我が闘争(抄訳)
『我が闘争(抄訳)』の全文平和は戦争の延長
フランスのクレマンソーは「平和は戦争の延長であり継続である」と叫んだ。彼は一刻も早くドイツ軍をその国境からドイツ領内に追い返し、然る後にフランスの望む政策を講じたかった。大戦はドイツの敗北に終って、フランスのこの望みは着々達せられた。
之に対してドイツは、一九二二年から二三年にかけて、何等かの対抗手段を講ずべきであった。私はその時二つの方法を考えた。その一つはドイツが凡ゆる方策を講じてフランスの意図を挫折せしめるか、さもなくば第二の手段として武力を以て之に対抗し、フランスの野望から祖国を護るということであった。
私は近い将来に於て、必ずドイツが武器を取って立つべき日のあることを確信している。何故ならば、若し私がクレマンソーであり、フランスがドイツの如く高貴な国家であったとしたら、私も亦必ずやクレマンソーと同様の政策を取るに相違ないからである。欧州に於て必要な勢力を維持するためには、獨佛何れかの一方が、他のための屈せられなければならないからだ。
従ってドイツは、今後数世紀に亘って、相変らずフランスにその地歩を譲り続けるか、さなくばフランスと最後の総決算を行うべく、国家総力戦の態形を整えるかの、二つに一つの道しかない。我々の途は云うまでもなく後者唯一つのみだ。而して完全に我々がフランスを清算して後、始めてドイツは他の別な方面への発展を考慮し得るのである。
今日欧州には八千萬のドイツ人がいる。今から一世紀の後には、この数は二億五千萬人となるであろう。而して之等のドイツ民族に与えらるべき正しい政策とは、彼等を他国の工場で奴隷的に働かせることではなくして、ドイツの労働者及び農民として、共存共栄の実を挙げ得るところまで、彼等の生活を向上させること以外にはない。
しかし、一時はこの熱望も泡沫の如く消え去るのではないかと思わしめた。それ程ドイツ人は手酷く叩きのめされてしまっていた。だがフランスがルール地方を占領したことは、それがフランスの早まった失政であったことと共に、ドイツ国民に活を入れ、再び起ち上る勇気を誘い出す絶好の機会を与えたものであった。ドイツの平和論者たちは、それまで一にも二にもフランスの出方を拍手していたのであるが、この事件が起きたために、彼らが抱いていたフランスの自由主義礼賛に一度に幻滅を感じさせた。ドイツは始めて国内的にも対外的にも将来への希
望を取り返したのである。更にマルクス主義的ユダヤ人の害毒駆逐に就いては、対フランス問題同様、或はそれ以上に緊急重要な問題であった。この祖国を破壊と死滅に導くことのみを念願としている悪魔共を、破砕するために組織せられた国民的団体の行動に対しては、無制限な自由が許されて然るべきであった。このために血腥い争闘がドイツ国内に展開されようとも、それは巳むを得ないことである。この闘争と内乱の中から、真のドイツ人が創造されて行くのだ。人為的にやっと保っている平和が、次第に悪臭を発して来るのと比較して、何れが良く、何れが本当であるかは考えるまでもないことであった。
しかし我々の運動には、仲々この自由が許されなかった。ドイツのブルジョア階級は死んでいる。彼等はマルクス主義を破壊しなければならぬと云う確乎たる考えを持ってはいない。彼等はドイツが死滅するのも巳むを得ない時の勢いであると考えている。要するに彼等は、葬式の行列に於て自分の地位を争っている亡者に一歩手前の人種に過ぎない。