我が闘争(抄訳)
『我が闘争(抄訳)』の全文鉤十字の誕生
愈々ナチ党の標章を作るとなると、党員の中から無数の案が集まって来た。私には既に腹案は出来ていたけれども、指導者として、なるべく皆の考案したものの中から撰び出したかった。この多数の党員の中からは、誰か一人位私のと殆んど同案か、それともそれ以上の名案を提出するものがあるに違いないと思った。果してシュタールンベルグの歯医者が、非常によく出来た図案を持って来て見せた。これは私の案と可なり似通ったものであった。ただ曲った鈎を持ったスワスチカ(鈎十字)で、白い円を作っていると云う点が、私に満足を与えなかった。
結局示されたさまざまの標識の中から、そのまま採用出来るものはなかったので、私の腹案を土台として、種々の角度から研究した結果、遂に今日使用されているもの、即ち赤地の旗の中央に白の円を描き、その中へ黒い鈎十字を染め抜いた旗が出来上がったのであった。突撃隊員には特に、同じ図案の腕章が手渡された。又ミュンヘンの錺職フス君は党員が佩用するメタルを作り上げて来た。
斯くて鈎十字のナチ党旗は、我々の若々しい情熱そのもののような色を以て、一九二〇年の夏、始めて大衆の前に大きく翻えされたのである。
この旗に就て一応説明を試みるなれば、旗の赤字は我々の熱狂的な社会思想を表わしたものであり鈎十字はアリアン人の勝利の闘争を―永久に反ユダヤ人であろうとする創造的な仕事の、勝利のための闘争を象徴しているものなのである。
一九二〇年に入ってからは、最早我々は一週一度の会合では満足出来なくなって来た。そこで思い切って週に二回の会合を開くことに決定したのである。街の要所要所へ貼られたポスターの周囲には人々が群集した。ミュンヘンの町では、どこへ行っても我々の噂を聞くことが出来た。そしてミュンヘン第一の大会場も、常に熱心な聴衆によって一杯に満たされるようになった。我々は既にミュンヘンに於ける強力な党として、自他共に相許すものとなったのである。
年が改まった一九二一年の一月末に近く、ドイツ並びにドイツ人にとって実に重大な問題が生れて来た。それは後の世までも種々の話題と事件とを生んだ賠償金問題であった。ロンドンの命令は、ドイツに実に一千億金マルクと云う天文学的数字の賠償金を支払えと云って来たのである。
国内のあちらこちらでこの問題について一様に反対意見が叫ばれた。ミュンヘンに於ても共同抗議をするというような噂が立った。分散した小規模の国民団体や、労働者の協同体が、それらを組織化しようとして骨を折っていた。しかし強力な指導者を欠く彼等は、だらだらとしていて、一向進捗しなかった。一方ドイツの大きな諸政党は何をしていたであろうか!―彼等はこの尨大な金額に度胆を抜かれてしまって、今や抗議をしようとする意志すらも失ったかのような状態にあった。