『我が闘争(抄訳)』の全文
熱烈な反ユダヤ主義者
私は強烈に彼等と議論を闘わすようになった。しかしこれは殆んど糠に釘だったのである。彼等は反対者の無知を利用することに巧みであった。又議論に敗れると、空々しくとぼける戦術をも心得ていた。ある場合には証人を立てて議論し、その証人の前で私が勝ったにしても、もうその翌日には結局元の木阿弥に返ってしまっていた。しかし何れにしても、彼等と議論し、彼等を憎悪することが益々激しくなるに従って、ドイツ人に対する私の愛がいよいよ深さを増すことには変りはなかった。彼等への論争は、私の愛国心を培養する貴重な肥料の役に立ったわけである。
時として私は、毎日毎時、私の眼の前で刻々とその勢力を強めて行く彼等のマルクス主義運動を見て、これはことに依ると、ユダヤ人に勝利を奪われるような運命が作られているのではあるまいかと、との疑問を起すことがあった。それ程彼等の運動は着々と奏効していたからである。
しかし私のもう一つの心は、常に力強く次のように反対し否定した。
彼等のマルクス主義こそは、自然の貴族的な本質を否定し、大衆と、数と量とのみを重んじて、権力と力とが持つ永久的な威力に対して全然反対の立場に立っている。彼等は先ず個人を否定し、民族や国家を否定し、それに依って人類から文明というものを遮断しようとしている。この運動こそは平等観念を餌にして世の一切の秩序を破壊する以外の何物でもない。こんな運動が成功した時のことを考えて見るがよい。宇宙には唯混沌のみがもたらされる。人類は滅亡する。正にインターナショナルはある物を創造する主義や運動ではなく、一切の物を破壊しようとする、怖るべく且つ憎むべき思想であるに過ぎぬ。
自然は厳粛である。もし自然の法則を犯そうとする不埒者があれば、自然は直ちにこれに復讐する。
私が今日ユダヤ人と飽くまで闘い抜こうとしているのは、一にこの全智全能の神の意を体して働いていると信ずるが故である。即ち私は神の仕事のために、私自身を闘争に捧げているのである。私はこのように神の選民と自称するユダヤ民族を、心の底から憎むようになった。この憎悪は最早私自身如何とも仕様のないものである。しかし一面斯かる憎悪に値する民族があったればこそ、私の闘争心は力強く養われた。この意味では或いはユダヤ人共に感謝しなくてはなるまい。