『我が闘争(抄訳)』の全文
思想の成長
瓦壊の素因
人は誰に依らずずば抜けた才腕を持たない限り、三十歳になるまでは、積極的に政治運動に加わるべきではない。――これが私の抱懐するところの動かぬ考えであった。
この信念に従って私は、長い間政治運動に参加して公衆の面前に現われることを差し控えた。そして極く限られた範囲内でのみ政治を論じて来たのである。しかしこの間に於て私は、一般の大衆が極めて原始的な観念で動いているものなることを知り、動機に対する深い洞察を獲得することが出来たのである。そして私は徐々に私自身を鍛錬して行った。
ここで少しオーストリアの当時の政治状態を説明するなれば、一言にしてこの国は既に老衰状態に入りつつあると云うことが出来た。表面的な無事太平に眩惑された国民の頭からは、政治に対する観念が殆んど失われているかに見えたが、その裏側に於ては、この国の版図内に雑居する多数の異民族が、各々の民族勢力を隠密裏に築き上げつつあったのである。しかもこれとあたかも呼応するかの様に、この国の国境をめぐって、あちらにもこちらにも、新しい民族の国家が形成され始めた。
その最も強力なものはハンガリーの勢力増大であった。この国の首都ブタペストがハンガリー人の中心都市として益々発展するに従って、オーストリアはそこに容易ならぬ敵手の台頭を感ぜざるを得なくなった。ボヘミアの首都プラーグ、ガリシヤの首都レンベルグ、カルニオラの首都ライバッハ等も、何れも民族国家の首都としてめきめきめきと勢力を盛り返して来た。
この民族の都が益々強力化し、それがオーストリア国内のそれらの民族と完全な連絡をとって、いよいよ強固な地盤を形成するようになったなれば、その時こそオーストリアが内部から巨大な音を立てて崩壊する運命に行当る時である。もしこの崩壊を未然に防ごうと思うなれば、そして大国家たるの威厳を維持しようと思うなれば、徹底的に、しかして何等の仮借もなく、強引な中央集権政策を施そうより外に手段はない筈である。それがためには、何よりも先に、これらの民族の上に一定の国語、即ちオーストリア語を強制しなければならない。然るにこれに対してオーストリア政府は一体何をしたと云うのであろうか。この問題に対する墺国政府の怠慢こそは、後日この国の瓦壊を招来する重大な素因となったものである。
眠れる議会
オーストリア政府の衰退は、既にその議会制度の上に、嫌応なしに眼につく程明かに現われて来ていた。この国の議会は、英国のそれをそっくりそのまま移して来たようなものであって、国情を考えない模倣そのものの様な議会であった。滑稽なことには、その議事堂すらも、英国を模倣した建築様式を採用していた。
私が始めてこの議事堂の門を潜って議会を傍聴したのは、二十歳になるかならぬ時代であった。その頃からして私はハプスブルグ王家を甚だしく憎んでいたので、当然オーストリアの議会に対しても何等好意を持つことは出来なかった。それよりも王家に対すると同様な憎悪の感情を抱いていた。とは云え、当時の私が議会制度そのものをも憎んだり、否定したりしていたと云うのではない。寧ろ反対に私は、真の自由の愛好者として、議会政治以外の政治を想像することは出来なかった。私は独裁政治はいけないと信じていた。ことにハプスブルグ王家のあのような有様を見て、私は独裁がよしんばどんな形式であろうとも、自由と理性に対する罪悪だとのみ思い込んでいたのである。
私がこの国の議会を憎んだのは、それが何等国情に適合したものではなく、全然英国議会の模倣に過ぎないものだったからである。このことは、無意識のうちに当時の私が、英国の議会を称讃していたことを物語っているかも知れない。
とまれ私はこの国の議会を憎んだ。それと云うのは、単にそれが模倣議会だと云うばかりではなく普通選挙法の採用に依って、オーストリア国内のドイツ人の優位が、惨めに顛落されたからでもある。ハプスブルグ王家の反独的な気持はよくこの議会に反映して、議会におけるドイツ人の勢力は最早昔日の面影をとどめなかった。このことが血気の私をひどく憤慨させたのである。従ってもしドイツ人の優位が再び取り戻されたならば、私のこの憎悪も或いはそれと共と雲散霧消したかも知れない。
私は始めて国会議事堂に入った日の光景を忘れることが出来ない。元より私は何等の好感をも持たずして傍聴席に着いたのであるが、一度び議場内の有様を見るに及んで、この反感は寧ろ憫笑に代えられた程喜劇じみたものに満たされていた。そこには数百名の議員連が出席して各々の議席を占め、壇上では紳士が真赤になって演説をしていた。しかしそれはドイツ語ではなく、スラブ系の方言で堂々とまくし立てていた。しかも身振り手振りよろしく、一言毎に弥次を遮って気狂いのように饒舌っていた。それに対して、あちらからもこちらからも盛んに弥次が飛んで、何のことはない、ただもう面白半分に騒ぎ立てる群衆と何の変るところもなかった。正面には無気力そのもののような議長が、形ばかりは厳かに控えて、時々鈴を振りながら議場の威厳を保たせようと、気の毒な骨折りを繰り返していたのだ。始め私はこの光景を見て、一国の議会ともあろうものが、と憤慨したが、終いにはとうとう吹き出してしまわねばならなかった。
それから数週間を経過して、私は再び議会の傍聴に出掛けた。この前の時のような騒然たる有様を心に描いて行った私は、今度は殆んど空席だらけの空家然たる議会に一時は呆然としたのであった。一人の議員がだらだらと演説しているのに対して、数人の議員は実にじだらくな様子で椅子に腰掛け欠伸を連発する者もあれば、甚だしいのになるとコックリコックリ居眠りしている者すらあった。
最初の傍聴から憫笑を味わい、二回目の傍聴から呆然を購い得た私は、議会というものに対して強い疑惑を抱かざるを得なくなった。疑問に対しては徹底的にこれを解かねば我慢出来ない私は、それから以後殆んど毎日と云ってもいい程、議会へ通い始めた。私はこの観察や、批判から、議会に対する自分の考えを正当に形造ることに努力した。そして私は約一年の後遂に一つの結論を得たのである。
それは今日迄の私の考えを根本的に放棄させるものであった。即ち私は、単にこのオーストリアの議会を認めることが出来ないばかりでなく、すべての民主々義的議会に対して、最早価値を認める必要がないということであった。私はこの観点に立って、多数決による民主々義原理の研究に進み、民主々義理論の精神的道徳的な理論や性質をも研究した。その間に議会の駈引が如何なるものであるかをも充分に知ることが出来た。結局この国の議会は、この国のみならず、人類をも死滅へ導く一つの兆候を持っていたのである。