我が闘争(抄訳)
『我が闘争(抄訳)』の全文おお、我等の勝利!
この大会は八時から開かれることになっていた。私は会場から十分間置きに電話で刻々の報告を受けていた。
晩の七時にはまだ充分の入場者とは云えなかった。そろそろ私は焦り出した。しかしそのうち安堵すべき状態の報告が入り始めた。八時十五分前には、既に会場は四分の三の入りを示し、尚切符売場には大変な群衆が長蛇の列を作っていると云う報告が来た。
八時二分に私は会場たるツイルクス・クローネに到着したのであるが、その門前にはまだ夥しい人々が切符を争って買っていた。
一歩その広大な会場へ足を踏み入れたとき、私は喜びのため足が地につかないほどであった。六千人に余る聴衆がギッシリと酢詰めになって、それがまるで巨大の砲弾のように、私の前に横たわっていた。愈々この聴衆を前に演壇へ立った時、私は如何に我々の勝利が大きなものであったかを、更に新たに感じたのであった。
私は空前絶後の国辱的賠償金問題について演説を始めた。この演説は実に二時間半の長きに亘って続けられたのである。私はこの夥しい聴衆の胸へ、ぐんぐんと私自身を揉み込んで行った。懸命の弁であった。そして一時間後には割れるような拍手が、演説の要所要所で起るようになった。私は完全に聴衆の心に喰い込み得たことを意織した。私は更に説き進めた。その中、聴衆は拍手することも忘れて、その広い会場が水を打ったような静けさになった。この厳粛な沈黙は、この日この会場に居合せた者なれば、決して生涯忘れることが出来ないであろう。二時間半の後私は演説を終った。人々はシーンと静まり返っていた。が軈て既に私の演説が終わったことに気がつくと、天井も崩れ落ちんばかりの拍手と喝采が湧き返った。そして誰からともなく熱烈なドイツ国歌が合唱された。その合唱裡に自ら会は閉じられたのであった。
私は立上って、昂奮し続けながら帰って行く民衆を、二十分間も見送っていた。限りない喜びが胸の中で疼いた。
最早我々の存在は絶対に無視するわけには行かなくなった。この日の会合の大成功が、単に幸運に恵まれたものに過ぎぬと思っていた連中も、第二回、第三回とこの同じ会場で大会を催し、その回毎に前同様の大成功裡に終った事実を目撃しては、遂に自らの考えが間違っていたことを認めねばならなくなったのだ。
一九二一年の夏になると、我々の会合は週二回から三回へ飛躍した。そしてその会場はあの広大なツイルクス・クローネを使用するのがおきまりになってしまった。その結果我々は益々多数の聴衆と党員とを獲得することが出来たのである。
この事実を見て我々の敵が喜ぶ筈はなかった。そこで彼等は、今にして威嚇して置かなければ、始末に負えなくなると考え始めた。その手始めが代議士エルハルト・アウエル事件である。つまり彼等の味方であるエルハルト・アウエルが何者かのために、或る夜発砲されたと云うのだ。そして犯人が余りに早く逃走したので、それが何者であるかは分らない――と云うのが被害者エルハルトの説明である。然るに社会民主党の新聞では、堂々とこの犯人こそナチ党員に違いないと指摘して来た。
之は彼等が私及びナチ党に対して、最後の試みを加える前提であった。私はミュンヘンのホーフブラウハウスで演説する予定になっていたが、その夜彼等が私を襲撃すると云う警告を発して来た。