『我が闘争(抄訳)』の全文
肺患に襲わる
青年時代の第一歩に於て私の掴み得た確信は次のようなものであった。
「ドイツ民族を保護せんがためには、どうしてもオーストリアを瓦壊させなければならない。而してこのドイツ国民的感情は、オーストリア人が持っている王朝的感情とは、根本的に相違したものである」
しかもこの考えはその後益々強固になるばかりであった。私は自分が生れた北部のドイツ系オーストリア地方を心から愛した。自然的に之と正比例して、オーストリア人のオーストリアを、益々憎悪するという闘争者としての感情や思想をぐんぐん生長させて行った。
斯うした思想が育まれる一面、私の図画に対する才能は学校に於ても認められるところとなり、将来画家として立とうと云う決心は一層強められて行った。にも拘らず私の心はまた「建築」」に深い興味を覚えるようにもなって来ていた。この二つに分れた心を、私は怖らく絵画に対する才能が建築へまで拡大されたに過ぎないものであろうと思っていた。今日の私の地位から考えると、真に不思議な程違った世界で力み返っていたわけである。
十三歳になった時、敬愛する父が急に亡くなり、一家を悲歎のどん底に突き落した。父の死は確かに我々一家にとっては大きな悲しみであったが、憂愁に閉されながらも格別の変化のない生活が我々の上に続いて行った。私は依然として画家になるための決意を翻さなかったが、突然病魔が私の心の生活に一転機を齎すことになったのである。何となく気分の勝れなかった私は、医師の診断を受けたところ、以外にも可なり重い肺病に犯されていることが分った。そして医師は母に忠告して、この体ではとても官吏などには無理であるから、その方は諦めるべきであろうと云った。私は父からも母からも執拗に迫られていた文官志願の桎梏から、思いがけない病気のお蔭で逃れることが出来たのであった。母も仕方なく私を美術学校へ入れることに決心した。しかし、何れにしても私のこの病魔を退散させるために、少くとも一ヶ年間は小学校をも休んで静養しなければならなかった。