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試訳:ドイツ側資料から見たビルケナウ収容所の実像

――C. マットーニョ――

 

歴史的修正主義研究会試訳

最終修正日:2004106

 

本試訳は当研究会が、研究目的で、Carlo Mattogno, Die Leichenkeller der Krematorien von Birkenau im Lichte der Dokumente(文書資料から見たビルケナウの焼却棟の死体安置室), Vierteljahreshefte für freie Geschichtsforschung 7(3&4) (2003)、その英訳版Carlo Mattogno, The Morgues of the Crematoria at Birkenau in the Light of Documents, The Revisionist, 2004, No.3を「ドイツ側資料から見たビルケナウ収容所の実像」と題して試訳したものである(ただし、図版は省略した)。また、マークは当研究会が付したものである。
 誤訳、意訳、脱落、主旨の取り違えなどもあると思われるので、かならず、原文を参照していただきたい。

onlinehttp://vho.org/VffG/2003/3/Mattogno357-365.html

http://vho.org/VffG/2003/3/Mattogno365-369.html

http://vho.org/VffG/2003/3/Mattogno370-375.html

http://vho.org/VffG/2003/3/Mattogno375-380.html

 

はじめに

 ロバート・ヤン・ファン・ペルトは、アーヴィング対リップシュタット名誉毀損裁判(2000111日-411日)においてリップシュタットを弁護するために執筆した歴史学的専門家報告の中で、アウシュヴィッツのガス室でユダヤ人が絶滅されたことについての証拠をまったく発見できなかったとき、すべての「痕跡」――その大半はプレサックによって集められていた――を集めて、それらをより高い「証拠」のレベルにまで押し上げ、ついで、おもに文書資料を体系的に歪曲することで「証拠の収斂」を捏造した。そして、その際、自分の趣旨にはマッチしない文書資料はすべて無視した。ペルトは、専門家報告の中で、修正主義的歴史家たちは「歴史の修正」という作業にまだ取り組んでいないと非難し、こう付け加えている[1]

 

「本物の修正主義的歴史とは過去についての受け継がれてきた歴史観を破壊するだけではなく、その代わりの歴史観を提示するものである。…今日にいたるまで、ホロコースト否定派は、その40年間の研究の中で、アウシュヴィッツについての受け継がれてきた歴史観に代わる歴史観を提示できていない。」

 

 私個人に関していえば、論文や研究書といった著作の中で、長年にわたって「代わりの歴史観」を提示してきた。最新の著作は『アウシュヴィッツの特別処置――用語の起源と意味』[2]であり、ペルトが無視したか看過した文書資料にもとづいて、「特別処置」、「特別行動」に関するアウシュヴィッツの歴史を積極的に記述したものである。ペルトが、専門家報告であれ、最新の研究書『アウシュヴィッツ事件:アーヴィング裁判からの証拠』(専門家報告の拡大版)[3]であれ、私の研究ことにまったく触れていないのは偶然ではない。

 本小論の中で、私は、ビルケナウの焼却棟の「殺人ガス室」というアウシュヴィッツ史学の中心的なテーマに学術的な貢献を果たそうと考えている。言うまでもないことであるが、ペルトは、私の結論が寄って立っている膨大な文書資料をまったく無視している。

 

1章:ビルケナウの「衛生状態を改善する特別処置」の範囲内でのビルケナウ焼却棟の死体安置室

1. 1942717/18日のヒムラーのアウシュヴィッツ訪問とビルケナウ捕虜収容所の新しい機能

 SS全国指導者ハインリヒ・ヒムラーは、1942717/18日にアウシュヴィッツを訪問したとき、ビルケナウ捕虜収容所を20万名収容できるまでに拡張することを決定した。中央建設局は早速この作業に取りかかり、194283日、その局長カール・ビショフSS大尉は、SS経済管理本部CV課(中央建設監督課)に新しい収容所配置図面を送った。これは、194278日の収容所図面Nr. 1453を、新しい収容人員に備えて拡大することを考慮して、修正したものであった。ビショフは、同封されている書簡の中で、ヒムラーの訪問のことを明確に言及している[4]

 

「拡張計画は、全国指導者[すなわちヒムラー]が1942717/18日に訪問したとき、C局長・SS少将・武装SS少将カムラー工学博士によって検討されています。」

 

 1942815日、中央建設局は、20万名の収容人員を見越した別の「上部シュレジエン・アウシュヴィッツ捕虜収容所図面」を作成した[5]827日、ビショフは、SS経済管理本部C局に、「収容所図面:M1200002コピー」と添えた書簡を送り、こう断言している[6]

 

「同封の収容所図面は、捕虜収容所を20万人の収容人員にまで拡張するという最近の決定を念頭においたものです。」

 

 その後の月々に、ビルケナウ捕虜収容所の収容人員は1314万人に設定されなおしたが、拡張の理由には変化がなかった。

 1942915日、ベルリンで、シュペーア大臣とSS経済管理本部長オズヴァルト・ポールSS大将のあいだで会合がもたれた。そこには、SS経済管理本部C局長ハンス・カムラーSS少将も含む5名の高官も参加した。その翌日、ポールは、会議についての詳細な報告をヒムラーに送っている。議論の中心は4点であり、その第一は「東方移住のためのアウシュヴィッツバラック収容所の拡張」についてであった。これについて、ポールはこう述べている[7]

 

「帝国大臣シュペーア教授は、アウシュヴィッツのバラック収容所の拡張に全面的に賛同し、アウシュヴィッツの追加バラックのために、137万マルクを設定しました。

 この追加バラックは、300ほどのバラックとそれに対応する設備・施設の建設を想定しています。

 必要資材は、1942年に第四四半期および1943年の第一、第二、第三四半期に割り当てられるでしょう。

 この追加計画が完了すれば、合計132000名がアウシュヴィッツでは収容できることになります。」

 

 ついで、ポールはこう指摘している。

 

「出席者全員が、強制収容所の労働力を大規模な軍需的課題のために使うべきことに合意しました。」

 

 ポールは、他の施設での労働力を支援するために、アウシュヴィッツの軍需工場からドイツ人と外国人の民間人を引き抜いて、それを強制収容所の囚人に置き換えなくてはならないと強調している。そして、こう続けている。

 

「帝国大臣シュペーア教授は、この点について、最初の5万名の強壮なユダヤ人を、バラックつきの閉ざされた工場に提供されるように保証してもらいたがっています。

 私たちは、既存の施設の能力と建設が、人員の恒常的な変化によって悪い影響を被らないようにするために、アウシュヴィッツでのこの目的に必要な労働力を、東部移住者から選別するつもりです。

 したがって、東部移住に予定されている強壮なユダヤ人は、その移住を中断され、軍需施設で働くことになります。」

 

 「東部移住」とは、東部地区へのユダヤ人の移送のことである。この文脈を考えると、最後のセンテンスは、労働不適格なユダヤ人は東部移住を中断されず、東部地区への旅を続けたこと、すなわち、アウシュヴィッツにはとどまらなかったことを明らかにしている

 会議の日、1942915日に、カムラーは、「アウシュヴィッツ強制収容所の特別建設課題」について、建設産業組織全権にあてに書簡を送っており、その中で、アウシュヴィッツに関する決定の件を彼に伝えている[8]

 

「帝国大臣シュペーア教授とSS大将・武装SS少将ポール氏との会談については、下記の、アウシュヴィッツ強制収容所特別計画のための追加建設区画を参照してください。

 

1)          必要とされる追加建設およびそれに対応する区画の概要

2)          必要とされる建設資材とバラックの概要

 

 作業の大半は、囚人によって行なわれます。全計画には、50労働週間が設定されています。囚人以外に、平均350名の専門・補助労働者が必要となるでしょう。それによって、105000労働日となります。」

 

 194210月、「アウシュヴィッツ捕虜収容所」建設計画は、「特別処置の遂行」という公式の名前を与えられた。その名前は収容所の新しい機能を明らかにしていた。すなわち、この課題は、アウシュヴィッツ収容所を、すでにアウシュヴィッツ周辺に広がっていた、そして広がる予定であった工場施設のための労働力の供給源に変えることを目的とする大規模建設計画であった

 ヒムラーがアウシュヴィッツを訪問したときに、収容所の機能を変える決定が下されたのであるが、その目的は、ルドルフ・ヘスの発言によって明瞭に説明されている。すなわち、1943522日、ヘスは、SS経済管理本部C局長カムラーその他の役人の前で、収容所の制度的な課題の歴史と進展を次のようにまとめている[9]

 

「アウシュヴィッツ収容所は、1940年に、ヴィスワ川とソラ川にはさまれた三角地帯において、7つのポーランド人村を疎開させ、砲兵兵舎区画を拡張し、多くの建物を追加し、改築・変更することで、発展してきました。当初は、検疫収容所であるはずでしたが、のちには、帝国収容所となり、それとともに、新しい目的を持つようになりました。全体的な状況が時おり危機的となったために、ドイツ帝国と総督府との結節点に位置するアウシュヴィッツ収容所は、収容所に労働力を補充することが保証されていたために、非常に役に立つことがわかりました。さらに、最近生じたもう一つの要因は、ユダヤ人問題の解決です。それには、最初は60000名の囚人の住居問題の解決が必要でしたが、短期間に100000名の囚人の住居問題の解決が必要となるかもしれません[10]。収容所の囚人の大半は、収容所の周辺に登場しつつある大規模工場施設用です。収容所はその管轄地区のなかに、規則的に労働力を提供しておかなくてはならない多くの軍需工場を抱えています。」

 

 それゆえ、「ユダヤ人問題の解決」に必要であったのは、絶滅施設ではなく、100000名用のバラック建設計画であったのであり、「絶滅機能」なるものは付随的であるどころか、そもそも存在していなかったのである

 10月末、中央建設局は、シュペーアとポールの指示にあわせた捕虜収容所全体計画を作成した。その文書の表題は次の通りである[11]

 

「計画:アウシュヴィッツ捕虜収容所(特別処置の遂行)。建設元:SS全国指導者、SS経済管理本部C局、ベルリン、リヒターフェルデ-ヴェスト。VIII Up a 2

 

 計画には、総額13760000マルクの予算と、140000名の囚人の収容を予定するビルケナウの新しい収容所図面が含まれていた[12]

 しかし、19431月初頭には、アウシュヴィッツ・ビルケナウ収容所の収容人員は30000名にも達していなかった[13]。その理由は、囚人の極端に高い死亡率であった。19427月に蔓延したチフスと、ビルケナウ収容所の不十分な衛生保健状態によるものであった。19434月末までには、囚人の数は53000名に達したが[14]、それでも、目標をはるかに下回っていた。

 

2. ビルケナウの焼却棟施設の拡張

 ビルケナウ収容所の拡張決定と、囚人の高い死亡率の原因となったチフスの蔓延によって、SS当局は、ビルケナウ収容所の焼却施設を十分なかたちで拡張することに着手した。よく知られていることではあるが、当初は、一つの焼却棟(将来の焼却棟Ⅱ)だけが、収容所に計画されていた[15]

 上記の194283日の書簡の中で、ビショフはこう述べている[16]

 

「さらに、検疫収容所の隣に位置する新しい焼却棟[単数]の場所も確定されました。」

 

 それゆえ、少なくとも194283日までは、アウシュヴィッツ中央建設局長が念頭に置いていたのは一つの焼却棟にすぎなかったことになる

 エルトルSS少尉が、トップフ・ウント・ゼーネ社の主任技師クルト・プリュファーの訪問との関連で執筆した1942821日の会議要録には、こうある[17]

 

5つの3燃焼室炉をもつ二番目の焼却棟の建設に関して、資材の割り当てについて国家保安中央本部との交渉が進められているが、その結果をまずはっきりさせなくてはなりません。」

 

 それゆえ、焼却棟Ⅲの建設決定はまだなされていなかったのである

 同じ文書によると、8つの燃焼室をもつ2つの炉をモギリョーフからアウシュヴィッツに移送するとのプリュファーの提案が819日に認められたことがわかる。SS経済管理本部は824日に、この提案(欄外の手書き)を認めている。すなわち、少なくともこの時点まで、焼却棟ⅣとⅤの炉の燃焼室の数はまだ決められていなかったことになる

 19428月は、アウシュヴィッツ収容所の歴史の中で月間死亡率がもっとも高い月であった。この月だけで合計8600名が死亡し[18]7月(4400名ほど)のほぼ2倍であった。さらに3つの焼却棟を建設するとの決定の最初の痕跡は、814日に登場する(焼却棟Ⅳ/Ⅴの図面1678の日付)[19]81日から13日までで、2500名以上の囚人が死亡しており、死亡率は1190名に達していた。814日から19日(821日の会議要録に議論がまとめられている日)のあいだの死亡率はもっと高かった。2400名ほどが死亡し、1日平均400名ほどであった。その頂点は819日であり、500名以上の死者が記録されている。

 81日の時点で、男性収容所の収容人員は21421名であった。19日までに、4113名の囚人が死亡し、1日平均216名であった。14日から19日のあいだには、1675名が死亡し、1日平均279名であった。81日から19日までの収容所の平均収容人員は22900名であった。もしも、収容人員が計画されている通りに200000名に達し、そのときにチフスが蔓延したらどのような事態となるであろうか。

 それゆえ、さらに3つの焼却棟を建設するとの決定に向かわせた理由は、衛生保健措置への、当然ともいえる配慮だったのである

 

3. ビルケナウ収容所の「衛生施設を改善するための特別処置」

 したがって、19435月初頭、ベルリンのSS経済管理本部とアウシュヴィッツのSS管理局は、19427月末のヒムラーの決定にもとづく計画を実行するにあたって、相互に連関する二つの重要な問題に直面していたのである。すなわち、囚人の高い死亡率による労働力不足と、その原因となった衛生保健面での深刻な事態である。このために、収容所の衛生施設の改善が絶対命令となった

 194357日、SS経済管理本部C局長カムラーSS少将は、アウシュヴィッツで6名の収容所高官と会合した。収容所長へスSS中佐、中央建設局長ビショフSS少佐、SS守備隊管理長メッケルSS中佐、農業経営長ケザールSS少佐、SS守備隊医師ヴィルツSS大尉、アウシュヴィッツ中央収容所に責任を負う武装SS警察アウシュヴィッツ建設局主任技師キルシュネクSS少尉であった。2日後、ビショフは、ここでの議論について会議要録を書き、その中で、SS守備隊医師が自分の管轄下にある施設についてどのような見解を抱いているかを、次のようにまとめている[20]

 

「守備隊医師の全体的記述。重要な仕事を割り当てられている囚人の健康状態を維持することは、劣悪な便所、不十分な下水システム、病棟と患者用の便所の欠如、および、洗濯・入浴・殺菌消毒システムの欠如のために、危うくなっている。

 捕虜収容所の内部を改善するには、便座とふたのついた便所を設置すること、下水システムの度重なる失敗に対処するために、多くの排便壕――その内容物は頻繁に取り除かれて、農業目的に供すべきである――を設置することが推奨される。この点に関して、中央建設局長は、排水網からの逆流をせき止める装置の設置、高圧水による便器の洗浄を提案している。

 彼は、排便壕については、地下水位が高いために、地下水の汚染が起こってしまうこと、排便桶を設置すること、地下水からの分離をはかることも難しく、現時点では不可能であること、排便壕を掘ることで排出される土石の量は膨大なので、それを収容所の周辺で一時に処理することはできないとの理由で、反対している。根本的な難題を解決する唯一の手段は、下水システムを、排水ポンプを備えた下水管網に変えることであるが、残念なことに、そのために必要な装置が手元にない、というのである。

 少将は、これらの問題の緊急性に配慮し、事態を改善するために、自分ができることならばすべてのことを行なうと約束している。しかしながら、有能な医療スタッフから衛生保健状態は良好であるとの報告を受け取り、その直後に、まったく逆の報告が提出されたことに驚いている。

 中央建設局長は、C局長のために、1943515日までに、問題を緩和する提案、ならびに、現在の資材供給の難題――これについては局長自身が処理するであろう――はさておいて、適切な排水措置を行なう計画を作成するように命じられている。

 収容所医師は、厩舎の病棟への改築を不十分と批判していたし、スイス式バラックの建設現場に光と水が不足していることも批判していた。さらに、バラックの数も不足しているので、病棟区画にバラックを設置することも検討しなくてはならない。これまで述べてきたような欠陥は、よく調べてみると、上記の難題とのあいだの相互作用の結果であることがわかる。すなわち、明らかに、建設にかかわるその他の問題から切り離して、特別な解決方法を見つけなくてはならないにちがいない。

 捕虜収容所の害虫駆除問題の恒常的な解決のために、収容所医師は、建設計画の各部分(全部で10)のために、入浴施設も含む完全な殺菌駆除施設を建設することを提案した。一方、中央建設局長は、捕虜収容所の殺菌駆除施設がすでに建設中であり、最初に完成させなくてはならないことを指摘した。有能な労働者を確保するという難題は別として、これは8月末にまで完了すべきであるというのである。ビショフSS少佐ははっきりとした期日を確定できなかった。その日までの、臨時の措置として、少将は、借用というかたちで、新型の短波害虫駆除列車を提供することになる。」

 

 194358日、185分、グロース・ローゼン強制収容所から「アウシュヴィッツ強制収容所司令部」あてに、次のような電文が送られている。

 

SS少佐ビショフと報告者からSS少将・武装SS少将カムラー工学博士へ。1943510日月曜日の11時、20万名の捕虜収容所の水道供給と排水のためのすべての文書、図面、資材割り当てをもっていきます。」

 

 この電文には、グロース・ローゼン強制収容所副所長ヴィルヘルム・ギデオンが署名している[21]。カムラーはベルリンに戻る途中で、グロース・ローゼンを通過し、そこでビショフにベルリンに来させることを決めて、ギデオンに電文をアウシュヴィッツに送るように命じた。彼はまた安全を期すために、ベルリンの自分の事務所に電文の内容を伝えさせた。そのために、205分、アウシュヴィッツ電文送受信課は、SS経済管理本部C/I課にいたSS准尉シュルマンからの電文を受け取った。ビショフ個人あてのこの電文はこう述べている[22]

 

SS少将・武装SS少将カムラー工学博士は、アウシュヴィッツ捕虜収容所の水道供給と排水のためのすべての図面と計算書をもって、1943510日月曜日にベルリンに出頭することを命じた。」

 

 これによって、捕虜収容所(すなわちビルケナウ収容所)の衛生部門での大規模改善計画がはじまった。この改善計画は、文書の中では、「即時計画」、「特別処置」、「特別計画」、「特別建設処置」、「特別行動」と、さまざまに呼ばれている[23]。これに対応する文書命令は、カムラーを介して、514日にアウシュヴィッツ所長に渡された[24]

 

4. 「衛生施設を改善するための特別処置」とビルケナウの焼却棟

 ビルケナウ収容所の衛生施設を改善する計画には、その当初から焼却棟も入っていた。1943513日、ビショフは「アウシュヴィッツ捕虜収容所の即時計画のための労働割り振りに関する報告」を書き、中央建設局の将校、下士官、民間人従業員はこの計画の枠内での特別任務に責任を負うことにした。民間人従業員ルドルフ・イェーリングの任務は、この報告の第9項目に、次のようにまとめられている[25]

 

「民間人従業員イェーリングは、洗濯バラックへのヒーターとボイラーの設置、ならびに、焼却棟Ⅲの脱衣室へのシャワーの設置を実行しなくてはならない。シャワーについては、SS少佐ビショフが、収容所長のヘスSS中佐と相談するであろう。

 SS経済管理本部は殺菌駆除炉のためのトット機関の図面を発送する。」

 

 2日後の、515日、ビショフはトップ社に次のような電文を送っている[26]

 

「緊急電文!

 あて:エルフルトのトップフ社。

 テキスト:100個のシャワーに温水を供給する計画についての見積もりを月曜日までにもってくること。焼却棟Ⅲに建設中のゴミ焼却炉のなかに加熱コイルもしくはボイラー、もしくは高温の排気ガスを利用するためのガス流出ダクトを設置すること。大きな予備タンクを備えるレベルまでに炉を高くすることは可能であろう。517日月曜日までに、このような図面をプリュファー氏に提供すること。」

 

 516日、ビショフは、「SS少将・武装SS少将カムラー工学博士がアウシュヴィッツ捕虜収容所のために実行を命じた特別計画を遂行する処置に関する報告」をカムラーに送った。その第6項にはこうある[27]

 

6. 殺菌駆除施設。囚人の衣服を殺菌駆除するために、建設区画Ⅱの各サブ区画はトット機関の殺菌駆除装置を備えるであろう。囚人自身から間違いなく害虫駆除するために、建設区画Ⅰの既存の二つの囚人入浴施設には、既存のシャワーに温水を提供する加熱コイルとボイラーが設置されるであろう。さらに、焼却棟Ⅲの地下室に建設中であるシャワー設備に温水を供給するために、ゴミ焼却炉に加熱コイルを設置することも計画されている。この装置に関しては、エルフルトのトップフ・ウント・ゼーネ社とのあいだで交渉が行なわれた。」

 

 焼却棟Ⅲの地下にシャワー設備を設置する計画は、すぐに、焼却棟Ⅱにも適用された。65日、トップフ社は「焼却棟ⅡとⅢのゴミ焼却炉」について、アウシュヴィッツの中央建設局に次のような書簡を送っている[28]

 

「ゴミ焼却炉にボイラーを設置することに関する同封図面D60446を参照してください。わが社の現場技師ヴィルヘルム・コッホにも同じ図面を送っています。この図面にしたがった装置の設置に賛成の場合には、そのことをコッホ氏に伝えてください。

 また、それに対応する超過労働を確定するためにも、このついての賛成を私たちにもお知らせください。」

 

 ビショフは19436月にビルケナウの焼却棟に関する質問用紙を更新・作成しているが、この質問用紙は、計画が焼却棟ⅡとⅢに拡大されたことを確証している。中央建設局長は最初の4つの項目にこう回答している。すなわち、焼却棟Ⅱ-Ⅴには18の炉があり[29]、合計46の燃焼室がある。それらは、19421943年にトップフ社によって建設された。それらは石炭燃料である。すべては非可動である。それらは、16mの高さの合計6つの煙突を持っている。煙突は強制送風機を備えていない。「排気ガスは利用されているか」との5番目の質問には、ビショフは「計画はされているが実行されていない」と答えており、「もし利用されているとすれば、何の目的でか」との次の質問には、「焼却棟ⅡとⅢの入浴施設のために」と答えている[30]

 焼却棟Ⅲに100個のシャワーを設置する計画は、焼却棟に雇われていた囚人用ではなかったに違いない。この当時、収容所全体のための殺菌消毒・害虫駆除施設であった中央サウナには、54個のシャワーしか予定されていなかったからである。ビショフは194364日に、SS経済管理本部C局長に次のように書き送っている[31]

 

「囚人用のシャワー区画には54個のシャワーがあり、それぞれ3000ℓの能力を持つ2つのボイラーで支えられている。この施設は恒常的使用用に設置されている。」

 

 事実、中央サウナのシャワー室にはわずか50個のシャワーしかなかった[32]。だから、質問用紙に言及されている「焼却棟ⅡとⅢの入浴施設」は、明らかに、収容所全体の囚人用であった。

 1943624日、焼却棟Ⅲは、中央建設局から収容所司令部バラック管理局に引き渡された。引渡し状に付属している地下室の備品目録には、14個のシャワー[33]が死体安置室1用として登場しているが、それは、これまで検討してきた計画と関連している。1943331日に公式に引き渡された焼却棟Ⅱの地下室の備品目録にはシャワーはまったく登場していない[34]。シャワー計画が始められたのは5月になってからのことであったためであろう。もちろん、14個のシャワーは焼却棟の作業員用であった。収容所の作業場がこれを設置したのであろう。

 当初の計画は二つの理由からペンディングになった。第一に、建設区画Ⅰ(建物5a5b)にあった二つの殺菌駆除施設のそれぞれに、50個のシャワー[35]が設置されたためであった。作業は、ビショフが1943530日に書いた「捕虜収容所特別処置に関する建設報告」から判断すると、5月末に始まった。ビショフはその中にこう記している[36]

 

「温水供給システムの設置が二つの害虫駆除バラック(囚人入浴施設)で始められた。」

 

 713日までに、二つの施設はすでに稼動していた。それについては、ビショフがこの日に作成した「捕虜収容所と中央収容所の特別処置の作業に関する進捗報告」から知ることができる。彼はこう記している[37]

 

「建設区画Ⅰの二つの害虫駆除バラック(囚人入浴施設)の温水供給システムは稼動している。」

 

 これと平行して、「殺菌消毒・害虫駆除施設(いわゆる中央サウナ)」の建設も勤勉に進められ、工事の終了は9月初頭に予定されていた[38]。事実、施設は、「日中や数時間だけ」ではあるが、9月初頭には稼動しており[39]、その1ヵ月半後にアウシュヴィッツ管理局に引き渡されることになっていた[40]

 だが、シャワー設置計画は、1944325日にふたたび登場している。この日、1943101日にビショフの後をついで中央建設局長となったヴェルナー・ヨハンSS中尉は、「アウシュヴィッツ捕虜収容所、焼却棟、排気ガスの利用」という書簡をトップフ社に送っている。その中で、次のように書いている[41]

 

「具体的な作図と計算および詳細な説明を送ってください。焼却棟ⅡとⅢ、ひいてはⅣとⅤに関してです。」

 

 典拠資料番号「24674/43/Ro-Pru/Pa」のついた差出人不明の書簡を指している、1943413日のトップフ社一覧表には、こうある[42]

 

「アウシュヴィッツ捕虜収容所の焼却棟Ⅱのための2つのトップフ社製害虫駆除炉。」

 

 さらに、「アウシュヴィッツの焼却棟」に関する1943728日のVedag Betriebe Schlesien社の発送状があるが、そこには、「殺菌駆除施設に対するシールド作業が行なわれた」とある[43]1943211日、中央建設局が「二つの害虫駆除炉」を、建物32、すなわち中央サウナのためにトップ社に発注している(発注書148)ことが知られている[44]。最後に、日付もテキストも上記のものと同一であるVedag Betriebe Schlesien社からの「個別発送状」が存在するが、そこでは、建物32のことを明らかに「殺菌駆除施設」と呼んでいる[45]これら二つの文書は、本小論の本節で明らかにしたように、焼却棟が衛生目的で使用されたことを確証している

 プレサックの以下の指摘は正しい[46]

 

「ビルケナウ捕虜収容所が、一時に同時に、二つの機能、すなわち、保健衛生維持機能と絶滅機能を果たすことはありえない。」

 

 ビルケナウの焼却棟に衛生施設を設置する計画は、反駁しえない文書資料的証拠にもとづいている。それに対して、大量絶滅施設の存在は、プレサックも認めているように、ただ「痕跡」だけにもとづいている。だとするならば、焼却棟の本当の機能が何であったのかはきわめて明白である

 

2章:19431944年のビルケナウ焼却棟の死体安置室の利用

 

1. プレサックのテーゼ

 周知のように、アウシュヴィッツに関するプレサックの基本テーゼは、1942年末以降に、焼却棟ⅡとⅢの死体安置室1が殺人ガス室に改築されたというものである。彼はまた、焼却棟ⅣとⅤの死体安置室は当初は、ビルケナウの「ブンカー」でガス処刑された人々の死体のための死体保管庫として使われたが、のちに、焼却棟自体の中に設置された殺人ガス室でガス処刑された人々の死体保管施設として使われるようになったとも主張している。

 このテーゼの立論の骨格の一つは、19421216日の中央建設局の図面2003にもとづいている。それは、その前の図面932933を作り直したものであり、「道路側への地下室の入り口の再配置」の件を述べている[47]。プレサックによると、この建物の地下のデザインでは、死体滑降路――死体を外部から焼却棟ⅡとⅢの地下室にすべり落とすことを可能にするセメントの傾斜板――が消え去っているというのである。そして、こうコメントしている。

 

「死体をすべり落とす滑降路を通常の階段に変えてしまったことには、犠牲者が生きたまま、歩いて階段を下りていき、地下に入っていったとでも考えなければ、まったく論理性が欠けている。」

 

 のちに、プレサックは、この議論に立ち戻って、同じような主張をしている[48]

 

1219日、デヤコは、地下室のために新しい図面(2003)を作成し、このときに、大きな『建築学上のへま』を行なった。新しい図面のキャプションによると、階段は死体安置室への唯一のアクセスとなっている。これは、死者は階段を歩いて降りていかなくてはならないことを意味していた。」

 

 ロバート・ヤン・ファン・ペルトとデボラ・ドヴォルクはプレサックの議論を引きついて、こうコメントしている[49]

 

「彼[デヤコ]は、当初の計画では地下の死体安置室へのおもなアクセス口であった死体滑降路を取り除いてしまった。生きた人間が階段を下ることになったのである。死者の死体は滑降路ですべり落とされるはずである。犠牲者は歩いて死に場所に向かうことになった。」

 

 もちろん、死体滑降路は取り除かれていない[50]。しかし、焼却棟の死体安置室が「脱衣室」と「殺人ガス室」に改築されたという憶測は深刻な問題をかかえている。すなわち、収容所の中で「正常に」死亡した登録囚人の死体安置室が焼却棟になくなってしまうという問題である

 ペルトはこのことに気づいており、こう述べている[51]

 

「事実、事態ははるかに悪くなった[52]19432月には、焼却棟ⅡとⅢの死体安置室すべてが改築され、脱衣室とガス室として機能するようになり、焼却棟ⅣとⅤの死体安置室も脱衣室となるはずであったからである。焼却棟が完成する頃までに、アウシュヴィッツには、実質的に、死体安置室の機能を果たす部屋はなくなってしまった。」(強調――原文)

 

 このことは、衛生保健問題にも深刻な影響をもたらしたはずである。すなわち、収容所で死亡した登録囚人の死体は、焼却棟が「殺人ガス処刑」の犠牲者の処理が終わるまで、数日間、ひいては数週間も焼却されるのを待たねばならないという事態を誰も想定していなかったからである[53]。もしも、プレサックのテーゼが正しいとすると、死亡した囚人の死体を収容所の死体安置室に保管し、それを焼却棟に移送する件に触れている文書資料は、結果として生じるはずである危機的な衛生保健状況にも触れているはずである。そして、SS守備隊医師は、この文書資料の中でまず、この件に抗議し、この問題を解決することを提案しているはずである。では、文書資料はこの件についてどのように記しているだろうか。

 

2. ビルケナウ焼却棟の死体安置室の利用に関する文書資料

 1943320日、アウシュヴィッツSS守備隊医師ヴィルツSS大尉は、囚人用の病院施設の拡張について、収容所長に書簡を送り(次の節でもこの書簡を検討する)、こう述べている[54]

 

「囚人病棟から焼却棟に死体を運ぶために、それぞれ50体の運搬が可能な2両の屋根つき手押し車を手に入れなくてはなりません。」

 

 ここで、ヴィルツが「焼却棟」と呼んでいるのは、焼却棟Ⅱのことである。焼却棟Ⅱは、220日に、減らした処理能力で操業に入っており、320日までは、焼却機能だけを果たしていた。

 1943720日、ヴィルツは中央建設局に次のように書き送っている[55]

 

「すでに使用されている建設区画Ⅱの収容所群には、コンクリートか煉瓦の死体安置室が依然として存在していません。緊急に設置することが必要です。

 現在この目的のために使われている木造小屋はネズミの攻撃にさらされており、死体を取り除くときに調べてみると、攻撃のあとが残っていない死体はほとんどありません。ネズミは死体にひきつけられており、撲滅不可能なほど増殖しています。ネズミのノミは疫病の媒介者です。収容所の中で疫病が流行すれば、アウシュヴィッツ強制収容所のわが方のスタッフと囚人に想像を絶する帰結をもたらすことでしょう。これを防ぐ唯一の方策は、ネズミを集中的に撲滅すると同時に、死体を衛生状態十分な環境のもとで保管することです。

 それゆえ、アウシュヴィッツ守備隊医師は、たとえ簡単な措置を取らなくてはならないとしても、すぐに死体安置室を建設することをぜひとも要請する次第です。」

 

 当時使用されていた死体安置小屋の形式は、19411125日の予算建設局の指示に適合していた[56]

 ビショフは84日、ヴィルツ博士にこう回答している[57]

 

「上記の書簡に関して、SS大佐ムルゴフスキイ博士、SS大尉ヴィルツ博士と下記の署名人が参加した1943731日土曜日の会議にもとづいて、捕虜収容所の個々の地区にSS守備隊医師の上記の要請にしたがった割合で死体安置室を建設することは実行されないことを知っておいてください。

 ムルゴフスキイSS大佐は、この会議の席上で、死体を1日に2回、朝と晩に焼却棟の死体安置室に運ぶようにすれば良く、そうすれば、個々の地区に死体安置室を別々に建設することを避けうるとの見解を示しました。」

 

 1944年初頭、SS守備隊医師は、1つの煉瓦式の死体安置小屋を建設させることに成功し、この小屋は建物8aとなった[58]

 しかし、19445月、彼は、ビルケナウの建設区画Ⅱのために石造の死体安置室を建設するという問題を再度提起し、この件を、シュレジエン武装SS警察建設監督局長ビショフSS少佐に提案した。515日、ビショフはアウシュヴィッツ中央建設局長ヨハンSS中尉に手紙を書き送り、この要請の件を伝えた。この書簡の中でビショフは自分の立場をこう明らかにしている[59]

 

SS守備隊医師は、アウシュヴィッツⅡ強制収容所の建設区画Ⅱのために石造の死体安置室を建設するように要請しています。

 中央建設局は、アウシュヴィッツ地方SS管理局と協力して建設計画を作成し、建設-GB(建設産業規制全権)[60]の許可を要請するように命じられています。

 その正当な理由づけとして、1944512日のSS経済管理本部の書簡――コピーを同封しておきます――を要望書の冒頭に入れておくべきです。

 実行の緊急性を考慮すると、作業は今すぐに始めることが許されるはずです。」

 

 1944522日、ヘスSS中佐、ビショフSS少佐、ベーアSS大尉(1944511日、アウシュヴィッツⅠの所長に任命されていた)、ヨハンSS中尉が参加する会合がアウシュヴィッツで開かれた。ヨハンSS中尉は会議要録を作成しており、次のようにまとめている[61]

 

「会議が招集されたのは、要請されている死体安置室の場所と大きさを検討するためであった。現在の配置の中に設置することには問題があることが明らかとなった。死体安置室のためのスペースを十分に確保すると、少なくとも、便所・洗濯バラックを解体しなくてはならないであろう。しかし、現在の状況のもとでは、これらのバラック無しですますことは困難である。

 ヘスSS中佐は、こう指摘した。すなわち、現在有効な命令にしたがって、死体安置室の毎日の収容死体を、朝、トラックで取り除くこと。この命令が実行されれば、死体がたまってしまうという問題は生ぜず、上記の死体安置室を建設することは絶対的ではなくなる。だから、問題の死体安置室の建設に着手すべきではないというのである。」

 

 しかし、ヴィルツ博士は引き下がらず、525日、SS守備隊主任将校[62]あての書簡の中でこう述べている[63]

 

1943720日、私は、アウシュヴィッツⅡの女性収容所と建設区画Ⅱにコンクリートか煉瓦の死体安置室がまだ存在しておらず、使用中の木造小屋は、疫病の危険とネズミの攻撃のために、死体の保管にはまったく不適切であるとの事実を考慮すると、コンクリートか煉瓦の死体安置室の建設がぜひ必要であると、アウシュヴィッツ武装SS警察中央建設局に申し述べました。不適切に保管された死体はネズミの絶好の攻撃目標になってしまうのです。

 アウシュヴィッツⅡの収容所の病棟には、毎日規則的に、死体がたまっています。死体を焼却棟に搬送することが行なわれており、1日に2回、朝と晩、搬送が行なわれていますが、車両が不足していたり、燃料が不足していたり、その二つが重なってしまうために、死体は24時間では処理されてはいません。

 衛生上の理由から、また疫病の防止のために、どのような病院であっても、短期間のあいだ死体を保管する死体安置室を持っています。普通、一般の病院では、ベッドの数は500を超えることはありません。しかし、囚人病棟では、ベッドの数は平均30004000にも達しています。したがって、多数の死体のための適切な保管スペースを確保しなくてはならないと考えています。

 1943720日の私の書簡、およびそれ以前のアウシュヴィッツ武装SS警察中央建設局あての書簡の中で、私が要請していたのは、死体安置室を設置することであり、当該の建物の中に死体安置ホールを建設することではありません。事態の緊急性を考慮して、そのような死体安置室を即座に設置する措置を要請しています。現在、死体の保管は非常に不衛生な状態で行なわれています。もし要請が受け容れられなければ、収容所全体に疫病が蔓延することを防ぐために、私の上司の司令官に具申しなくてはならないでしょう。

 死体安置室のスケッチを同封します。このような死体安置室が、女性収容所、建設区画Ⅱのabef区画の病棟に緊急に必要です。こうした部屋は、病棟の外か、それに隣接する場所に建てることができます。」[64]

 

 この書簡は、収容所長あてであるけれども、中央建設局長にも関係していた。中央建設局長は、612日に、シュレジエン武装SS警察建設監督局長あてに書簡を送り、日付を530日にあらためたうえで、523日の自分の会議要録と、515日のヴィルツ博士の書簡、525日の書簡に同封されていた死体安置室のスケッチを同封した。ヨハン自身は、承認を受けることができればすぐに、要請されたかたちでの死体安置室の建設に着手する用意があると述べていた[65]

 

3. これらの文書資料の意味

 前説で検討した文書資料は、ビルケナウの焼却棟が犯罪的意味合いで改築されたというプレサックの解釈を、全面的かつ根本的にくつがえしている。SS守備隊医師の書簡には、焼却棟の死体安置室を不適切に(犯罪的に)利用したことを示唆するものはまったくない。不適切に使用すれば、ヴィルツが注意を喚起している衛生保健問題を幅広く呼び起こしてしまったであろう。プレサックの説とは逆に、焼却棟の死体安置室は、何時であれ、そして、無条件に死体安置室として利用されていたのである。「何時であれ」という表現を使ったのは、どの文書資料にも、死体安置室が、登録囚人の死体安置室の臨時に保管する以外の理由で、一時的にでも利用できなくなったということがまったく記載されていないからである。「無条件に」という表現を付け加えたのは、どの文書資料にも、死体安置室を死体の保管以外の目的で利用したということがまったく記載されていないからである。

 もしプレサックのテーゼが正しいとすれば、アウシュヴィッツ収容所当局は、収容所で死亡した登録囚人の死体を処理するために、焼却棟の構成を変更して、小さな焼却棟の一つを登録囚人の焼却に割り当てるか、小さな焼却棟の中に一つかいくつかの死体安置室を登録囚人の死体の保管に割り当てたことであろう。しかし、そのようなことはまったく起っていない。

 これらすべてが、1943320日のヴィルツ博士の書簡からもわかるように、焼却棟の死体安置室の基本的機能が、まさに死体安置室が通常に提供する機能であったことを明らかにしている。そして、ヴィルツがこの書簡を書いた1943320日には、ギリシアからの2191名のユダヤ人のガス処刑が行なわれたされており[66]、その死体の焼却にはまる1週間かかったことであろう。焼却棟Ⅱでの最初のガス処刑、すなわち、1492名の犠牲者のガス処刑は314日に行なわれたという。そして、彼らの死体の焼却は319日に終わったという。だとすると、316日に行なわれたという二回目のガス処刑[67]は不可能であったであろう。焼却棟の「ガス室」にはまだ900体の死体が依然として残っていたはずだからである。

 そして、このような時期に、ヴィルツ博士が懸念していたのは本物の死者だけであり、彼らの死体を収容所病院から焼却棟に運んでいくための2両の手押し車の提供を要請しているのである

 1943720日のヴィルツ書簡は、囚人死亡者の保管状態が、衛生上の観点からみて、さらには、疫病の蔓延の可能性という観点から見て、きわめて危険な状態であったことを明らかにしている。プレサックのテーゼが正しいとすると、疫病の危険性ははるかに大きくなったにちがいない。登録囚人の死体は、もっと長期にわたって、収容所の中の不十分な死体安置室に放置され、その数は増え続け、ネズミの数も急激に増えてしまうからである。しかし、ヴィルツ博士は、このような仮説上の状況については、ほのめかしもしておらず、収容所の実際の状況を改善するだけの措置を提案している。彼の書簡には、プレサックのテーゼが正しければ生じたはずである仮説上の状況が起こるかもしれないという懸念すらないのである

 194384日のビショフ書簡は、死体を1日に2回、朝と晩に「焼却棟の死体安置室」に搬送せよとの731日のムルゴフスキイ博士の命令について触れている。この命令は、すべての焼却棟に関してであり、1日に2回死体を搬送せよというのであるから、死体安置室が死体安置室として全面的に使用されていたことを意味している。もしプレサックのテーゼが正しいとすれば、この命令は笑止千万となってしまう。なぜならば、この命令が出された日には、ベンドスブルクとソスノヴィツのゲートーのユダヤ人のアウシュヴィッツへの移送が進行中であり、この28000名が、81日から12日のあいだにビルケナウの焼却棟でガス処刑されたことになっているからである[68]。この移送とガス処刑が事実であるとすると、武装SS衛生研究所長ムルゴフスキイ博士も、ヴィルツ博士も、ヨハンも等しく、この件を知っていたにちがいないはずだからである。

 したがって、死体が1日に2回焼却棟の死体安置室に搬送されたという確証的で明白な事実は、これらの焼却棟の死体安置室で大量ガス処刑が行なわれたという仮説を完全に否定しているのである

これらの事実が確証的であることは、収容所長ヘスが前日の会議で、死体を朝、トラックで搬送せよとの命令のことに言及したことに触れている、523日のヨハンの会議要録からもわかる。さらに、ヴィルツ博士は1944525日の書簡の中で、焼却棟への死体の搬送は12回、朝と晩に行なわれることになっており、そのように行なわれていると述べていることからも、はっきりとわかる。だから、19445月後半には、この命令が、トラックと燃料が利用できるという枠内ではあるが、効力を持っており、遵守されていたという事実には、まったく疑問をはさむ余地がない。

 一方、19445月後半は、ハンガリー系ユダヤ人のアウシュヴィッツへの移送が始まった時期である。この件については、誰もが、とりわけ、ルドルフ・ヘスは知っていたにちがいない。最初の移送集団がアウシュヴィッツに到着したのは517日であった。そして、上記の会議が開かれた522日までに、62000名以上のハンガリー系ユダヤ人がすでに到着していた。ホロコースト正史によると、そのうちの3分の2、すなわち、41000名がガス処刑され、ビルケナウの焼却棟だけでは死体を焼却することができなかったので、残った死体を焼却するために、いくつかの焼却壕が掘られたという[69]

 もしも、プレサックのテーゼが正しいとすると、この時期、ビルケナウの焼却棟の死体安置室は犠牲者の死体で一杯であり続けていたであろう。しかし、まさにその時期に、ヘスは、収容所で死亡した登録囚人の死体を12回焼却棟に搬送せよとの命令を冷静に思い起こさせている。なんとも奇妙である。

 それゆえ、この場合でも、死体が1日に2回焼却棟の死体安置室に搬送されたという確証的で明白な事実は、これらの焼却棟の死体安置室でハンガリー系ユダヤ人の大量ガス処刑が行なわれたという仮説を完全に否定している、と付け加えておかなくてはならない。

 結論として、ビルケナウ焼却棟の死体安置室の利用に関する文書資料は、死体安置室が、19433月というその最初からそれ以降、ガスによる大量絶滅という意味での「脱衣室」と「ガス室」としては使われなかったし、使われることはありえなかったことを明らかにしているということができる

 

3章:ビルケナウⅡの脱衣室――起源と機能

1. 脱衣室:生きている人々用か死者用か

 第1章で、1943513日のビショフ報告の中に、「焼却棟Ⅲの脱衣室にシャワーを」設置する計画が触れられていることに言及しておいた。この章では、ビルケナウの焼却棟の「脱衣室」の起源と機能を検証しておこう。

 プレサックのテーゼ――ペルトもこれを完全に継承している――によると、ビルケナウの焼却棟Ⅱは、通常の衛生・保健施設として設計されたが、[70]

 

194210月末頃、194112月に焼却棟Ⅰの死体安置室で採用されたのと同じようなやり方で、ブンカー12でのガス処刑を、機械的な換気装置のついた焼却棟の部屋に移すという、きわめて合理的な着想が生まれた。」

 

 プレサックによると、この着想は、「SS建設局が焼却棟でガス処刑を行なうことを決定した」[71]ときに、具体的なかたちをとった。すでに指摘しておいたように、プレサックの見解では、この決定の最初の痕跡は、死体滑降路を取り除いたという「地下室への入り口の道路側への再配置」についての、19421219日の図面であるという。

 通常の衛生・保健施設として設計・建設された焼却棟が、自然死した囚人の死体を死体安置室に収容して、焼却炉で焼却するというやり方をまったく放棄して、大量絶滅施設に改築されたという解釈には、まったく根拠がない。そのことは、第2章で検討した文書資料を参照すればすぐにわかることである。

 プレサックによると、焼却棟でガス処刑を行なうという決定が下されたのは、19421219日であり、それゆえ、中央建設局の図面にその痕跡が残っているという。死体安置室1だけが吸気・排気システムを備えていたので、この部屋が殺人ガス室となり、大量絶滅を実行しようとしていたので、死体安置室2が犠牲者のための脱衣室となる、そして、このことはすでに焼却棟Ⅰで実験されていた手順にしたがっていたというのである。

 それゆえ、死体安置室1を殺人ガス室に改造する決定は、死体安置室2を脱衣室に改造する決定をも意味しており、二つの決定は同時になされたという。たしかに、ある文書資料では、焼却棟Ⅱの死体安置室2は「脱衣室」、「脱衣地下室」と呼ばれている。プレサックにとっては、この呼称が、焼却棟が絶滅施設として機能したという自分のテーゼを確証する「犯罪の痕跡」であり、その呼称が最初に登場するのは、194336日のトップフ社あてのビショフ書簡であるという。ビショフは、死体安置室2に触れて、こう述べている[72]

 

「さらに、脱衣室の排気装置の変更に関する補足的見積もりの提出が求められています。」

 

 しかし、この脱衣室は大量ガス処刑の犠牲者用であったのであろうか。

 

2. ビルケナウの焼却棟Ⅱの脱衣室の起源と機能

 焼却棟の地下に「脱衣室」を設置する決定の起源に関する、プレサックの知らない2つの文書資料が、この問題を一挙に解決してくれるであろう。

 1943121日、SS守備隊医師は、次のような書簡を収容所長に書き送っている[73]

 

1. SS守備隊医師は、ビルケナウの焼却棟の新しい建設計画の中にある解剖室を二つの均等な部屋に分割し、第一の部屋には1つか2つの洗面台を設置することを要請します。第一の部屋は解剖室専門に使用されますが、第二の部屋は、解剖の準備、書類・筆記資料・書籍の保管のため、および、カラースライドの作成のため、顕微鏡作業のために必要なのです。

2. さらに、地下室の中に脱衣室を設置することを要請いたします。」

 

 この書簡から、非常に重要な結論を引き出すことができる。

 

1.           焼却棟に「脱衣室」を設置する決定は、収容所長(ヘス)によるものでも、中央建設局(ビショフ)によるものでもなく、SS守備隊医師によるものにすぎなかった

2.           SS守備隊医師は、この件を指して重要なこととは考えておらず、解剖室に対する純粋に衛生・保健的措置を実行する付け足しのようなものとしてこの件に触れている。

3.           焼却棟は、衛生・保健的観点からも、法医学的観点からも、焼却棟にかかわる計画について熟知しており、設計変更などが行なわれる場合には、中央建設局に口をはさむことのできるSS守備隊医師の管轄下にあった。にもかかわらず、SS守備隊医師は、死体安置室2をガス処刑の犠牲者用の脱衣室に改造する計画について、まったく知らない。書簡によると、彼は、とくに、死体安置室2とも指定せず、また、死体安置室1がこの目的のためには使えないとも指摘しないままに、「脱衣室」を地下のどこかに設置するように要請しているにすぎない。だが、本来の彼の立場からすれば、2ヶ月前になされたとされる、死体安置室2を「脱衣室」に改造する決定を知っていたはずである。したがって、この決定について彼が知らないとすれば、そもそもそのような決定はなされていないのである。上記の書簡が明らかにしているのは、19431月にSS守備隊医師が「脱衣室」の件を「着想」したこと、そして、この件を121日にアウシュヴィッツ本部に伝えたことである

 

 194325日、捕虜収容所(ビルケナウの)建設局長ヤニシュSS少尉は、SS守備隊医師の書簡に、手書きのメモでこう回答している[74]

 

「(1)については、着手されている。

2)については、脱衣のために、厩舎バラックが地下室への入り口の前に設置された。」

 

 焼却棟の中の脱衣室は何のためであったのか。このために、なぜバラックが建てられたのか。

 プレサックは、ヤニシュの述べている場所、すなわち、「地下室への入り口の前の」焼却棟Ⅱの前の厩舎バラックは、1943320日の「アウシュヴィッツ捕虜収容所配置図面」にたしかに登場していると指摘している[75]

 

「図面は、厩舎タイプの小屋が19433月には焼却棟Ⅱの北側の広場に立てられていることを確証している。われわれはこの小屋の詳細についてはほとんど知らない。ただ、ユダヤ人の最初の集団がこの焼却棟でガス処刑されたときに、彼らのための脱衣室として使われ、特別労務班員のヘンリク・タウバーの証言によると、その後すぐに解体されてしまった。死体安置室2へのアクセス階段がはじめて登場するのは、PMO-Archiven vorgefunden wurde, BW 30/40, S. 68eであり、その日付は1943226日である(Dokument 7a)。この入り口が利用可能となるとすぐに、脱衣小屋は必要ではなくなった。」

 

 プレサックはそのあとでこの問題に立ち戻って、新しい解釈を行なっている[76]

 

314日日曜日、メッシングは、彼の呼ぶところの『脱衣地下室Ⅱ』すなわち死体安置室2の換気システムの設置を続けていた。夕方、クラクフ・ゲットーからの1500名ほどのユダヤ人が焼却棟Ⅱでガス処刑された最初の犠牲者となった。死体安置室2は道具や換気装置のコンポーネントで散らかっていたので、彼らはそこでは脱衣せず、焼却棟の北の広場に臨時に立てられた納屋風の小屋で脱衣した。」

 

 またのちに、プレサックは、最初の解釈に戻っている[77]

 

「建設局の資料は、19433月中頃に、小屋が焼却棟Ⅱの北側の広場に南北方向に立てられたことを確証している。それは、ヘンリク・タウバーによると、脱衣室として使われた。地下の脱衣室(死体安置室Ⅱ)へのアクセス階段がまだ完成していなかったからにちがいない。」

 

 プレサックが言及しているのは、次のようなタウバー証言である[78]

 

「これらの人々[犠牲者]は、この当時、焼却棟Ⅱの広場の入り口に、焼却棟に対して垂直に建てられていたバラックに押し込まれた。人々は入り口の側にあるドアからこのバラックに入り、焼却棟の右側にある階段を使って[地下に]降りていった。このバラックは、当時は、脱衣室として使われていた。しかし、それが使われたのは1週間ほどで、その後解体された。」

 

 プレサックは、1943320日の図面すべてを掲載しているが、キャプションは判読できない[79]。ただし、別のバージョンの図面(アウシュヴィッツ博物館のもう一つのネガティブ写真から)にも触れており、ここではキャプションが判読できる[80]。ここでは、焼却棟Ⅱの前のバラックは白抜きの四辺形で描かれている。「完成した」バラックは灰色の四辺形で、「建設中」のバラックは斜線の四辺形で描かれているから、白抜きの四辺形は「計画中」の建物を指している。このことは、プレサックが掲載している別の図面でも、よく判別することができる[81]

 ところで、プレサックが言及している図面のすぐ前に書かれたもう一つのビルケナウの図面があり、そこには、問題のバラックは載っていない。これは、19433月の、「強制・捕虜収容所の建設・拡張図面、2215」である[82]。その番号は2215であるので、図面2216よりも前であり、1943320日以前にかかれたものである。

 このバラックがなぜ図面2216だけに登場しているのかは定かではない。1943215日には、着手されていたにもかかわらず、ビルケナウの計画中のバラック、建設中のバラック、完了したバラックを記している1943217日の図面1991にはまったく登場していない[83]。明らかに、このバラックが臨時のものであったためであろう。確実なことは、このバラックは「ガス処刑」とはまったく関係ないことである。

 死体安置室2へのアクセス階段がまだ完成していなかったので、このバラックが建設されたというプレサックの最初の解釈はナンセンスである。プレサックは、焼却棟Ⅲについて、事実、こう述べているからである[84]

 

「[1943年]210日、フタ社の現場監督コルベの監督の下で、焼却棟Ⅲの死体安置室2(将来の脱衣室)への西側のアクセス階段を建設する工事が始まった。それは、6日間かかり、15日には完了した(PMO Dossier BW 30/38, S. 25-27)。この作業が焼却棟Ⅱに対しても行なわれたかどうかはわかっていない。これに関する唯一の言及は、226日、すなわち、焼却棟Ⅲの完成11日後である。」

 

 すでに指摘したように、ビルケナウ収容所の図面2216が書かれた1943320日、アウシュヴィッツ守備隊医師ヴィルツSS大尉は、収容所長に次のように書き送っている[85]

 

「囚人病棟から焼却棟に死体を運ぶために、それぞれ50体の運搬が可能な2両の屋根つき手押し車を手に入れなくてはなりません。」

 

 こうしてみると、問題はまったく明白である。SS守備隊医師が心配していたのは、囚人の死体を保管するにあたっての劣悪な衛生・保健環境であった。既存の死体安置室は不足しており、しかも木造であったために、死体を狙っているネズミの攻撃を防ぐことができなかったし、疫病の発生という危険も生じていたからである。ヴィルツは、すでに1月に生じていた事態のことを、1943720日の書簡の中でも明瞭に述べている。それゆえ、SS守備隊医師は、死体をもっと衛生状態の良い場所で処理しようとしていた。最良の場所は、当時まだ建設中であった焼却棟Ⅱの死体安置室であったにちがいない。121日、彼は、これらの死体のための「脱衣室」を焼却棟の「地下室」に設置することを要請した。そして、129日、ビショフは、死体を死体安置室2に保管することはできないが、Vergasungskellerに搬送することができるので、さしたることにはならないと回答した215日、ヤニシュは、焼却棟Ⅱの「地下室への入り口の前の厩舎バラック」が収容所の囚人の死体の脱衣のために設置されたことをSS守備隊医師に伝えた。だから、このバラックは121日から215日のあいだに設置されたのであり、それゆえに、犯罪目的のために、使われたはずはまったくないのである。

 このことは、焼却棟Ⅱが稼動し始めたのは1943220日であるという事実からも確証される。1943329日のキルシュネク報告は、この焼却棟について次のように述べている[86]

 

「煉瓦作業は完了し、1943220日に操業に入った。」

 

 だから、焼却棟は、換気装置が死体安置室1に設置される以前にも、操業に入っていたのであり、この部屋が「殺人ガス室」として使うことができる以前にすでに、死体を受け入れていたことになる。

 しかし、焼却棟外のバラックがなぜ必要であったのであろうか。答えは簡単である。19431月の時点では、死体安置室2がまだ利用可能ではなかったためである。ビショフは、1943123日、「捕虜収容所の焼却棟の建設状況」についての「報告1号」をカムラーに送っているが、そこでは、焼却棟Ⅱについて、こう述べられている[87]

 

「地下室Ⅱ。鉄筋コンクリート天井の完了(型枠の除去は天候次第)。」

 

 トップフ社の技師クルト・プリュファーは、1943129日の報告の中で、こう述べている[88]

 

「死体安置室2の型枠は、凍結のために除去できていない。」

 

 同日、キルシュネクSS中尉は、会議要録にこう記している[89]

 

「死体安置室2は天井の型枠の除去をのぞいて、完成している。除去には凍結以上に気温が上がることが必要である。」

 

 そして最後に、ビショフは、1943129日のカムラーあて書簡の中で、こう記している[90]

 

焼却棟Ⅱは、非常な困難と凍結にもかかわらず、全力を投入した昼夜兼行の努力によって、ちょっとした建設作業を別にすれば、完成しました。

建設にあたったエルフルトのトップフ・ウント・ゼーネ社の主任技師プリュファー氏の前で、焼却炉は火を入れられ、完璧に稼動しています。

死体安置室の鉄筋コンクリート製の天井は、凍結の影響のため、まだ型枠が撤去できません。とはいえ、これはたいしたことではありません。というのは、その目的のためには、Vergasungskellerが利用可能だからです。」

 

 19432月の最初の2週間、ビルケナウでは、朝の気温が-1℃から-8℃であり、夜半の最低気温はこれよりも低く、日中の最高気温が-3℃から6℃のあいだであった日が、少なくとも10日間はあったであろう[91]。このために、この機関は、死体安置室2のコンクリート天井から型枠を除去できずに、死体安置室2は使用不能であったにちがいない。

外部からの死体安置室2へのアクセスの設置に関する唯一の文書資料は、1943226日のものである[92]。作業はその日か数日後に始められ、焼却棟Ⅲ内部での作業と同様に、194338日終了したようである。38日、トップフ社の技術者ハインリヒ・メッシングは、死体安置室2の排気ダクトの取り付け作業に取り掛かっているが、彼の毎週の作業報告では、この部屋のことを「脱衣室」と呼んでいる[93]。そして、この作業は1943331日に終了した(「脱衣地下室用の排気装置が設置された」)。

したがって、遅くとも38日までには、中央建設局は、SS守備隊医師の要請にもとづいて、焼却棟Ⅱの地下に、もっと限定すれば、死体安置室2の中に、「脱衣室」を設置する決定を下していたことになる。その一方で、死体安置室1313日から稼動していた(「地下室1の吸気・排気装置が稼動し始めた」)。

320日は、2191名のギリシア系ユダヤ人のガス処刑が目撃されたことになっている日であるが[94]、その日にSS守備隊医師が心配しているのは、囚人の死体を収容所の病院から焼却棟Ⅱに搬送することだけであり、「ガス処刑」をほのめかすような表現はまったく存在していない。

したがって、冒頭の二つの質問には次のように答えることができる。

 

1.           「脱衣室」は、収容所で死亡した登録囚人の死体用であった。194458日からアウシュヴィッツⅡ(ビルケナウ)の所長であったクラマーSS大尉は、ベルゼン裁判のときに、この件をこう証言している[95]。「その日に死亡した人は誰であれ、死体安置室と呼ばれる特別な建物に収容され、ついで、毎晩、トラックで焼却棟に運ばれました。囚人がローリーからの死体の積み降ろしを行ないました。ついで、死体は焼却される前に、囚人の手で衣服を脱がされました。これらの衣服は、洗浄され、人々が疫病のために死亡したことのない場所でふたたび使用されました。」

2.           焼却棟の前のバラックは、もともと「脱衣室」として、設置された。死体安置室2は、SS守備隊医師が「脱衣室」の設置を要請した1943121日時点では、まだ利用可能ではなかったからである

 

3. ビルケナウの焼却棟ⅡのVergasungskeller(ガス処理室)

 プレサックが登場する以前でも、ホロコースト正史は、前節で検討した1943129日のカムラーあてのビショフ書簡に始めて登場するVergasungskellerなる用語を、焼却棟Ⅱに殺人ガス室が実在する痕跡――直接証拠ではないとしても――とみなしてきた。ここで興味深いのは、この用語が登場してきた文脈、テキスト全体の意味である。

 ビショフは「死体安置室の鉄筋コンクリート製の天井は、凍結の影響のため、まだ型枠が撤去できません。とはいえ、これはたいしたことではありません。というのは、その目的のためには、Vergasungskellerが利用可能だからです」と述べている。字義通り解釈すると、Vergasungskellerとは死体安置室2の機能を引き継ぐことができるというのである。だから、死体安置室2の機能が犠牲者用の脱衣室であり、Vergasungskellerが殺人ガス室の機能を果たしたと仮定すると、同じ部屋が殺人ガス室の機能と脱衣室の機能を同時に果たしてしまうという問題が生じることになる。

 殺人ガス室を脱衣室としても利用することはできると主張することも可能ではあるが、タウバーとプレサックによると、中央建設局は、犠牲者用の脱衣室として、焼却棟の前にバラックを建設したことになっている。なぜ、そんなことをしたのであろうか。

 ここで強調しておかなくてはならないのは、ビショフ書簡の言及している問題が、「死体安置室2」が利用できない期間に限るという、ごく臨時の、この期間だけに関心の対象となっている問題だったということである。すなわち、Vergasungskellerは、1943129日およびそのあとの数日間に限り、「その目的のために」、すなわち、死体安置室として利用できたことである。ビショフが書簡で述べているように、この時点では、トップフ社は、鉄道運行の制限のために、「吸気・排気装置」を配送していなかった。だから、Vergasungskellerを殺人ガス室として稼動させることはできなかったはずである

 ホロコースト正史は、犠牲者用の脱衣室は稼動していなかったが、その代わりに、Vergasungskellerという殺人ガス室を利用できたので、さしたる問題ではなかったと論じてきたが、この解釈はいっそうナンセンスとなる。殺人ガス室自体がまだ稼動しえなかったことを考えると、一体、犠牲者は何のために服を脱がなくてはならなかったのか。ガス室がまだ吸気・排気装置を備えていなかった時期に、どのようにして、ガス室内の犠牲者を外に引き出すことができたのであろうか。ガス室がまだ稼動していないときの犠牲者とは、一体何を意味しているのであろうか

 結論はこうなる。犠牲者は、「死体安置室2」が利用できないので、この部屋では服を脱ぐことはできなかった。犠牲者はVergasungskellerで服を脱ぐことはできたが、彼らを「死体安置室2」おいても、Vergasungskellerにおいてもガス処刑することはできなかった。

 それゆえ、ホロコースト正史によるビショフ書簡の解釈がまったく間違っていることは、きわめて明瞭である。すなわち、「死体安置室2」は利用可能ではなかったので、この部屋を、収容所で「自然死した」登録囚人の死体の保管所もしくは脱衣所として利用することはできなかった。しかし、死体をVergasungskellerに収容することができるので、この問題はたいしたことではないと解釈しなくてはならないのである

 最後に、なぜ「死体安置室1」がVergasungskellerと呼ばれたのかという問題が残っている。

 焼却棟Ⅱの地下室を「犯罪目的」に改造することは、19427月にビルケナウに発生したチフスをまだ鎮圧しえていなかった時期のことであったという。囚人の死亡率は、かつてよりは低下していたけれども、依然として高かった。19428月は8600名ほど、9月は7400名ほど、10月は4500名ほど、11月は4100名ほど、12月は4600名ほど、19431月は4500名ほどであった[96]

 194319日、ビショフは、「アウシュヴィッツ強制・捕虜収容所の衛生施設」について、カムラーに書簡を送っているが、その中で、その当時存在していた殺菌消毒・害虫駆除施設、すなわち、アウシュヴィッツ強制収容所の5つの施設、ビルケナウ捕虜収容所の4つの施設をリストアップしている。そして、自分の書簡を次のような考察で締めくくっている[97]

 

「上記のことから見て取ることができますように、衛生施設の充実という課題はかなり実現されてきました。民間人従業員用の通過バラックが稼動すれば、いついかなるときでも、数多くの人々の殺菌消毒・害虫駆除を行なうことができるようになります。」

 

 しかし、その後の日々、中央収容所ブロック1の温風駆除装置(トップフ・ウント・ゼーネ社製)、「捕虜収容所男性・女性殺菌駆除バラック」すなわちバラック5a5bの温風駆除装置(ホッホハイム社製)、「兵員害虫駆除施設」の装置が、火事のため、稼働停止してしまった[98]。この災難が起こったのは、19427月に発生したチフスをまだ鎮圧していないときのことであった。

 19421217日、ビショフはビエリッツの「兵員登録局、W課」あてにこう書き送っている[99]

 

1942128日の照会に関して、中央建設局は、来るべき3ヶ月間は、収容所の検疫封鎖を解除することはできないであろうことをお知らせいたします。疫病を鎮圧するすべての措置が作動していますが、新たな発生を根絶するにはいたっていないからです。」

 

 同日、ビショフは、収容所長にこう書き送っている[100]

 

SS守備隊医師の命令に応じて、19421219日土曜日、民間人従業員に対する最初の害虫駆除・殺菌消毒措置が行なわれます。このために、強制収容所の殺菌駆除装置を利用しなくてはなりません。同じように、19421222日から、民間人従業員の個別的な害虫駆除が行なわれます。ですから、所長の承認が必要です。」

 

 194318日の「守備隊命令1/43」の中で、アウシュヴィッツ所長はこう伝達している[101]

 

194314日の無線電信で、DⅢ課長は、アウシュヴィッツ強制収容所の検疫封鎖が依然と同じように効力を持ち続けると伝えてきている。」

 

 194315日、ミスロヴィツ(アウシュヴィッツの北20kmほどの町)の監獄で、チフスの症例がいくつか確認され、囚人たちのあいだに急速に広まっていった。カトヴィツの市行政長は、患者をアウシュヴィッツに送るように提案した。彼は、収容所長あての書簡の中でこう書いている[102]

 

「私はまた、これらの囚人がアウシュヴィッツ収容所に新しい症例を持ち込んでしまうことを承知しています。ただし、アウシュヴィッツ収容所ではチフスがまだ蔓延しており、これを鎮圧するために、数多くの衛生措置がとられてきましたので、このような要請をお願いしても、お許しいただけるのではないかと考えております。」

 

 113日、ルドルフ・ヘスは、収容所では「チフスのいくつかの症例が」依然として起っているものの、疫病が蔓延しているわけではない(「チフスの疫病はもやは存在していません」)と回答し、病気の囚人を受け入れることで、チフスがふたたび蔓延してしまう可能性が高くなってしまう(「病気の囚人を受け入れることで、新しくチフスの疫病が発生してしまう危険性が非常に大きくなってしまいます」)[103]との理由で、カトヴィツ市行政長の申し出を拒否した。

 しかし、カトヴィツ警察署長は、ミスロヴィツでチフスによって死亡した囚人の死体は、害虫駆除剤で処理し、棺に納めてから、焼却のために、死体搬送車でアウシュヴィッツに送られると決定した(「焼却のために、死者は死体搬送車でアウシュヴィッツに送られる」)[104]

 アウシュヴィッツの衛生・保健状況は、ルドルフ・ヘスが述べているほどかんばしくはなかった。125日、ビショフは、「内部指令86」の中で、こう述べている[105]

 

「アウシュヴィッツ強制収容所SS守備隊医師からの命令を考慮して、建設局宿舎バラックに居住している中央建設局のすべてのSS隊員は、3週間の検疫封鎖措置の対象となる。」

 

 19431月、チフスがふたたび蔓延するようになり、それは、2月の最初の10日間に最高潮に達した。このために、SS経済管理本部D局長グリュックスSS少将は、劇的な措置をとらざるをえなかった。このことは、1943212日の「チフスの症例増加」に関するカムラーあてのビショフ書簡からもわかる[106]

 

「守備隊兵士の中でチフスの症例が増加したことを考慮して、SS少将・武装SS少将グリュックスは、アウシュヴィッツ強制収容所に対する全面的な検疫隔離を命じました。これと関連して、1943211日からは、すべての囚人は殺菌駆除の対象となり、収容所を離れることは認められなくなります。このために、大量の囚人が割り当てられている建設計画を中断しなくてはなりません。作業の再開に関しては、中央建設局が通達することになっています。」

 

 ここで、Vergasungskeller問題に戻ろう。文書資料にもとづいたこれまでの文脈を考慮すれば、19431月末の時点で、SS管理当局が、火事による殺菌駆除装置の不足という事態を克服するために、焼却棟Ⅱの死体安置室1を臨時のシアン化水素ガス害虫駆除室として利用しようと計画したことは至極当然である。そして、Vergasungskellerという名称は、やはり、Vergasungsraumと呼ばれていた建物BW5a5bのシアン化水素ガス害虫駆除室に由来していたにちがいない[107]

 このような臨時の害虫駆除室を建設するというイニシアティブは、SS経済管理本部C局から出てきたのであろう。Vergasungskellerという名称を使っている、1943129日のビショフ書簡はSS経済管理本部C局長カムラーあてであり、受取人のカムラーがこの用語の意味しているところを熟知していることを当然の前提としているからである。このことは、1月末、SS経済管理本部C/Ⅲ課(技術部門)が、アウシュヴィッツ収容所用の「シラミ駆除装置」の見積もりを、ベルリンのハンス・コリ社に要請していることからも確証できる。22日、コリ社は、「アウシュヴィッツ強制収容所用の害虫駆除装置」[108]、「アウシュヴィッツ強制収容所用の温風駆除装置に必要な鉄」合計4152kgの「リスト」[109]、「アウシュヴィッツ強制収容所用の温風駆除装置のコスト見積もり」4960.40マルク[110]についてをC/Ⅲ課に回答している。

 同日の194322日、SS経済管理本部C//2課(商業部門)長コターSS大尉は、「アウシュヴィッツ強制収容所殺菌駆除装置とサウナに対する視察」を行なった。SS経済管理本部C/Ⅵ課長アイレンシュマルツSS大佐の作成した、「殺菌駆除施設」に関する報告には、もともと温風装置は、30℃の気温を必要とするシアン化水素ガスによる殺菌駆除を想定していたものであったが、95℃の気温を必要とする温風駆除用に使われているので、「負担過多」となっているとある[111]

 

「多くの囚人が毎日やってきており、囚人数が増加しているために、装置を永続的に使用しなくてはならなくなっている。このために装置は疲労しており、これを解消する唯一の手段は、石炭燃料の温風装置を導入することである。

 装置は壊れそうであり、それに防ぐために、既存の殺菌駆除施設用に、銑鉄の温風装置の導入が考えられている。製造元と交渉した結果、3週間以内にこれらの装置を導入することが可能であることがわかったので、疫病鎮圧措置をとることが可能である。火事の発生原因の大半は、オーバーヒートであったので、このような施設を利用するにあたっては、それに応じた指示を遵守させることが絶対に必要である。」

 

 焼却棟Ⅱの死体安置室1を臨時の殺菌駆除室として利用するという着想は、その後、その他の焼却棟にも適用され、プレサックは、文書資料にその件が登場している箇所を、殺人ガス室が実在した「痕跡」とか「筆のすべり」と解釈するようになった。

 中央建設局は3ヶ月少々このような計画に従事したのち、カムラーは、ビルケナウ収容所の「衛生施設の改善のための特別処置」計画を変更し、焼却棟の部屋を臨時の害虫駆除室として利用する計画すべては、突然放棄された。

 19437月末の時点で、1日に54000名を処理する殺菌消毒・害虫駆除施設がアウシュヴィッツ・ビルケナウ収容所群の中に存在しているか、建設中であった[112]。しかし、遅くとも19435月までには、中央建設局の文書は、焼却棟の部屋を臨時の殺菌駆除施設として利用する件について言及することを止めている。このために、プレサックによると、焼却棟の中で犯罪的行動が行なわれていることを示唆するような「痕跡」や「筆のすべり」もまったく登場していない。

 すでに1994年、私は次の点を強調しておいた。すなわち、ビルケナウの焼却棟Ⅱに関するかぎり、焼却棟が収容所管理局に公式に引き渡された1943331日という日付よりもあとの日付をもつ「犯罪の痕跡」は一つも存在しない。それゆえ、この焼却棟が絶滅活動に使用されたとされる20ヶ月以上の期間に関しては、たとえ瑣末なものであっても、この「痕跡」は一つも存在していないし、このことは他の焼却棟にもあてはまる、と[113]。ホロコースト正史は、この奇妙な事態がなぜ生じているのかまったく疑問を持ってこなかった。それは文書資料が欠落しているためではないのである。すなわち、19435月に、通常の殺菌消毒・害虫駆除施設の改善計画が実行され、そのために、焼却棟に臨時の殺菌駆除施設を設置するという案がまったく必要なくなったのである。この事実によってのみ、奇妙な事態を完璧に説明しうるのである。ちなみに、この案から焼却棟の中に囚人用の臨時シャワー室を設置するという計画が生まれたが、結局は、この計画も放棄された。建物5a5b100個のシャワーが規則的に機能するようになり、また、第1章第4節で明らかにしたように、中央サウナの完成が近づいていたからである

 

 

4章:ビルケナウの建設区画Ⅲの囚人病棟

1. プレサックのコメント

 プレサックは、1989年に刊行された彼の最初のアウシュヴィッツ研究書の中に、194364日にベルリンで作成されたビルケナウの建設区画Ⅲの図面(図面2521)を掲載している[114]。「建設区画Ⅲ。囚人病棟と検疫区」という名称のこの図面では、建設区画Ⅲは、2つの検疫収容所―それぞれ4088名の男性用と女性用――の区画と、2つの病棟区画――それぞれ3188名の男性用と女性用――に分けられている。2つの病棟区画は、2つの「手術」バラック、2つの「X線・処理」バラック、2つの「薬局」として利用されるバラック、4つの「手術されたばかりの患者」バラック、4つの「重病人」バラックから構成されている。プレサックはさらに、翌日作成された、アウシュヴィッツ強制収容所用の「囚人病棟」の図面(図面2417)も掲載している。この囚人病棟は、30床の部屋2つ、24床の部屋2つ、18床の部屋2つ、合計6つの部屋で構成されている[115]

 フランス人歴史家プレサックは、この文書を次のようにコメントしている[116]

 

「写真20の図面(194364日)は、修正主義者にとっては、まさしく天からの贈り物である。ビルケナウの建設区画Ⅲ(捕虜収容所建設区画Ⅲ)のもともとの配置に関していえば、この区画は検疫収容所と病院収容所の併設地区としてだけ建設されることになっているからである。定説では人々の大量絶滅が行なわれていた4つの焼却棟から数百m離れた場所に、保健衛生収容所を建設することなどまったく両立しえないからである。建設区画Ⅲに計画されていた病気の囚人用バラックに関する図面2471(写真21)は、建物の配置の詳細も示しており、この事実を確証している。この2つの図面は、建設局が4つの焼却棟の建設を終わろうとしていた時期の19436月のものである。明らかに、ビルケナウ捕虜収容所が、一時に同時に、二つの機能、すなわち、保健衛生維持機能と絶滅機能を果たすことはありえない。したがって、建設区画Ⅲに大規模な病棟区画を建設しようとしている図面にしたがえば、SSは強制収容所の労働力を『維持しよう』としていたので、焼却棟は、殺人ガス処刑などを行なうのではなく、純粋に焼却を行なうために建設されたという解釈が出てくるであろう

 この解釈は論理的であり、反駁困難であるように見える。この図面は存在しており、さらに、それはベルリンのSS経済管理本部で作成されたものである。だから、たんに、現場の人道主義的な意図から発したものではない。」

 

 にもかかわらず、プレサックは、この「説得的ではあるが、理論上のことにすぎない解釈」に反駁しうる文書資料を発見したと述べている。

 

「図面2521計画案にすぎなかったことを立証する決定的な解釈は、それを、1944322日のビルケナウの全体計画である図面3764(写真22)と比較することである。この図面では、建築区画Ⅲの収容人員は計画されていた16600名ではなく、60000名となっている。すなわち、バラックの収容比率は4倍に増加しており、混雑率は建設区画Ⅱに匹敵している。これでは、『病院バラック』について語るのはナンセンスなのである。」

 

 だが、これは「決定的な解釈」なのであろうか。病院収容所は「計画案」にすぎなかったのであろうか。

プレサックが目にしていない多くの文書資料が、徹底的かつ完璧にこの問題について答えてくれるであろう。

 

2. ビルケナウの建設区画Ⅲにおける病棟区画建設計画の起源と実行

 第1章で指摘したように、1943514日、カムラーSS少将は、ビルケナウ収容所の「衛生施設の改善のための特別処置」に関する文書命令をアウシュヴィッツ所長に渡している。彼は、1943517日、この処置の計画案として、ビルケナウ収容所の建設区画Ⅲを囚人のための病棟区画に変えるように命じた[117]。このことは、1943715日のSS守備隊医師あてのビショフ書簡からも見て取ることができる[118]

 

「[1943年]517日、捕虜収容所の建設区画Ⅲに囚人病院を建設することが、SS少将・武装SS少将カムラー工学博士から命じられました。」

 

 計画の実行は、SS経済管理本部C局、とくに、C//Ⅰ本部長ヴォルフガング・グロシュSS中尉の協力のもとに、C/Ⅲ(技術部門)課長ヴィルツSS少佐、師団病院と病棟長ビルキクトSS少尉にゆだねられた。ヴィルツは、194364日の図面2521にも署名している[119]1943528日のメモの中で、ビルキクトは自分のことを三人称で扱いながら、こう述べている[120]

 

C局長の指示にもとづいて、中央建設局とSS守備隊医師の全面的な協力の下で、ビルキクトSS少尉に、アウシュヴィッツへの全面的な衛生施設の設置にできるだけすみやかに着手させることが緊急に必要である。

収容所は、800012000名の患者のための特別検疫区画を備えるはずである。」

 

61日、ビショフは、「衛生施設の改善のための捕虜収容所での特別処置」に関する書簡をカムラーに送り、その中で、計画案の承認を求めている[121]。その中には、次の計画案が入っている。

 

「建設区画Ⅲをまったく隔離された800010000名の囚人の病棟区画、男女別々の検疫区画とする計画」

 

 ビルキクトは531日から62日のあいだアウシュヴィッツに滞在し、「アウシュヴィッツ捕虜収容所での特別処置」について現地のスタッフと話し合った。64日のメモの中に、こう記している。

 

C局長の指示にもとづいて、ビルキクトSS少尉は、アウシュヴィッツ中央建設局長ビショフSS少佐、ヴィエルツ[ヴィルツ]SS大尉、建設現場監督ヤニシュSS少尉と話し合い、アウシュヴィッツ捕虜収容所に計画されている特別処置の基本原則を明らかにした。」

 

 ついで、ビルキクトは、病棟区画案の実行にあたっての諸決定をリストアップしている[122]

 

「囚人病院

1.           建設区画Ⅲの配置が議論され、私がそれを図面にスケッチした。

2.           現場調査によると、バラックの最初の3列と4列目の一部がすでに建設されている。

3.           中央建設局によると、病棟区画が利用できるのは89棟のバラックだけである。したがって、中央建設局長は、東の1000床の病院から、16棟の特別バラックを持ってくることを望んでいる。これらの措置は42×50の標準サイズに適用されなくてはならないであろう。(この場合、これらのバラックの移動には、120140両ほどの貨車が必要となるという問題が生じる。RLM[ドイツ空軍型]バラックの取り外しは可能であろう。)CⅡ課がこの計画を処理する。

4.           RLMバラックを囚人病院バラックとして取り外す提案は、中央建設局あてに行なわれた。二重寝床の場合には、ベッド数は150ほど。」

 

 61日、ポーランド人囚人ステファン・ミラウアー(名簿ナンバー:63003)が、建設区画Ⅲの「木造宿舎バラック(ドイツ空軍型)病棟」の図面を、中央建設局のためにすでに準備していた[123]

 すでに見てきたように、64日、ヴィルツとビルキクトは、「アウシュヴィッツ強制収容所―建設区画Ⅲ。囚人病院と検疫区画」という図面2521を用意しており、65には、「囚人用病棟」図面2471を用意していた。

 中央建設局図面2637には日付がないが、19436月に作成されたにちがいない。この図面は男性区画の「捕虜収容所建設区画Ⅲの囚人病棟」の配置を描いている。また、手術を受けたばかりの患者用のバラック(6a)と重病の患者のバラック(6b)も詳しく描かれている[124]

 1943611日の「捕虜収容所での特別処置を実行するのに必要なバラックのリスト」は、「建設区画Ⅲ(囚人病院)」用の183棟のバラックについて触れている。183棟のバラック(プラス「看守病院」用の2つのバラック)の内訳は、次の通りであった[125]

 

4棟の特別バラック6a[126](手術を受けたばかりの患者)

4棟の特別バラック6b(重病人)

2棟の特別バラック(X線と処置)[127]

2棟の特別バラック(手術)

111棟の通常患者用バラック

 

 建設作業は6月末に始まった。713日までに、26のバラックが建設され、循環下水処理システムと臨時の沈殿槽も稼動し始めていた[128]

 719日、ビショフは、ドイツ装備会社が、許可なく、建設区画Ⅲの2棟のバラックを占拠したことに抗議している[129]

 

SS少将・武装SS少将カムラー工学博士の515日の命令にしたがって、建設区画Ⅲに囚人病院を建てる計画を実行するために、建設中の利用は認められない。病院建設はすでに始まっており、知ってのとおり、各バラックは衛生装置(洗浄・便所施設)を備えることになっている。」

 

 731日、さらに6棟のバラックが完成した。さらに、2つの循環下水システムが掘られ、その垣根を建てる作業も始まった[130]。同日、SS守備隊医師は、8形式のバラックの「個々の計画」が「囚人病院と検疫区画の全体計画」には依然として欠けているという苦情を、ビショフに申し立てている[131]

 1943930日、ビショフは「上部シュレジエン・アウシュヴィッツ武装SS捕虜収容所の拡張に関する説明報告」を書いているが、その中では、建設区画Ⅲの状況が次のように書かれている[132]

 

「建設区画Ⅲ

BW3e  114棟の患者バラック、形式501/34

BW4c  5棟のユーティリティ・バラック

BW4e  2棟のユーティリティ・バラック、形式260/9

BW4f  13棟の倉庫・洗濯バラック、形式260/9

BW4f  4棟の倉庫・洗濯バラック、形式501/34

BW6c  4棟の殺菌駆除バラック、形式Ⅶ/5

BW7c  11棟の医療スタッフ用バラック(スイス式)

BW12b 12棟の重病人バラック、形式501/34

BW12d  2棟のブロック指導者バラック、形式Ⅳ/3

特別処置のための既存の宿舎の改造

BW33a  3棟の特別処置用バラック、形式260/9

 

 925日、煉瓦作業が、バラック6870717489919293で進行中であり、建具作業が、バラック677794128146で進行中であった[133]

 1943101日、中央建設局長職をビショフから引き継いだばかりのヨハンは[134]、建築中・設計中の各建物のコストを見積もった「アウシュヴィッツ武装SS捕虜収容所の拡張コスト見積もり」を作成した。上記の「説明報告」にリストアップされている建物から構成される「囚人病院」と呼ばれた建設区画Ⅲのコスト見積もりは以下のとおりである[135]

 

BW3e 114棟の患者バラック:4542216マルク

BW4c     5棟のユーティリティ・バラック:138150マルク

BW4e 2棟のユーティリティ・バラック:167340マルク

BW4f 13棟の倉庫・洗濯バラック:241618マルク

BW4f 4棟の倉庫・洗濯バラック:127500マルク

BW6c 4棟の殺菌駆除バラック:80940マルク

BW7c 11棟の医療スタッフ用バラック:103488マルク

BW12b 12棟の重病人バラック:515625マルク

BW12d 2棟のブロック指導者バラック:16240マルク

特別処置のための既存の宿舎の改造:14242マルク

BW33a 3棟の特別処置用バラック:55758マルク

合計              :60003081マルク

 

 105日、ヨハンは「囚人病院」の作業進捗状況について、次のように書いている[136]

 

「もっとも緊急に必要であったバラック形式12[137]――6a6b[138]――は建設された。合計で、重病人用バラック、手術用バラック、X線バラックが12棟ある。1つをのぞいて、これらのバラックは荒削りのまま建てられている。9棟のバラックに関しては、内壁と煙突すべてが、レンガ造りである。そのうちの4棟は、内壁に漆喰を塗る作業が始められている。これらのバラックを結ぶ通路の建設は完了している。形式7[139]8棟のバラックも荒削りのまま建てられており、壁と煙突の煉瓦作業が始められている。さらに、19433月[ママ]以来、形式94棟の洗濯バラック、形式123棟の厨房バラック、形式720棟の病棟バラック、合計47棟のバラックが荒削りのまま建てられてきた。」

 

 ついで、ヨハンは、垣根、通行路、収容所道路、連絡道路の建設作業、排水口、平地化、下水処理――4つの沈殿槽がほぼ完了していた――の建設作業の進捗状況に触れている。

1011日の会議要録では、ヨハンは、建設区画Ⅲの収容所病院のための残りのバラックを発注していたドレスデンのクナウト社の社長M. クナウトがアウシュヴィッツを訪問したことに触れている。

 

「ドレスデンのクナウト氏が、部長ヨハンSS中尉に紹介され、作業の視察が命じられた。建設現場では、手術されたばかりの患者用の特別バラックがすでに完了しており、すぐに使用可能であることがわかった。」

 

 ヨハンは続けている[140]

 

111回も登場する宿舎バラックについては、発注規模が大きく、しかもまとまっているので、コストをかなり下げた。だから、新しい発注申し込みが必要となった。」

 

 1030日の報告では、ヨハンはこう述べている[141]

 

「今までに、47棟のバラックが建設された。これらについて、内部作業、すなわち、煉瓦と漆喰作業は現在進められている。さらに、別の7棟のバラックについては、杭格子が完成しており、バラックの建設は数日間以内に始められる。」

 

 11月末までの次の報告は、建設区画Ⅲの「囚人病棟」建設のためのバラック建設と補助作業の進捗状況に触れている。1944224日、ヨハンは、クナウト社からの金属の要望書を、シュレジエン武装SS警察建設監督局に渡している。そして、こう説明している[142]

 

「これは、捕虜収容所囚人病院と検疫区画からなる建設区画Ⅲに必要なバルブその他の備品用の1844.4kgの亜鉛アルミニウム、87.4kgの真鍮に関係しています。…捕虜収容所建設区画Ⅲは、厨房、手術室、処置室、病棟、検疫バラックを含む合計180棟のバラックから構成されていますので、要望されている量が必要なのです。」

 

 ヨハンは、1944325日の「囚人の雇用も含むアウシュヴィッツ強制収容所の建設作業進捗状況に関する報告」の中で、こう述べている[143]

 

「捕虜収容所建設区画Ⅲの中では、当面、2つの真ん中の区画だけが始められています。ほぼすべてのバラックが建てられ、内装作業が始まっています。」

 

 1943331日の時点で、700名の囚人が建設区画Ⅲで働いていた。カムラーの命令で、建設作業が3日間停止しなくてはならず、その間、囚人は建設区画ⅠとⅡで使用された[144]

 1944323日、中央建設局はプレサックの言及している図面3764を作成しているが、依然として、建設区画Ⅲの「囚人病棟」計画の実現に取り組んでいた。図面25213764には、プレサックが指摘するように明白な相違点があるが、どうしてこのような相違点が生じたのかを検証してみよう。

 1944年、中央建設局は、病棟区画に適用される官僚的やり方を定めている。525日、ヨハンは、「上部シュレジエン・アウシュヴィッツ武装SS捕虜収容所の拡張に関する説明報告」を書いているが、そこにはこうある[145]

 

「作業は1943315[146]に始まりました。37棟のバラックが完成しており、内装作業が部分的に行なわれています。」

 

 ヨハンが同じ日に作成したコスト見積もりでは、合計金額3799000マルクとなっている[147]2つの文書には、「シュレジエン」武装SS警察建設監督局の「予備認印」(1944627日)とSS経済管理本部C/Ⅱ課の「最終認印」(1944713日)が押されている。1944810日、この文書を626日に受け取ったSS経済管理本部C/V課(中央建設監督局)長は、官僚的なやり方にしたがって、次のような建設命令をさかのぼって出している[148]

 

「提出された文書にもとづいて、私は、アウシュヴィッツ捕虜収容所、収容所Ⅱ、建設区画Ⅲ、BW3e3f111棟の病院バラックを建設することを命じる。」

 

 作業進捗状況に関して、シュレジエン武装SS警察監督局あての書簡は、こう記している。

 

「緊急的性格のために、作業はすでに始められている。作業進捗状況の説明のための報告が求められている。」

 

 1944812日、ヨハンは、「重病人用の12棟のバラック」の建設要請書を、シュレジエン武装SS警察建設監督局に送っている[149]。「上部シュレジエン・アウシュヴィッツ武装SS捕虜収容所の拡張に関する説明報告。建設区画Ⅲ、BW12bに重病人用の12棟のバラックを建設すること」に関連する文書集には、「作業は1943715日に始められた」[150]、「373000マルクのコスト見積もり」[151]、「12棟の重病人用バラックのコスト見積もりへの構想」とある[152]1031日、SS経済管理本部C/V課は、建設命令を出した[153]

 さらに、ビショフが1944109日に提出した「建設区画Ⅲ-BW7eに医療スタッフ用の11棟のバラックを建設する要請」も認めてられている[154]

 1944531日の時点で、建設区画Ⅲには63棟のバラックが存在していた[155]。中央建設局はハンガリー系ユダヤ人の移送をむかえる準備をしていなかったので、病棟区画計画は頓挫した。6月初頭、建設区画Ⅲは、まだ居住可能ではなかったにもかかわらず、(Bc区画、BaBeの一部とともに)、他の収容所に移送される非登録ユダヤ人の「通過収容所」に変わった。62日、カムラーは、建設区画Ⅲの14棟のバラックにユダヤ人を収容するようにヨハン中央建設局長に命じたが、ヨハンはこれを拒否した。その理由をカムラーに求められると[156]、「衛生・保健状況のために」そのようなことはできないと、ヨハンは答えた[157]。当然にも、ヨハンは降服せざるをえず、194462日、アウシュヴィッツⅡ強制収容所所長クラマーSS大尉は、14棟のバラックを引き渡した[158]

616日、「シュレジエン建設監督局衛生・保健技師」ブルーノ・ウェーバーSS中尉は、「捕虜収容所―建設区画Ⅲ」という報告を、建設監督局長、ならびに、事態を知らせれるために、ベルリンの「SS警察帝国医師。上級衛生・保健技師」に送った。その冒頭はこうである[159]

 

「ビルケナウの井戸水道の視察との関連で、1944615日、新しく囚人が収容されたビルケナウ捕虜収容所建設区画Ⅲも訪問しました。

 最初の囚人移送集団は、194469日に到着しました。現時点では、7000名の囚人(ユダヤ人)が建設区画Ⅲに収容されています。

 建設学上と衛生保健上の観点から見ますと、この建設区画に囚人を収容する準備はまったく整っていません。もっとも原始的な衛生施設さえも完備してないならです。」

 

 この報告によると、囚人たちは、危機的な状況の中で生活していた。

 

「宿舎バラックには、衛生兵のシェルペルSS曹長の話によると、8001000名の囚人が収容されています。バラックの屋根にタールをしく作業はまだ終わっていませんし、収容所の連結道路はまだ建設中です。ベッドがないために、囚人たちは床の上で寝ています。」

 

 さらに、報告は、水道と下水処理施設の欠如について述べたあとに、検疫措置についてこう述べている。

 

「建設区画Ⅲの囚人たちはすぐに労働力として使われてしまうので、適切な検疫措置がとられていません。もしも、疫病が発生して、労働力の利用が大幅に遅れてしまうことを避けようとするならば、通常の検疫措置をとる代わりに、検疫隔離という手段で、収容所を4つの区域に分けなくてはなりません。そのようにすれば、少なくとも囚人の一部を労働力として使い続けることができますし、疫病が発生しても、場所を移すことができるからです。」

 

 ウェーバーは自分の報告をこう締めくくっている。

 

「建設作業の完了以前に、建設区画Ⅲに囚人を収容してしまったために、もっとも基本的な衛生状態が欠けている状況のもとでは、疫病の発生する危険が差し迫っています。」

 

 別の小論で説明しておいたように[160]、膨大な数のハンガリー系ユダヤ人が移送されてきたことは、中央建設局にとっては驚愕の事態であった。中央建設局は、将来ドイツ帝国の強制労働力となる大量の移送者のために適切な宿舎を提供することができなかった。このことは、「他の絶滅施設」にもあてはまった。

 1944923日、ビルケナウの建設区画Ⅲに病棟区画を建設するという計画は、最終的に放棄された。このことは、1944126日の、シュレジエン武装SS警察建設局あてのヨハンの書簡「建設区画Ⅲ-BW12bの中に重病人用の12棟のバラックを建設すること」からもわかる[161]

 

1944923日の中央局長との話し合いの結果、捕虜収容所建設区画Ⅲの建設作業を放棄することが命じられ、重病人用の12棟のバラックは解体され始めました。」

 

 説明の必要な最後の問題は、建設区画Ⅲの病棟区画の建設作業が進行中であったときに、1944323日の中央建設局図面3764は、なぜ、この区画に60000名の囚人を収容する予定であるとしているかである。この矛盾の説明はきわめて簡単であり、大半の技術図面が囚人の技師、建築技師、作図技師によって作成されていた中央建設局建設ビューローの作業手順とかかわっている[162]。時間と資材の節約のため、各図面からコピーが作られ、修正案はそこに書き込まれた。ポーランド人囚人ステファン・ミラウアーが1944323日に作成した「捕虜収容所配置図面3764」もそうであり、その翌日に、ヨハンが副署している。この図面は、建設区画Ⅲの「患者」バラック111棟の配置を示すためのものであり、バラックを表す四辺形は、赤色である[163]。この収容所配置図面には、3つの認印が押されている。1つは、すでに述べたように、「シュレジエン」武装SS警察建設監督局の「予備認印」(1944627日)、もう1つはSS経済管理本部C/Ⅱ課の「最終認印」(1944713日)である。そして、最後の1つが、「図面集に収録された」という登録認印(1944522日)である。

 3つの認印からもわかるように、この収容所配置図面は、1944525日に、ヨハンがシュレジエン武装SS警察建設監督局に送った文書集、すなわち、「上部シュレジエン・アウシュヴィッツ武装SS捕虜収容所の拡張に関する説明報告。患者用の111棟のバラックを建設すること」とコスト見積書の入った文書集である。説明報告、コスト見積書、収容所配置図面という3つの文書は、建物の建設許可を求めようとすれば、不可欠であった[164]

 事実、説明報告は、この収容所配置図面のことを明瞭に言及している[165]

 

「区画の中の建物の配置は、付属の収容所配置図面からわかる。」

 

 その後、この収容所配置図面のコピーは、6つの死体安置室の配置を示すために利用された(BW3b3d)。すなわち、「上部シュレジエン・アウシュヴィッツ武装SS収容所Ⅱの拡張に関する説明報告。6つの死体安置室を建設すること」に付属する収容所配置図面としても利用されている。1944612日にヨハンが作成したこの説明報告には、1944828日にシュレジエン武装SS警察建設監督局の認印が押されており[166]、収容所配置図面3764に押されている監督局の認印も同じ日付である。「図面集」への登録員は1944718日となっている。6つの死体安置室は建設区画ⅠとⅡに建設されるはずであり、問題の収容所配置図面にも間違いなく登場している[167]

 

「建設予定の死体安置室は収容所配置図面では赤インクで描かれている。」

 

 プレサックが掲載している収容所配置図面3764のコピーを見てみよう。そのコピーには「60000名の囚人のための建設区画3」とある。この文書には、まったく認印はなく、1944127日付の「図面集」への登録印だけが押されている。それゆえ、これは、患者用の111棟のバラック建設計画、6つの死体安置室の建設計画よりも後の計画なのである。その日付は、1944年秋であったにちがいない。

 結論に進もう。病棟区画は計画されており、その一部は実現していた。これとは逆のプレサックの「決定的解釈」にはまったく価値がない。

 それゆえに、

 

「定説では人々の大量絶滅が行なわれていた4つの焼却棟から数百m離れた場所に、保健衛生収容所を建設することなどまったく両立しえない。

 

 というプレサックの立論は依然として有効である。

 すなわち、

 

「建設区画Ⅲに大規模な病棟区画を建設しようとしている図面にしたがえば、SSは強制収容所の労働力を『維持しよう』としていたので、焼却棟は、殺人ガス処刑などを行なうのではなく、純粋に焼却を行なうために建設されたのである。」

 

略記法

AGK

Archiwum Głównej Komisji Badania Zbrodni Przeciwko Narodowi Polskiemu Instytutu Pamieci Narodowej (Archiv der zentralen Kommission zur Erforschung der Verbrechen gegen das polnische Volk, Institut des nationalen Gedenkens), Warschau.

APK

Archiwum Państwowe w Katowicach (Staatsarchiv in Kattowitz)

APMO

Archiwum Państwowego Muzeum w Oświęcimiu (Archiv des Staatlichen Auschwitz-Museums)

BAK

Bundesarchiv Koblenz

GARF

Gosudarstvenny Archiv Rossiskoj Federatsij (Staatsarchiv der Russischen Föderation), Moskau.

RGVA

Rossiskij Gosudarstvenny Vojenny Archiv (Staatliches Russisches Kriegsarchiv), Moskau.

VHA

Vojenský Historický Archiv (Militärhistorisches Archiv), Prag.

 

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[1] R. J. Van Pelt, »The Pelt Report«, S. 221. 本報告のウェッブ公開版は、www.holocaustdenialontrial.com/evidence/vani.asp.

[2] Castle Hill Publishers, Hastings 2003、イタリア語のオリジナル版は『アウシュヴィッツの特別措置、起源と意味』"Sonderbehandlung" ad Auschwitz. Genesi e significato bei Edizioni di Ar, Padova 2001である。

[3] Indiana University Press. Bloomington and Indianapolis 2002.

[4] GARF, 7021-108-32, S. 37.

[5] J.-C. Pressac in: Auschwitz: Technique and Operation of the Gas Chambers. The Beate Klarsfeld Foundation. New York 1989, S. 203.に掲載されている。

[6] GARF 7021-108-32, S. 41.

[7]»a) Rüstungsarbeiten. b) Bombenschädenというテーマについての1942916日のヒムラーあてのポールの書簡。BAK, NS 19/14, S. 131-133.

[8] GARF, 7021-108-32, S. 43.

[9] Aktenvermerk vom 22. Mai 1943. RGVA 502-1-26, S. 85.

[10] テキスト本文にもともと存在する過去「anwuchs」は「anwächst」へと変えられている。前後関係から判断すると、この語形は、明らかに未来の意味を持っている。

[11] VHA, Fond OT 31(2)/8. 典拠番号VIII Up a 2とはアウシュヴィッツ捕虜収容所建設計画の「G.B. Bau Kennummer」(すなわち、帝国大臣シュペーアの建設産業リストの中の建設計画のID番号)であった。

[12] Ebenda. Lageplan des Kriegsgefangenenlagers Auschwitz O/S. Entwässerungsplan. Plan Nr. 1782 vom 28. Oktober 1942.

[13] 19431月時点で、収容所人口の合計は29630名。うち、24263名が男性、5367名が女性であった。AGK, NRN, 134 (Prozeß gegen die Lagermannschaft von Auschwitz, Band 52, S. 279, 282).

[14] 1943430日時点で、収容所人口の合計は53436名。うち、34777名が男性、18659名が女性であった。AGK, NTN, 134 (Prozeß gegen die Lagermannschaft von Auschwitz, Band 52), S. 281, 285.

[15] 194266日のアウシュヴィッツ捕虜収容所図面in: J.-C. Pressac, Auschwitz: Technique and Operation of the Gas Chambers, aaO. (Anm. 5), S. 195.

[16] GARF, 7021-108-32, S. 37.

[17] RGVA, 502-1-313, S. 159.

[18] この数字は、『アウシュヴィッツ死亡者記録』にあるデータにもとづいている。

[19] この図面はJ.-C. Pressac in Auschwitz: ..., aaO. (Anm. 5), S. 393, に掲載されている。

[20] 194359日のビショフの会議要録。RGVA, 502-1-233, S. 36-37.

[21] RGVA, 502-1-83, S 339.

[22] RGVA, 502-1-83, S. 320.

[23] この点については、私の論文"Sonderbehandlung" in Auschwitz. Genesi e significato, Edizioni di Ar, Padua 2001, S. 73-81.を参照.

[24] 1943105日のヨハンの会議要録。RGVA, 502-1-83, S. 77.

[25] RGVA, 502-1-83, S. 338.

[26] APMO, BW 30/34, S. 40.

[27] RGVA, 502-1-83, S. 311.

[28] RGVA 502-1-336, S. 104 .

[29] 焼却棟ⅣとⅤの8燃焼室炉は4つであるとみなされていた。

[30] RGVA, 502-1-312, S. 8.

[31] RGVA, 502-1-336, S. 107.

[32] 1944122日の「殺菌消毒・害虫駆除施設(中央サウナ)」の引渡し備品目録。RGVA, 532-1-335, S. 3.

[33] RGVA, 502-2-54, 頁番号は判読できない。

[34] RGVA, 502-2-54, S. 77-78.

[35] 建物5a、害虫駆除施設引渡し備品目録。RGVA, 502-2-58, S. 129.1943106日の建物5a害虫駆除施設図面2948RGVA, 502-1-230, S. 174. また、J. C. Pressac, Auschwitz: Technique..., aaO. (Anm. 5), S. 58.に掲載されている194375日の中央建設局図面2540も参照。

[36] RGVA, 502-1-83, S. 281.

[37] RGVA, 502-1-83, S. 119.

[38] RGVA, 502-1-332, S. 10.

[39] 1943129日のシュレジエン武装SS警察建設監督局あてのSS守備隊医師の書簡。RGVA, 502-1-336, S. 84.

[40] この施設の引渡しは1944122日であった。RGVA, 502-1-335, S. 1.

[41] RGVA, 502-1-313, S. 11.

[42] APMO, BW 30/34, S. 47.

[43] RGVA, 502-1-316, S. 431 und 502-1-323, S. 137.

[44] 2つの炉と4つの部屋からなる収容所建物32における害虫駆除施設の設置」に関する19431019日のトップフ社あての中央建設局発注書。RGVA, 502-2-27, S. 24

[45] RGVA, 502-1-316, p. 430.

[46] J.-C. Pressac, Auschwitz: Technique..., aaO. (Anm. 5), S. 512.

[47] J.-C. Pressac, Auschwitz: Technique and Operation of the Gas Chambers. The Beate Klarsfeld Foundation. New York 1989, S. 302

[48] Jean-Claude Pressac, Die Krematorien von Auschwitz. Die Technik des Massenmordes. Piper Verlag, München-Zürich 1994, S. 81.

[49] D. Dwork, R. J. van Pelt, Auschwitz 1270 to the present. W. W. Norton & Company, New York-London 1996, S. 324.

[50] フタ社(Hoch- und Tiefbau AG mit Sitz in Kattowitz)が焼却棟ⅡとⅢの長さ6.8mの死体滑降路を3740マルクのコストで建設した。194357日の「Ausgeführte Bauarbeiten d. Krematoriums 2」に関するフタ社の報告(APMO, BW 30/26, S. 36)および194357日の「Ausgeführte Bauarbeiten des Krematoriums 3 lt. Angebot vom 13.7.42」に関する発送状2RGVA, 502-1-306, S. 31)。さらに、焼却棟Ⅱの死体滑降路は、焼却棟の引渡しに関する文書に付属する図面2197[a](r) E 2197 [b] (r) (J.-C. Pressac, Auschwitz: Technique..., aaO. (Anm. 1), S. 311f.) でも見ることができ、「Gebäudebeschreibung«(RGVA, 502-2-54, S. 78)にも明確に記述されている。

[51] The Pelt Report, S. 210.

[52] ペルトはこの文章の数行前で、ビルケナウの死体安置室の収容能力が減ってしまったことに触れている。

[53] 2000名の犠牲者を焼却するには、焼却棟ⅡとⅢではほぼ1週間、焼却棟ⅣとⅤではほぼ10日間かかったはずである。

[54] 1943320日の「捕虜収容所囚人病棟」に関する収容所長あての収容所守備隊医師の書簡。RGVA, 502-1-261, S. 112.

[55] 1943720日の「収容所の衛生即時措置」に関する中央建設局あての収容所守備隊医師の書簡。RGVA 502-1-170, S. 263.

[56] 19411125日の、「死体小屋」に関するアウシュヴィッツとルブリン中央建設局あての予算建設局の書簡。RGVA, 502-1-170, S. 249.

[57] 194184日の、「捕虜収容所での衛生即時措置」に関するヴィルツあてのビショフの書簡。RGVA, 502-1-170, S. 262.

[58] Erläuterungsbericht zum Ausbau des Kriegsgefangenenlagers der Waffen-SS in Auschwitz O/S, »Errichtung von 1 Leichenbaracke (Effektenkammer) massiv«, 20 Februar 1944. RGVA, 502-1-230, S. 201-203. Brief des Leiters der Bauinspektion der Waffen-SS und Polizei Schlesien (Bischoff) vom 30. März 1944 zum Thema »Bauantrag zur Errichtung einer Leichenbaracke (Effektenkammer) im KGL Auschwitz«. RGVA, 502-1-230, pp. 200-200a. Auch der Plan der Baracke sowie eine Skizze ihrer Position sind erhalten. RGVA, 502-1-230, p. 206.

[59] 1944515日の、「アウシュヴィッツⅡ強制収容所に死体安置室を建設すること」に関する中央建設局あてのビショフの書簡。RGVA, 502-1-170, S. 259.

[60] GB: Generalbevollmächtigter für die Regelung der Bauwirtschaft (アルベルト・シュペーア)。.

[61] 1943105日のヨハンの会議要録「ビルケナウ収容所Ⅱ建設区画Ⅲに死体安置室の建設」。RGVA, 502-1-170, S. 260.

[62] ルドルフ・ヘスはSS守備隊将校、SS中佐、所長であった。

[63] 1944525日の、「アウシュヴィッツⅡ強制収容所に死体安置室を建設すること」に関するSS守備隊将校あてのSS守備隊医師の書簡。RGVA, 502-1-170, S. 264.

[64] 1944525日の、「アウシュヴィッツⅡ強制収容所に死体安置室を建設すること」に関するSS守備隊将校あてのSS守備隊医師の書簡。RGVA, 502-1-170, S. 264.

[65] 1944712日の、「アウシュヴィッツⅡ強制収容所に死体安置室を建設すること」に関するシュレジエン武装SS警察検察監督局長あての中央建設局の書簡。RGVA, 502-1-170, S. 251.

[66] D. Czech, Kalendarium der Ereignisse im Konzentrationslager Auschwitz-Birkenau 1939-1945. Rowohlt Verlag, Reinbek bei Hamburg 1989, S. 445.

[67] Ebenda, S. 442.

[68] Ebenda, S. 560-572.

[69] この件については、私の小論 »Die Deportation ungarischer Juden von Mai bis Juli 1944. Eine provisorische Bilanz«, in: VffG, 5(4) 2001, S. 381-395.を参照。

[70] J.-C. Pressac, Die Krematorien von Auschwitz. Die Technik des Massenmordes. Piper Verlag, München-Zürich 1994, S. 75.

[71] Ebenda, S. 83.

[72] J.-C. Pressac, Auschwitz: Technique and Operation of the Gas Chambers. The Beate Klarsfeld Foundation. New York 1989, S. 432f.

[73] RGVA, 502-1-313, S. 57.

[74] RGVA, 502-1-313, S. 57a

[75] J.-C. Pressac, Auschwitz: Technique..., aaO. (Anm. 3), S. 462.

[76] Ebenda, S. 227.

[77] Ebenda, S. 492.

[78] 1945524日のタウバー証言。Höß-Prozeß, Band 11, S. 136.

[79] J.-C. Pressac, Auschwitz:..., aaO. (Anm. 3), S. 226.

[80] Ebenda, S. 256.

[81] Ebenda, S. 256.

[82] Ebenda, S. 217.

[83] これらの図面はJ.-C. Pressac, Auschwitz:… ..., aaO. (Anm. 3), S. 220.に掲載されている。

[84] Ebenda, S. 217.

[85] 1943320日の、「捕虜収容所囚人病棟」に関する収容所長あてのSS守備隊医師の書簡。RGVA, 502-1-261, S. 112.

[86] Tätigkeitsbericht des SS-Ustuf. (F) Kirschnek, Bauleiter für das Schutzhaftlager und für landwirtschaftliche Bauvorhaben. Zeit 1. Januar 1943 bis 31.März 1943”, datiert mit 29.3.1943. RGVA, 502-1-26, S. 59.

[87] RGVA, 502-1-313, S. 54.

[88] APMO, BW 30/40, S. 101.

[89] APMO, BW 30/34, S. 105.

[90] APMO, BW 30/40, S. 100.

[91] Tagesberichte der Firma W. Riedel & Sohn, Eisenbeton- und Hochbau von Bielitz. APMO, BW 30/28, S. 96-112.

[92] APMO, BW 30/34, S. 68d.

[93] Arbeitszeit-Bescheinigung der Firma Topf für den Zeitraum 8. bis 14. März 1943. APMO, D-ZBau/2540, S. 26.

[94] D. Czech, Kalendarium der Ereignisse im Konzentrationslager Auschwitz-Birkenau 1939-1945. Rowohlt Verlag, Reinbek bei Hamburg 1989, S. 445.

[95] Trial of Josef Kramer and Forty-Four Others (The Belsen Trial). William Hodge and Company, Limited London, Edinburgh, Glasgow 1949, S. 731.

[96] アウシュヴィッツ死亡者名簿の統計学的分析。

[97] RGVA, 502-1-332, S. 46-46a.

[98] 1943118日の「アウシュヴィッツ強制収容所所長ヘスSS中佐」あてのビショフ書簡。RGVA, 502-1-28, S. 256-258

[99] RGVA, 502-1-332, S. 113.

[100] RGVA, 502-1-332, S. 47.

[101] Standort- und Kommandanturbefehle des Konzentrationslagers Auschwitz 1940-1945. Herausgegeben von Norbert Frei, Thomas Grotum, Jan Parcer, Sybille Steinbacher und Bernd C. Wagner. Institut für Zeitgeschichte. K.G. Saur, München 2000, S. 208.

[102] 194319日の、アウシュヴィッツ強制収容所所長あてのカトヴィツ市行政長の書簡。Brief des Regierungspräsidenten in Kattowitz an den Kommandanten des KL Auschwitz vom 9. Januar 1943. APK, RK 2903, S. 10.

[103] Erläuterungsbericht zum Vorentwurf für den Neubau des Kriegsgefangenenlagers der Waffen-SS, Auschwitz O/S. RGVA, 502-1-233, S. 16.

[104] 1943121日の、カトヴィツ市行政長あてのカトヴィツ警察署長の書簡。APK, RK 2903, S. 22.

[105] RGVA, 502-1-17, S. 98.

[106] RGVA, 502-1-332, S. 108.

[107] Erläuterungsbericht zum Vorentwurf für den Neubau des Kriegsgefangenenlagers der Waffen-SS, Auschwitz O/S. RGVA, 502-1-233, S. 16.

[108] RGVA, 502-1-332, S. 15-15a.

[109] RGVA, 502-1-332, S. 18

[110] RGVA, 502-1-332, S. 20-21.

[111] RGVA, 502-1-332, S. 37-37a.

[112] Aufstellung über die im KL. und KGL. Auschwitz eingebauten Entwesungsanlagen, Bäder und Desinfektionsapparate, erstellt vom Zivilangestellten Jährling am 30. Juli 1943. RGVA, 502-1-332, S. 9-10.

[113] 「犯罪の痕跡」が一番最後に登場しているのは、焼却棟Ⅳに「4個のガス気密ドア」を発注した1943416日である。

[114] Jean-Claude Pressac, Auschwitz: Technique and Operation of the Gas Chambers. The Beate Klarsfeld Foundation. New York 1989, S. 512.

[115] Ebenda, S. 513.

[116] Ebenda, S. 512.

[117] 1943719日のビショフ書簡によると1943515日のことであった。下記参照。

[118] RGVA, 502-1-83, S. 115.

[119] この図面には、計画を了承したことを示しために、SS守備隊医師ヴィルツSS大尉も副署している。

[120] 1943528日のビルキクトのメモ。RGVA, 502-1-83, S. 270. ルブリン・マイダネクの衛生施設については、1943320日のビルキクトSS少尉の報告を参照。Jürgen Graf und Carlo Mattogno, KL Majdanek. Eine historische und technische Studie, Castle Hill Publisher, Hastings 1998, S. 62f.

[121] RGVA, 502-1-83, S. 133.

[122] RGVA, 502-1-83, S. 267-268.

[123] RGVA, 502-2-110, S. 5.

[124] Häftlingsrevier im Bauabschnitt 3 des K.G.L. Lageplan des männlichen Teils. RGVA, 502-2-110, Seitennummer unleserlich.

[125] RGVA, 502-1-79, S. 100.

[126] 図面25212637では、これらのバラックは6a6bとといった番号を持っている。

[127] 処置の方法については、文書の中には記載されていない。

[128] 1943713日の、ビショフによる「捕虜収容所と中央収容所の特別処置の作業進捗状況報告」。RGVA, 502-1-83, S. 119.

[129] RGVA, 502-1-83, S. 111.

[130] 1943731日の、ビショフによる「捕虜収容所と中央収容所の特別処置の作業進捗状況報告」。RGVA, 502-1-83, S. 100.

[131] RGVA, 502-1-332, S. 196.

[132] Erläuterungsbericht zum Ausbau des Kriegsgefangenenlagers der Waffen-SS in Auschwitz/OS. RGVA, 502-2-60, p. 81.

[133] 1943925日の、ビショフによる「捕虜収容所と中央収容所の特別処置の作業進捗状況報告」。RGVA, 502-1-83, S. 215f.

[134] ビショフは、シュレジエン武装SS警察建設監督長に任命された。

[135] 「アウシュヴィッツ捕虜収容所の拡張に関するコスト見積もり」。RGVA, 502-2-60, S. 86f.

[136] Von Jothann am 5. Oktober 1943 erstattete »Meldung über den Stand der Bauarbeiten im Häftlingslazarett K.G.L. Bauabschnitt III, Stichtag 1. Oktober 1943«, RGVA, 502-1-83, S. 396f.

[137] バラック形式1:特別バラック1(手術用)、形式2:特別バラック2X線と処置)。

[138] バラック形式6a:特別バラック6a(手術したばかりの患者用)、形式6b:特別バラック6b(重病人用)。

[139] 患者バラック。

[140] 19431011日のヨハンの会議要録。RGVA, 502-1-83, S. 395.

[141] 19431030日の、ヨハンによる「捕虜収容所の特別処置の作業進捗状況報告」。RGVA, 502-1-83, S. 198.

[142] RGVA, 502-1-83, S. 158.

[143] GVA, 502-1-83, S. 38.

[144] 1944331日の、ヨハンあてのビショフ書簡。RGVA, 502-1-83, S. 34.

[145] RGVA, 502-2-110, S. 1-1a.

[146] 正しくは、515日。

[147] RGVA, 502-2-110, S. 3.

[148] RGVA, 502-1-281, S. 49.

[149] RGVA 502-1-261, S. 117.

[150] RGVA 502-2-110, S. 38-38a.

[151] RGVA, 502-2-110, S. 40f.

[152] RGVA, 502-2-110, S. 42f.

[153] RGVA, 502-1.281, S. 47.

[154] RGVA, 502-1-281, Seitenzahl unleserlich.

[155] 1944531日の航空写真。National Archives, Washington D.C., Mission 60 PRS/462 60SQ, Can D 1508, Exposure 3056.

[156] 194462日の、中央建設局あてのSS経済管理本部局長の電文。

[157] 194462日の、カムラーあてのヨハンの電文。RGVA, 502-1-83, S. 2.

[158] 194462日の、シュレジエン武装SS警察建設監督局あての、ヨハンの書簡RGVA, 502-1-83, S. 3.

[159] RGVA, 502-1-168, S. 6-6a.

[160] »Die Deportation ungarischer Juden von Mai bis Juli 1944. Eine provisorische Bilanz«, in: VffG, 5(4) (2001), S. 387f.

[161] RGVA, 502-1-261, S. 115-115a.

[162] 19432月の時点で、ビューローでは96名の衆人が働いていた。RGVA, 502-1-256, S. 171-173.

[163] RGVA502-2-110, S. 13.

[164] 私の小論 La "Zentralbauleitung der Waffen-SS und Polizei Auschwitz". Edizioni di Ar, 1998, S. 32.を参照。

[165] RGVA, 502-2-110, S. 1a.

[166] RGVA, 502-2-95, S. 10a.

[167] RGVA, 502-2-95, S. 14.


『いわゆるヒトラー一派のガス室といわゆるユダヤ人の虐殺は、同一の歴史的嘘である。この嘘のおかげで、非常に大きな政治的・金銭的詐欺行為が容認され、そのおもな受益者はイスラエル国家と国際シオニズムであり、そのおもな犠牲者はドイツ国民―その指導者ではない――とパレスチナ民族全体である。』

— ロベール・フォーリソン教授博士

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1980年代のイスラエルの戦略 この記事は1982年2月『Kivunim、A Journal for Judaism and Zionism』の第14号、冬季5742にヘブライ語で掲載されたものである。

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