我が闘争(抄訳)
『我が闘争(抄訳)』の全文実力は正義なり
我々が取敢ず着手しなければならぬことは、国際主義的乱心に陥っている労働者を救ひ出して、彼等の力を、国民経済機構内に経済的正義を築き上げる様な運動方面へ参加せしむることである。
このことのための宣伝戦は、ブルジョア階級か大衆階級かの何れか一方へなすべきものである。若し双方に対して宣伝を行ふなれば、元来ブルジョアと大衆との利益は一致していないから、そのためどちらか一方に誤解されたり、或はまた自動的に他方から斥けられるやうな結果を招く惧れがあるからである。
ゼスチュアに依るか、それとも言葉によるかの何れを問はず、宣伝の目標が専ら粗雑なる大衆の感情に訴へる点にある場合は、知識階級の連中からは、俗悪だとか何だとかの悪評を蒙る。しかしながら、若し宣伝から原始的力強い表現を失はれたとしたら、その宣伝は最早広汎な大衆に徹底する力を失って了ふものである。
次に我々の運動は、その態度に於ても、内部の機構に於ても、一切議会主義を標榜するものである。議会の様な多数決制度は厳乎として斥ける。何となれば、若しこの制度を採用することになったら、指導者は単に多数が決めた意見に従ってそれを執行するだけのロボットに堕するからである。
党全体の指導者は絶対的に唯一人選ばれた指導者でなくてはならない。一度び指導者として選ばれたものは、だから如何なることも全責任を負って命令する。彼は、自分の次に位する幹部を任命する。その幹部は更にその下に所属する處の集団幹部を任命する。斯様にして一切の幹部並びに役員は常に上から選ばなければならぬ。
然しながら、指導者にしてその資格を欠くものがある場合は、之を糾弾することも自由であり、指導者をその地位から 放逐すること亦自由である。そしてその後へ新しい指導者が選ばれる。
何故斯くの如き機構を採用するかと云ふに、斯かる絶対的な指導権を確実に把握し、運用出来得る者は英雄以外にはないからである。すべて人類の進歩に斯かる英雄の天才と、個人の精力とに依るものであって、多数の力に為るものである。
斯くの通り我々の運動は断じて反議会主義的である。若しくは我々が議会に参与することがあたら、それはその議会を叩き潰す必要がある時のみに限られている。
さて我々が実現のために戦わねばならぬと思い、且つ戦いつつある観念を、実際的に展開させるには、大体次のような方法に従うべきである。一人の人間の頭に、ドイツを新生させる大きな理想が組み立てられ、それを全人類に伝達させるよう神の指令を感じたなれば、まず彼は自分の理想を人々に説くことから始める。そしてその理想の説を肯定する人々を徐々に集めて行く。これが理想的な方法である。
次第にこの同志が増加するに従って、彼は最早一人で以てその多数の各人を一々指導して行くことは不可能となる。そこで、凡ての組織が有するところの悪弊を生ずる恐れはあるが、兎も角局部的な仕事をするための単位を作らなければならない。但し運動の統一を確実に把持するためには、設立者の権威が最も絶大的なりという見極めがつくまでは、この下層組織を許すことは差控かうべきである。
次に一つの運動にとってその誕生の地を持つということは、大衆にとって大きな魔力を発揮する。
例えばマホメット教に於けるメッカや、キリスト教に於けるローマの如く、我々の運動にも濫觴の地を持つことは極めて重要事である。この意味からしてミュンヘンこそ我々のメッカとし、ローマとしなければならない土地である。
地方において我々の運動の集団を作るということはもちろん為さねばならぬことでる。しかしそれは先ずミュンヘン於ける集団が確固たるものとなり、地方に対して無条件的指導力を備えるようになってからのことである。
集団を多数に作るには多数の集団指導者を要する。この要請は緊切な問題であるが、党から充分なる資金を供して、これをするだけの力をまだ持っていない。従って初めの中だけは給与を受けないでもやるという名誉的な指導者に依存して、運動を開始しなければならない。