我が闘争(抄訳)
『我が闘争(抄訳)』の全文賠償金反対の大示威運動
一九二一年二月一日に私は決定を要求した。そして私はまる一日待たされた後、やっと回答を手にすることが出来たが、それは全く曖昧模糊たるものであった。到頭私は痺れを切らしてしまった。斯くなる上は、私は私自身の発意に依って、大示威運動を起さなければならぬと決心した。最早一刻も猶予の出来ぬ場合であった。そこで私は二日(水曜日)の正午に、ポスターへ使用する文句をタイピストに打たせた。それから電光石火的にツイルクス・クローネの会場を借りてしまったのであった。このツイルクス・クローネは流石の我々にも、余りに会場が広すぎて、ここだけは未だ一度も利用したことのないものであった。
或る意味で、ナチ党突撃隊は、こんな広い会場を有効に、且つ充分に警戒し得るだけの大きさにはなっていなかった。従って当局の保護などを全然頼みに出来ない我々にとっては、この会場を使用するということは、そのことだけで実に一大冒険であると云ってよかった。―しかしそれはその時の私だけの考えだったかも知れない。後日に至って私は、狭い場所よりも広い会場の方が、騒ぎを鎮めたりなんかするには、却って好都合であることを知った。
ポスターは出来上って来た。しかし広告するためには、木曜日一日しかなかった。しかもその日は朝から相憎雨が降っていた。条件はすべて不利であった。私は、ことによるとあの広い会場を一杯にすることは出来ないのではないかと案じた。そこで私は更に数種のリーフレットを大急ぎで印刷させた。そしてそれを、赤い腕章をつけた党員に持たせ、十人、十五人位ずつトラックに分乗させて、街中を叫び廻りながら、全部撒いて来るように命令した。
トラック隊は時を移さず出動した。之こそ、マルクス主義者以外の者がなした、最初のトラック宣伝であったのだ。ブルジョア階級の人々は、この鈎十字の旗と腕章で満たされたトラック隊を見て仰天したし、共産主義者共は、撒き散らして行ったリーフレットを掴んだ拳を振り上げながら、「畜生」と悪罵を浴びせかけた。