我が闘争(抄訳)
『我が闘争(抄訳)』の全文六人の聴衆
我々の運動が開始された当初に於いて、最も我々に苦痛を与えたものは、我々が無名であると言うことだった。
場合に依っては一人の弁士の演説に、聴衆が僅か六人というようなことも珍しくはなかった。この時代には、我々の内輪に於いてさえ、襲来への確固たる信念を呼び起こし、且つそれを持続させることは容易な努力ではなかった。
党員僅かに七人!そのどれを見ても若く、貧しく、無名であった。しかもこの貧し過ぎるほど貧しい同志が計画していたことは、嘗ての大政党が失敗したところの、大ドイツ帝国の再建と云うことだったのである。七人の青年が、この大目的のためにミュンヘンの一隅で議論し合っている図を想像して貰いたい。とまれ我々は認めれられるよりも先に、誰かが一人でも我々を攻撃してくれたら、否嘲笑してくれたら-と希望せざるを得なかった。それ程にも我々の運動は人々の注意を惹かなかった。
私がこの運動に参加した時には、党らしい何一つの用意も設備も持ち合せていなかった。仲間と、その限られた友人関係以外には、そんな党が存在することなど誰一人として知らなかった。我々は毎水曜日を委員会日として、小さなカフェーを会合場所にし、そこで討論や講義に熱中したものである。
何としても我々は新しい党員を獲得しなければならなかった。その目的で毎月一回―のちには二週間に一回づつ「集会」を開くことにしたが、その集会のための招待状も、タイプライターで打ったり或いはペンで書いたりして、極めて少数の党員が自分たちの知人関係に撒くだけであった。そして今度の集会に来て貰えなかったら、その次の集会には是非来てほしいなどと、一人でも出席者を多く得ようと苦心した。
最初の集会の日のことは永久に忘れえぬ感慨を覚えさされる。その日の集会のために、私自身が八十枚の案内ビラを配って歩いた。そしてこの夜私達は非常な期待の下に、来会者の一人でも多からむことと願ったのであった。しかし所定の時間も一時間延長して待ったが、遂に一人の来場者もなく、我々は依然七人の聴衆のみで以て集会を開かなければならなかったのである。この七人とてももう可なり古顔の七人であったが―。
その後間もなく、我々はミュンヘンの或る印刷屋で多少のビラを印刷出来るようになった。そのお陰で来会者も十一人から十三人に増し、さらに十七人、二十三人、三十四人と云う具合に次第にその数を加えるようになった。
これに勢いを得て、今度は各自がポケットマネーを出し合い、或る日「ミュニツヒナー。ベオバハター紙」に集会の新聞広告を出して見た。結果如何にと当日を待った。会場はホーフブラウハウス。ケルレルと云う百三十人も入ったら満員になるような小さなところであった。しかしその時の私にはこの会場が途方もなく広いように思われ、迚も満員となるような盛況は望めまいと思っていた。