我が闘争(抄訳)
『我が闘争(抄訳)』の全文
我が揺籃時代
小さい国境町
今日に至って見て私は、運命の神が私を旧独墺国境の小さな国境町ブラウナウに誕生させて呉れたと云うことを、深く感謝せずには居られない。それはこの小さな町が、ドイツ人の血からなる二つの国家、即ちドイツとオーストリアとに直接肌を接していたからである。而も我々青年の胸には、疾からこの二つの国家を、凡ゆる力と方法とを尽して合併させなければならぬと云う考えが芽生えていたのだ。
オーストリアの中にいる多数のドイツ系オーストリア人は、当然祖国ドイツに復帰しなければならぬ宿命にある。このことは、経済的な見地から判断して、よしんばその合併が経済的にはお互いに不利益であろうとも、断じて合併しなければならぬ神の摂理と運命とを持つものである。
共通せるところの血は共通した国家に属さなければならぬ。
一切のドイツ人を共通の国家に抱擁しない限り、ドイツ人は植民地などに手をつける権利は与えられない。この抱擁を果して、之等のドイツ人に充分なる食糧を供給し得るようになるまでは、ドイツ国外の土地を獲得するというような権利は持得ないであろう。
斯かる思想を私の心に芽生えさせたのも、この小さな国境町に私が生れたお陰である。
私の父も母も前世紀の八十年代の終りまでこの土地に住んでいた。両親とも血統の点ではバヴァリア人、国籍の点ではオーストリア人であった。父はこの頃至極真面目な文官であり、母は我々子供達を育てるためにのみ生れて来たような良き母であった。
しかし私はブラウナウでの記憶を何一つ持っていない。というのは、私がまだ物心もつかない頃に父はイン河下流にあるドイツのパッサウという町に転任を命ぜられたからだ。そして更に数年後には再び上部オーストリア州の首都であったリンツの町に移住した。ここに勤めている内に父は年金を貰って退職し、余生を北オーストリアのランバッハ近郊の農場主として送ることになったのである。