我が闘争(抄訳)
『我が闘争(抄訳)』の全文大戦中の敵の宣伝
最初に敵の宣伝が我々の塹壕に舞い込んで来たのは、開戦翌年の一九一五年であった。その翌年には一層宣伝の数が多くなったし、且つ強化されて来た。一九一八年になると最早それは巨大な洪水のように、手のつけられない勢いで広がって行った。もう斯うなるとドイツ軍の意志は無いにも等しかった。ドイツの将兵は敵の操るままに物を考えるようになって了ったと言ってもよい状態であった。
戦争の最初に於て、ドイツ軍は破竹の勢いを以てフランス軍をその国境から奥深くへ押し込んでしまった。ところが間もなく我々は、驚く程強力な反撃に遭って、敢なくその陣地を捨てねばならなかった。これはすべてその背後に大きな宣伝の力が働いていたからである。
しかるにこの期間中、ベルリンからは何が一体戦線へ送られて来たか。
何もなかった。否、それよりも一層悪いものが送られて来た。それは新聞だ。前述の通り、全く第一線の将兵を去勢することのみに努力しているような之等の新聞は、極端に私を憤慨させた。若し私が裁き得る地位にあったなれば、之等の新聞を絶対にタダではおかなかったであろう。
敵軍からバラ撒かれた宣伝ビラが、我々の陣地へ降って来たのは一九一五年の夏であった。ビラは頻繁に送られて来た。そしてその形式はいつも違ってはいたが、ビラに書かれてあることは大体きまっていた。即ちドイツは今非常に苦るしんでいるとか、このままでは戦争は決して終らないとか、ドイツが勝利を得るなどの希望は全然失われて了ったとか、という種類のものであった。またドイツ国民は既に心から平和を希望しているにも拘らず、カイゼルと軍国主義者とが之を許さないのだというのもあった。全世界は決してドイツ国民を敵とするものではない。敵は君達と共同の敵たる悪漢カイゼルだけである。この全人類の敵が倒されたとき、始めて戦争は幕を閉じる。ドイツ軍閥が倒された時始めて民主主義国は、幸福な、永遠の平和のうちにドイツ国民を抱擁するであろう。とも書かれていた。
この宣伝は確かにドイツ軍の士気を阻喪させた。我々は銃後の国民を飢や寒さに泣かせまいとして身命を賭して戦っている。然るに銃後では既に想像以上の惨状が生れ、国民は深い嘆きと呪いを持ち始めていると云うのである。この「国内消息」は我々を悩まさずにはいなかった。
しかしまだ全的には信ぜられなかった。がここに誠に遺憾なことが持ち上った。それは思慮の足りない国内の女共から、前線の夫や兄弟に送られて来る手紙であった。それらの手紙には此の敵の宣伝を裏書きするような事実が、一種の泣き言になって書かれていた。敵の宣伝は無知なドイツ国内の女共によって先ず支持者を見出したのである。事茲に至っては、最早疑いの余地はなかった。ドイツ軍の士気は衰え、軍規は目に見えて乱れて来た。そしてそれが為めに、数十万の生命を失うような結果すら生れて来た。事態は完全に悪化の一途を辿るのみとなった。