我が闘争(抄訳)
『我が闘争(抄訳)』の全文民族の保護者
以上の三つの国家観念を検討するに、そこに共通的な一つの大きなものを見落していることが直ちに看取されるのである。即ち「文化並びに人類にとって価値あるところのあらゆるものを創造する偉大な力は、実に民族そのものに基くものである」ということを見逃している点がそれだ。国家は何事を措いても、先ずその民族の目的をハッキリさせ、且つ之を非常に重視せねばならぬものだ、ということを忘れている。
この意味から云って、民族的人生観に基いた新しい政治運動の第一の義務は「国家は民族の保護者でなければならぬ」ことであり、且つ之を明白に理解されねばならぬことである。
文化が国家に依って創造されているなどと思うことは大きな誤りである。国家は単に、そして常に文化を創造する民族のお役に立ち、同時に之を保護し得る立場のものに過ぎないのだ。従って民族の生存と、その開発的な生活の確立とに全力を傾け得る国家のみが、勝利国家、成功国家たるの栄誉をかち得るのである。
我々は往々にして、紀元前のドイツ人が、一介の野蛮民族に過ぎなかったという説を聞かされる。然しこれは許すべからざる暴言である。我々の祖先は決して文化のない民族ではなかった。ただ北欧のような生活環境の極めて困難な地に住まわざるを得なかったために、その創造性が開化を妨げられていたに過ぎない。
若し当時に於てこれ等のドイツ人が、南方のもっと住みよい土地に居住したとしたら、彼等はそこらに住う劣等な人種の極めて幼稚な道具を持たせても、必ず彼等天賦の創造性を十二分に活躍させてギリシャ人同様或はそれ以上の燦然たる文化を築き上げて見せたに違いない。
但し、アリアン民族即ち我々の祖先が、斯くも火花のような創造性を持っていたということが、北欧地方に生活を余儀なくせられた結果だと思ってはならない。その筆法で行ったら、北欧の民族、スエーデンやノルウェーなどのラプランド人も亦同様に素晴らしい創造性を持っていなければならぬ理屈になる、しかし今彼等を試みに南方の、恵まれた条件の下に置いて見たところで、文化的には依然としてエスキモーの如く不毛であるに相違ない。
アリアン民族は生れながらにしてこの偉大なる才能を持っているものである。このことを「民族の保護者」は充分認識してかからなければならない。
国家は目標への手段
国家は一つの目標への手段である。
国家の唯一の目的は、精神的にも肉体的にも同等なる人々の協同体を維持してやり、且つ之を向上させることより外にない。
若しこの目的を持たなかったり、或は又目的から外れている国家があったならば、それは奇形児国家であり、不具の国家と云わなければならない。
我がナチ党は、新しい世界観の保持者である。決して、現存する或るものを容認し、そこに立脚点を求めるようなことをしてはならない。若し我々がそのようなものの上に基礎を置いたなれば、我々は最早新世界観を持った闘士ではなくなるばかりでなく、反対に現存する事物の奴隷となり果てるであろう。
このように、偉大なる国家の偉大なる目的は、新しい文化を創造し、より高い人間の美と優秀性を建設せんとする民族的な要素を飽くまでも擁護するという点にかかっている。我々はアリアン人として、我々の次の時代を背負って立つべき人々が、今私の述べたことを了解するに違いないと確信するものである。
我々は、ドイツ人が如何なる国家を形成されることを要求し、望んでいるかと云う点を慎重に考えなければならなくなって来ている。そして、その最初に於てなすべきことは、先ず如何なる人々を結合させるかの問題である。ドイツの血の中には、既にユダヤ人等によって多量の毒素が加えられている。そしてその毒素はドイツの精神をも肉体をも腐敗堕落せしめつつある。一瞥して誰にも知られる如く、ドイツの国内には北欧人も居れば東洋人もいる。而してそれ等の間には無数の混血児がいるのだ。この混然雑然たる血の混乱は、ドイツにとって数々の不利益を齎すものである。その中の最たるものは、血の不統一から生ずる信頼すべき群衆本能を欠いてしまっていることである。
若しも今日までのドイツが、他の若干の国家の如く、国民が誇り得るだけの民族的統一を持続し得ていたなれば、今頃は疾にドイツが全世界を支配しているに違いなかった。