我が闘争(抄訳)
『我が闘争(抄訳)』の全文火は点ぜられたり
我々の名称は既に決定した。スローガンも出来た。そこで私は一九二〇年の初めに、この機会を以て、最初の民衆大会を開催すべきであるとすすめた。或る者は、まだ時期尚早だと云った。しかし我等の敵である赤色新聞は、既にそろそろ我々に気を取られ始めていた。このことは我々を喜ばせもすれば勇気付けもした。最早我々は他党の集会で論議される時期に入りかけていたのだ。我々は次第に有名になりかけていた。この機運を掴んで赤色陣営から大衆を奪うためには、是非共民衆大会が必要であると信じた。従って私は強硬にこの意見を固執して譲らなかった。
最初からの指導者であったハーラー君は、大衆大会を開催する時期が既に来ていると云う私の意見に賛成することが出来なかった。そのため善良で正直であった彼は、その地位を退いてしまった。その後に、アントン・ドレクスラーが据わることになった。
こんな経緯の後、遂に問題の第一回大衆大会は、一九二〇年二月二十四日に開催することに決定されたのである。
準備に取掛った。私はこの準備の凡てを指揮した。先ずあらゆる問題に対する我々の態度を、迅速に決定する能力を養うことに全力を尽した。我々は二十四時間以内に、重要な時事問題に対する我々の立場を略述しなければならぬと考えた。この国民的行動に関連した大会の報告は、リーフレットやポスターとして出すことにした。このポスターやリーフレットでは、特に重要な二三の点を繰返してそれに依って大衆に強い影響を与えねばならぬというところに重点を置いた。
それから党を象徴する色として「赤色」を選んだ。赤い色は極めて煽動的であるのみならず、我々の敵たる赤色分子に対して確実に憤慨させる作用が極めて著るしかろうと思ったからである。大会前の系統立った宣伝は勿論抜かりなくやったが、それと共に当日のプログラムの主要な項目を印刷しておく必要もあった。これは我々の運動の形式と実体と目的とを、大衆に明瞭に知らしめるためには大事な武器である。
私はこの時代に於て、ドイツの再建を目ざす幾十の新運動が生れ、且つそれらが他からの、或は自らの力で消滅して了ったことを知っている。只一つそれらの中で残ったのが我が国民社会主義ドイツ労働党である。私は最早我党が如何なる挑戦にも堪え得ること、党を恐怖させるために諸々の合法非合法の手段が加えられるに違いないこと、小心翼々たる大臣共は我々の著述や言論を抑制したり禁止するような態度に出るかもしれないこと、しかし如何なる力も、手段も、方法も断じて我々の理想の勝利を妨害し得るものではないということを、以前にも増て強く固く信ずるようになって来ていた。
愈々当日となった。流石に躍る心を制御出来なかった。遂に大衆大会の幕は開かれるのであるが、果してあの広い会場に相応わしいだけの聴衆を惹きつけることが出来るであろうか!このことが何と云っても大きな心配であった。あの広い会場が満員になったら、それこそ党の前途に祝福の盃があげられることになる。
大会は午後七時三十分から開かれることになっていた。私はその十五分前にホーフブラウハウスの宴会場に行ってみた。おお何と云う素晴らしい群衆だ。広い――と当時の私には思われた――会場には二千余りの聴衆がギッシリと詰っていた。そればかりではなく、その聴取の半分は、日頃我々が接近の機会を待ちあぐねていた人々、即ち共産主義者と独立社会党の連中が占めていたのだ。私の心臓は喜びにはちきれそうになった。彼等は勿論機先を制して、我々のこの大衆大会を粉砕する積りで出かけて来ていたのだ。
私はプログラムの第二番目であった。演壇に立って演説を始めるや否や、早速之等の妨害者共から猛烈な撹乱の叫声が起きて来た。それに続いて起きたものは、我々の同志と彼等との間の激しい格闘であった。暫くの後には、場内から妨害者共の怒号は消えて、平静に戻った。私はそれを待って予定通り演説を続けて行った。半時間の後には先程の叫声に代って、盛んな喝采が場内を占領するようになっていた。
私はやがて党の説明に取りかかった。最早妨害は殆んど聞えなかった。最後に私は聴衆に二十五項目の党の綱領を示して、その一つ一つに判断を求めた。一項目が決定される毎に喝采の音は増し、遂に熱狂裡に全項目が満場一致の指示を受けて承認された時、私はこの大聴衆の胸裡に、今迄彼等が感じていなかった新しい確信、新しい意志、新しい信念が沸き起り、不知不識の間にお互が結び合わされていることを明かに目撃することが出来たのである。
大衆大会は約四時間にして終った。人々が昂奮した眼を輝かせながら退場するのを見て、私は我々の運動の原則が、今こそ強くドイツ民衆の中に入り込んで、確実にその根を下したことを感じた。
ああ火は遂に点ぜられた。我々の運動の本格的な進軍は、この日この時を以て遂に開始されたのである。