我が闘争(抄訳)
『我が闘争(抄訳)』の全文国民社会主義ドイツ労働党生る
斯様にして我々の集会は次第に成功を収めたので、私はもっと広い会場を物色すべきことを提議した。そして市の反対側の「ドイッチェライヒ」を会場とすることになったのである。そこで開いた第一回の大会には百四十人の聴衆しか吸収出来なかった。このことは、党内の永遠の懐疑派諸君に小首をかしげさせた。彼等は斯う度々大会を開くということは考えなければならぬと云い出した。然し私は真正面からこの説に反対した。七十万の人口を有するミュンヘンが、二週間に一度の集会に堪えられぬと云ふような馬鹿な話はない。二週間に一度どころか、一週間に十日でも立派に受入れ得る余地があると主張したのである。
果たして私のこの説は証明された。その次に開かれた集会には二百人の聴衆が集まったのみか、相当巨額の浄財さえも寄せられたのである。
次の二週間目には四百人以上の人々が来聴した。
斯くて一九一九年から二〇年へかけての我々の闘争は、この運動を愈々強化し、山をも動かし得る熱狂にまで高めるための、永いそして血の滲むような苦闘であった。その結果愈々この運動も、もっと組織立った内部機構を必要とするところまで漕ぎつけて来た。そして先ず党の名称からして、もっと大規模な、大衆の心に強い印象を与えるものにしなければならぬという見地から、それの取り決めをすることになった。名称やスローガンに就ては、時には馬鹿気ていると思われるような議論が戦わされたこともあるが、結局激しい論争の末決定的な計画が樹てられることになった。
我々は我々の「国家主義」を標榜するために「人民的」という言葉を取り上げることだけは極力避けるようにした。既にこの言葉は意志薄弱なブルジョア国家主義者のために使用されて、堕落した気分を多分に帯びていたからである。要するに「人民的」などは、強力な我々の運動の鞏固な土台とするには余りにも弱々しく、且つ漠然としていることも原因であったのみならず、この言葉には種々の解釈が下される弱みがあつた。強い団結を以て一つの政治運動を為し遂げようとする者にとっては、斯様な解釈の下されるような名称は禁物である。
そこで我々は、気の抜けた国家主義者共への威嚇をも含めて、矢張り「党」たることを表明し、「国民社会主義ドイツ労働党」という名を以て、我々の運動を象徴することに決定した。古いものに執着する人間共はこの「国民社会主義」に名に依って駆逐されるであろうし、「ドイツ労働党」の称号は、それが何であろうと「知的」な剣ばかりを振りまわしたがる灰色の国家主義者を排撃する意味を含めていたのである。