我が闘争(抄訳)
『我が闘争(抄訳)』の全文我々は武装せねばならぬ
私自身はその当時もまだ軍人であった。それえばかりでなく、私の性格と運動に対する熱意は「それは誰がやっても出来ない」とか「そんな冒険をしてはならない」とか「それは余りに危険過ぎる」というような退嬰的な言葉や考えをまるで忘れてしまっていた。このことそれ自身が非常に危険だったのである。こんな考えはブルジョア連中のクラブでは、或いは安全であったかも知れないが、1920年当時のドイツに於いては、私のように遮二無二大衆に訴えて、国家主義の旗を振り廻すものは、例外なく共産主義のいい目標にされ、十中の十まで彼らのために粉砕されるのがオチだったからである。
我々の目的は、繰返すまでもなくユダヤ人や、マルクス主義者や更に株式取引所などに利用されているドイツ大衆を、我々の手元に取り戻すことから始めなければならない。それは当然之等の民衆の裏切者たちにとっては憎悪の的たらざるを得ない。彼等は「ドイツ労働党」という名を聞いただけで、その中に無数の「挑戦」を感じたに相違ない。茲に於いて我々とマルクス主義者たちとの正面衝突は当然避けうべからざるものとなったのである。
宿命的に避け得ざるこの闘争に対して、我々の内部に危惧の念を抱く者が出て来た。
若し我々の最初の集会が、今を時めく共産主義者共の妨害に合って粉砕されたら、我々の運動がそれと同時に消滅の運命を辿るであろうということを想像すれば、この危惧は当然であったかも知れない。しかしそのことを怖れていて何が出来ると云うのか。私は私の意見として、我々は断じてこの難境を回避してはならぬ、寧ろ進んでこれに体当たりを喰らわすべきである、そのためには先ず我々を武装しなければならない、ということを極力主張したのであった。主義や主張だけで暴力主義を破ることは出来ない。しかしテロリズムによってテロリズムを破ることは可能であると信じたからである。
我々の最初の集会は案ずるより生むが易くまんまと成功した。この勢いは第二回の集会をも亦成功に導いた。我々はその日百三十人の聴衆を獲得した。そして四人の紳士がブレスト・リトヴスク(大戦中、敗れたロシアがドイツと結んだ講和条約)とヴェルサイユ条約に関して交々熱弁を振るった。その後を受けて私は約一時間演説したのであったが、これは前回より遥かに成功した。私のこの演説に関しては、果たして共産主義者の妨害組が五六人先ず錯乱を企て始めたが、それをみるや私達の同志は、いち早く之等の攪乱者を階下へ突き落して頭を割ってしまった。
二週間後、更に私達は第三回の集会を開いた。今度は百七十人の聴衆が押し寄せた。そしてそこでも、亦私は一場の演説を行ったが、回一回とその成功は強く私の心に感じられた。