我が闘争(抄訳)
『我が闘争(抄訳)』の全文ドイツ民衆を訓練するには
一方我々は宗教の方面からも、オーストリア国内に於けるドイツ人の不幸を見る必要がある。
ハプスブルグ王家がスラブ国家たらんと決意して後は、ドイツ主義者を圧迫するために、宗教の力を利用することをも忘れなかった。各民族に従って教区がある。ドイツ人はそれまで純然たるドイツ牧師によって、ドイツ人の教区を受け持たれていた。ところがハプスブルグ王家が反独的になるや、この純然たるドイツ人教区にチエツコ人の牧師を派遣する様な方法を採った。チエツコの牧師は、人情の本来からドイツ人の利益よりもチエツコ人の利益になることの方をより多く考えた。ドイツ人の牧師は之に対抗して、同胞の利益を計るべく努力したけれども、結局はすべて失敗に了わざるを得なかったのである。これはカトリツク僧侶たちによって、ドイツ人の重大な権利が、蹂躙された実例である。
カトリック教会は、その本国をイタリアのヴアチカンに持っているのであるから、或る程度迄他国人であるドイツ人に敵意を持っていたとしても我慢の出来るテンハある点はある。いけないのはプロテスタント(新教徒)の傍観であるプロテスタントは純乎としてドイツのものである。ドイツ生え抜きの教会である。彼等こそ此の大きなドイツ人の不幸に対して、死力を盡して、その権力を擁護してやるべきであった。然るに彼等はドイツ民衆の権利や運命を考えるよりも先に、純然たる教理上の意見、例えば「政府の権利」だとか、「民主々義」だとか、或は「平和主義」「国際的結束」などの無意味な理論に心を奪われていた。彼等はその無気力からと云うよりも、習慣的に、ドイツ人の物事を、主観的に見るよりも客観的に観察すると云う態度に慣らされてしまっていた。その結果ドイツ人の権利のために、ハプスブルグ王家や、カトリック教会、並びにユダヤ人に対して敢然と攻撃に立上ったドイツ派の領袖シエーラーを、積極的に支持することに躊躇したのである。
之等の牧師達は何れも立派なドイツ人である。しかし悲しいことに、ユダヤ人の撒き散らした平和主義の毒瓦斯に当てられた人々であった。彼等はドイツ人の反抗が権利であり、その反抗が力でありその力が正義であるというところに眼を向けないで、却って之等が平和なるべき社会の、至上なる精神とは矛盾するものなりとして見たのである。
一体之等の平和主義者の態度が、正しいと思っていることからして大きな誤りである。ユダヤ人を見給え。ユダヤ人はその民族の利益や権利を得るために、こんなドイツ人のような取り澄ました平和主義的態度を採っているかどうか。又チエツコ人やポーランド人その他も、またドイツ人のようなひつ腰のない態度で行動しているかどうか。
我々は絶対的に、一人の例外もなく、ドイツ民衆を、その少年時代からして誇るべきドイツ国民として権利を認識させるように、断乎として訓練して行かねばならない。
私は敢えてドイツの宗教家を攻撃するものではない。宗教のことは、宗教改革家に任せなければならぬ。私の云わんとするところは、牧師としてのドイツ人ではなく、ドイツ人としての牧師に対してである。
結局私はオーストリア国内に於けるドイツ人運動の中から、左の三つの重大な誤りを発見をしたのである。
その一は、社会主義のために働くことが如何に重要な仕事であるかへの認識を欠いていたために、この運動が遂に大衆の強い、闘争的な支持を得られなかった。その二は、オーストリアの議会の力を過当に評価して、云わはドイツ人を議会に身売りしたためにドイツ人運動の中心勢力を失い、この運動を非常に不自由なものにしてしまった。
その三は、カトリツク教会と爭ったために、中流並に下層階級諸団体中の大多数を占める優秀な構成分子を、この運動から離反せしめた――という三つである。