我が闘争(抄訳)
『我が闘争(抄訳)』の全文演説の偉大な力
聴衆は常に非常に気まぐれなものである。同じ演説を、同じ演説者がやるにしても、午前十時と、午後三時と、宵の口とでは、その効果に非常な違い生ずるようなことが屡々ある。このことは私自身でも充分体験している。ミュンヘンでのある日の大会に、朝の十時に私は演説をしたことがあったが、その日は如何に努力しても、いつもの様に聴衆を昂奮させることが出来なかった。私としては決して調子を下したものではなく、寧ろ常よりも張り切っていた積りであったが、到頭最後まで充分に聴衆を刺戟することが出来なかった。私は可なり不満な気持で降壇した。不思議に思ったので、其の次の集会の時にもう一度此時間を撰び、充分心して演説をしたが、結果は矢張り前回と同様であった。
愚鈍なドイツのインテリ階級の人々は、演説者よりも文士の方が常に優っていることを主張する。嘗て私は、大戦中に書かれたロイド・ジョージの演説を、或るドイツの文士が批評していたものを読んだことがある。その批評家は結論として次のようなことを云った。即ちロイド・ジョージの演説は分り切った極めて平凡なことを平凡に話したまでで、知的には全く何の取柄もなく、まことに低調極まるものである―というのであった。そこで私は、どうも納得しかねたので、早速幾種類かのロイド・ジョージの演説集を取り寄せ、慎重にそれを検討してみた。そして、その中に如何にも大政治家らしい大衆の心を巧みに捕えるところの巧妙なやり方が、随所に用意されていることを発見して驚くと共に、そうした大衆に及ぼす心理的傑作の重要点に、まるで気のつかない文士の批評を、改めて憫笑せざるを得なかったのである。
総じて、民衆大会が非常に貴重なものであると云うことに就ては、次のような理由があるからだ。即ち個人が、不確な土台の上に立って、新しい政治運動に参加すべきかどうかを思い迷っているような時には、大部分が精神的孤独感に捕われているものである。その人が、大会の会場に入って演説を聞いている間に、周囲の人々から受ける心理的影響は極めて微妙なものである。しかし彼はその多数の人々に対して一種の同僚感を持ち始め、次第に彼の心の中に勇気と力とを生しめるようになる。斯うした決断のついていない心は、新らしい運動を暗々裡に信ずる幾千の心に取り巻かれている中に、群衆心理的な一種の魔術的雰囲気によって足をさらわれてしまう。そうして遂に彼は屈伏することになるものなのである。
この心理過程は、ナチ党にとって見逃してはならないものである。彼の、物識りには違いないが、ドイツ帝国を投げ出し、彼等自身をも危険にさらし、彼等の指導的地位を自ら破壊してのけたブルジョアの愚者共によって影響されるということは、断じて許してはならぬのである。