『我が闘争(抄訳)』の全文
「出て行け、悪漢奴」
今日の西欧の民主々義はマルクス主義の尖兵であつて、これなしにはマルクス主義は到底成功し得ない。しかもこのマルクス主義は狡猾なユダヤ人等に依つて運用されてゐる魔薬なのである。
一体多数者が支配する議会とは何物であるかだ。責任者は一体誰であるかだ。何等かの政治上の問題が附議され決定されて、それが不幸にして失敗の政治であつた時、一体この中の誰が責任を持つのであるか。支配者といい、指導者と云う階級のものも、一旦その政策が失敗であったことが分ると、巧に「多数」の中へもぐり込んで、その責任を多数者に転嫁させて終うのである。要するにオーストリアの議会はそれなのだ。事故の行為に対して、敢然として個人的な責任を持とうとするやうな強い意志の者は一人もない。こんな責任回避者こそは人民の敵であり、悪党でなくて何であろう。
指導者が一度び交う云う恥知らずになると、もうそれで凡ては起ち上がる力を奪われて終う。行動に対して断固たる勇気を持つなどの気概は薬にしたくも無くなって、人はどんな恥辱を忍んでも、その屈辱を甘んじて受けようとする腰抜けになって終ふ。この国の議会を形成する多数者とは、凡そこんなものなのである。常に愚鈍と臆病とを代表する議会主義は、不正不徳そのものでなくして何であろう。
之を要するに、この国の民主々義的な議会は、善良なる人民を代表するに足る賢明な人々の集団を作るということの代りに、奸智に長けた臆病者共の寄り集まりを作るにあった。何故なれば、国民を喰ひ物にしようと企てている操縦者は、自分の命令によってどんな損害が国民の上に振り当てられようと、そのために自分の責任を問われることなく、巧みに黒幕の陰に身を潜めて、長い舌を出していることが出来るからだ。
斯かる議会は、少なくとも自らの責任は自らの誠実に依って果そうとする人間にとっては、永遠なる不快であり憎悪である。権利と眞理とを用心深く避けて来たこの民主主義!この発達を喜ぶのはただこの主義同様に不潔で不道徳なユダヤ人あるのみだ。
眞のドイツ民主主義は、断じてこんな胸糞の悪いものではない。ドイツの民主主義は自己の責任、自己の行為を立派に果し抜く指導者を選出することに掛っている。そこには多数者に依る支配などという臆病なものの存在は許されない。自己の責任に対しては、事故の全体を以て之に当たる個人の支配があるのみである。
これが眞のドイツの民主主義である。愛する同胞を支配するだけの力のない者は、断じて侵入を許さぬものである。よしんば侵入しようと試みたところで、この地位の重大性は、そんな弱者や無能力者を近付けるものではない。そんな者が萬一あったとしたところで、我々はすぐさま之を看破することが出来る。そしてそ奴の首ったまを掴んで、「出て行け、この悪漢奴」と抛り出すことが出来るのである。