我が闘争(抄訳)
『我が闘争(抄訳)』の全文国家とは
三つの国家観念
愈々軌道に乗って真個の活動が開始された我々の運動は、しかし、疲弊しきったブルジョア社会からは、我々が現在の国家に敵対しているものだとして、相当激しい非難を受けたのである。けれども彼等の頭の中に、果して国家と云うものの正しい観念が蔵されていたかどうか。否彼等は只漠然と国家なるものを考えているだけで、既に当時のドイツには、厳密な意味に於ける「国家」は存在していないと云う事実をテンで考えて見ようともしなかったのだ。
「国家」なるものに就ては数個の相違した見方がある。しかしその何れもが、倫理的、道徳的な屑を包含しているものである。大体之等の国家観を分類してみると、次の三つの集団に区分することが出来る。
一、国家を簡単に、民族が一つの政府の下に、多少自発的に集まった団体である、と考えるもの。何と云っても、この考えを持つ集団が最も大きい。この考えを持つ人々は、国家の法律と云うものを絶対的に尊敬し、法律それ自身が非常に神聖なものであると思い込んでいる。法律が手段であって目的ではないことなどは全然気がつかない。従って彼等は恰も犬がその主人を崇拝する如くに国家を崇拝している。そして国家そのものは、常に秩序の維持と平和とを重んずべきものであると思い込んでいるのである。
二、第二の集団は前者よりは遥かに小さい。この人々は国家の存在に対して若干の条件をつけようとする。即ち彼等は国家に常に同じ行政方法と、定まった国語とを要求している。時には単に行政方法の機械的な完成のためのみに、それを希望することもある。
この集団の主たる代表者は、ドイツのブルジョア階級である。彼等は国家の権威なるものが、国家の唯一の目的ではなく、その治下にある人民の安寧を重んずるのが第一目的であると考える。而してこのことを妥当ならしめるために「自由」の思想を取り入れる。しかし斯かる思想の大部分は誤りである。彼等は政府並に国家を正しく理解することよりも、自分達の方便から勝手に検討を加えようとする。つまりもっと具体的に云えば、国家は彼等の経済的な必要を満たし得るか否かに依って秤量されるのである。
三、第三の集団は最も小さい。この集団の人々は、国家とは、政治勢力という漠然たる憧憬を実現させるための一つの機関だと考えるのである。彼等は国家とは、多数の民衆が一つの国語を話しているために、それによって結合された団体であるかのように思っている。
これは、云うまでもなく愚かな考え方である。嘗て舊オーストリア帝国が国内統一の目的で、オーストリア・スラブ系の人々にもドイツ語を話させようとしたことを思い出す。これは一応考えつきそうなことではあるが、少し落着いて考察すれば、必ず徒労に終る政策であったことが判る筈であった。単に異った民族にその国の国語を使用させることに依って統一が斉されるものなれば、支那人や黒人にドイツ語を使用させても彼等をドイツ人に出来る道理である。こんな判り切った不可能を敢て行うなれば、そては只徒らにドイツ民族の血を混淆させることになり、ドイツ分子の破壊を招来する以外の何物をも得られはしない。