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試訳:メイヤーによる用心深い正史の修正

ゲルマール・ルドルフ

 

歴史的修正主義研究会試訳

最終修正日:2004323

 

本試訳は当研究会が、研究目的で、Germar Rudolf, Cautious Mainstream Revisionism, The Revisionist, 2003, No.1を「メイヤーによる用心深い正史の修正」と題して試訳したものである。
 誤訳、意訳、脱落、主旨の取り違えなどもあると思われるので、かならず、原文を参照していただきたい。

online:http://vho.org/tr/2003/1/Rudolf23-30.html

 

1. 政治的・心理的考察

 「アウシュヴィッツの犠牲者:文書資料の発見からの新しい考察」

 これは、ドイツの定期刊行物Osteuropa 20025月号に掲載されたフリツォフ・メイヤーの論文のタイトルである[1]。この論文によると、メイヤーは1932年生まれで、「Diploma DHP, Diploma Political Scientist, and Diploma Economist」である。当然のことながら、ドイツ最大の報道誌「『シュピーゲル』の主任編集人」は自分の論文を、少なくともその要約だけでも、『シュピーゲル』誌に掲載しなかったのかという疑問が生じる。

 この章では、政治的・心理的観点から、メイヤー論文を考察することとする。その後で、彼の説のいくつかを検討するであろうが、それは、この章での私の結論を確証することであろう。

 メイヤーは序論の中で次のように述べている。

 

1945年、ソ連調査委員会は、アウシュヴィッツ・ビルケナウの民族社会主義者労働・絶滅収容所での犠牲者数を400万人と算出した。しかし、この数字は戦時中の宣伝であった。収容所長ヘスは強制されて、300万人という数字をあげたが、のちにそれを否定している。今日まで、この史上独自の大量殺戮の犠牲者数は推測することができたにすぎなかった。ホロコーストについての最初の歴史家ライトリンガーは100万という数字をあげていたが、最近の研究はもっと少なく、数十万という数字をあげている。新しく発見された焼却能力についての二つの証拠の断片が、収容所への移送に関する既存の資料を確証している。それゆえ、この文明の崩壊の規模は理解しうる規模に達しており、次の世代にとって、説得力のある『メネテケル(不吉の前兆)』(『ダニエル書』)を提供している。」(631頁)

 

 メイヤーは、最後の一文では、政治学者として、アウシュヴィッツが、かならずしも全人類に対してではないとしても、ドイツ人全員に対する警告となるはずであると述べている。メイヤーは文明の崩壊とは何のことであるのか定義してはいないが、文明の崩壊がアウシュヴィッツで起こったと考えている。しかし、合唱団、オーケストラ、幼稚園、歯医者、大きな厨房、高周波害虫駆除施設[2]、水泳プール[3]、サッカー場が存在していたアウシュヴィッツは文明の崩壊なのであろうか。Jerusalem Post 1995125日号7頁から引用しておこう。(まさか、Jerusalem Postが反ユダヤ主義的だと非難されることはないだろうと思うが。)

 

「アウシュヴィッツ・ビルケナウのユダヤ人子供合唱団:

私はこの合唱団のメンバーでした。…そして、収容所で、文化、歴史、音楽にはじめて接しました。…

19443月、私はジフテリアにかかって、収容所の病院バラックに送られました。母は、病院で私と一緒にいることができるように頼んでいました。…看護婦さん、お医者さん、そして患者さんも生き残りました。…

私たちの少年団の指導者の一人が、子供のための教育センターを設立するように頼みました。許可が出されて、すぐに、教育センターは家族収容所の精神的社会的中心となりました。センターは収容所の魂でした。

子供のオペラも含む音楽・演劇がセンターで行なわれました。シオニズム、社会主義、チェコ民族主義といったさまざまなイデオロギーが話し合われました。…イムレという名前の指揮者がいました。…彼女は子供合唱団を組織しました。リハーサルが、大きな洗面所バラックで行なわれました。」

 

 もちろん、メイヤー氏は、別のこと、すなわち、無実の人々の工業的な大量殺戮について語っているのであろう。上記の引用文の情景は、大量殺戮という情景と、まったくではないとしても、ひどく矛盾している。しかし、メイヤーはこのことを認めていない。彼にとっては、自分のイメージにそぐわない事実は「純粋な宣伝的性格を持つもの」[4]にすぎないからである。

 地理学的にどこで文明の崩壊が起こったのかを考察するには、「自動的逮捕」収容所、西側連合国が数十万のドイツ人を宿舎なしで拘束したライン河畔の広大な草地、あるいは、広島、長崎、ドレスデン、ネメルスドルフといった連合国によるホロコーストの現場も考慮しておかなくてはならない。こうした文明の崩壊はドイツ人が行なったものではない。ドイツ人(とその同盟国人)に襲いかかったものなのである。

 なぜ、50万人の「殺戮」と「焼却」が、数百万の「殺戮」と「焼却」よりも、理解しうること、説得力あることなのであろうか。私にはまったく理解できない。普通の人であれば、たとえ10名であっても、その大量殺戮には理解を示さないであろう。

 次に、メイヤーは、オランダ系ユダヤ人の建築史教授ペルトの「突破」を賞賛している。言うまでもないことだが、メイヤーは、ペルトが建築家でもなく、彼の扱っているテーマについて専門的な知識も持っていないことに言及していない。ペルトは、アーヴィング・リップシュタット名誉毀損裁判で「専門家証人」として出廷しているが、メイヤーはその様子を次のように述べている[5]

 

「アーヴィングは裁判に負け、罰を科せられた。アーヴィングは、優れた研究能力を持ち成功を収めた著述家であったが、民族社会主義者の支持者の混乱した見解に次第に同調するようになり、法廷においてさえも、アウシュヴィッツ・ビルケナウには殺人ガス室は存在しなかったという馬鹿げた立場に固執していたからである。」(631頁)

 

アーヴィングがロンドン高等裁判所に提出した見解がかなり混乱したものであったというメイヤーの説には同意する。しかし、アーヴィングがこの分野で研究能力を欠いていたことは、そのまま、修正主義者全体の議論にあてはまるわけではない。さらに、メイヤーは、私も含めて、修正主義者に「民族社会主義者」というレッテルを貼っているが、このことは、彼の研究姿勢には客観性が欠けていることを示している。というのは、「民族社会主義者」という用語は、ごく一般的な理解では、悪の化身と同義語になっているからである。その上、メイヤーは、われわれの所説がなぜ「馬鹿げたもの」であるのかも説明していない。

こうした厚顔無恥さと全体的中傷は、メイヤーの脚注に散在しており、それはメイヤーの偏見を如実に示している。

 

「(脚注5) …民族社会主義の擁護者たち(「修正主義者」)は、この建物(ガス室)が存在していたことを疑っている。Jürgen Graf: Auschwitz, Würenlos 1994, p. 236」(632頁)

「(脚注19)  Carlo Mattogno/Franco Deana: The crematory ovens of Auschwitz, in the otherwise unbearable pamphlet by Ernst Gauss (ed.): Grundlagen zur Zeitgeschichte, [English: Dissecting the Holocaust] Tübingen, 1994, p. 310.歴史学では、理解できるが、容認できない理由から、アウシュヴィッツが研究対象としては認められてこなかったために、宣伝がこの未知の分野に侵入してきてしまった。ソ連起源の宣伝、すなわち、アウシュヴィッツでの犠牲者400万人、40万以上のハンガリー人移送者の殺戮、焼却棟の地下室での大量ガス処刑という宣伝が、依然として世論を支配している。一方、『修正主義者』は事実の詳細を精力的に集めてきたが、的をはずしていた。彼らの類別した『失われて、発見された』資料の断片は、アーヴィングと同様に、尊敬すべき歴史哲学者エルンスト・ノルテをも混乱させてしまった。一方、歴史家たちは、修正主義者の説を、考察に値するもの、ひいては自説に挑戦するものと見なさずに、無視してきた。判事エルンスト・シュテークリヒ(『アウシュヴィッツの神話』)は、反ユダヤ主義者ではないと偽装しているが、獄中で執筆されたヘスの自白の信憑性に疑問を呈した最初の人物であった。歴史研究のためだけではなく、真実の探求のためにも、このような不愉快な道具を利用しなくてはならないであろう。最近、John C. Zimmerman: Holocaust Denial, Lanham 2000Richard J. Evans: Der Geschichtsfälscher(歴史の偽造者),Frankfurt a.M. 2001という二つの研究書が出版されている。これは、かなりの研究蓄積を土台としているが、冗長であり、『修正主義者』を完璧に反駁しているとはいえない。」(635頁)

 

 またも、メイヤーは、懐疑論者と異論派を悪魔として描いている。しかし、メイヤーは修正主義者の研究と対決することをもはや避けることはできなくなっている。脚注19からもわかるとおり、修正主義者の資料に依拠して、アウシュヴィッツ・ビルケナウの焼却棟の稼働時間についての自説を確証しているからである。こうしたジレンマに陥った、この政治的道徳の守護者は、「どのようにしたら修正主義者に信用を与えることを避けることができるのか」と自問したにちがいない。その答えは簡単であった。『ホロコーストの解剖』に掲載されているその他の論文すべてを「耐えられないもの」、「パンフレットのようなもの」、「価値のないもの」と宣言し、ただ、マットーニョとデアナ論文だけを例外とすることであった。メイヤーは自分の発言を立証したり、資料によって裏づけたりする必要を感じていないようである。自分の言葉は教皇の聖座宣言のようなものであるというのである。

 どうして、このような振る舞いをするのであろうか。二つの可能性がある。彼は自分のことを真に受けているのかもしれない。この場合には、彼は政治的に盲目である。ほかの研究者にしかるべき敬意を支払わない極端な人物である。結局、メイヤーは、われわれ「耐えられないもの」、「パンフレットのようなもの」、「価値のないもの」が投獄されたときに、喝采するようなジャーナリストに属していることになる。そうではなくて、彼は、「自分が誰の歌を歌うべきなのか」を知っていて、そのように振る舞うことで自己防衛しているのかもしれない。彼は、部分的には修正主義的見解(否定派的見解)を抱いているので、用心しなくては、公共秩序裁判所の犠牲者となってしまうリスクをおかしているからである。もしも、メイヤーが、例えば、ディーゼル排気ガスでは大量殺戮は不可能であるとのテーマを選んだとすれば、『ホロコーストの解剖』からベルク(バーグ)論文を引用したことであろう。この場合には、その他の論文に、「耐えられないもの」、「パンフレットのようなもの」、「価値のないもの」というレッテルを貼ったことであろう。

 メイヤーは、彼の認めているところの歴史学では、アウシュヴィッツは研究テーマとしては認められてこなかったと述べているが、この点では彼は正しい。しかし、なぜ、このことが「理解できる」ことなのであろうか。説明していただきたい。歴史学が、あるテーマを研究対象として認める基準が、われわれのあいだでは異なっているのであろう。だから、ここで、「研究」の定義という基本問題を扱っておきたい。研究とは、外見と実態が同一のものであると無批判的に受け入れてしまうことではなく、外見と実態を批判的に比較する人間の精神活動である。本物の研究が行なわれるのは、結果が最初は不確定の場合に限られている。あらゆる結果は可能性であり、それは、万人の批判の対象とならなくてはならない。メイヤー氏は、ホロコーストについてのこのような公平な研究がヨーロッパ諸国では不可能なことを熟知しているはずである。特定の研究結果が非合法とされているからである。彼はまた、このテーマの研究が合法的な国であっても、ホロコースト正史に反する見解を表明することが依然として社会的、経済的に破滅をもたらすことも熟知しているはずである。だからこそ、メイヤー論文は、彼自身に厄介な事態をもたらすであろうし、彼自身も、これ以上、足を踏み入れてしまえば、自分の身に何が起こるのか熟知しているであろう。この点を、われわれは十分に理解している。

 換言すれば、歴史学がホロコーストを研究・調査のテーマにできないのは、たんに政治的理由からである。注目すべきことに、メイヤー自身は、研究を政治的に「禁止」することを支持する人々に属している。彼は、自説と基本的な点で異なる見解を抱いている人々を排斥し、中傷し、ひいては、彼らの人間的尊厳を踏みにじっている。彼は、学術研究の基本的ルールに無知なのであろうか。それとも、その方が可能性が高いのだが、たんに学問と学問の方法論に無関心なのであろうか。

 「ガス処刑ブンカー」として言及される建物が実在していたのか、実在していなかったのかという論点について、メイヤーは脚注5で、1994年の著作の中でのグラーフの説は、今では彼自身によっても支持されておらず、他の修正主義者もこの点ではグラーフに賛成していないと述べているが、それは適切であろう[6]。だから、メイヤーのいうところの「民族社会主義の擁護者(『修正主義者』)の疑念」はそのときの論点にすぎず、それを一般化することは間違っている。本当の論点は、この(これらの)建物の実在ではなく、その目的についてである。

 ここまでは、メイヤーを批判してきたが、今度は少々賞賛しておこう。彼は、はじめて修正主義者の文献を引用しただけではなく、少なくとも部分的にではあるが、それに賛同している(637頁の脚注32でマットーニョを再度引用している)。彼は、われわれの研究をエレンブルクのようなソ連の宣伝家の仕事と同一視しているが、修正主義者が「事実の詳細を精力的に集めてきた」ことを認めている。ただし、エレンブルクが歴史の事実の詳細の解明に寄与したことがあったのであろうか。修正主義者はエレンブルクのように大量殺戮を呼びかけたり、自分たちの「調査」のために、内務人民委員部やスメルシュという対スパイ諜報機関が使ったような組織的な拷問に訴えたことがあったであろうか。修正主義者の研究とソ連の宣伝には質的な相違がある。メイヤー氏はこのことにお気づきにならないのであろうか。

 メイヤーは、修正主義者が多くの事実の詳細について知識を持っていることを認めているが、このことは、彼が修正主義者の文献に目を通していることを明らかにしている。この数年間に、メイヤー氏は修正主義者の出版物を集めたのであろう、少なくともそれらをモニターしていたのであろう。したがって、もっと詳細にメイヤーの所説を検証してみよう。

 

2. メイヤーの方法的欠陥

 メイヤー論文の冒頭にはこうある。

 

「アウシュヴィッツ・ビルケナウの焼却棟の処理能力についての鍵となる文書が最近発見された。同時に、焼却棟の稼働時間に関する収容所長[ルドルフ・ヘス]の供述が明るみに出た。」(631頁)

 

 われわれは、鍵となる文書というのであるから、すぐに関心を抱き、新しい考え方や、全体的な性格をもつ発見が生み出されるのかもしれないとの期待を抱く。少しあとに、メイヤーはこう続けている。

 

「…この文書によると、アウシュヴィッツ建設局に雇われていた主任技師クルト・プリュファーの書簡がトップフ・ウント・ゼーネ焼却棟社の文書資料ファイル241の中で発見されたという。それは、194398日の日付、すなわち、ビショフ書簡の9週間後[1943628日ママ]、すなわち、焼却棟の完成のあと、すなわち、最初の稼動結果がでたあとのものである。プリュファーによると、焼却棟Ⅰと焼却棟Ⅱはそれぞれ1日に800体を、より小さい焼却棟ⅢとⅣは400体を、合計2400体を焼却できるというのである。」(634頁)

 

メイヤーは、「燃焼室ごとの焼却時間が1時間か1時間半であった(脚注13)」という自説を確証するために、次のような典拠資料を引用している。

 

「(脚注1319441125日付のアウシュヴィッツからの逃亡者アルフレド・ヴェツラーによる戦争難民局報告、フランクリン・ルーズベルト図書館、ニューヨーク、12頁。別のバージョンが、Sandor Szenes/Frank Baron: Von Ungarn nach Auschwitz, Münster, 1994, p. 126; Tauber in: Pressac, Technique (Fn.3), page 483.に掲載されている。また、194635日と7日に、第8軍スメルシュ局シャトゥノフスキイ大尉とモルドシェンコ少佐が行なった、トップフ・ウント・ゼーネ社と時間あたりの焼却能力に関する技師プリュファー、シュルツェ、ザンダーに対する尋問、ソ連邦国家保安委員会中央文書、資料17/919も参照。

 

 続いて、メイヤーは、炉を続けて使用した場合の稼働時間についてのヘスの証言を紹介している。

 

「ヘスは、1947年のクラクフ裁判での反対尋問で、『8時間か10時間たつと、焼却棟はそれ以上使用することができなくなった。焼却棟を続けて稼動することはできなかった。』と証言している。」(635f頁)

 

 マットーニョが本号のThe Revisionistに掲載されている論文の中で、メイヤー説の是非について論じているので、ここではこの問題を扱わないことにする。ただし、メイヤーの方法論について少し述べておく。

 まず、「鍵となる文書」問題である。メイヤーはこの文書を援用して、これまで研究者たちがしばしば引用してきたアウシュヴィッツの焼却能力に関するもうひとつの「鍵となる文書」には、偽りの、誇張された数字が含まれていると論証している[7]。彼は、プレサックが、焼却能力に関するもうひとつの文書のことを「SSの内部的宣伝のための嘘」と呼んでいることを指摘している[8]。しかし、問題なのは、メイヤーが、このプリュファー書簡が、トップフ・ウント・ゼーネ社の主任技師によるもうひとつの宣伝ではないことをどのようにして確信することができたのかである。

 また、メイヤーがさまざまな焼却棟の実際能力を確定しようとしている方法にも驚かざるをえない。不幸なことに、それは、フォーリソンが「紙の上の歴史家」と呼んだものの典型である。メイヤーは、アウシュヴィッツの囚人たちの陳述や、ソ連の尋問官が拷問によって引き出した証言になぜ依拠しているのか。なぜ、焼却専門家に相談したり、少なくとも、近くのハンブルクの焼却棟を訪れようとしないのであろうか。メイヤーは、その他の点ではマットーニョとデアナの研究を引用しているのに、なぜ、焼却能力に関しては引用していないのであろうか。

 このことに関連して、1993年に起こった出来事を思い出した。マックス・プランク固体力学研究所で博士論文を仕上げていたときのことであった。120日、私の博士論文指導教官シュネリング教授博士の主宰するゼミナールに参加していた。彼は、厳しい基準で有名な教授であった。その日、ヒレブレヒト博士が、自分の行なった実験測定についてレクチャーしていた。彼は、ある化合物の物理的プロパティの計測値について話をしていた。私の博士論文の指導教官は、この話の内容に不満であったので、突然彼の話をさえぎって、どこからそのような数値を入手したのかと質問した。すると、ヒレブレヒト博士が、一人の同僚の「口から」と答えた。シュネリング教授は、侮蔑の念を含みながら、怒りをあらわにした[9]

 

「『口から』ですって。そんなものを使ってはいけない。他人の『口から』の結果であれば、どんなたわごとでも作り出すことができる。」

 

 メイヤーのやり方はこれと同じようなものである。もっと悪い。メイヤーは、ほかの専門家の「口から」の自発的な話を利用して、技術的データを作り出したのではなく、焼却技術の専門家ではない人々(ヘス、ヴェツラー、タウバー、シュルツェ)か、拘束下で証言した人々(ヘス、ザンダー、プリュファー、シュルツェ)の証言を使っているにすぎないからである。これは、「科学的」と呼ぶに値する方法ではない。メイヤーは、マットーニョも内務人民委員部が編集したトップフ社の技師たちの証言を引用していると述べているが、それは弁護にはならない。たしかに、たとえ疑問の余地のある状況下でなされたとはいえ、専門家の証言を引用することは許されるかもしれないが、それは、信頼すべき方法を使った分析結果を確認するためにだけ許されることであり、マットーニョが行なったのはこのようなやり方であった。しかし、こうした証言だけを信頼できる証拠として利用することは認められない。

 メイヤーの方法的欠陥はこれだけにとどまらない。論文の最初の方に、彼は次のように述べている。

 

「ここでは、現存の文書資料、すなわち、もともとはそのようには作られていなかった建物に(投入口、ガス検知装置など)をつけることによって『ガス室(Vergasungskeller)』に改造することに関する文書資料、ならびに、それに関連する目撃証言は、焼却棟の完成――1943年初夏――ののちに、死体安置室を大量殺戮のために利用できるかどうかを調べるために、19433/4月に行なわれた実験のことを指し示していることについては、立ち入らない。

 この実験は失敗したにちがいない。換気が効果的ではなかったし[10]、予想された大量の犠牲者が次の11ヶ月にはやってこなかったからである。実際に殺戮が行なわれたのはおもに、収容所の外にある農家を改造した二つの小屋であった。」(632頁)

 

 メイヤーは、焼却棟の地下死体安置室を「ガス室」に改造しようとした実験だけが存在したと資料や証言が述べていると信じているにちがいない。彼は、実際の恐怖の場所はほかにあったと主張している。いつものとおり、彼は自説の証拠をまったく提示していない。メイヤーは、論文の最初のバージョンに対するメールでの回答の中で、プレサックの「犯罪の痕跡」にごく一般的に言及しているにすぎないが、これらの「犯罪の痕跡」が彼とプレサックの主張しているようなことをまったく立証していないことに気づいていないにちがいない[11]。メイヤーの説は、タウバー、ニーシュリ、ミューラーといったアウシュヴィッツの鍵となる証人と矛盾してしまっているのである。彼は、アウシュヴィッツの主要証人についてのグラーフの著作から引用しているので、無知であったはずがない。メイヤー説は、「証拠の体系」(別の意味においてであるが、これらの証人の証言をまともに受け取るかぎりでは)とまったく矛盾している。

 彼にメールで質問したすぐあとに、メイヤーは、タウバーという重要証人の観察が自説を立証していると論じているが、タウバーの観察のどの部分のことを言っているのかまったく明らかにしていない。実際には、タウバーは、焼却棟Ⅱのガス室は1943年夏と秋にはフル稼働であったと明言している[12]。タウバーは、1944年秋まで中断なく絶滅作業が続けられたと述べており、また、もちろん、よく知られた400万人という犠牲者の数についても言及している[13]。焼却棟での殺人ガス処刑が初期の実験の後に放棄されたことを示唆するような話は、タウバー証言にはまったく存在しない。

 タウバーは、1燃焼室に8体、煙突からの炎、自分で燃える死体、他の死体に火をつけるための女性の死体の利用、煮えたぎった人間の脂肪の蓄積といった技術的にありえないような証言を行なっているが、そのことはまったく別のことであり、この証人が「大量絶滅」については低俗な嘘つきであったことを証明しているにすぎない。個別的に考察しても、このような証言は、何も証明していない。まして、メイヤー説をわずかでも証明していないのである。

 他の二人の証人についてのメイヤーの考え方はいささか注目すべき内容である。ニーシュリの著作については、「明らかに編集された」「極端な話」にはしっており、ミューラーの報告は「小説」にすぎないと述べているからである(ただし、そのことは、ミューラーがニュルンベルク裁判やフランクフルトでのアウシュヴィッツ裁判で証言したときの信憑性を疑わせるものではないとメイヤーは考えている)。しかし、メイヤーはそのような注目すべき見解を自分の論文ではなぜ公表しないのであろうか。なぜ、公表しないように求めたメールの中で、こっそりと述べているのであろうか。

 こと、証人の話に関して、メイヤーは知識のないことを言い訳にはできない。彼自身が、アウシュヴィッツの重要証人についてのグラーフの著作を引用しているし、私あてのメールの中で自分が典拠とした多くの証人の名をあげており(またもや詳細な出典なしで)[14]、そのことは自分が何を描いているのかを知っていることを示しているからである。しかし、彼は、まさに自分の論文の中で必要である証拠をなぜ引用していないのであろうか。公表を禁じた私的な書簡の中で、こっそりと言及することには何の意味もない。

 

3. メイヤーの事実関係の欠陥

 すでに言及したように、メイヤーは、自説を立証することにはならないような、タウバーの馬鹿げた話をナイーブにも受け入れてしまっている。彼は、死体安置室をガス室に改造することに失敗したことを立証しているかのような議論を紹介した脚注3でも過ちをおかしている。

 

「(脚注3)チクロンガスは空気よりも軽いのに、排気口は下部に、吸気口が上部に設置されている。Jean-Claude Pressac in: Beate Klarsfeld Foundation (ed.): Auschwitz--Technique and operation of the gas chambers. New York 1989. S. 288f.」(632頁)

 

 ここでも、厳密な科学と技術の知識を欠く人物がもう一つの剽窃を行なっている。私が1993年以来いくどとなく指摘してきたように、空気とガス化したシアン化合物のあいだの濃度の相違は、取るに足らないか、まったく無益なことなのである。しかし、メイヤー説が本当であるとすれば、ペルト教授が修辞的に「虐殺の世界地図の中心」と呼んだこれらの場所が、まったく馬鹿げた話となってしまうであろう。シアン化水素を使った生産工程型の殺戮から生じるきわめて深刻な安全上の問題を考えると、SSは、シアン化合物を含んだ空気が下部から排気されるべきであるか、それとも上部から排気されるべきかなどといった問題で自分たちの計画を中止してしまった、というようにメイヤーは信じているのであろうか。しかし、これだけではない。メイヤーはこう続けている。

 

「実際に殺戮が行なわれたのはおもに、収容所の外にある農家を改造した二つの小屋であった。その一つ『白い家』もしくは『ブンカーⅠ』の土台が最近発見されている。」

 

 焼却棟ⅡとⅢの地下の死体安置室には貧弱な換気装置しかなく、ブンカーには換気装置がまったくない。とすると、大量殺戮のために、ブンカーの方が焼却棟ⅡとⅢの地下の死体安置室よりもふさわしい理由はどこにあるのであろうか。

 メイヤーは、収容所長アウマイアーに依拠して、ブンカー2には換気システムが存在したと回答している。この(これらの)農家が害虫駆除室であったという説が正しいとすると[15]、たしかに、換気システムが必要であったかもしれない。しかし、メイヤーは、大半の証人がこれらの家には換気システムがなかったと述べていることも知っているはずである。メイヤーはある目撃証言だけを取り上げて、それ以外の目撃証言は無視しているが、その選択理由はたんに自説に合致しているかどうかにすぎない。もちろん、これらの農家には換気システムが存在したことを示す、より重要な文書資料のようなものは存在しないであろう。だが、文書資料が存在していないからといって、このことは、焼却棟の死体安置室を使用するというオリジナルの計画が、非効率的な排気システムゆえに放棄されて、農家が使用されるようになったというメイヤー説を立証しているわけではない。

 しかし、冷静に考察すると、このメイヤー説はまったく間違っているわけではないかもしれない。実際には、焼却棟の死体安置室の換気システムは死体安置室を換気するためのものであり、殺人ガス処刑地下室でも害虫駆除室のものでもなかった。しかし、この理由は換気口の配置ではなく、この排気システムの能力が、「ガス室」としても害虫駆除室としても不十分なものであったことである[16]。シアン化水素の危険な性質のために、もしこれが使われたとすれば、収容所の外で、例えば問題の農家で使われたかもしれないのである[17]。殺人ガス処刑であれ害虫駆除ガス処理であれ、それを問題とすれば、このような議論の筋道は成り立ちうるかもしれない。

 上記の脚注5で、メイヤー氏は、いわゆるブンカーの存在を立証しようと願っている。しかし、彼が立証の証拠として提示している学問的証拠とは、「"Corriere della Sera, 11/20/2001. - Le Monde, 11/20/2001, - dpa(ドイツ出版局)11/19/2001」である。

 さらに付け加えれば、同じような話を掲載しているドイツのタブロイド紙のBild 20011111日号である。方法論的に見ると、まず日刊紙に依拠するのは疑問である。ジャーナリストの記事は皮相で信頼できないものが多いからである。タブロイド紙に掲載されている記事をすべて本当のことと受け取ってしまったらどういうことになるであろうか。

 これらの新聞記事は、メイヤーのいうところの「ブンカーⅠ」の最近発見された土台についてではなく、ミラノの現代ユダヤ資料センターの研究者がブンカーⅠであったと見なした既存の建物についてである。後者の説が間違っていることは、マットーニョが詳しく明らかにしている[18]。メイヤーは取り違えているにちがいない。1989年に、プレサックは、その歴史が不明なビルケナウ収容所の外の建物の土台の写真を掲載している。しかし、これは、少なくともプレサックのいうようにブンカーⅠではなく、ブンカーⅡの残骸である[19]。だから、ブンカーⅠの物的痕跡は存在しないと結論しなくてはならない。ただし、これは、どのような目的で使用されたかわからないこの建物が存在しなかったことを立証しているわけではない。

 このことと、メイヤーが、今度はドイツ出版局の記事からの馬鹿げた話を広めている事実とは別のことである。マットーニョは、ドイツ出版局の記事が賞味期限のすぎた詐術から成り立っていることを科学的に的確に立証している[20]

 目撃証言には深い壕で戸外焼却が行なわれたことがしばしば登場しているが、メイヤーがこのことにまったく触れていないことも重要である。これらの戸外焼却は、メイヤーの重視するブンカーの近くで行なわれたはずだからである。メイヤーは何気なく次のように述べている。

 

「ヘスによると、194211月末まで、大量埋葬地からの107000体が、薪の上で燃やされた。プレサックはこの数字に疑問を呈し、50000名と計算している。

 焼却棟の稼動が始まるまでの、とくに多い194243年の冬のガス処刑の犠牲者の焼却はどこで行なわれたのか、および、194212月から19433月までにアウシュヴィッツに到着した100000名の非登録囚人のうち57000名の犠牲者はどこで焼却されたのかという問題は、これまで説明されてこなかったし、そのような問題があるとも認識されてこなかった。おそらくそれは戸外で焼却されたのであろう。ヘス証言にはそのような記述がある。

ハンガリー作戦(薪の上で焼かれた)の犠牲者を含めず…」(636頁)

 

 メイヤーは正しい。「ハンガリー作戦」のあいだ(そして焼却棟が完成する以前に)「大量殺戮」の犠牲者の死体がどこで焼却されたのかという問題は、これまで見過ごされてきたからである。しかし、彼は、本質的な問題を見過ごしてしまっている。すなわち、目撃証人たちは、死体が深い壕で焼却されたと述べているが、これは、ビルケナウ周辺の地下水位が高いために、ありえないことなのである[21]。さらに、ボールは1992年に、連合国の偵察写真にもとづいて、薪の上であろうと、壕の中であろうと、この当時、大規模な焼却が行なわれていなかったことを立証している[22]。メイヤーは「大量殺戮」現場をいわゆるブンカーに移しているが、このことで、死体の焼却はどこで行なわれたのかという問題の大きさを広げてしまった。彼は問題をまったく解決しておらず、ただ問題を隠してしまったにすぎない。彼はまたもや、自分自身の典拠資料と矛盾してしまうようなやり方で問題を提起しているのである。すなわち、彼は焼却現場を深い壕から、地上の薪の山の上に移してしまっている。

 焼却棟ⅡとⅢの地下死体安置室の天井にチクロンBの投入口が存在していたのかどうか。メイヤーは、この白熱した問題についても、まったく根拠なく断定しているにすぎない。

 

「そのあと、アーヴィングとペルトは、チクロンB投入口が死体安置室の屋根にその後開けられたのかどうか(その穴は今でも見ることができる。ペルトはそれを知らなかった)という問題で激論した」(633頁)

 

 この論点は物的性格を持っており、客観的な方法によって解決できる。もしメイヤーが事実に関心を持っていれば、彼は、自分の論文の中でこの論点について自説を明らかにすべきであろう。しかし、明らかにはされていない、彼は(…)の中に主張を書き込むことで、逃げてしまっている。彼の主張はまったく間違いである[23]。もし、別の見解があるのならば、当然、議論を展開すべきであろう。

 

4. 犠牲者の数

 トマス・ライダーは、アウシュヴィッツの犠牲者数の変化についての1998年の小論の中で、近い将来にこの数字がますます低くなっていくであろうと予測していた[24]。彼は、この数字が急速に低くなっていくであろうと予測していたが、それは楽観的すぎた。しかし、その流れについては、彼の予測は正しかった。

 この数あてゲームについての最新のメイヤー説はこうである。

 

「こうしたことを考慮すると、50万名がアウシュヴィッツで殺され、そのうち、356000名がガス処刑されたという結論となる。」

 

 メイヤーは、400万人という数字の起源がソ連側の宣伝によるものであることを手短に述べたのちに、アウシュヴィッツ所長ヘスの供述について詳しく述べている。彼は、ヘスがイギリス軍からどのような扱いを受けたかについて、次のように述べている。

 

3日間にわたって、眠ることも許されず、拷問にかけられ、尋問の答えのたびに殴られ、裸のままで、強制的にアルコールを飲まされた。最初の尋問は、『圧倒的な証拠』を突きつけられて行なわれた。のちにヘス自身が『私は署名したけれども、供述書に何が書かれているのかを知らなかった。しかし、アルコールと鞭が私にふるまわれた』と述べている。午前230分、以下の文章に、かなり難儀しながら署名した。

『アウシュヴィッツでは、私自身の計算では、3000000名ほどが死亡した。そのうち2500000名がガス処刑されたと思う。』」(639頁)

 

 メイヤーは、ヘスの受けた拷問について、さまざまな文書資料を使って詳述しており、彼のあげた数字が間違っていることを明らかにしている。修正主義的な研究者は、ヘスが受けた拷問と、彼の自白の中のありえない話についてすでに指摘していたが、メイヤーはこの点を認めていることになる。このことは評価できる。ただし、学術的研究者のあいだにも学術的な習慣や礼儀というものがある。いくら、バッツ、シュテークリヒ、フォーリソンを嫌っていたとしても、学術的習慣や礼儀というものを踏みにじってよいというものではない[25]

 メイヤーは、自分の論文のスタイルを守りながら、次のような政治的声明で、論文を締めくくっている。

 

「この結果は野蛮さを相対化するものではなく、むしろ野蛮さを立証している。ひいては、新たな文明の崩壊に対する説得力のある警告となっている。」

 

 しかし、メイヤーはこの論文の中で民族社会主義者の野蛮さを立証することに成功していない。アウシュヴィッツに関するかぎり、彼が立証したのは、学術研究のもっとも基本的なルールまでも踏みにじっているホロコースト正史派の研究者の野蛮さだけである。正史派の研究者たちの野蛮さこそが、文明に対する脅威なのであって、この脅威を正さなくてはならないのである。

 

5. 結論

 メイヤーはその論文の中で、アウシュヴィッツの犠牲者数を今一度下方修正した。彼は、アウシュヴィッツ・ビルケナウの焼却棟が大量殺戮の現場であるという説を放棄した。そして、はじめて、修正主義者の文献を引用し、少なくとも部分的にではあるが、修正主義者の説が正しいことを認めた。さらに、彼は、アウシュヴィッツ所長ヘスが拷問を受けた事実を公に認め、ヘスの供述の信憑性に疑問を呈した。また、私的な書簡の中ではあるが、ニーシュリ、ミューラーなど「鍵となる証人」の高く評価を受けてきた著作が、編集されていること、小説にすぎないことも認め、マットーニョの研究を容認しうるものとして受け入れている。だから、われわれは将来に希望を抱くことができるかもしれない。結局はそのように動いていくのだから。

 しかし、彼の論文には方法論的な欠陥、事実関係の欠陥が数多く存在する。だから、メイヤーが、その脚注19の中で、修正主義者が「的をはずしている」と非難しているのは滑稽にみえる[26]

 

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[1] Fritjof Meyer, "Die Zahl der Opfer von Auschwitz. Neue Erkenntnisse durch neue Archivfunde" (Number of Auschwitz Victims: New Insights from Recent Archival Discoveries), Osteuropa, 52(5) (2002), pp. 631-441.

[2] Jürgen Nowak, "Kurzwellen-Entlausungsanlagen in Auschwitz", VffG 2(2) (1998), pp. 87-105; Hans Lamker, "Die Kurzwellen-Entlausungsanlagen in Auschwitz, Teil 2", VffG 2(4) (1998), pp. 261-273.

[3] Robert Faurisson, "Das Schwimmbad im Stammlager Auschwitz", VffG 5(3) (2001), pp. 254f

[4] Email by F. Meyer to G. Rudolf, Nov. 8, 2002:
"[...] Ihrer Zeitschrift, die einen rein propagandistischen Charakter trägt [...]"

[5] Cf. VffG 4(1) (2000), pp. 2-50.

[6] Cf. R. Kammerer, A. Solms, Das Rudolf Gutachten, Cromwell Press, London 1993, p. 32; G. Rudolf, Das Rudolf Gutachten, Castle Hill Publishers, Hastings 2001, pp. 97f.

[7] Manfred Gerner, "„Schlüsseldokument' ist Fälschung", VffG, 2(3) (1998), pp. 166-174; cf. also C. Mattogno, "„Schlüsseldokument' - eine alternative Interpretation", VffG, 4(1) (2000), pp. 51-56.

[8] J.-C. Pressac, Die Krematorien von Auschwitz. Die Technik des Massenmordes, Piper, Munich 1994, p. 103.

[9] January 20, 1993, at 9:48 am in Room 4D2 of Max Planck Institute in Stuttgart, Germany

[10] チクロンガスは空気よりも軽いのに、排気口は下部に、吸気口が上部に設置されているJean-Claude Pressac in: Beate Klarsfeld Foundation (Hrsg.): Auschwitz -- Technique and operation of the gas chambers. New York 1989. S.288f.

[11] Summarized: G. Rudolf, The Rudolf Report, Theses and Dissertations Press, Chicago 2003, with further references.

[12] "At the end of 1943, the has chamber was divided in two [...]"; "These fittings [Bänke, Kleiderhaken, falsche Duschköpfe] were not installed until autumn 1943", J.-C. Pressac, Auschwitz: Technique and Operation of the Gas Chambers, The Beate Klarsfeld Foundation, New York 1989, p. 484.

[13] Ibid., pp. 500f.

[14] "Brüder Dragon, Feinsilber, Langfuss, Lewental, Buki, Benroubi, Brüder Gabarz, Tabeau, Lettich, Nyiszli, Gulba, Wisorka, Wohlfahrt, Puchala, Bila, Wolken, Plastura, Porebski, Paisikovic, Eisenschmidt, Rozin, Schellekes, Hejblum; SS: Höß, Aumeier, Kremer, Münch, Broad, Böck, Hölblinger, Lorenz, Hradil, Kaduk". Jürgen Graf wird auf diese Meyerschen Beweis-Aussagen später zurückkommen.

[15] TCIDK 520-1-24-77, 30.11.42; 520-1-24-33, 3.12.42; 520-1-332-46a, 9.1.43; 520-1-26-66, 9.4.43; 502-1-238-10, 30.9.43.

[16] C. Mattogno, Auschwitz: Das Ende einer Legende, in: Herbert Verbeke (ed.), Auschwitz: Nackte Fakten. Eine Erwiderung an Jean-Claude Pressac, Vrij Historisch Onderzoek, Berchem 1995, pp. 133-135.

[17] Mentioned for the first time by H.J. Nowak, "Kurzwellen-Entlausungsanlagen in Auschwitz", VffG 2(2) (1998), pp. 87-105.

[18] Carlo Mattogno, "Die „Entdeckung' des „Bunkers 1' von Birkenau:
alte und neue Betrügereien", VffG 6(2) (2002), pp. 139-145; this article will be published in English the next issue of The Revisionist.

[19] Op. cit. (note 11), p. 176.

[20] Carlo Mattogno, "Die „Entdeckung' des „Bunkers 1' von Birkenau:
alte und neue Betrügereien", VffG 6(2) (2002), pp. 139-145.

[21] See the two contributions by Michael Gärtner/Werner Rademacher, and Carlo Mattogno in this issue.

[22] J. Ball, Air Photo Evidence, Auschwitz, Treblinka, Majdanek, Sobibor, Bergen Belsen, Belzec, Babi Yar, Katyn Forest, Ball Resource Service Ltd., Delta, B.C., Canada 1992 (online: www.air-photo.com).

[23] Cf. my expert report, op. cit.. (note 10); more recently: C. Mattogno, "„Keine Löcher, keine Gaskammer(n)'", VffG 6(3) (2002), pp. 284-304; this article will appear in English in one of the upcoming issues of The Revisionist.

[24] "Die Formel der Wahrheit", VffG 2(3) (1998), pp. 204f.

[25] メイヤーは、シュテークリヒがヘスの証言に疑問を抱いていたことに触れているが、彼の名前をエルンスト・シュテークリヒと間違っている。シュテークリヒの著作の署名についても、通常の典拠文献データ(刊行地、年、頁)をあげていない。バッツやフォーリソンにいたっては、名前もあげられていない。

[26] After reading the initial version of this article, Meyer even stated he understood why I was so angry, since the German right-wing weekly Nationalzeitung had "declared my study to be the 'truth', thus inflicting a defeat upon the revisionists", op. cit. (note. 4). LOL.


『いわゆるヒトラー一派のガス室といわゆるユダヤ人の虐殺は、同一の歴史的嘘である。この嘘のおかげで、非常に大きな政治的・金銭的詐欺行為が容認され、そのおもな受益者はイスラエル国家と国際シオニズムであり、そのおもな犠牲者はドイツ国民―その指導者ではない――とパレスチナ民族全体である。』

— ロベール・フォーリソン教授博士

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1980年代のイスラエルの戦略 この記事は1982年2月『Kivunim、A Journal for Judaism and Zionism』の第14号、冬季5742にヘブライ語で掲載されたものである。

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