我が闘争(抄訳)
『我が闘争(抄訳)』の全文変り果てた祖国の姿
我々が進軍を開始した記念日に近い秋の或る日、私はベルリンの近郊にあるベーリッツ病院に着いた。そして泥と血と汗とで汚れ切った軍服をぬぎ捨てて、真白いシーツの上へ労られる如く横たえられた。思いがけない貴重なものを見たかのように、その真白いシーツを、ひそかに愛撫したものである。
病院のシーツは純白であったが、そこに様々の形をして病を養ってる兵士達の心は、必ずしも純白ではなかった。最も悲しむべきことは、この多くの傷病兵の心の中にも呪うべき反戦思想が、相当多量に流れ込んでいることであった。或る負傷兵は、戦線に於て如何に彼が臆病であったかを、自慢気に面白可笑しく語った。之に和して、右手を負傷した兵士は、その負傷の原因を得々として弁じていた。つまりこの兵は、病院に這入りたいために、故意に片手を鉄条網へ突込んで負傷したと云うのである。而も彼は、鉄条網に引掛って戦士した愚かな英雄達よりも、彼自身の方が遙かに英雄だと豪語していた。
こんな話を多くの傷病兵は黙って聞いていた。聞くに堪えない話だとばかり、眉をしかめて部屋を出て行ったのは極く僅かで、中には大ビラにこの二人の話に賛成している者すらあった。私はこの憐れむべき精神病者共の話を、可なりの忍耐を以て黙って聞いてはいたが、胸の中は煮え返る程であった。どうしてこんな非国民的な話を黙って打遣っておくのかと怪しんだが、軈てその寛大は、之等の愚物でも、名誉の戦傷だからとの特別な計らいではなく、最早取締ろうにも取締りのつかない程一般的な観念になっているからだと云うことが分った。要するに、これらの話を黙って聞いている他の兵達の心の中にも、大なり小なり共通の何かがあることを知るに至った。
永い病院生活の末私は完全に歩けるようになったので、或日許可を得てベルリンの街へ出かけて行った。久し振りに巷へ出る私の心は様々の期待に膨れ上っていた。しかしベルリンの街の空気は病院に於けるそれよりも遥かに灰色で不快なものであった。そこには、第一線で見る様な戦闘意識などはテンで見かけることは出来なかった。街には陰鬱な眼をした市民が、疲れた足取りで歩いていたし、殆んど大部分の市民が、ひどい食糧難のために半ば飢餓状態に置かれていた。どこへ行っても不平と不満との声が満ち溢れていた。病院内の状態などは、之と比較するとまだまだ生優しい方であった。
ミュンヘンは之よりも尚一層ひどかった。そこにはベルリンを何倍かに拡大したような不満があり愚痴があり、怒りがあり、呪いがあった。ここの人達は、与えられた義務を回避することを賢明なやり方だとする程、ひどく反抗的にまでなっていた。
さもあろう。今や国家の官吏と云う官吏は、すべてユダヤ人である。官吏ばかりではない。商店の売子までユダヤ人が取って代っていた。これは一体どうしたことであるのか。ユダヤ人と雖もドイツの国籍にある限り、戦線に動員されていなければならぬ筈である。然るに―思い返してみると、成程第一線で銃把を握っているユダヤ人は全然見かけなかった。彼等は不思議にも安全な地に身を置いて働いている。
考えるまでもなく、この間の消息はすぐ了解出来た。彼等は最も危険な場所へはドイツ人を押出しておいて、自らは安全地帯に身を置きながら、巧みに戦争を食っていたのである。政治的にも経済的にも、彼等は既に着々とプログラムを進行させつつあったのだ。そして破壊工作の前哨戦たるプロシヤ人とバヴアリア人の離反も、既に私かに実行されつつあったのだ。