2つの焼却棟と地下の死体安置室の建設が始まった。
 1991年まで、本当のアウシュヴィッツの死亡者数は知られていなかった。1943年と1944年に、75万人から100万人が地下室で殺され、2つの焼却棟で焼却されたという話しになっていた。
 しかし、1991年にソ連政府が公開したドイツ側のアウシュヴィッツ死亡者記録は、19419月から194312月までに、アウシュヴィッツⅠ、ビルケナウ、モノヴィツの3収容所で死亡した人々の名前、死因を記録していた。死因の多くはチフスであったが、その他の病気、心臓発作、癌、老衰もあった。これらの数字から以下のことが推測しうる。

  • 19419月から194312月まで(1942年と1943年の記録のうち43日間だけが失われている)に、67227名が死亡した。
  • 63069名が、1941年と1944年、そして記録の失われている42年と43年の月に死亡したと推定される。
  • 合計130300名であり、1日平均90名である。

アウシュヴィッツ死亡者記録月別合計

 

開始

終了

判明死亡者数

推定死亡者数

合計死亡者数

日数

1日の死亡者

1年合計

5/1/40

12/31 /40

 

2,000

2,000

245

8

2,000

 

 

 

 

 

 

 

 

1/1/41

8/3/41

 

4,000

4,000

215

19

 

8/4/41

9/10/41

1,498

 

1,498

38

39

 

9/11/41

10/20/41

 

1,500

1,500

40

38

 

10/21/41

11/22/41

1,490

 

1,490

33

45

 

11/23/41

12/31/41

 

1,500

1,500

39

38

9,988

 

 

 

 

 

 

 

 

1/1/42

1/2/42

 

69

69

2

35

 

1/3/42

2/23/42

1,500

 

1,500

52

29

 

2/24/42

3/21/42

1,496

 

1,496

26

58

 

3/22/42

4/7/42

1,490

 

1,490

17

88

 

4/8/42

4/30/42

1429

 

14,29

23

62

 

5/1/42

5/15/42

 

1,500

1,500

15

100

 

5/16/42

5/29/42

1,473

 

1,473

14

105

 

5/30/42

6/13/42

1,500

 

1,500

15

100

 

6/14/42

6/25/42

 

1,500

1,500

12

125

 

6/26/42

7/6/42

1,499

 

1,499

11

136

 

7/7/42

7/15/42

1,498

 

1,498

9

166

 

7/16/42

7/27/42

1,460

 

1,460

12

122

 

7/28/42

8/5/42

1,498

 

1,498

9

166

 

8/6/42

8/16/42

1,472

 

1,472

11

134

 

8/17/42

8/21/42

1,489

 

1,489

5

298

 

8/22/42

8/27/42

1,498

 

1,498

6

250

 

8/28/42

9/1/42

1,492

 

1,492

5

298

 

9/2/42

9/6/42

1,498

 

1,498

5

300

 

9/7/42

9/10/42

1,498

 

1,498

4

375

 

9/11/42

9/15/42

1,492

 

1,492

5

298

 

9/16/42

9/21/42

1,404

 

1,404

6

234

 

9/22/42

9/27/42

1,488

 

1,488

6

248

 

9/28/42

10/1/42

1,442

 

1,442

4

361

 

10/2/42

10/11/42

1,438

 

1,438

10

144

 

10/12/42

10/21/42

1,482

 

1,482

10

148

 

10/22/42

11/2/42

1,484

 

1,484

12

124

 

11/3/42

11/12/42

1,490

 

1,490

10

149

 

11/13 /42

12/4/42

 

3,000

3,000

22

136

 

12/5/42

12/14/42

1,230

 

1,230

10

123

 

12/15/42

12/31/42

 

1,500

1,500

17

88

44,309

 

 

 

 

 

 

 

 

1/1/43

1/15/43

1,492

 

1,492

15

99

 

1/16/43

1/28/43

1,484

 

1,484

13

114

 

1/29/43

2/7/43

1,486

 

1,486

10

149

 

2/8/43

2/15/43

 

1,500

1,500

8

188

 

2/16/43

2/22/43

1,442

 

1,442

7

206

 

2/23/43

3/1/43

1,442

 

1,442

7

206

 

3/2/43

3/6/43

1,488

 

1,488

5

298

 

3/7/43

3/12/43

1,498

 

1,498

6

250

 

3/13/43

3/17/43

1,492

 

1,492

5

298

 

3/18/43

3/23/43

1,460

 

1,460

6

243

 

3/24/43

4/1/43

1,428

 

1,428

9

159

 

4/2/43

4/13/43

 

1,500

1,500

12

125

 

4/14/43

5/13/43

1,480

 

1,480

30

49

 

5/14/43

6/16/43

 

3,000

3,000

34

88

 

6/17/43

7/1/43

1,465

 

1,465

15

98

 

7/2/43

7/28/43

1,480

 

1,480

27

55

 

7/29/43

8/29/43

1,494

 

1,494

32

47

 

8/30/43

10/12 /43

 

3,000

3,000

44

68

 

10/13 /43

11/11 /43

1,490

 

1,490

30

50

 

11/12 /43

12/10 /43

1,414

 

1,414

29

49

 

12/11 /43

12/28 /43

1,500

 

1,500

18

83

 

12/29 /43

12/30 /43

1,494

 

1,494

2

747

 

12/31 /43

12/31 /43

970

 

970

1

970

36,499

 

 

 

 

 

 

 

 

1/1/44

12/31 /44

 

36,000

36,000

366

98

36,000

 

 

 

 

 

 

 

 

1/1/45

1/18/45

 

1,500

1,500

18

83

1,500

 

合計

67,227

63,069

130,296

 

 

130,296

 

(注15

 

birk3.jpg - 35,47 K

下水

縞模様の制服を着た数百の囚人が収容所の外からの村人と協力して、下水処理溝を掘っている(1943年撮影)。

 

(注16

 (注13)を参照。

 

(注17

 

http://www.air-photo.com/grap/orchest.jpg

アウシュヴィッツⅠの日曜日の午後コンサート。1943年に撮影されたものであろう。入り口ゲートと道の方角。左側に監視塔がある。指揮者はポーランド人の囚人Francis Nierychloであろう。

Ref: Main Commission for Investigation of Nazi War Crimes (Courtesy-USHMM Photo Archives)

 

(注18

 Kopyclinski, A. Orkiestraw oswiecimskim...Oswienzim. (The Orchestra in Auschwitz. Przeglad Lekarski, Poland. 1964.  Krzysztof Dunin-Wasowicz. Resistance in the Nazi Concentration Camps 1933-45. Polish Scientific Publishers, Warsaw, Poland, 1982.  Gutman, I. Ed. Encyclopedia of the Holocaust. N.Y. U.S.A. 1990.

 

(注19

 

birk27.jpg - 24,26 K

焼却棟3から撮影した写真。第一のフェンスの向こう側は運動場であった。降車場は右側にある。降車場、運動場、バラックにいた人々は、焼却棟の広場で起っていることすべてを見聞きすることができたであろう(1997年撮影)。

 

(注20

 Dall, Z., Sport...krema toriow (Sport in the Shadows of the Crematories). Mlodzi idq., Nov. 11, 1945. pp. 786-808.  Krzysztof Dunin-Wasowicz. Resistance in the Nazi Concentration Camps 1933-45. Polish Scientific Publishers, Warsaw, Poland, 1982.  Setkiewicz, Peter, History Dept., Auschwitz Museum, Poland. Information given to the author during a 5 day 1993 tour.

 

(注21

 (注1)を参照。

 

(注22

 

http://www.air-photo.com/grap/johnball5.gif

     道路

     排水溝

     2月の写真では、薄雪が野原を覆っている

     1945128日から219日のあいだか、おそらく128日の数日前に、チフスその他の病気、老衰で死亡した数百の囚人を埋葬するために、ソ連軍が掘った5つの大量埋葬地を覆う土の山。1944年から1945年にかけて、アウシュヴィッツとビルケナウが写っている写真は8枚あるが、大量埋葬地が写っているのはこれだけである。航空写真で識別するまでは、その正確な場所はわからなかった。1945年以来、死因の確定のために発掘して、サンプル調査を行なうという試みは、なされたことがない。各埋葬地のサイズは、7m×2.5mである。

     監視塔

     フェンス

     焼却棟のセメントの廃墟。大半は128日以降に、ソ連軍によって破壊された。

 

 

(注23

 

 

1945年の航空写真に写っているビルケナウの5つの大量埋葬地

ソ連のフィルム。焼却棟のフェンスの西100m、入り口ゲートから60m西にある収容所外の5つの大量埋葬地のうちの1つを北に向けて撮影されている。

50メートルほどの長さの埋葬地が219日の航空写真には写っているが、121日の写真には写っていない。ソ連軍が、127日にアウシュヴィッツに入る前後に死亡した数百の囚人を埋めるために、その埋葬地を作ったのであろう。

ビルケナウの航空写真に写っている唯一の埋葬地である。1944年末まではほぼすべての死体が焼却されていたので、このことは理解しうることである。埋葬地の場所は、1988年に筆者が1945245日の航空写真の中で識別するまで、わからなかった。

 

ソ連のフィルム1

ソ連のフィルム2

 

(第4の論点)

「目撃証言」

航空写真

収容所の外は放置された畑であり、外の1kmキロのところにはフェンスと門があった

収容所の外には畑、道路上にはトラックが存在し、フェンスや門はなかった。

 

 

1.   村落と収容所駅を結ぶ主要道路。収容所から1kmのところには監視塔が配置されており、道路上にはゲートがあったという。しかし、1944年の航空写真は監視塔もゲートもなかったことを示している。(1)

2.   農家の建物。これらの建物は疎開し、人々は退去させられたといわれてきたが、航空写真は、畑を持った建物と道路を走るトラックを示している。(2)

3.   プラヴィ村

4.   フォルワーク・オゼルニチヴォ村

5.   ビルケナウ収容所(3)周辺の鉄条網。2つの主要道路と鉄道によって囚人は運ばれてきた。囚人人口は1941年の5000から、19449月の20000人以上に増加した。

6.   ビルケナウ駅

7.   北東のクラクフ市へ向かう鉄道幹線

8.   ブルゼンジンカ村

9.   囚人が村人とともに働いていた木工その他の作業場

10. アウシュヴィッツI収容所(4)

11. 19446月までにソ連軍の前線は145km東方にまで前進していた。その後方には飛行場があり、そこを結ぶ線は、ソ連軍がアウシュヴィッツを迂回して、西進した19451月まで残っていた。

12. 北東2kmはオスヴィエチム町(ドイツ語ではアウシュヴィッツ)。1944年当時、人口は20000であり、町の真ん中には大きなカトリック教会があった。

13. ソラ川

14. 5km東方には、モノヴィツと呼ばれる大きな合成石油・ゴム工場、化学プラントがあった。

 

(注1

 McLelland, Roswell. War Refugee Board Telegram - July 6, '44. WRB representative in Berne, Switzerland, to Secretary of State, Wash., D.C. Cover letter and 14 page report from Leland Harrison, U.S. Ambassador in Switzerland.  Gilbert, Martin. Auschwitz and the Allies. Mandarin Paperbacks, Michelin House, Lon., Eng. 1991.  Gutman, I. Ed. Encyclopedia of the Holocaust. N.Y. U.S.A. 1990.

 

(注2

 Gilbert, Martin. Auschwitz and the Allies. Mandarin Paperbacks, Michelin House, Lon., Eng. 1991.  Setkiewicz, Peter, History Dept., Auschwitz Museum, Poland. Information given to the author during a 5 day 1993 tour.  Gutman, I. Ed. Encyclopedia of the Holocaust. N.Y. U.S.A. 1990.

 

(注3

 

http://www.air-photo.com/grap/bcmp3b.gif

1.        1944年には耕され、収穫を得ていた畑(注a

2.        西から収容所に入る道路にはゲートがなかった。

3.        収容所の内側と外側の排水溝は、春と秋には1mという高い地下水位の畑から排水した。

4.        フェンスの外側の小さな建物(注b)。1942年には、ここで数千名の囚人が殺されたという。(注c

5.        1942年にはここで犠牲者が服を脱いだといわれるが、航空写真によると、2つの建物が建設されたのは19446月以降であるので、ありえないことである。

6.        木々

7.        19445月から9月のほぼ毎日、ガス処刑された数百の犠牲者(注d)が山積みされて、燃やされたという。しかし、この時期の航空写真には壕も死体の山も写っていない。78日の写真にはゴミ捨て場に違いない小さな山から立ち上る小さな煙が写っているが、目撃者はその焼却を目撃したのかもしれない。

8.        炉と高い煙突を備えたこの建物では、1942年に数千名がガス処刑され、焼却されたという。しかし、この建物は木造の焼却棟であり、1943年に新しい煉瓦造りの焼却棟が建設されるまで稼動していたにすぎない。

9.        19445月の写真では、深さ1.5mの壕は、半分水で埋まっていた。

10.      サウナ(注e)の建物。衣服や軽い毛布がチフスを媒介するシラミを駆除するために蒸気燻蒸された。チフスやその他の疫病を防ぐために、囚人たちはここで、髪を切られ、石鹸を与えられて、熱いシャワーを浴びた。

11.      30のカナダ・バラック。ここで、囚人たちは、しらみの潜んでいる可能性のある革靴やバッグ、武器となるようなかみそりなど、新しく到着した囚人の所持品を整理・保管した。

12.      下水処理のための排水溝と貯水タンク。

13.      2つの焼却棟(注f)。収容所の外からも畑越しに、また多くのバラックからも見ることができる。

14.      収容所には6つのオーケストラがあったが、そのうちの1つがしばしば日曜日の午後コンサートを行なった場所。(注g

15.      サッカーのゴール・ポストのある運動場。

16.      5つの大きな囚人用病院(注h)。

17.      1944年にはよく管理されている広場

18.      1944年には建設中の収容所拡大地、「メキシコ」と呼ばれており、周囲にはフェンスはない。

19.      厨房(注i)、鉄道線路の右の男性収容所には9つ、女性収容所には3つあった。それらは、多重式のコンロを備えており、さまざまなシフトで、囚人たちに、アイスクリームも含む食物(注j)を提供していた。

20.      2つの建物(注k)、ここで、革靴、ベルト、毛布、厚手の衣服といったチフスを媒介するシラミが隠れていそうな物品が、シラミの駆除のためにチクロンBのシアン化水素ガスにさらされた。その後、ドアと窓がすべて開かれ、ファンが使われて、ガスが排出された。

21.      収容所のフェンスの外の監視塔

22.      鉄条網のフェンス、夜には囚人の逃亡と外部からの侵入を防ぐために電気が流された。

23.      消防設備を保管する2つの建物

24.      収容所の女性区画の木造と煉瓦の就寝バラック(注l

25.      降車場(注m

26.      便所(注n)と洗面台を持つ建物の列

27.      全部で60の寝棚と石炭ストーブを持つ153名の就寝バラック(注o)各バラックは400名を収容したといわれているが、正規の人員は60名の囚人であり、最大でも90名であった。(注p

28.      メイン・ゲート、列車やトラックはここを通過する。ソ連軍は19451月に収容所を占領したのち、建物の上から収容所のパノラマ写真(注q)を撮影している。

29.      物資と人員輸送のための鉄道

30.      新鮮な水の貯水槽とポンプ施設

31.      収容所管理建物

32.      ブルゼンジンカ町

 

(注a

 (第3の論点)の(注1)を参照

 

(注b

「白い小屋、1942年のガス室」

birk5.jpg - 52,69 K

いわゆる「白い小屋、1942年のガス室」の土台。この建物が何に使われたのかは不明である。1941年-1942年には、牛や羊といった家畜の皮をなめす小屋であったという証拠がある(1987年撮影)。

 

(注c

 Pressac, Jean-Claude. Auschwitz: Technique and Operation of the Gas Chambers. The Beate Klarsfeld Foundation, N.Y.., N.Y., 1989.

 

(注d

「毎日数百の犠牲者」

birk9.jpg - 38,26 K

1944年夏、毎日数百の死体が燃やされ、煙を上げていたとされる場所。しかし、5月、6月、8月、9月の写真には煙は写っていない。7月の写真だけに、ゴミ捨て場から出ている小さな煙が写っているが、「目撃者」が見たのはそのことであろう。

 

(注e

サウナ

birk24.jpg - 27,91 K

囚人たちは熱いシャワーを浴び、髪を切られた。衣服は蒸気燻蒸された。それは、チフスを媒介するシラミを駆除するためであった(1985年撮影)。

birk25.jpg - 31,43 K

サウナの中で囚人を待つ作業員(1943年撮影)

birk26.jpg - 25,62 K

サウナ内部の容器。衣服が収納されると、ドアが閉じられ、シラミを殺すために、蒸気が注入された(1997年撮影)。

 

(注f

 (第3の論点参照)

 

(注g

 Kopyclinski, A. Orkiestraw oswiecimskim...Oswienzim. (The Orchestra in Auschwitz. Przeglad Lekarski, Poland. 1964.

 

(注h

労働者

birk23.jpg - 43,57 K

縞模様の服を着た囚人と収容所外の労働者が鉄筋を張り、セメントを流し込んでいる(1943年撮影)

 

(注i

http://www.air-photo.com/grap/camp2.jpg

25名の新しく到着した女性とフェンスの向こう側に、就寝バラックの前で、10名の男性が休憩しており、服を物干し竿につるしている。他の収容所とは異なり、ビルケナウの囚人の多くは労働しなかった。老人であったり、子供連れであったり、肉体的に労働不能であったり、犯罪者であったためである。これらの人々は広場で休憩していた。収容所で毎日のように大量殺戮が行なわれていたとしたら、当然感じるような恐怖心の表情を、女性も男性も浮かべていない。

http://www.air-photo.com/grap/camp4.jpg

ビルケナウの「カナダ」倉庫で新しく到着した囚人の衣服を整理する女性

http://www.air-photo.com/grap/pic13.jpg

厨房の1つの前にいる女性たちは、中央サウナから戻ってきたばかりの新しく到着した囚人のようである。彼女たちは、チフスを媒介するシラミを駆除するために、髪の毛を切られている。軽装をしているので、暖かそうな天候である。

http://www.air-photo.com/grap/birk6.jpg

囚人と収容所外の労働者が厨房の前の煉瓦の建物を建設している(1942年撮影)。

birk8.jpg - 23,21 K

収容所に11あった厨房の1つ。囚人たちは、健康で、低脂肪、砂糖の少ない、繊維質の多い食事を享受していた(1997年撮影)。

 

(注j

1998年オーストリアのマウトハウゼン収容所で発見された食糧配給資料

ration_2.jpg - 41,84 K

すべての強制収容所の囚人のための毎週の食糧配給

短縮形: グラム = gr, オンス= ozs, テーブルスプーン= Tblsp, ティースプーン= tsp

食品

194081日から1942514

1942515日から1944427

1944428日から1945228

194531日から

/肉製品

400 gr = 14 ozs Daily = 2 ozs(1)

280 gr = 10 ozs Daily = 1.5 ozs(2)

200 gr = 8 ozs
Daily = 1 ozs

250 gr = 9 ozs
Daily = 1.2 ozs

脂肪合計:

バターかマーガリン

脂肪か油脂汁

200 gr = 8 ozs

150gr = 1/2 cup Daily = 1 Tblsp

50gr = 2 Tblsp Daily = 1 tsp

170 gr = 6 ozs

130gr = 2/5 cup Daily = 1 Tblsp

30gr = 1.3 Tblsp Daily = 2/3 tsp

182.5 gr = 7 ozs

---------

 

---------

83.33 gr = 3 ozs

---------

 

---------

チーズ/チーズ・ミックス

低脂肪チーズ

50 gr = 1/8 cup Daily = 1/4 Tblsp

50gr = 1 slice Daily = 1/7 slice

50 gr = 1/8 cup Daily = 1/4 Tblsp

50gr = 1 slice Daily = 1/7 slice

100 gr = 1/4 cup Daily = 1/2 Tblsp

---------

41.66 gr = 1/8 cup Daily = 1/4 Tblsp

---------

ライ麦パン

2740 gr = 3 loaves Daily = 1/2 loaf

2450 gr = 3 loaves Daily = 1/2 loaf

2600 gr = 3 loaves Daily = 1/2 loaf

1750 gr = 2 loaves Daily = 1/3 loaf

砂糖

80 gr = 1/3 cup Daily = 1 Tblsp

80 gr = 1/3 cup Daily = 1 Tblsp

80 gr = 1/3 cup Daily = 1 Tblsp

---------

マーマレード

100 gr = 1/4 cup Daily = 1 Tblsp

100 gr = 1/4 cup Daily = 1 Tblsp

100 gr = 1/4 cup Daily = 1 Tblsp

260 gr = 2/3 cup Daily = 2 ½ Tblsp

ビタミン

150 gr

150 gr

255 gr (3)

---------

小麦粉か混合小麦粉

225 gr = 1/2 cup Daily = 1 Tblsp

125 gr = 1/4 cup Daily = ½ Tblsp

125 gr = 1/4 cup Daily = ½ Tblsp

---------

低脂肪ミルク

---------

---------

1.7 liters = 7 cups Daily = 1 cup

1.7 liters = 7 cups Daily = 1 cup

まがい物コーヒー (4)

84 gr = 14 cups Daily = 2 cups

63 gr = 11 cups Daily = 2 cups

62.5 gr = 11 cups Daily 2 cups

33.33 gr = 6 cups Daily 1 cup

ジャガイモ

3500 gr = 7 pounds Daily = 1 pound

5000 gr = 11 pounds Daily = 1 ½ pound

2800 gr = 6 pounds Daily = 1 pound

3500 gr = 8 pounds Daily = 1 pound

新鮮野菜

2800 gr = 6 pounds Daily = 1 pound

2600 gr = 6 pounds Daily = 1 pound

4000 gr = 8 pounds Daily = 1 pound

375 gr = 3/4 pound Daily = 2 ozs

 

武器工場、石切り場、鉱山で働いている囚人には特別配給が支給された。毎週の特別配給は、以下のとおりであった。

 

製品

194081日から1942514

1942515日から1944427

1944428日から1945228

194531日から

/肉製品

400 gr =14 ozs Daily = 2 ozs (5)

280 gr = 10 ozs Daily = 1.5 oz

280 gr = 10 ozs Daily = 1.5 oz

350 gr = 12 ozs Daily = 1.6 oz

脂肪

100gr = 1/3 cup Daily = 1 Tblsp

100gr = 1/3 cup Daily = 1 Tblsp

100gr = 1/3 cup Daily = 1 Tblsp

57 gr = 1/6 cup Daily = 1/2 Tblsp

ライ麦パン

1400 gr = 2 loaves Daily = 1/3 loaf

1400 gr = 2 loaves Daily = 1/3 loaf(6)

1400 gr = 2 loaves Daily = 1/3 loaf

1100 gr = 1.5 loaves
Daily = 1/4 loaf

 

別の収容所に移送される囚人には、旅行1日につき、ライ麦パン500g、ソーセージ50g、マーガリン60gが配給される。

 

1)

1941101日から、第2級の肉すなわち馬肉は、320gに減らされた。194211日から、さらに280gに減らされた。

2)

1943531日から、この量は200gに減らされた。同時に、ライ麦パンは75g、死亡は12.5g増やされた。

3)

175gのインゲン豆かえんどう豆がここに含まれていた。

4)

囚人が「ドイツ茶」を選択すると、まがい物のコーヒーは9gから4gに減らされた。

5)

1941101日から、第2級の肉すなわち馬肉は、320gに減らされた。194211日から、さらに280gに減らされた。

6)

合計か少量

 

多くの囚人はまた、親戚から定期的に食料小包を受け取っていた。1週間に1度か2度のこともあった。ドイツ赤十字も収容所に食料を送っていた。

 

(注k

 (第3の論点)の(注2)の(注f)を参照。

 

(注l

煉瓦建築

birk7.jpg - 34,39 K

煉瓦とセメントを運ぶ狭軌の鉄道線路を使った煉瓦建築(1942年か1943年撮影)。

 

(注m

降車場

birk22.jpg - 20,18 K

降車場での選別は、「労働適格者」と「処刑されるべき者」を分けるのではなく、労働可能年齢の者と労働不能年齢の男女、子供、子連れの女性を分けるものであった。

 

(注n

便所

birk4.jpg - 19,46 K

収容所女性・子供区画の便所(1980年代に撮影)

 

(注o

就寝バラック

birk17.jpg - 35,96 K

数少ない木造バラック(1943年撮影)

 

(注p

 Setkiewicz, Peter, History Dept., Auschwitz Museum, Poland. Information given to the author during a 5 day 1993 tour.

 

(注q

Birkenau in Winter

ソ連軍が、ビルケナウ収容所を入り口ゲートの2階から、鉄道(西)――収容所――監視塔(北)の方角に、1945年冬(上)と夏(下)を撮影した写真

Birkenau in Summer

 

 

(注4

http://www.air-photo.com/grap/sola.gif

アウシュヴィッツⅠ中央収容所

1.   木々

2.   アウシュヴィッツ収容所周辺の衛星労働キャンプ、抑留収容所のための管理局。

3.   主要幹線にいたる支線

4.   鉄条網のフェンスの外の9つの監視塔の1

5.   2つの並行した3mの高さの鉄条網のフェンス

6.   メイン・ゲートにある有名な標語「ARBEIT MACHT FREI」(注a)は抑圧と残酷を示唆しているようであるが、実際には「労働は自由にする」を意味しているにすぎない。

7.   手術室を持つ病院は、いわゆる「ガス室」の道路向こうであった。

8.   平屋根の建物には2つの1メートルの煙突が炉の上についているが、いわゆるガス室の上には換気口も穴もない。これは収容所の鉄条網のフェンスの外にあり、作業場と病院の隣にあった。

9.   村人と囚人が家具を作り、衣服を縫った作業場(注b

10. 24ブロック(注c)。1階は図書館、楽器庫に使われた。(注d

11. 80名の交響楽団(注e)の様々なメンバーが軽いクラシック音楽を演奏した場所。(注f

12. 13の石炭ストーブを備えた厨房。ここで毎朝パンが焼かれ、温かい食事(注g)が提供された。

13. 1階の郵便局。(注h

14. 暖房装置のある煉瓦づくりの3階の就寝バラック

15. 音楽会場と劇場(注i)。ここでは囚人の音楽家がコンサートをおこない、様々な収容所からの演劇やコメディーグループが大きな舞台から囚人を楽しませた。人々は収容所のドア、収容所外の主要ドアから入った。

16. 2.5m深さの砂と砂利の穴。

17. 収容所のフェンスの中にある囚人の夏の水泳プール(注j)は、長さ20メートルであり、1.3mの高さの飛び込み台を持っていた。

18. 囚人たちが「バーチ・アヴェニュー」とよんだ並木

19. 収容所長の管理局の1

20. 所長の3階の邸宅

21. 2km行くとオスヴィエチムの町に向かうソラ川

22. 収容所両側の3mの高さのセメントの壁。外側から収容所の中をのぞくことを妨げており、囚人とスパイの接触を妨げた。

 

(注a

arbeitmf.jpg - 77,38 K

「労働は自由にする」という標語をもつ入り口ゲート(1980年代撮影)

1940年代には、「労働は自由にする」という言葉は、1920年に広く広がっていた失業をヨーロッパの人々に思い起こさせた。1933年から、ナチス党は失業対策に乗り出し、機関車からアウトバーンまでの建設事業を行ない、人々を上と貧困から解放した。

 1941年から1944年、木工家具製造、裁縫工場、ならびにモノヴィツ化学プラントで働いていた囚人は少し多くの食料を支給されており、他の囚人から尊重されていた。労働者はこの言葉を尊重したが、できるだけ働かないようにしていた人々はこの言葉を馬鹿にした。

 戦後、ホロコースト正史派は、殺される運命にある囚人を欺く策略であると主張したが、実際には、この標語はそれが述べていることを意味しているにすぎない。

 

(注b

birk10.jpg - 12,28 K

作業場

加工工場で、金属を曲げ、切断し、穴を開けている囚人

 

(注c

brot_aus.jpg - 64,29 K

暖房装置を持つ大きな建物の1階には図書館、倉庫、事務所があり、上の階には臨時の売春宿もあった(1987年の写真)

 

(注d

 Setkiewicz, Peter, History Dept., Auschwitz Museum, Poland. Information given to the author during a 5 day 1993 tour.

 

(注e

musik.jpg - 44,43 K

入り口ゲートの横で演奏する囚人たち、後ろには厨房が写っている(1943年撮影)。

 

(注f

 Setkiewicz, Peter, History Dept., Auschwitz Museum, Poland. Information given to the author during a 5 day 1993 tour.

 

(注g

 (第4の論点)の(注3)の(注j)を参照。

 

(注h

 Setkiewicz, Peter, History Dept., Auschwitz Museum, Poland. Information given to the author during a 5 day 1993 tour.

 

(注i

the_post.jpg - 46,51 K

収容所の中の劇場

1943年の囚人の手書きの音楽プログラム。コンサートホールとステージ、シュトラウスのオペラDie Fledermausとモーツアルトの曲の演目が描かれている、楽器のリストにはピアノも含まれている。

 

(注j

アウシュヴィッツ収容所の水泳プール

19966月の写真

アウシュヴィッツおよび周辺の収容所の囚人は、土曜日や日曜日の午後に、水泳やプール側での日光浴を楽しんだ。サッカーのようなスポーツのほど人気があったわけではないが、いくつかの競技会がおこなわれ、そこには、様々な国と様々な収容所からの囚人が個人で、あるいはリレーで参加した。

 

 

(第5の論点)

 

「目撃証言」

航空写真

毎日トラック10台(25トン)の石炭を使って、1棟につき750の死体が焼却された。

石炭貯蔵庫はトラック2台分(5トン)の石炭を貯蔵しているだけであり、最大でも、1日に100体を焼却できるにすぎない。

 

モノヴィツとビルケナウの比較

 

coalpile

crema

1.    合成石油を生産するためのメタン・ガスを放出するためにガス生成プラント①では150トン以上の石炭が燃やされた。

2.    鉄道③に隣接した石炭貯蔵場と80mの長さ石炭の山②。石炭供給を安定させるためであった。

3.    70mの長さのコンベア・ベルト④

 

1.    1体につき30㎏の石炭が必要であるとすると、1日に1400体を焼却するには40トンの石炭が必要である。

2.    鉄道①に隣接して石炭の山も貯蔵場もなく、焼却棟③に隣接する広場②にもない。

3.    石炭の運搬施設もない。

 

 

 

 

(第6の論点)

 

「目撃証言」

航空写真

大量殺戮は隠匿されていた。アウシュヴィッツまでの飛行距離は長すぎた。焼却棟を識別することはできなかった。爆撃は不正確であった。このために、アウシュヴィッツは爆撃されなかった。

鉄条網のフェンスでは隠匿できない。5km東は爆撃されている。1944年の航空写真専門家は2つの大きな焼却棟を識別できる。急降下爆撃は非常に正確であった。

 

アウシュヴィッツはなぜ爆撃されなかったのか。

 

1944年の連合国によるポーランド空襲

アウシュヴィッツから5km離れたモノヴィツは4回空襲された

http://www.air-photo.com/grap/bombs3.jpg

19444月から12月、連合国の航空機はイタリアのフォッギアから950km飛行して40回ポーランドに飛来し、航空写真偵察、爆撃、補給を行なった。4日に1回ほどであり、アウシュヴィッツ・ビルケナウ収容所に直接飛来することもあれば、近くを飛行することもあった。各任務に従事した飛行機の数は、1機のモスキート航空写真偵察機から、数百機の重爆撃機までさまざまであった。

 

1. 航空写真

194444日から1221日まで、少なくとも毎月1回、モスキート双発戦闘機が、9000mの高さから、ビルケナウ収容所とモノヴィツ・プラントを撮影している。

2. 爆撃

87日:64機の護衛戦闘機をともなった76機のアメリカ爆撃機が、ビルケナウの東方20kmにあったトルゼビニア石油精製工場を爆撃した。

820日:127機の爆撃機と100機の戦闘機が、ビルケナウの東方5kmのモノヴィツに500ポンド爆弾を投下した。

913日:98機の爆撃機と戦闘機がモノヴィツを爆撃した。

1218日:爆撃機と戦闘機がモノヴィツを爆撃した最後。

 

上記の写真:1944913日。96機のアメリカの爆撃機がモノヴィツ・プラントに943発の500ポンド爆弾を投下した。そのうちの10発が目標に落下している。写真に写っている煙は、モノヴィツの建物を隠そうとする煙幕発生装置からのものである。写真の上左隅にアウシュヴィッツⅠ収容所が写っていることに注意していただきたい。

ビルケナウやアウシュヴィッツは爆撃されていない

モノヴィツのようなクレーターがない

Birkenau Not Bombed

19441221

丸いクレーターや以前に爆撃を受けた痕跡が写っていない。明るい色の雪と暗い色の建造物とが対照的である。写真の上右隅は、航空写真の端である。

Birkenau in December 1944

19441221

モノヴィツ工業プラントでは、クレーターと損害を受けた建物など以前の爆撃の跡が写っている。

 

収容所爆撃は命令されていない

ピンポイント爆撃は命令されていない

Auschwitz during bombing of Monowitz

1944913日:モノヴィツ工業プラントを目標とした10発の爆弾は、ビルケナウの焼却棟(モノヴィツの西5km)を超えて投下された。

 

「ピンポイント爆撃」は命令されていなかった。19444月から12月、少なくとも40回、連合国の航空機はイタリアのフォッギアから、アウシュヴィッツ・ビルケナウ収容所に直接もしくは近くに飛来した。快速のモスキートを使った偵察飛行、数百機の重爆撃機と護衛戦闘機を使った空爆、補給などさまざまであった。

 19444月から12月のあいだのいつであっても、モスキート双発戦闘機であれば、9000mの高度で探知されずに飛来し、急降下して、木の高さから、ビルケナウの焼却棟やその他の建物に爆撃することができたであろう。4000馬力のモスキートは、1944年末にジェットエンジンのMe-262戦闘機が登場するまでは、いかなるドイツ軍戦闘機をも引き離すことができた。この種の「ピンポイント爆撃」は、1944218日のフランス・アミアン監獄に対する作戦(注1)で採用され、成功を収めた。ここでは、219から処刑されることになっていた囚人が、爆撃によって監獄の壁に開けられた穴から逃亡した。

(注1):アミアン監獄「ピンポイント爆撃」

 アミアン監獄は、ドイツ軍兵士とフランス市民に対するテロ攻撃で有罪となっていたフランスレジスタンス運動の幹部を逃がすために、攻撃された。双発の1600馬力のマーリーン・エンジンを持つ18機のモスキートが時速580kmで高高度から降下し、20mの高さで爆弾を投下した。それは、厚さ1mの煉瓦の壁に穴を開け、そこから囚人たちは逃げることができた。

http://www.air-photo.com/grap/jericho1.jpg

http://www.air-photo.com/grap/jericho8.jpg

19441月、下の航空写真をもとに上の監獄の模型が作られた。これが、「ジェリコ作戦」として知られる1944218日のアミアン監獄空襲である。

http://www.air-photo.com/grap/jericho4.jpg

1944218日正午、2機のモスキートが低空で監獄に接近する。

 

航空写真分析官

1944年のアウシュヴィッツの写真は大量殺戮説を確証していない

http://www.air-photo.com/grap/bombs6.jpg

http://www.air-photo.com/grap/bombs7.jpg

イギリスとアメリカの航空写真分析官グループは、イギリスのロンドン近郊のメドメンハム分析センターで働いていた。1943年ごろには、航空写真分析は最優先作業になっていた。ヨーロッパ各地のスパイがうわさや「目撃証言」をイギリスに伝えていたが、それらは分析官に手渡され、分析官はその地域の航空写真と照らし合わせて、スパイからの情報の信憑性を検証した。ビルケナウとアウシュヴィッツⅠが絶滅収容所であったかどうかを検証するために、航空写真も利用された。

連合国とドイツの指導者は連絡を取り合っていたのであろうか。

1944年、ドイツ側は囚人の殺戮を否定し、彼らを避難させることを連合国側に保証していた。

 

最近、合衆国文書館で発見された書簡は次のことを明らかにしている。

1.      合衆国とドイツの政府関係者は1944年と1945年に、スイスとアイルランドの領事館を介して、ドイツの収容所にいる囚人の状況について話し合っていた。

2.      1944年、ドイツの政府関係者は囚人の大量殺戮を否定していた。

3.      ドイツはソ連軍の前進の前に囚人を疎開させることを保証していた。

4.      囚人たちが安全に疎開していたことをかつての囚人たちは確証している。

 

bombs6.jpg - 14,39 K

連合国の専門家は、ドイツ側による大量殺戮の否定と目撃者の肯定を航空写真と照らし合わせて、ビルケナウを爆撃すべきではないと決定した。

 

大量殺戮の否定

 少なくとも1回、ドイツは大量殺戮をおおやけに否定している。19441012日の書簡は、ドイツ側がビルケナウの囚人を大量殺戮するという噂を「記者会見で否定した」ことに触れている。

 1943年、とくに19441月に合衆国戦争難民局が活動を始めて以降には、合衆国とドイツはスイスとアイルランドの領事館を介して、つねに電報を交換し、大量殺戮の噂と囚人の安全について話し合っていた。

 合衆国の倉庫にこれらの電報がまだ存在しているならば、重要な問題を解決するために、それらの電報は公開されなくてはならない。

 

疎開の保証

 ドイツは、ソ連軍の前進の前にアウシュヴィッツ地域の囚人を疎開させることを連合国側に保証していた。

 スイスの合衆国領事館からの120日の電報にあるように、19447月から10月までビルケナウの囚人であった2名のユダヤ人女性は、ドイツ国内への収容所への疎開について次のように述べている。

1.      19449月:「30006000名」の「大きな移送集団」がビルケナウを出発した。

2.      19449月後半:3500名のハンガリー人とスロヴァキア人の女囚が1つの移送集団で出発した。

3.      19441031日:500名の女囚がビルケナウを出発して、ドイツに向かった。このなかには、目撃証人となった2名の女性も含まれていた。

 

 書簡によると、合衆国は収容所で実際に何が起きているのかスパイやかつての囚人から確証を得ていたことが明らかである。2名の女性の報告の最後のセンテンスは次のとおりである。

 「このような労働収容所での自然死亡率は、栄養失調、不衛生な状況、とくに、十分な衣服の不足のために、高い。」

 

爆撃命令

 最近公表された書簡によると、連合国は、ドイツ政府との連絡も含むあらゆる手段を使って、大量殺戮の噂の信憑性を検証しようとしていた。結局、連合国はビルケナウを爆撃しないという決定を下したが、それは、絶滅の噂を肯定できなかったことを証明している。

 連合国によるビルケナウを爆撃しないという決定(注1)は、航空写真による証拠とともに、ドイツ側が殺戮を否定していたこと、囚人の目撃者が確証した疎開の保証にももとづいていた。

 

telegram1.jpg - 62,23 K

入手電報――国務省

から:スイスのベルン、ハドゥル

日付:1945120日午後3

あて:マクレランドから戦争難民局

受け取り:120日午後11

 「公使館報告6818が報告しているように、1012日、ドイツは、ツヴィエチムとビルケナウで囚人の絶滅が行なわれているという、ロンドンのポーランド人サークルの報告を記者会見で否定した。

 私は、連合軍の前進にあたって疎開できない囚人をすべて殺すようにとの命令が、ユダヤ人収容所を管理するSSに出されたという報告を確証することができませんでした。

 (19449月と10月のビルケナウの疎開についての8以上のパラグラフ)

 

telegram2.jpg - 78,07 K

から:スッテティニウス、国務省と戦争難民局、ワシントン

日付:1945122日、午後10

あて:ハドゥルとマクレランド、スイスのベルン

受け取り:122

 

 「アイルランド外務省の113日の省報告192は、ドイツがオスヴィエチム、ホス、ビルケナウ収容所で囚人を清算しようとしているという噂の真偽についてドイツ当局に問い合わせたところ、これらの収容所のユダヤ人を絶滅しようとしているという噂はまったく根拠のない捏造情報にすぎない、これらの収容所が廃棄されるときには、囚人たちは疎開されとの回答であったことを確証している。

 アイルランドに対するドイツ当局の回答が合衆国政府によって確認されたこと、合衆国政府は、ドイツとドイツ支配下の強制収容所、拘束、労働収容所のユダヤ人その他の生存者はドイツ当局によって安全に確保されるように要望すること、以上のことをドイツ政府に伝えるようにスイス政治部に要請していただきたい。

 オスヴィエチムとビルケナウが前線に近いことを考慮して、上記の連絡事項をドイツ当局に、できるかぎり速く伝えることが緊要である。

 

 スッテティニウス

 戦争難民局:1945122日」

 

 

連合国はドイツが、囚人を殺戮しているのではなく、助けていると信じていた

 

 もしもドイツが囚人を大量殺戮しているとすれば、ドイツは連合国側の質問に答えなかったであろうし、囚人を疎開させなかったであろう。

 しかし、ドイツ側は囚人の殺戮をおおやけに否定し、連合国側はドイツ側が連合国の要請にもとづいて囚人を安全に疎開させていたことを確認していた。

 注意深く研究すると、連合国側は、ドイツが囚人を殺しているのではなく、囚人を助けていることを確認していた、それゆえ、ビルケナウその他の収容所への爆撃は命令されなかったことがわかる。

Reference: Letters on file at Franklin D. Roosevelt Library, Hyde Park, New York, N.Y., U.S.A

ドイツの工業地域のカモフラージュ

爆撃目標をカモフラージュする試み

German Use of Industrial Camoflage

工場が蔽い布とペンキによってカモフラージュされる前(左)と後(右)の写真

 1941年以降、ドイツ軍は高高度偵察機が西ヨーロッパの写真撮影をしていることを知っており、19443月以後は、アウシュヴィッツやビルケナウの拘束収容所を含むポーランド全域がイタリアの飛行場から飛来した航空機によって写真撮影されていることを知った。そこで、重要施設を撮影と爆撃から守るために、カモフラージュを広く利用した。

ドイツとイギリスの航空写真撮影と急降下爆撃用の飛行機

 

1942年から1945年にかけて、馬力、速度、装備を増強した双発のモスキートとメッサーシュミットが使用された。航空写真撮影機は、補助燃料タンク、1台か2台の1mの胴体カメラを装備し、重量を減らすためにその他の装備品は付けていなかった。爆撃機は機関銃と14発の爆弾を装備していた。

 航空写真撮影と急降下爆撃用の飛行機のパイロットは、以下のことに留意していた。

1.      12000mまでの高高度飛行

2.      敵機を振り切るためのすばやい加速

3.      航空写真撮影には、正確な場所の知識

4.      爆撃のためには、その正確な爆撃のための高度

 

 1944年中頃まで、モスキートはメッサーシュミットBf110よりも速く、高く飛ぶことができ、ジェット機のMe-2621944年秋に、自足950kmで飛ぶまでは、すべてのドイツ機を振り切ることができた。

 

German:

bf110.jpg - 11,00 K

Aircraft  : MESSERSCHMITT Bf 110

Manufacturer    : Messerschmitt, Stuttgart.

Year                   : 1940 to '45

Engine                 : 2 X Daimler-Benz 605B (1,475 to 1,900 h.p. each)

Wingspan             : 16.20 m (52 ft)

Length                : 12.30 m (40 ft)

Weight                : 7,300kg (9 tons)

Max. speed          : 600 km/h (375 m/h) to 680 km/h (425 m/h)

Ceiling                 : 11,000 m (36,000 ft)

Range                 : 1,000 km (650 mi) to 2,500 km (1,500 mi)

Crew                  : 3

Armament           : 2-20 mm + 6-8 mm machine guns

Payload          : air photo cameras or bombs

 

 

British:

mosq2.jpg - 13,61 K

Aircraft  : MOSQUITO

Manufacturer    : de Havalland, Canada. Lightweight

                  as outer skin was plywood.

Year                   : 1941 to '45

Engine                 : 2 X Rolls-Royce Merlin, (1,700 to 2,200 h.p. each),

                  fuel-injected, turbo-charged.

Wingspan             : 16.6 m (54 ft)

Length                : 12.6 m (41 ft)

Weight                : 10,500 kg (12 tons)

Max. speed          : 662 km/h (420 m/h) up to 720 km/h (450 m/h)

Ceiling                 : 12,200 m (40,000 ft)

Range                 : 2,800 km (1,750 mi). Large gas tanks were added to

                  increase range to 5,000 kms (3,200 mi) or more.

Crew                  : 2

Armament           : 5 - 20 mm machine guns

Payload          : air photo cameras or bombs up to 900 kg (2,000 lb)

 

アミアン監獄への「ピンポイント爆撃」

フランスのレジスタンスを逃がすために壁に穴を開ける計画

 

 アミアン監獄は、ドイツ軍兵士とフランス市民に対するテロ攻撃で有罪となっていたフランスレジスタンス運動の幹部を逃がすために、攻撃された。双発の1600馬力のマーリーン・エンジンを持つ18機のモスキートが時速580kmで高高度から降下し、20mの高さで爆弾を投下した。それは、厚さ1mの煉瓦の壁に穴を開け、そこから囚人たちは逃げることができた。

http://www.air-photo.com/grap/jericho1.jpg

http://www.air-photo.com/grap/jericho8.jpg

19441月、下の航空写真をもとに上の監獄の模型が作られた。これが、「ジェリコ作戦」として知られる1944218日のアミアン監獄空襲である。

http://www.air-photo.com/grap/jericho4.jpg

1944218日正午、2機のモスキートが低空で監獄に接近する。

jericho6.jpg

混乱を引き起こすために、看守の宿舎と食堂が爆撃された後の、炎上中の監獄。白い雪の上に散乱する黒い壁の煉瓦が示しているように、外壁に2つの穴が開いている。1つは写真の左側に、もう1つは右側に。数百の囚人がこの穴から逃亡した。

http://www.air-photo.com/grap/jericho2.jpg

1944年、イギリスの飛行場に駐機する、ジェリコ作戦で使用されたものと同じような3600馬力のモスキート

http://www.air-photo.com/grap/jericho9.jpg

3.5mの穴が南壁に開けられている。ここから258名の囚人が逃亡した。うち179名が一般の犯罪者、29名が「フランス人政治囚」(普通は共産党員労働者)、50名がフランス・レジスタンスメンバー(そのうち数名がドイツ軍兵士と地元のフランス人住民に対するテロリスト行為で死刑宣告を受けていた)であった。

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爆撃後に撮影された写真、北壁に1つの穴が写っている。

連合国政府のアウシュヴィッツ政策

 

 1943年、1944年、連合国の指導者は、アメリカ、イギリス、ソ連の新聞が繰り返し大量殺戮の噂を流したのに応えて、ポーランドの収容所で何が起こっているのかを、ぜひ確かめようとした。以下の4つの公式声明は、ドイツ語その他の言語のラジオ放送、新聞、数百万の航空ビラによってヨーロッパ各地に伝えられたものである。

1.      19438月、合衆国大統領ルーズベルトは次のように述べた。

「枢軸国が毒ガスの使用を真剣に考慮しているとの報告がある…。このような武器の使用は、文明化された人々によって…不法行為とされている。われわれは、敵がそれを使わなければ、使うことはないであろう。…毒ガスを使えば、すぐに報復措置がとられることであろう。」

 

2. 194311月、スターリン、チャーチル、ルーズベルトの署名するモスクワ宣言は次のように述べた。

「ポーランド人に対して虐殺行為を行なったドイツ人は…犯罪現場に引き戻されて、その場で裁かれるであろう。」

 

3. 1944125日、ルーズベルト大統領は次のように述べた。

「ヨーロッパの…ユダヤ人を絶滅しようとするナチスの陰謀を防止する措置がとられるべきである。」

 

4. 1944324日、ルーズベルト大統領は次のような声明を発した。

「あらゆる歴史のなかで最悪の犯罪、…すなわち、ヨーロッパのユダヤ人の全面的組織的殺戮が毎時間ごとに進んでいる。…これらの何の罪もない人々が殺されていくのは、…大きな悲劇であろう。ユダヤ人を移送してポーランドの死地におもむかせていることに関与している人々も、…処刑人と同罪である。(ユダヤ人)をナチスの絞刑吏から助け出すために全力を尽くすべきである。」

 

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チャーチル、ルーズベルト、スターリン

 

結論

 1943年と1944年、合衆国大統領ルーズベルトは、ポーランドの収容所におけるユダヤ系囚人の運命を調査することを、連合国政府の緊急の課題とした。

 1944年初頭、航空写真、スパイ報告、政府間の接触(前述)による徹底的な調査を行なったのちに、連合国の指導者は、大量殺戮の噂は確認できない、したがって、ソ連や連合国のメディアが広めた虐殺物語の1つにすぎないと結論した。その結果、連合国の指導者は、アウシュヴィッツの焼却棟、看守区画やその他の収容所の爆撃命令は出さなかった。

 調査は最優先事項であり、指導者たちが、アウシュヴィッツやその他の収容所でたとえ11人でも殺されていると考えていたならば、看守区画、焼却棟、その他の施設へのピンポイント爆撃が命令されたことであろう。

 収容所はまったく爆撃されなかったという事実が、1944年には、連合国の調査は大量殺戮の噂を確証することができなかった、それゆえ、しりぞけていたことを証明している。

 

References: 

Krakowski, S. , The War of the Doomed-Jewish Armed Resistance in Poland, 1942-'44. Holmes and Meier Publishers, N.Y. 1984.

 

Gilbert, Martin. Auschwitz and the Allies. Mandarin Paperbacks, Michelin House, Lon., Eng. 1991.

 

Infield, G. Secrets of the ss. Berkley Publishing, N.Y. 1990. pages 78-79

 

 

 

 

(第7の論点)

 

「目撃証言」

航空写真

ソ連によるカチンでの処刑とドイツの収容所でのガス処刑はともに隠匿され秘密であった。

カチンの森の殺戮を見た者はいないが、ドイツの収容所は誰にも見ることができた。

 

森と農場の比較

 

カチンの森の隠された埋葬地

農場に囲まれたビルケナウ収容所

1.    国際調査機関によって、19404月と5月の5週間に、ソ連秘密警察が4300名の囚人を秘密に処刑した(1日平均118名)ことが証明されている。

2.    目撃者がいないようにするために、ソ連の警察は狭い曲がりくねった道に隣接する1平方キロの密な森の中心を選択し、 そこへの立ち入りを禁止した。もっとも近い村でも2kmの距離にある。

3.    19434月から6月、ドイツはヨーロッパ12カ国、ポーランド赤十字からの12名の医師が発掘された死体を調査することを支援した。戦争捕虜となっていたアメリカ人、イギリス人、カナダ人の将校もここに運ばれた。ついで、ドイツは検死報告、80の写真、4143名の犠牲者の名前をつけた『カチンでの大量殺戮の公式報告』と題する275頁の本を公表し、ソ連、アメリカ、イギリスの新聞記事とは逆に、ドイツではなくソ連が捕虜を虐殺したことを示した。証拠のなかには、ソ連がこの地区を占領する19404月以前の新聞記事が入っている犠牲者の衣服、ソ連軍のライフル銃に特徴的な銃剣による星型の傷が含まれていた。

1.    ドイツは19434月から19449月の1年半に75万人を殺戮したという(1日平均1400名)。

2.    大量殺戮は1年間隠されていたというが、たとえ1日であっても、大量殺人は平らな開けた道路、木のない農場から数百名によって鉄条網越しに目撃されたことであろう。

3.    ドイツ側が、カチン事件の調査を行なうにあたって、スパイが連合国政府に報告していると知っている、周囲からよく見える労働収容所で囚人を大量殺戮している一方で、カチンではドイツではなくソ連が無防備の捕虜を殺戮したと世界に向かって証明しようとしているとすると、その目的は、いったい、何であったのであろうか。これに対して、ソ連側が、カチン事件やドイツによる数百万人の大量殺戮を捏造することは、意味のあることなのである。「ソ連は残酷であるが、ドイツはもっと悪い」という反響を呼び起こすであろうからである。

 

 

 

 

(第8の論点)

 

「目撃証言」

航空写真

トレブリンカはフェンス、「ガス室」、大量埋葬地をもった30の建物の収容所であった。

農場のなかに5つの建物があり、以前の大収容所の後や痕跡はまったくない。

 

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1.    北に3km行けばトレブリンカ町にいたる道路

2.    木々

3.    南に1km行けば囚人労働キャンプにいたる鉄道支線

4.    様々な農家にいたる道には門がなかった。

5.    この場所からのいわゆる収容所の写真(注1

6.    1944年に耕作されていた畑。1940年の航空写真が同じ畑と木々のかたまりを写しているように、1940年から1944年にあいだに畑の場所は変わらなかった。

7.    19445月に存在したフェンスなしの5つの建物(注2)は大きな農場からの家、納屋であったようである。トレブリンカの「死の収容所」には30以上の建物があったといわれている。5つの建物は19445月から9月のあいだに破壊され、その壁だけが残っていた。証明されてはいないが、ソ連軍がこの地域に19448月に入ったときに、彼らがこれらを破壊したと思われる。

8.    点線はいわゆる1943年の「死の収容所」の境界を示している。いわゆる「目撃者」の図面(注3)は、6つの「ガス室」も含むセメントの土台をもった30以上の建物を示している。しかし、1944年の航空写真にはセメントの土台の痕跡はない。一方、以前の囚人労働キャンプの建物のセメントの土台は1993年にも残っており、筆者もそこを訪れた。(注4

9.    1944年の航空写真の中に見ることのできる草地の中の明るい痕跡(注5)。おそらく、すでに解体された、コンクリートの土台のない3つの臨時の建物のものであろう。臨時の通過・チフス防疫収容所が、ワルシャワ・ゲットーのようなところから東部地区の収容所に移される人々用のマルキニア通過収容所からの人員超過を処理するために、もしくは囚人労働キャンプの人員超過を処理するために建設されたのであろう。

10.「目撃者」の図面には、コンクリートのガス室(注6)、埋葬地、焼却棟があり、そこでは1942年と43年に800000人がガス処刑されて、焼却されたといわれている。1944年の航空写真には、埋葬地やこげた地面の痕跡はない。カチンの森の埋葬地のサイズと比較すると、最大でも8000001/40、すなわち20000人をここに埋めることができるにすぎない。ソ連は19435月から7月にかけて毎日5000名を焼却したとドイツを非難しているが、同じ月々、ドイツはカチンで1日に50名を発掘し、焼却していた。この証拠は、ソ連は「証明された」カチンの虐殺を、もっと大規模な虐殺によって些細なものとしようとしていたことを示している。

 

(注1

Treblinka #4

1960年代に撮影された写真

トレブリンカ・マップの⑤の地点からシンボリックな鉄道を超えて南西方向に向かって撮影された写真。いわゆる大量埋葬地の地点に記念碑がある。写真では、開けた農地と木立の群れは1944年から変わっていないようである。

 

(注2

Treblinka #5

1942年か43年に撮影された写真

トレブリンカ・マップにある3つの大きな建物の1つに向かって撮影された写真。これらの建物、およびコンクリートの土台なしの臨時の3つの建物以外には、トレブリンカ収容所のこの場所にはなかったことを示す証拠である。

 

(注3

http://www.air-photo.com/grap/trebmap.jpg

写真と矛盾している「目撃者」の図面

1965年に作成された「目撃者」の長方形の図面には、35の建物、監視塔、2つの大きな「セメントのガス室」(右下隅)が描かれている。しかし、3角形の農場を写した1944年の航空写真には、5つの農家の建物、3つのその他の建物であったと考えられる痕跡が写っているだけであり、それ以外の建物やセメントの土台の痕跡は写っていない。この図面は航空写真によって正しくないことを証明されている。

 

(注4

Arad, Y., Belzec,...Treblinka: The...Death Camps, University Press, Ind. 1987.

 

(注5

Treblinka May 1944

1944515日の航空写真

航空写真には6つの完全な建物が写っている。3角形の形をした地域は、植物が生育していないために白い。周囲の監視塔やフェンスの痕跡や、いわゆる収容所の右下隅には大規模な掘り返しの痕跡もまったくない。

Treblinka Sept 1944

19449月の航空写真

ソ連軍がこの地区を占領した1ヶ月後、2つの建物が破壊され、2つの壁が残っていることを示している。セメントの土台のない3つの臨時の建物の痕跡が夏の植物の中にあるが、いわゆるコンクリートの土台や大規模な掘り返しの痕跡はまったくない。

 

(注6

Convict labor camp

1944年に数千の囚人がいた囚人労働収容所

建物にはコンクリートの床の土台があり、それは1945年以後も除去されず、1993年にも存在していた。逆に、1km北に位置するトレブリンカ収容所には、航空写真によると、コンクリートの建物の土台も「ガス室」の床もない。

Treeblinka bodies

1945年に撮影された写真

ソ連軍が囚人労働収容所に入ったとき、彼らはキャンプの南の森に埋められていた10の死体を発掘した。彼らは病死、自然死、あるいは犯罪の咎で処刑された人々であった。ソ連軍は800000人のうちのわずか10の死体を発見しただけであった。そして、ドイツを殺人で非難した。しかし、ドイツがカチンでやったように、中立国からジャーナリスト、医師を招いて死体を調査させたり、検死させたりしなかった。もしも、ソ連がドイツの大量殺人の証拠を発見していたとすれば、彼らは速やかにカチン事件に対抗するために、それを公表したことであろうが、そのようなことは起こらなかった。

 

 

(第9の論点)

 

「目撃証言」

航空写真

ベルゼクでは1942年-1943年に600000人が埋められ、掘り返され、焼却された。

ベルゼク収容所は実際には、伐採搬出収容所であった。木の切り株や、土の浅さのために丘の頂上にある収容所に死体を埋めることは困難である。

 

http://www.air-photo.com/grap/belzecmap.gif

 

1.   ルブリン市とトマショフ町に通じる道路は自動車やトラックなどの交通機関が走っている。だから、1日に数百の通行者はいわゆるベルゼク収容所を十分に見ることができる。

2.   北半kmのベルゼク駅、北1.5kmのベルゼク町に通じる主要鉄道

3.   1940年には丘の斜面を蔽っていた森は19443月以前に伐採された。今日では、伐採にはチェーンソーを使い、移動と輸送には滑り出し機とトラックを使うが、1940年には伐採には斧が、移動と輸送には馬が使われており、丘の斜面を伐採するには194143年の3シーズンかかったことであろう。

4.   丘の斜面の伐採収容所から谷を横切った道路沿いの農家からはこの地区の全景を見ることができた。

5.   水道管と思われる道

6.   短い支線

7.   伐採された丸太を裁断した小さな製材場と思われる2つの建物。しかし、実際の用途は知られていない。

8.   支線と峰の頂上(10を参照)のあいだにあったとされる1943年の殺人収容所(注1)は実際には250×250mの伐採搬出収容所であった。

9.   いわゆるガス室の場所。1日に2400名あるいは112時間で1時間200名が1942年に殺されたという。この場所は丘の斜面にあり、ベルゼクの町民、農民、道路通行者あるいは谷のスパイから見渡せる。したがって、たとえ1名の殺害であっても多くの人々に目撃されたことであろう。以前のセメントの建物の土台の痕跡は存在しない。

10. 1km南東のリサ山に通じる丘の峰には、木の切り株があり、1日にいわゆる2400名の死体を、鍬、シャベル、馬を使って埋めることは不可能であろう。カチンの埋葬場所のスペースと比較すると、600000万人の50分の1、すなわち12000人だけがこの地域に埋葬することができる。

11. 194211月から19432月のあいだに、1日に4500の死体が掘り起こされたという。しかし、丘の頂上の凍った地面の上で1日に4500名の死体を掘り起こすことは、不可能であろう。たとえ、ドイツが数千の労働者を雇ったとしても、この数の一部だけを発掘することができることであろう。カチンでは、ドイツは19432月に埋葬地を発見してから、地面が解ける4月までのあいだに、地元の労働者を使って毎日130名を発掘したにすぎない。

12. 1日に4500名の凍った死体が燃やされたという。しかし、閉ざされた焼却炉でと比較すると、戸外での焼却には数倍の燃料が必要であり(1体につき120kgの石炭か木材)、死体は戸外では非常にゆっくりと燃える。もし、1日数百トンの木材や石炭が丘の頂上に輸送され、23000名の労働者が死体を焼却したとしても、いわゆる14500名のうちわずかな割合しか、焼却できない。

13. 地面に強い痕跡を残している道は、丸太を貨車にスライドさせた道であったと思われる。

14. 貨車

 

(注1

http://www.air-photo.com/grap/belzecmap2.gif

 

http://www.air-photo.com/grap/belzec2.jpg

http://www.air-photo.com/grap/belzec.jpg

1940526日の写真(左)と1944516日の写真(右)

 

 

(第10の論点)

 

「目撃証言」

航空写真

バビー・ヤールでは19439月に80000名の死体が掘り起こされ、焼却された。

1943年の航空写真には、発掘と焼却の痕跡や煙は写っていない。

 

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1.   曲がりくねったバビー・ヤール渓谷の外延。渓谷は数千年に渡って渓谷を作り出した小さな小川のようであった。

2.   V字型の渓谷の底。馬やトラックを使って数千の死体を埋葬・発掘・焼却することは、航空写真でも良く見えるはずである痕跡を作り出したことであろう。

3.   1940年には耕作されていたが、1943年には耕作されていない畑。

4.   木々

5.   数百の個人の墓の共同埋葬地

6.   墓を結ぶ直線道路

7.   共同墓地の中の建物

8.   64000名の死体が1944926日に撮影された航空写真の5週間に発掘・焼却されたとされる渓谷の場所。そこには、分散した植物があり、まったく掘り返されていない土地がある。5週間のあいだ毎日1600の死体を戸外で焼却するための輸送に必要であろうブルトーザー、トラック、馬の移動の痕跡は航空写真にはない。(注1

9.   渓谷の壁には道路や馬の道の痕跡はない。

10. 東方のキエフに向かうメルニク通り

11. 渓谷に入るメルニク通りにはトラックや馬の道の痕跡はない。

12. メルニク通りの終わりから西方に狭い道路と馬の道が続いている。

 

(注1

Gutman, I. Ed. Encyclopedia of the Holocaust. N.Y. U.S.A. 1990.

 

 

(第11の論点)

 

「目撃証言」

航空写真

映画『シンドラーのリスト』のように、収容所司令官はバルコニーから、虐待されている飢えた囚人を射殺した。

司令官のバルコニーからは収容所は丘の後ろに隠れており、見えないし、当時撮影された写真には栄養状態のよい囚人が写っている。

 

http://www.air-photo.com/grap/plaszow.gif

 

1.   収容所にはいる5つの道路の1つ。1942年クラクフでは、12月のツガネリア・クラブ爆弾事件の11名を含む40名以上のドイツ人将校と兵士が、ユダヤ人ゲットーを根拠地としたユダヤ人戦闘団に殺された。テロリストの大半はユダヤ人であった。19433月、ゲットーに残っていた数千のユダヤ人はプラショフに移された。(注1

2.   2.5mの高さの鉄条網のフェンス(注2)。周辺の農村の数千の住民、道路のドライバー、プラショフ駅の旅行者は、収容所の建物と囚人を見ることができた。所長ゲートは、連合国政府に通報するスパイが収容所での肉体的な暴力や、任意の処刑を見ることができることを知っていたので、暴力が許されていたとは考えにくい。

3.   14の監視塔のうちの2つの監視塔は、犯罪者やテロリストが収容所の外から侵入して、略奪したり、囚人を肉体的に迫害したりすることを防ぎ、また囚人の逃亡を防いだ。ポーランドのクラクフでの1946年のゲート裁判の証人は、監視塔の2階に上って、ゲートがこの石切り場(27を参照)で直接処刑を実行したのを見たと証言した。しかし、深い石切り場の底はどの監視塔からも見ることができないので、これは不可能である。

4.   ポドゴルシェ村の農家(注3)。収容所周辺の家や道路のおかげで、囚人は発見されることなく逃亡することができた。194344年に数百の囚人がユダヤ人戦闘団の助けを借りて逃亡した。収容所の中の戦闘団のメンバーは収容所周辺のクラクフの同志とたえず連絡を取り合っていた。

5.   ユダヤ人囚人の医師レフコヴィツとグロスが統括した6つの病院(注4)。彼らはいつもゲートに助力を求め、それを受け取っていた。例えば、ゲートは病気の囚人に最良の食事を与えるように命令している。1946年裁判では、ヴァッセルマン証人は、ゲートが病人と老人の囚人の射殺を命じたと証言しているが、若い者も老人もすべての病人は診断・治療を受け、大半が生き残った。

6.   ユダヤ人囚人が運営し、ユダヤ人医師のレフコヴィツとグロスが監督した厨房。ここから、ライムギのパン、野菜スープ、1週間に5日は肉を含んだシチュー(注5)がバラックに運ばれた。囚人の摂取量は1日につき2000カロリーを超え、多くの民間人よりも多かった。『シンドラーのリスト』の囚人は栄養が悪く、不健康に描かれているが、1943年の写真(注6)は栄養状態が良く健康な労働者を写している。

7.   194243年に建設された55名ほどを収容する就寝バラック(注7)。その収容人口は1944年には4000名以上となり、1バラックにつき70名となった。ほとんどすべての囚人は、この建物が町のようには爆撃を受けないこと、健全な食事が提供されること、看守が泥棒や肉体的な暴力を防いでくれること、チフスその他の疫病がコントロールされていることを知っていたので、ここにいることを喜んでいた。

8.   火災用貯水池

9.   点呼、集会、スポーツに使われた地域(注8)。『シンドラーのリスト』では看守が囚人に暴力を振るっているが、1946年に、ゲートは、暴力はサボタージュと逃亡を奨励するので、看守は囚人を公平かつ正しく扱ったと述べており、健全な収容所環境を作り上げるために、看守と囚人が一緒に働くことを抑制したと述べている。ゲートは、囚人を虐待したことを発見すると、看守ミハルスキの解職を命じた。

10. 「サウナ」と呼ばれた建物。囚人はここで熱いシャワーを浴び、それによって、チフスを媒介するシラミ、その他の疫病を媒介する虫を殺した。別々の男性用と女性用のトイレがあり、それは下水につながっていた。一方、ゲットーの家を含むクラクフの多くの家には、熱い水道も清潔な下水もなく、このために疫病の蔓延を許した。

11. 16mの丘の頂上に沿った道路

12. 大きな煉瓦倉庫(注9)。ゲート裁判で、ある証人はゲートが大きな石切り場の底で処刑を命じているのをこの建物から目撃したと証言した。しかし、石切り場の底は、この建物や、その他の収容所の建物からは見ることができない。だから、この証人は真実を語っていないことを証明している。

13. この場所から撮影された写真(注10)には、12の煉瓦の建物の2つの写真が含まれているが、健康で不満のない、休憩した囚人が働いている姿が写っており、虐待を受けているようには見えない。一方、『シンドラーのリスト』では、囚人は不健康で、苛立っており、虐待されているように描かれている。

14. 丘の斜面に沿って露出している土壌と石灰岩

15. 就寝バラック(上)収容所管理局、看守バラック(下)を分けている鉄条網のフェンス

16. 丘の上の犬小屋。丘を下ってゲートの邸宅の後ろのバルコニーにまで続く歩道。

17. ゲート収容所長宅(注11)。1946年のゲートの裁判では、彼の女中ホロヴィッツは、自分が一人で家にいたときには、ゲートの犬(注12)が激しく吠えつき、ドアを閉めなければ殺されたかもしれないと証言した。しかし、ゲートは、自分の犬が彼女を襲ったことはないと述べた。彼女は何ヶ月も毎日、この犬に餌をやり、散歩させ、世話をしており、犬は自分に餌をやり、世話してくれる人を襲うことはないというのである。

18. ゲートの邸宅の後ろのバルコニー(注13)。『シンドラーのリスト』ではここから彼は囚人を射撃したとされている(注14)。しかし、1946年の彼の裁判で、バルコニーから人を撃ったと告発した囚人はいなかった。1944年の航空写真では、収容所の囚人地区は丘の後ろにあり、バルコニーからは見ることができない(注15)。だから、バルコニーからの射撃のシーンは起こり得なかったはずであり、この映画がフィクションであることを証明している。

19. 丘の横の小さな石灰岩の石切場

20. この場所からの写真(注16)は収容所全景を写している。

21. この場所からの写真(注17)はゲートの邸宅と丘を写している。

22. 毎日、囚人が通って働きに行くメイン・ゲート

23. 収容所管理局の建物。所長アモン・ゲートが自分のオフィスを構え、収容所に逗留している人々が収容所外部の人々ともに働いていた。

24. 看守の就寝バラック

25. 老齢の囚人が働いていた馬小屋

26. ヴァラ・ドチャスカ村。1944年には1000以上の人々が暮らしていた。『シンドラーのリスト』に描かれているような虐待や処刑は数千の村人やスパイに目撃されていたことであろうが、1943年の連合国の軍事報告はこのような虐待に言及していない。『シンドラーのリスト』は捏造されたフィクションである。

27. 有罪を宣告された少数の囚人が処刑された、丘の斜面を切り裂いた大きな石灰岩の石切場の底。石切場の底は収容所や農家からは見ることはできない。1946年の裁判では、ある証人が、中に上って処刑を目撃したと証言した。しかし、石切場は収容所のフェンスの外にあり、処刑中は警備され、石切場の周囲の高い壁によって中に上ることはできないので、これは不可能である。

28. 囚人はここで石灰岩を煉瓦用に切りだした。鉄条網製作所の隣にある。ゲートはこの施設にユダヤ人経営スタッフを任命した。

29. 3km北のクラクフ市の中心部からの主要幹線道路。南2kmにタルノフ町がある。門も門衛所もない。

30. 木々

31. 50m東にあるプラショフ駅のそばのプラショフ村。

32. 鉄道

 

(注1

 Butz, A. The Hoax of the 20th Century. Institute for Historical Review. Costa Mesa, Cal., U.S.A.

 

(注2

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収容所の二つのセクションを分けていた鉄条網、トロッコを押している女囚。遠くには、プラショフ収容所を取り巻く鉄条網とフェンスの外の監視塔が見える。写真の右上には、ヴァラ・ドチャスカ村の建物が見える。

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看守キャンプと囚人キャンプを分離する門のついた鉄条網。遠くにあるのは、プラショフ駅とプラショフ村の建物である。真ん中には、収容所の正面の南のクラクフからの主要道路

 

(注3

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遠方にプラショフ駅と二つのプラショフのホテル、真ん中に主要道路がある。収容所の全景が見える。

 

(注4

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下の建物は、囚人地区にある6つの病院の1つである。2人のユダヤ人医師によって運営され、病人が診断と治療を受けた。

 

(注5

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バラックに配給する5つの丸いパンを運ぶ囚人。ほとんど食事のたびごとに健全なライ麦パンが提供された。階段にいるスーツを着た人物は収容所の監督者であろう。

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バラックに運ばれるスープ、シチュー、その他の食物。2人の女性が5つの丸い大きなパンをもって道路を横断している。

 

(注6

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食事を待っている栄養状態良好で健康そうな囚人はリラックスしており、恐れていたり、不安を抱いていないかのように見える。ライ麦のパン、野菜スープ、1週間に5日は肉の入ったシチューは、囚人に対して、収容所の外の町や村の住民よりも多くの量の健全な食物を提供していた。

 

(注7

http://www.air-photo.com/grap/plas7.jpg

微笑みながらトロッコを引いている女性たち。プラショフの囚人は、アウシュヴィッツのようなその他の収容所の囚人と同様に、宿舎、食料、医療があり、看守が外部の犯罪者から守ってくれる収容所では幸せに暮らしていた。彼らはまた、連合国やソ連の空襲を恐れることもなかった。一方、クラクフその他の町で暮らしていた人々は、自分の居住地が爆撃目標となることを絶えず恐れていた。

 

(注8

http://www.air-photo.com/grap/plas10.jpg

1943年の収容所の光景。外部の人々は鉄条網越しに収容所の中を見ることができた。就寝バラックが建設中である。遠方には監視塔、写真の左中央には集会とスポーツのための広場が見える。

 

(注9

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右側に大きな煉瓦倉庫。囚人が溝を掘り、下水と水道を敷いている。男性囚人は縞模様の制服を着ており、外部の労働者は縞模様はつけていない。看守の姿は見えず、すべての囚人は一緒に能率的に働いているようである。写真の左下では、4人の囚人が、労働者のためのお茶、コーヒー、スープのようなものを運んでいる。

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囚人に丘の上までトロッコを押し上げ、その他の重要な建設活動をさせるために、所長ゲートは、囚人に十分栄養をとらせ、看守の虐待を被らないようにした。ここでは、囚人は、写真の右にある所長ゲートの邸宅の後ろの丘にトロッコを押し上げている。

 

(注10

 (注7)を参照。

 

(注11

http://www.air-photo.com/grap/plas17.jpg

ゲートの邸宅は左から3番目の建物である。写真の写っているその他の建物は、収容所の看守地区にある。収容所の囚人地区は監視塔のすぐ下の丘の頂上から始まっている。ゲートのバルコニーから囚人地区の建物を見ることは不可能である。この写真はマップの21から撮られた。

 

(注12

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グレイト・デーン犬を連れてゲートの邸宅の後ろのバルコニーに立っている彼のガールフレンドであるマヨラ。1946年のゲートの裁判では、彼女の女中は犬が自分を襲ったと証言したが、犬というものは、自分に餌をやり、散歩し、世話をしてくれる人間を襲ったりはしないものである。

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犬と一緒にバルコニーで休息するゲート。Tom Keneallyの『シンドラーのリスト』1993年版230頁では、すべての写真を撮ったのはユダヤ人囚人Ray Titschとなっている。しかし、この写真を撮ったのは短髪の男性囚人Titschではなく、ゲートのガールフレンドのような長い髪の人物であろう。これは些細な点かもしれないが、この本と映画が、事実とフィクションを混ぜ合わせて、捏造された物語を歴史上の真実として提示していることを明らかにしている。

 

(注13

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1943年の夏にバルコニーでくつろいでいるゲートと友人。このバルコニーからゲートが見ることができるのは、看守地区の23の建物だけであり、それはこの写真にも写っている。丘のために、収容所の囚人地区を見ることはできない。

 

(注14

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『シンドラーのリスト』のこの衝撃的なシーンでは、ゲートはバラックの外をリラックスして、穏やかに歩いている囚人を常に射撃している無情で、冷酷な殺人者と描かれている。ゲートのバルコニーの後ろの丘のために、このシーンはありえない。

 

(注15

http://www.air-photo.com/grap/plas21.gif

いわゆる目撃者の話をもとに再現された映画での収容所(左)と1944年の航空写真による収容所(右)

 

(注16

 (注8)を参照。

 

(注17

 (注11)を参照。

 

 

(第12の論点)

 

「目撃証言」

航空写真

ドイツ側は連合国政府と話し合いを持たず、したがって、大量殺戮の噂や強制疎開についての質問に解答しなかった。

ドイツ側は連合国政府への電報の中で、囚人の殺戮を否定し、ソ連軍の前進の前に、囚人を西方に移すことを保証していた。

 

(第6の論点)を参照。

 

 


『いわゆるヒトラー一派のガス室といわゆるユダヤ人の虐殺は、同一の歴史的嘘である。この嘘のおかげで、非常に大きな政治的・金銭的詐欺行為が容認され、そのおもな受益者はイスラエル国家と国際シオニズムであり、そのおもな犠牲者はドイツ国民―その指導者ではない――とパレスチナ民族全体である。』

— ロベール・フォーリソン教授博士

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1980年代のイスラエルの戦略 この記事は1982年2月『Kivunim、A Journal for Judaism and Zionism』の第14号、冬季5742にヘブライ語で掲載されたものである。

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