『我が闘争(抄訳)』の全文
少年愛国者
当時の私の中に、私は次の二つの重要な心の出来事を認めることが出来る。
その第一は、私が国家主義者となったことであり、他の一つは、歴史に対してそれが非常に重要なものであることを認識したことである。
一体当時のオーストリアは、雑多な民族が集まった国家であった。五千二百万の国民の内ドイツ人は約一千万人を占めていた。彼等はその国籍をオーストリアに置きながらも、常にドイツとドイツ語のために、血の出るような生活を戦って来たのである。この事実を祖国ドイツの中で果して幾人が知り、幾人が考えていたであろうか。
之等一千万人のドイツ人は、祖国と壁一重のところに生活し、全的にドイツ帝国を支持して来たにも拘らず、ドイツ自身はその植民地政策に夢中になって、足元にいる其の気の毒な失われた血と肉に対して、殆んど何等の注意をも払わなかったのである。
しかし、オーストリア国内のドイツ人は、祖国のこの無関心に失望することなく、戦い得る限りの方法を以て血の純潔のために戦っていた。その一つの現われはこの国の中に於ける言語闘争である。闘争者と、日和見主義者と、裏切り者との三つが卍巴になって、ドイツ語のために戦っていたのであるが、その鉾先はドイツ人を養成するところの小学校へも勿論容赦なく向けられて来た。幼い子供達に対する働きかけが、どんな偉大な効果を挙げ得るかということを十分に知っている之等の闘争者は、子供達に対して次のように叫びかけたのだ。
「ドイツの少年達よ、君達はドイツ人であることを忘れてはならぬ」
「ドイツの少女達よ、あなた達はドイツの母となる者であることを記憶せよ」
この運動は覿面に奏効した。幼い戦士達のゲリラ戦は随所に行われ始めた。ドイツ語以外の唱歌を歌うことを拒んだり、ドイツ国家を示す禁制の徽章を得意になって附けたり、そのために教師に罰せられたり、鞭で打たれたりしても、却ってそれを偉大なるドイツ人の英雄的忍従として喜ぶような傾向さへも見られるに至った。
私自身も十五歳の時には、完全にこの国民的な闘争に参加していた。そしてオーストリア国の支配者たるハプスブルクお受けに対する王朝的な愛国主義と、ドイツ人の根強い国家主義との相違はハッキリ認識するに至ったのである。
一方歴史に対する眼覚めであるが、この国の学校では、オーストリアの歴史を教えなかった。私はリンツの学校に転じてレオポルド・ペッチ博士にドイツ歴史の講義を受けた。このペッチ博士の教育こそは私の全生涯に深い影響を齎せたものなのである。博士の歴史教育法は重要な点を強調し、どうでもよいものは捨てる主義であった。また我々のドイツに対する狂信的な情熱をよく知っていて、常にこの情熱を導き利用することを忘れなかった。そおため歴史は私の何物にも代え難き熱愛の課目となったのである。