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試訳:アウシュヴィッツ:伝説の終焉

カルロ・マットーニョ

 

歴史的修正主義研究会試訳

最終修正日:2003827

 

 

本試訳は当研究会が、研究目的で、Carlo Mattogno, Auschwitz: The End of a Legend, Institute for Historical Review, 1994, Newport Beach, CA, 1994を試訳したものである(付録資料、用語集、索引は除く)。
 
原著とonline版とでは異同があるが、どの箇所で、どちらのテキストを採用するかについては、当研究会が裁量した。
 誤訳、意訳、脱落、主旨の取り違えなどもあると思われるので、かならず、原著、原文を参照していただきたい。

 (online: http://vho.org/GB/Books/anf/Mattogno.html)

 

<著者カルロ・マットーニョより>

All rights reserved. No part of this book may be reproduced, or transmitted in any form or by any means, electronic or mechanical, including photocopying, recording, or by an information storage and retrieval system without written permission from the publisher except for the inclusion of brief quotations in a review, in which case the following attribution shall appear: "From Auschwitz: The End Of A Legend, by Carlo Mattogno, Russ Granata, publisher." A copy of the review should be sent to the publisher.

Translated from the Italian, AUSCHWITZ: FINE DI UNA LEGGENDA Considerazioni storico-techniche sul libro Les crématoire dAuschwitz. La machinerie du meurtre de masse di Jean-Claude Pressac, Copyright © 1993 by Carlo Mattogno.

Translator: Anne Sharp
First English language edition Copyright © 1994
by Russ Granata, publisher
First Printing 1994

Library of Congress Cataloging in Publication Data
Mattogno, Carlo
AUSCHWITZ: THE END OF A LEGEND
Critique On Pressac
s Auschwitz
by Carlo Mattogno. 1st ed.
Includes index, appendix and glossary
CIP 94-75562
ISBN 0-9640716-0-6: Softcover

 

目次

 

第1章:ジャン・クロード・プレサック

第2章:プレサックによる焼却炉

                             能力:推定

                             能力:事実

                             石炭

                            

                            

                             焼却壕

第3章:焼却技術によるアウシュヴィッツ・ビルケナウの焼却炉

                             石炭消費

                             能力

                             焼却の理由

                             1943年の焼却:SSの見積もり

                             1943年の焼却:石炭消費

                             1943年の焼却能力

                             焼却炉の耐火壁の寿命

                             ハンガリー系ユダヤ人の絶滅

第4章:「最終解決」の起源と進展

第5章:焼却棟ⅡとⅢ

                             換気システム

第6章:ブンカー1と2

第7章:焼却棟ⅣとⅤ

第8章:結論

付録資料

用語集

索引

 

第1章:ジャン・クロード・プレサック

 ジャン・クロード・プレサックは、Beate Klarsfeld財団が1989年に出版したアウシュヴィッツ・ビルケナウ収容所に関する大著『アウシュヴィッツ:ガス室の技術と作動』(Auschwitz: Technique and Operation of the Gas Chambers, published in 1989 by the Beate Klarsfeld Foundation, 515 Madison Avenue, New York, NY 10022の著者である。この著作は、出版当時、アウシュヴィッツ・ビルケナウに殺人ガス室が存在したことを決定的に立証したものとされ、これによって、プレサックは「ナチの絶滅技術の研究における疑問の余地のない専門家」、この分野での「一人ではないとしても疑問の余地のないエキスパート」[1]という賞賛を勝ち得た。

 しかし、専門家の目から見ると、プレサックは、チクロンBの化学的・物理的内容、害虫駆除目的での使用、および焼却炉の構造と機能にかんして驚くほどの無知をさらけ出している。[2] プレサックは1989年の著作では、問題の二つの本質的な局面で二重に無能力であったために、根拠のない結論に達している。にもかかわらず、彼の著作は、豊富な資料を使用しており、資料の扱い関して神学的なドグマティズムが支配している伝統的な歴史学には欠けている批判精神を持っているので貴重である。さらに、プレサックは、この分野での伝統的な歴史学の方法を克服した、少なくとも克服しようとした勇気を持っている点でも認められるべきである。彼は伝統的な歴史学の方法を次のように特徴づけているが、これは正しい。

 

「大半が証言にもとづいており、その証言はその時代の雰囲気に応じて集められたものであり、勝手な真理に適合させるために切り捨てられたり、不均等な価値を持つ少数のドイツ側資料と混ぜ合わされたり、互いに関係を持っていなかったりする」。[3] 

 

 この著作は、歴史的修正主義にとって、「隠れ修正主義者」とみなされるような論点を提供している。事実、その出版社自体にもそのようにみなされ、事実上、この著作を入手することは困難となってしまった。

 ジャン・クロード・プレサックのもう一つの著作『アウシュヴィッツの焼却棟:大量殺戮装置』は1993年にパリで出版され、前の著作を、彼がモスクワで研究した大量の資料、とくにソ連の手に「無傷で」残っていた「アウシュヴィッツ建設局」の資料を使って補足したものとされている。[以下、文中内の(○○頁)で指示されている頁番号は、Les crématoires d’Auschwitz: La machinerie du meurtre de masse by J.- C. Pressac の頁番号である。]

しかし、実際には、彼の『アウシュヴィッツの焼却棟』を読んでみると、「居心地の悪い退行」を感じるであろう。ジャン・クロード・プレサックは最悪の伝統的歴史学の決り文句に戻ってしまっているからである。しかし、これは避けられないことだった。プレサックは、モスクワに残っていた(何と)80000もの文書資料、建設局の全文書資料のなかに、アウシュヴィッツ・ビルケナウに一つでも殺人ガス室が存在したことを立証する証拠を一つたりとも発見できなかったからである。[プレサックは、これらの文書資料が無傷で残っていた理由を、焼却棟を殺人目的に改造する指示を出したのは初代建設局長カール・ビショフSS少佐であったために、次のそして最後の建設局長ヴェルナー・ヨハン中尉は「資料の『衝撃的な』内容」を無視してしまったためであると述べている(Les crématoires d’Auschwitz: La machinerie du meurtre de masse, p. 1)。しかし、88頁では、ビショフは「『シレジア』の建設の検査に従事していたが、アウシュヴィッツ建設局も統括し続けた」(イタッリク――マットーニョ)と述べており、自己矛盾をおかしている)]。例えば、ビルケナウの焼却棟Ⅱに関して、いかなる「犯罪の痕跡」(プレサックの用語)も1943年3月31日、すなわち、焼却棟が収容所管理局に公的に移管された日付以前にはさかのぼることはできない、という。このことは、次のような機能を果たしたとされる絶滅工場としては、奇妙な事態である。

 

「殺人ガス室、焼却施設として、公式に作動するようになった1943年3月31日以前の3月15日から1944年11月27日まで、その大半がユダヤ人女性、子供、老人であった合計約40万人を絶滅した殺人ガス室、焼却施設。」[4]

 

 つまり、この焼却棟の20ヶ月以上の絶滅活動、40万の絶滅については、モスクワの文書資料にはひとつの「犯罪の痕跡」も含んでいないことになる。同じことはアウシュヴィッツ・ビルケナウの他の焼却棟についても言える。

 このことはプレサックを困惑させたに違いない。彼は、これらの資料が語っていないことを語らせるという困難な立場に置かれてしまった。このために、プレサックは危うい方法をとらざるを得なかった。すなわち、資料を見境なく使い、テキスト中に恣意的で根拠のない推論を挿入し、文書資料の歴史学的調査にもとづいているという印象を与えるために、クモの巣のような膨大な脚注をつけたのである。さまざまな資料を恣意的に関連づけ、これらの資料の解釈は、殺人ガス室の存在をあたかも立証しているかのように歪曲されたのである。

 修正主義者は技術的観点からアウシュヴィッツ・ビルケナウでは大量絶滅が不可能であったことを示す研究を行なってきたが、この圧力を受けて、プレサックは犠牲者数を少なくしただけではなく、SSの意図も下方修正した。殺人ガス室の犠牲者は1989年には「約90万」[5]とされ、そのうち75万が焼却棟Ⅱ、Ⅲだけで殺されたとされてきたが[6]、1993年の著作ではわずか63万に減ってしまった(148頁)。この二つの数もまったく恣意的である。さらに、殺人ガス室も「小さく」なり、絶滅能力も小さくなった。実際には、プレサックは、殺人ガス室の能力を焼却炉の能力と「釣り合わせざる」を得なかったのである。1989年の著作では、焼却された死体に対するガス処刑された死体の割合ははるかに高かった。

 このような変更は当然にも、彼の前の著作『アウシュヴィッツ:ガス室の技術と作動』との如何ともしがたい矛盾を生み出した。しかし、このことは彼には大したことではなかった。彼は自分の思いつきに応じて、数値や論点を受け入れたり、拒んだりするからである。

 プレサックは自分の全体像を完成するために、1989年にもそうしたように、アウシュヴィッツ・ビルケナウの焼却棟の能力を非常に誇張したが、それは、彼が焼却の本質的な側面に無知なために、技術的にも、熱力学的にも無意味な結論であった。

 殺人ガス室というテーマを扱うにあたって、プレサックは大きな難点に直面したが、それは、このテーマに関する証拠がモスクワの資料にまったく欠けていたためばかりではなく、とりわけ、焼却棟Ⅱ、Ⅲの地下にある換気設備に関する資料が、殺人ガス室は計画も、設置もされていなかったことを明確に示しているためであった。あとで、プレサックはこの難点をどのように克服しようとしたのかを検討しよう。

 本書のプレサック批判は、アウシュヴィッツ・ビルケナウでの焼却炉およびガス室とみなされてきた部屋に関する科学的な研究にもとづいている。それは、ジェノアのフランコ・ディアナ博士、ダンツィヒの技術者H.N.の協力のもとで、5年間以上の研究であった。この研究は2巻から成り立っている.

 『アウシュヴィッツ:焼却炉』(Auschwitz: i forni crematori

 『アウシュヴィッツ:ガス室』(Auschwitz: le camere a gas

 これらはイタリアで刊行された。本書はこれらの研究のまとめである。興味のある読者は、これらの研究の引用から、本書にはない多くの参考資料を発見することであろう。

 『アウシュヴィッツ・ビルケナウの焼却炉』はアメリカで刊行されることになったので、本書に登場している以外の重要な参考資料を参照できるように、この分野での史学史を拡張している。『アウシュヴィッツ・ビルケナウの焼却炉』の目次は、付録1にある。

 

第2章:プレサックによるアウシュヴィッツ・ビルケナウの焼却炉

<能力:推定>

 アウシュヴィッツ・ビルケナウの焼却炉を科学的に研究するにあたっては、能力と処理効率という二つの基本的で熱力学的な問題に取り組み、それを解決しなくてはならない。能力とは、一定時間の(例えば、一日)中での焼却死体数のことである。処理効率とは、生産される熱と消費される熱との関係、とくに、燃料消費のことである。プレサックは、これらの二つの問題のどちらにも科学的に対処しておらず、炉の能力(彼はそれを誤って「処理効率」と呼んでいる)関してだけを記述するにとどまり、それらの議論を各所にちりばめている。これは、分析してみると、以下の議論となっている。

1.        トップフ社製の石油燃料可動式の2室炉は、1939年末にダッハウに設置されたが、それは1時間に2体の能力を持っていた(7頁)。したがって、1室での1体の焼却には1時間かかる。

2.        トップフ社製の石炭燃料2室の「アウシュヴィッツ型」炉はダッハウの炉とは異なったデザインである。ブッヘンヴァルトのトップフ社製の最初の2室炉は、もともとは可燃性石油で熱せられていたが、後部にガス発生器を設置したので、石炭を使った炉に変わったためである(12頁)。だから、1時間に2体という能力はこの炉には適用されない。

3.        圧縮空気(Druckluftgebläse)の導入によって、焼却時間は短縮された(13、68頁)。

4.        「アウシュヴィッツ型」炉は、10時間で30-36体の能力を持っていた。

5.        炉は、1日に21時間使用された。その稼動には3時間の休息が必要であったからである。

6.        アウシュヴィッツの焼却棟Ⅰの3つの2室炉は、1日に200-250体の能力を持っていた(49、80頁)。

7.        ブッヘンヴァルトの2つのトップフ社製の3室炉は石炭によって熱せられており(そのうちの一つは、可燃性石油にも適応できた)、結果として、「焼却能力は、2室炉での作業にもとづく計算よりも、3分の1ほど大きかった。」(39頁)

8.        ビルケナウの焼却棟Ⅱ、Ⅲに導入されたこのモデルの5つの3室炉の能力は、1日に800体(39頁)か1000体(80頁)であった。

9.        ビルケナウの焼却棟Ⅳ、Ⅴに導入された2つの8室炉のそれぞれの能力は、1日に500体であった(80頁)。

10.   1943年3月4日に行なわれた焼却棟Ⅱでの最初の実験的焼却の際には、45体の肥満男性が焼却された。各室に3体で焼却には45分かかった(72頁)。

11.   焼却棟の「公式」能力は以下のとおりであった。

    焼却能力(プレサック)

 場所                        1日の能力

 焼却棟Ⅰ                             340体

 焼却棟Ⅱ                            1440体

 焼却棟Ⅲ                            1440体

 焼却棟Ⅳ                             768体

 焼却棟Ⅴ                             768体

 

 プレサックは次のようにコメントしている。

 

「これらの公式数字は偽りの宣伝に由来しているが、にもかかわらず有効である。その明らかな有効性は、10キロの二人の子供と一人50キロの女性の焼却する時間は70キロの一人の男性の時間と同じであり、そのことは、1から3までの積算因数を出しており、焼却能力の数字を不確定なものとしているという事実によっている。」(80-81頁)。

 

<能力:事実>

 この論拠には、技術的な観点からも、資料的な観点からも根拠がない。この点について、以下のとおりである。

(1) プレサックが引用している典拠資料は、トップフ社からマウトハウゼン強制収容所SS新建設局への1940年11月1日の書簡である。この資料は、「1 トップフ社製の圧縮空気換気システム(DruckluftAnlage)を備えた石炭燃料焼却炉、2 トップフ社製通風ブースター・システム」[7]の「コストの見積もり」(Kostenanschlag)につけられた書簡である。

 問題の炉は、ダッハウの炉ではなく、アウシュヴィッツの焼却棟Ⅰに導入された炉である。このことは、上記の「コストの見積もり」からだけではなく、アウシュヴィッツ焼却棟Ⅰの最初の2室炉の詳細に関する1940年6月10日の書簡につけられたトップフ社の技術図面D57253からも明らかである。この図面は、プレサックによって資料6として公表されている。

 この型の炉の能力に関しては、上記の書簡は 「わが社のプリュファー氏が、上記の炉では、1時間に2体を焼却することができることをすでに伝えてあります」(イタリック――マットーニョ)と記している。

(2) すでに述べたように、1時間に2体という能力に関しては、「上記の炉」とはまさに「アウシュヴィッツ型」炉のことについて言っているのであるから、これはダッハウの炉ではなく、「アウシュヴィッツ型」炉について言っていることは明らかである。

(3) プレサックが引用している資料はトップフ社からマウトハウゼン強制収容所SS新建設局への1941年1月6日の書簡である(98頁の注25)。圧縮空気の導入は、焼却時間を短縮するというのは、テキストには(あるいは実際にも)根拠のない、プレサックの恣意的な推測である。テキストも次のように述べている。

 

「二つの炉では、焼却される死体は上と下から熱せられるので、急速な焼却をもたらす」[8]

 

この書簡が言及しているのは、技術図面D57253にあるアウシュヴィッツ型の2室炉と、設置されなかった石炭燃料炉(図面D58173)であるから、(民間の炉に関する)「急速な焼却」とは1940年11月1日の書簡の中のクルト・プリュファーが指摘している1時間に他ならない。この「急速な焼却」は、ガス発生装置と結びついた開口部との関連で、耐火粘土で作られた発熱機の配置に依存している。

(4) プレサックは、トップフ社からマウトハウゼン強制収容所SS新建設局への1941年7月14日の書簡を引用しているが、これは正しい。しかし、プレサックはこの資料の意味しているところをまったく理解していない。[9] この書簡は、2室炉での約10時間に30-36体――1体で33-40分――の焼却について述べている。この結果は、吸気システム(Saugzuganlage)の助けを借りた好適な条件のもとでのみ可能であった。成人死体に対する効率の典型的な限界は、焼却室での40分の主要焼却+下の灰受けでの20分の燃焼後焼却であった。これは1時間のことであり、1970年代においてさえも、イギリスで行なわれた焼却実験からもわかるように、ガス炉での最小の時間である。[10] 33分(+20分の燃焼後焼却)が達成できるのは、例外的な場合にであり、きわめて短期間だけである。これらのデータが適用されているのはグーゼンの炉だけであり、それはトップフ社製の可動2室炉であり、それはもともとは石油を燃料としていたが、2つの側方ガス発生装置の導入とともに(プレサックの資料7)、ダッハウの最初の炉のように石炭燃料に改造されたものであった。地元の技術的な困難のために、これらのデータがアウシュヴィッツの焼却棟Ⅰに適用できるのは理論上のことだけである。

最初の焼却は1940年8月15日に行われた(13頁)。わずか3ヶ月後の11月22日に、建設局はベルリンの中央建物・建設管理局に次のような書簡を送っている。

 

「焼却棟のこれまでの作動は、1年の比較的好都合な時期においてさえも、2つの(燃焼)室をもった炉は小さすぎる(それゆえ、不充分である―マットーニョ)ことを示した。」[11]

 

プレサックによると、1940年3月から12月までに、アウシュヴィッツでは2000名の死者が出た(146頁)。1日に8名平均である。だから、アウシュヴィッツの焼却棟は1日に8体を焼却するのにも困難を抱えていたことになる。この書簡は、モスクワ文書館にあるアウシュヴィッツ建設局の資料の一部であるが、プレサックはこれに言及さえもしていない。これを除外した彼の動機は容易に理解しうる。

(5) 石炭を使ったガス発生炉は、炉の清掃のために毎日の休息を必要としていた。溶けて炉に付着した石炭の残余物が長い間には、発熱機のグリル棒のあいだの燃焼空気の通過を阻害し、焼却炉の作動効率を低下させてしまうからである。ルブリン強制収容所の技師コリの1941年10月23日づけの書簡[12]によると、強制収容所の焼却炉は最大限20時間だけ使われたと推測できる。

(6) 1941年7月14日づけのトップフ社の書簡のデータを受け入れると、2室炉の能力は、21時間稼働させた場合、

30体×21/10=63体

36体×21/10=76体となる。

だから、三つの炉の能力は、一日に63×3=189と76×3=228となる。プレサックは、根拠もなく、一日に200-250体と見積もっている。根拠がないというのは、最初から、データが提供しているのは2室炉の最大能力に関してであるからである。

(7) 1942年11月15日づけのルードヴィヒとエルンスト・ヴォルフガング・トップフあての書簡[13]の中で、プリュファー技師は、自分が設計し、ブッヘンヴァルトの焼却棟に設置された3室炉は自分が予想した3分の1以上の処理効率を持っていると指摘している。ここでも、能力と処理効率を混同しているプレサックは、能力を処理効率とすることによって、逆のあやまちをおかしている。実際には、大きな処理効率はプリュファー自身が知らない熱力学的な利点に依存していた(プリュファーは、1941年12月6日づけのトップフ社への書簡の中で書いているように、「自由時間(Freizeit)」に3室炉、8室炉を設計したためであろう)[側室で事前に暖められた空気を利用する3室炉は、2室炉よりも3分の1ほど処理効率が高かった。すなわち、3分の1ほど燃料消費が少なかった。その代償として、中央の室の煙の通過速度は、煙管の中で燃えるために、燃焼の速度よりも大きかった。このことは、吸気システムの不注意な使用とともに、1943年3月末の焼却棟Ⅱの損傷を引き起こした][14]。しかし、このことは能力にはまったく関係がない。にもかかわらず、プレサックは、3室炉による焼却時間を、2室炉と比較して3分の1ほど短縮されたものと解釈している。これは、技術的に無意味である。2室炉の理論的実際的な利用可能な熱は、3室炉のそれよりも大きいからである(1室あたり約16300キロカロリーに対して210000キロカロリーである。発熱機の燃焼能力という厳密な条件で言えば、1室あたり23.3キログラムに対して30キログラムである)。

 プレサックは、焼却棟Ⅱの閉鎖を5月22-23日と恣意的に設定している(80頁)。

(8) しかし、議論を進めるために、プレサックの解釈がたとえ正しいとしたとしても、3室炉の最大限の能力は、

一日あたり36体/10時間×21時間×3/2=113.4体である。

それゆえ、5つの炉の能力は、

一日あたり113.4×5=567;567×4/3=756体となる。

 しかし、プレサックは、一日の能力を800体としており、それはその後に、魔術的に1000体へと変わっていく。このように、プレサックは自分自身の技術的に無謀な前提条件のもとでも一貫していないのである。

(9) プレサックは、自分が8室炉に与えた能力を何らかのかたちで正当化しようと試みてもいない。これは、彼が3室炉に与えた能力と同様に根拠がない。

(10) ビルケナウの焼却棟Ⅱの5つの炉で45人の肥満した成人の死体――1室3人――を40分以内に焼却するという話(タウバー証人からの話)をまともに受け取ることができるのは、これらの炉の構造と稼働についてまったく無知な人だけである。第一に、一人の成人の男性死体の焼却時間は平均で60分である。第二に、二つの炉室を備えた発熱機の小さな燃焼能力――1室に一人だけの焼却のために設計された――は、室温を600度(死体がガス化するときに発生する重炭化水素を燃焼させるのに必要な温度、少なくとも700度よりも低い)を維持するのには不十分であり、ましてや、1室で2体を同時に焼却する場合には不十分である。3体を同時に焼却することは、熱力学的に不可能なのである。

(11) プレサックは、アウシュヴィッツ・ビルケナウの炉の能力の数字は小さな死体の存在のために「不確定である」と論じている。このプレサックの理由付けは、実際には言い逃れにしかすぎない。彼は、自分が扱うことを余儀なくされている熱力学的な現象を理解することができなかったので、別人がそれを理解することを望まず、それゆえに、炉の能力の問題のいかなる解決も「不確定である」と宣言してしまっている。ここでも、プレサックは誤っている。われわれは、ビルケナウでガス処刑されたとされる赤ん坊と子供のパーセンテージにもとづいて、彼らの年齢と平均の重さによって、問題を解決してきた。その結果は、赤ん坊や子供の存在によって、炉の能力は20%上昇するということであった。さらに、プレサックは自分の主張でも矛盾をおかしている。彼はタウバーの話を真実と受け入れているからである。40分で9名の成人死体の焼却は、21時間で1417名の成人死体の焼却に対応している。[タウバーは、「この焼却棟の計算と計画によると、燃焼室で一つの死体を燃やすのに、5-7分が割り当てられていた」ので、SSはいらだっていたと述べている。Jean-Claude Pressac, Auschwitz: Technique and Operation of the Gas Chambers, p. 489タウバー証言は、この種の熱力学的にまったく根拠のない話に満ちている。]

<石炭>

 プレサックは、アウシュヴィッツ・ビルケナウでの石炭消費についてまったく言及していない。

<炉>

 焼却炉問題を説明する前に、このテーマに関するプレサックの歴史的・技術的な主張を検討しておこう。彼の能力と彼の結論の有効性を判断するための材料を提供するためである。

 [プレサックの主張]:フォルクマン・ルードヴィヒ・システムの焼却炉は、1934年末ごろには、ドイツの市場を席巻していた(4頁)。プレサックは自分の「簡単な年表」をフォルクマン・ルードヴィヒの特許からはじめている(110頁)。彼は技術的図面を資料2として掲載しているが、その資料は彼の議論とはまったく関係がなく、彼を焼却問題の「専門家」であるとの印象を与えるだけのためである。[15]

 [事実]:フォルクマン・ルードヴィヒの特許の所有者であったハイニッケ社の本部は、当時はチェムニッツにあった。この社は、1935-1940年にこのタイプの15の炉をドイツに設置している。[16]

 [プレサックの主張]:アラハのミューラー炉から、SSは、棺なしの焼却は焼却時間を30分短縮すること、100キロの石炭は1日に20体を焼却するのに十分であると推論した(6頁)。

 [事実]:石炭を使用するガス発生炉では、棺は、炎によって壊れるまで、熱のシールドとして作用することによって、死体の水分の気化を5-6分遅らせる。同時に、棺が生み出した熱は、室温を1100度にまで上げ、気化のプロセスを促進するから、棺なしの焼却は棺ありの焼却よりも時間を取らないわけではない。

 ガス発生炉での石炭の消費に関しては、当時の専門的なドイツの文献の中でもっとも重要であるのは、1920年代と1930年代の焼却専門家の一人リヒャルト・ケスラー技師の実験である。この実験は、1927年1月5日に、デッサウの焼却棟のゲブリューダー・ベック炉、オッフェンバッハ・システム炉で行われた。[17] この実験の結果は、二つの熱力学的な表で示されている。8体が次々と焼却され、平均して29.5キロの石炭+棺が消費された。この表は、ガス発生炉の作動を理解するにはとくに重要である。熱均衡の炉を使うと、(20体を次々と焼却するとして)、石炭の消費は23キロ+棺に減ったことであろう。平均40キロの棺は15キロの石炭が発生するのと同じ熱量を生み出した。だから、棺なしの焼却には約38キロの石炭が必要であり、100キロの石炭で焼却できるのは3体であり、20体ではない。「推論」は明らかにSSによるものではなく、プレサックの推論であり、まったく貧困な推論である。

 [プレサックの主張]:プレサックにとって、吸気の機能は「燃焼ガスの量を増加させ、それによって、『冷凍死体』を焼却するときの余分な燃料消費を避けるため」(29頁)であった。

 [事実]:ここでは、プレサックはフォルクマン・ルードヴィヒのガス炉とアウシュヴィッツ・ビルケナウの石炭炉の効率を混同している。実際には、石炭で熱せられるガス発生炉では、吸気は、ガス発生燃焼室の通風に直接作用することによって、発熱機の燃焼能力(燃焼室の中で燃焼する石炭の量)を増加させ、したがって、石炭の消費は増大してしまうのである。

 [プレサックの主張]:15メートルの高さの煙突を持っていたアウシュヴィッツの焼却棟Ⅰでは、「ケーラーは27メートルの取り入れ口を手に入れるために、12メートルの長さの外部煙突を付け加えた。」(40頁)

 [事実]:実際には、煙突の取り入れ口の力は、発熱機の上の煙突の高さと断面によって決定される。ヒープケ技師が焼却棟に関する古典的な著作[18]の中でだした定式では、Z=0.6×H(250度の煙の温度)である。Zは取り入れ口の力、Hは燃焼炉の発熱機の上の煙突の高さである。煙の導管の長さは、あまり長い導管は煙を過度に冷やしすぎてしまうので、取り入れ口に対して否定的な影響しか持ち得ない。

 [プレサックの主張]:プレサックは、シュナーベルが公表した1925148マルクの1943年4月1日付のトップフ社のアウシュヴィッツの「予備見積もり(Kostenvoranschlag)」最後の頁[19]を、「戸外焼却の原則にもとづく」計画中の焼却棟Ⅵのものとしている(69頁)。

 [事実]:プレサックは、「戸外焼却」を「焼却壕」と解釈しているが、これは支持できない。問題の資料は、「滑車、鋼鉄ケーブル、手動ウィンチを持った一つの鉄の調整弁」と述べており、煙突の導管は一方では密閉燃焼室、他方では煙突を思い起こさせる。すなわち、戸外燃焼には推奨されない設備を思い起こさせるからである。

<炎>

 [プレサックの主張]:プレサックは大胆にも、(焼却棟Ⅱ、Ⅲの)煙突から出ている炎についてのさまざまな目撃者の話を受け入れている(91頁)。

 [事実]:これは技術的に不可能である。室から出てくる不燃焼ガスは、必要な発火温度と燃焼空気があれば、煙突の中で燃焼してしまうし、これらの条件がなければ、燃焼されないまま、炉から出てくる(とくに、窒素、二酸化炭素、水蒸気、最小限の量の二酸化硫黄)。前者の場合、完全に燃焼したガスが煙突から出てくるし、後者の場合、煙が出てくるだけである。

<焼却壕>

 [プレサックの主張]:プレサックは同様に焼却壕の話も受け入れているが、これも技術的に無意味である。壕の死体焼却に関する目撃者の話は、壕の低い部分では酸素が不足しているために、あり得ない話である。1871年、戸外の大量埋葬地で、セダンの戦いでの戦死兵士を焼却する試みがなされた。埋葬地をタールで満たし、それに火をかけたが、最上層の死体が黒焦げになり、中間層の死体が焼かれ、最下層の死体にはまったく影響がなかったのである。[20]

 [事実]:プレサックが作った焼却炉の技術図面には、彼が熱力学に無知であることによる、構造的な誤りが含まれている。以下が実例である。

           修正されたダッハウの炉の設計図(14頁):燃焼室と二つのガス発生装置の連結関係が不正確である(ガス発生装置の燃焼ガスは室の後部で放射され、直接に煙突導管に向かう。)

           ブッヘンヴァルトの3室炉の設計図(28頁):燃焼室とガス発生装置との連結方式が誤っている(二つのガス発生装置は二つの側室とだけ連結していた。燃焼ガスは、側室の内壁にある3つの室内開口部を通じて中央の燃焼室に入った。)

           「素朴な」3室炉の設計図(37頁)は、二つの単純化された3室炉(50頁)のおそらく配置計画である。炉にはひとつのガス発生装置だけがついている(1942年2月12日のコスト見積もり(Kostenanschlag[21]は、二つではなく、ひとつだけの水平発熱機(Planrost)に言及している。3つの連結口を介した二つのガス発生装置と3つの室との結びつきシステムは誤っている。燃焼ガスの排出システムは誤っている。煙突の通風によって、燃焼ガスの大半は、最小限抵抗線に沿って進むに違いない。すなわち、室からもっとも近い煙突導管に)。

           もともとの8室炉設計図(78頁)。燃焼ガスの排出システムは間違っている。各二つずつの室の外室は、室の後部の壁にある垂直管を介して、水平の煙突導管と連結していた。プレサックはこの導管を二つの室の間においている。

           強化された8室炉の設計図(78頁):燃焼ガスの排出システムが間違っている。ガス発生装置のところにある排出管は(設計図の右)存在していなかった。

 

第3章:焼却技術によるアウシュヴィッツ・ビルケナウの焼却炉

 アウシュヴィッツ・ビルケナウの焼却炉に関するわれわれの熱力学的な研究結果を手短に概観しておこう。

<1.石炭消費>

 2室炉での理論的な石炭消費は、ヴィルヘルム・ヒープケ技師の計算方法(当時のドイツの技術文献でもっとも一般的)[22]によれば、痩せた成人の死体は27.8キロ、通常の死体は22.7キロである。

 グーゼンの2室炉での実際の石炭消費は、13日間で677体(恐らく痩せていた)、1日平均57体を焼却したときには、それゆえ、恒常的な熱的均衡を保っていた炉を使って、20700キロ[23]、平均、1体につき30.5キロであった。

 2室炉の消費は、これらの実験的データを考慮すると、痩せた死体では30.5キロ、通常の死体では25キロとなる。

3室炉では(3分の1減少して)、痩せた死体で20.3キロ、通常の死体で16.7キロとなる。

8室炉では(半分減少して)、痩せた死体で15.25キロ、通常の死体で12.5キロとなる。

 以下の表にアウシュヴィッツ・ビルケナウの焼却炉の石炭消費をまとめておく。

   焼却に際しての石炭消費(キロ)

 炉の形式                   痩せた死体                  通常の死体

 2室               30.5              25

 3室               20.3            16.7

 8室               15.25          12.5

 

<2.能力>

 常時稼働している炉の平均焼却時間は、吸気システムの助けを借りれば、約40分の(炉室内での)主要燃焼である(グーゼンの炉に関するデータ)。

 吸気システムがなければ、平均焼却時間は、(燃焼発熱機の燃焼能力を考慮すると)、(1940年11月1日の書簡での)プリュファー技師の話、および燃焼室での燃焼に関するケスラー技師が発表した表によると(ゲブリューダー・ベック炉とアウシュヴィッツ・ビルケナウの炉との構造的相違を考慮しても)、60分である。アウシュヴィッツ・ビルケナウの炉には通風吸気システムはないので(81頁)、平均の焼却時間(炉室内主要燃焼時間)は1時間であった。炉の稼働時間は、最大でも1日に20時間である。それゆえ、焼却棟の能力は以下のとおりとなる。

   焼却能力(現実)

 場所              1日の処理死体

 焼却棟Ⅰ                    120

 焼却棟Ⅱ                    300

 焼却棟Ⅲ                    300

 焼却棟Ⅳ                    160

 焼却棟Ⅴ                    160

 合計              1040

 (これは、理論上の最大の能力である。資料によると、実際の能力ははるかに低かったことを示している。)

 ガス処刑の実態を想定し、死体の中に小さな死体が存在した割合、平均体重、平均年齢を考慮すると、毎日の能力は6/5上昇するであろう。これが次の表の第Ⅰ列である。第Ⅱ列は、プレサックが赤ん坊と子供の焼却仮説の中で有効とみなしている1943年6月28日の書簡からのデータである。

 場所                Ⅰ                            Ⅱ

 焼却棟Ⅰ                    144                          340

 焼却棟Ⅱ                    360                         1440

 焼却棟Ⅲ                    360                         1440

 焼却棟Ⅳ                    192                          768

 焼却棟Ⅴ                    192                          768

 合計              1248                         4756

 

 20時間内では、炉は全体で(ひとつの炉の発熱機の燃焼能力にもとづくと)23200キロの石炭を燃やすことができた。1体の石炭平均消費量は、プレサックによると、23000/4756=4.88キロとなる。これは熱力学的に不可能である。

<3.焼却棟の存在理由>

 ビルケナウに3つ以上の焼却棟を建設する決定がなされたのは、1942年8月19日であった(49頁)。これは、ヒムラーが1942年7月18日にアウシュヴィッツを視察し、ビルケナウの捕虜収容所の実際の予想を125000人から200000人に増やすことを命令した後のことだった(44頁)。これはまた、アウシュヴィッツ・ビルケナウ収容所で多数の犠牲者を生み出した1942年夏のおそらしいチフスの流行の真最中でもあった。男性収容地区だけで、8月1日から19日の間に、4113名の死亡が記録されている。[24] 1日平均216名である。1942年の第三期には、死亡率は、25000名を超えることのない平均の収容所人口の20.5%であった。[25] だから、焼却棟の能力は、ヒムラーが確定した収容所人口にはまったく十分であり、将来のチフスの流行に備えたものであった。

 <4.1943年の焼却:SSの見積もり>

 (プレサックが119頁に言及している)1943年3月17日の記録簿(Aktenvermerk[26]は、ビルケナウの4つの焼却棟の石炭消費の見積もりを示している。焼却棟の稼働時間は12時間となっている。その書簡は炉の発熱機の燃焼能力を示している。それゆえ、焼却されうる死体の数を計算することができる。すなわち、1日につき約362の痩せた成人の死体である。3月1日から17日までのビルケナウでの平均死亡率は1日292名であり[27]、これは焼却のための石炭消費の条件のもとでは、SSの見積もりの80%にあたる。これは、この見積もりが、平均的な死亡率+20%の安全マージンにもとづいて算出されていることを意味している。

『アウシュヴィッツ・カレンダー』によると、この時期のガス処刑の平均は1日に1100名であるから、もし、殺人ガス処刑の話が真実であるとすると、この時期には、1400名の死亡者があったことになり、これはSSの見積もりの約4倍である。

<5.1943年の焼却数:石炭消費>

 1943年3月1日から10月25日まで、合計641.5トンの石炭がアウシュヴィッツ・ビルケナウの焼却棟に搬入されている。[28] この時期、囚人の自然死は約27300人で、いわゆるガス処刑された人々の数は118300人ということになっている。[29] だから、約145600名となる。自然死の囚人だけの焼却の平均の石炭利用量は、1体あたり、641500/27300=23.5キロとなり、これは炉の消費量と完全に一致する数字である。ガス処刑されたといわれている人々プラス自然死の囚人の焼却の石炭の利用量は、1体あたり、641000/145000=4.4キロとなり、これは熱力学的にありえない数字である。

 1943年3月17日のSSの見積もりと3月から10月までに焼却棟に供給された石炭の量は、焼却棟が焼却したのは、自然死で死亡した登録された囚人だけであり、したがって、大量殺人ガス処刑はまったくありえなかったことを示している。

<6.1943年の焼却能力>

 1943年3月14日から10月25日まで、ビルケナウの焼却棟が稼働できたのは、合計で約400日にすぎなかった。理論的に可能な焼却の最大数は(赤ん坊と子供を考慮しても)約100000人であるが、焼却されるべき死体の数は(ガス処刑されたといわれている人々プラス登録された囚人)142000である。だから、焼却棟の焼却能力は、ガス処刑されたといわれている囚人の焼却を不可能としているし、それゆえ、大量殺人ガス処刑はありえなかったのである。

 『技術と作動』の中で、プレサックは、1943年4月から10月まで、ビルケナウの焼却棟は497トンの石炭を使って165000から215000体を焼却したと述べているが[30]、これは何と、平均2.6キロの石炭で1体を焼却することができてしまうことになる。

 ルドルフ・ヘスによると、焼却棟Ⅱ、Ⅲは1日に2000を、焼却棟Ⅳ、Ⅴは1日15000を焼却することができた。[31] したがって、平均の石炭消費量は、何と、1体につき3.5キロと1.8キロとなる。

<7.焼却炉の耐火壁の寿命>

 プレサックは、1989年の著作の中で、アウシュヴィッツ・ビルケナウで焼却された死体の数字を次のようにしている。

 

  アウシュヴィッツ・ビルケナウでの焼却

 場所                         焼却数

 焼却棟Ⅰ                               10000 [32]

 焼却棟Ⅱ                              400000 [33]

 焼却棟Ⅲ                              350000 [34]

 焼却棟Ⅳ                                6000 [35]

 焼却棟Ⅴ                               15000 [36]

合計                       781000

 焼却壕1942年          107000 [37]

 焼却壕1943年           50000 [38]

合計                       157000

総計                       938000

 

 以上の数字はいわゆるガス処刑された人々に関してだけであって、自然死した登録囚人の死体は含まれていない。

 プレサックは、1993年の著作では、ガス処刑された人々の数を630000にまで減らし、全体の死者を775000とした。およそ800000とした(148頁)。

 ガス処刑されたといわれている人々の数の修正は、プレサックが研究したモスクワ資料とはまったく関係がない。数を減らしたのは、1943年(と1944年の春と夏)のビルケナウの焼却棟が、彼が採用した水増しの能力によってさえも、いわゆるガス処刑されたといわれている人々の死体を焼却できないことを彼が悟ったことによっている。矛盾を取り除くために、彼は、『アウシュヴィッツ・カレンダー』によるこの当時のアウシュヴィッツ・ビルケナウへの移送者数(約50000)とガス処刑されたといわれている人の数(約42000)が多すぎると述べている。(147頁)。ここでは、プレサックは、簡単な推論にもとづいて、アウシュヴィッツ・ビルケナウの犠牲者の数字に関するピペルの最近の研究[39]を、ほんの1頁で「訂正」しようとしているのである。ピペルの研究は、アウシュヴィッツ博物館が所蔵する資料から編纂された、もっとも深い、資料にもとづいた絶滅論者の研究である。それゆえ、殺人ガス室の実在性の支持者の観点からしても、ピペルの推定の方が典拠文献となっており、プレサックの推測は根拠のない思いつきにすぎない。

 にもかかわらず、プレサックが採用した新しい焼却数でさえも、技術的には不可能である。彼は、1942年に戸外で焼却されたといわれている数を107000から50000へと減らし、それは「焼却壕」においてではなく、積み上げられた薪の上でのこととした。1943年については、彼は数字を挙げていない。だから、1989年の著作の50000が有効のままであるとみなすことにする。だから、焼却された775000のうち、約100000人が戸外で焼却され、残りの675000が焼却棟で焼却されたことになる。

ヤコブ・シュケッター技師は、1941年に、エルフェルトの焼却棟のトップフ社製の電気式炉について、第二の炉は3000回の焼却を実行でき、炉の壁は2000回の焼却に耐えられると述べている。[40] グーゼンの炉は3200回の焼却を行ない[41]、その後、それを解体して、耐火壁を張り替えなくてはならなかった。[42] それゆえ、1室は1600回の焼却に耐えられる。アウシュヴィッツ・ビルケナウの炉が1室につき最大の3000回の使用に耐えられるとすると、約156000体を焼却できたことになる(プレサックによると、登録囚人のあいだの犠牲者は130000である(149頁))。675000体の焼却には、少なくとも4回の室の耐火壁の完全な張替えが必要である。このことは、焼却棟Ⅱ、Ⅲだけで、256トンの耐火壁資材が必要であることになる(ガス発生装置の壁を考えないでも)。また、同時に、(グーゼンの経験にもとづくと)約7200時間の労働時間が必要となる。

にもかかわらず、アウシュヴィッツのSSが「無傷のまま」残していた建設局資料――プレサックが検証した――には、これらの巨大プロジェクトに関する痕跡はない。これは、これらが実行されなかったことを意味している。というのは、建設局の記録には、一例を挙げると、828マルクという少額な支払いに関しても、建設局とトップ社のあいだで「執拗な行政的支払い精算」(59頁)文書が存在しているからである。

 675000の焼却は、技術的に不可能である。したがって、大量絶滅はアウシュヴィッツ・ビルケナウではまったく実行されなかったことになる。

<8.ハンガリー系ユダヤ人の移送と「絶滅」>

 プレサックは、ガス処刑されたといわれているハンガリー系ユダヤ人の大量焼却が技術的に不可能であることに当惑して、アウシュヴィッツ・ビルケナウに移送された438000のうち、146000は働くことができたので助かり、残りの292000が働くことができずに、したがってガス処刑されたと述べている(147頁)。彼は、ヴェレールの統計的な見積もりを参照している。ヴェレールはこの件に関する正統派を代表しており、彼によると、ガス処刑された人の数は、410000であるのにである。(147頁)

 これらから、プレサックは、焼却棟Ⅱ、Ⅲ、Ⅳと「焼却壕」の合計能力は1日3300体であり、それは、4300に増加することもありうるとした(プレサックはその方法をあげていない)。「SSは7日間で300000を絶滅した。」(148頁)

 第一点に関して、プレサックは、118000のハンガリー系ユダヤ人(146000-28000の登録囚人=118000)がアウシュヴィッツから移送された証拠を挙げていないので、同じ論理を使って、410000のハンガリー系ユダヤ人(438000-28000=410000)がアウシュヴィッツから移送され、絶滅を被らなかったということも可能である。

 第二点に関して、プレサックが指摘した能力は技術的に不可能であることにすぐに気づく。焼却棟Ⅱ、Ⅲ、Ⅴはせいぜい900体を焼却できるだけであり、「焼却壕」は、すでに指摘したように、技術的に馬鹿げている。

 にもかかわらず、ハンガリー系ユダヤ人の移送は、1944年5月15日から7月8日までの54日間に起こった。それゆえ、1日に最大の4300体と想定しても、54日×4300体となるので、焼却できるのは、292000体ではなく、232000体である。事実、さまざまな移送の波、移送日、移送者の到着による休業を考えると、実際には39日となり[43]、ビルケナウの施設は、39日×4300体=167700体を焼却できるだけである。残りの124300体はどこにいったのであろうか。

 1944年5月31日に撮影された連合軍による航空写真がある。[44] この時期は、いわゆる絶滅の最高潮のときであり、ビルケナウに約15000の移送者が到着した日であり、14日間も頻繁に到着し(184000名、1日平均13000名)、合計(プレサックの仮説では)少なくとも110000がガス処刑され、それは1日平均7800名となり、それが14日間続いた時期であった。しかし、写真には、この膨大な絶滅の痕跡はまったく残っていない。煙のあともなく、壕のあともなく、焼却その他のあともなく、壕から引き上げたごみのあともなく、壕に使われる木材のあともなく、焼却棟Ⅴの地域にも、ブンカー2の地域にも、焼却棟Ⅱ、Ⅲの地域にも乗り物その他が活動しているあともない。これらの写真[45]は、ハンガリー系ユダヤ人の絶滅の物語が歴史的に根拠のないことを、反駁の余地なく証明している。

 

第4章:「最終解決」の起源と進展[46]

 プレサックは、こう述べている。「最終解決」の最終段階は、

「1942年5―6月以降まで、ベルリンのSS当局によって決定されてはいなかった。やっと、その後になって、アウシュヴィッツ建設局のSSとエルフェルトのトップフ・ウント・ゼーネ社の技師によって技術的に具体化された。」(2頁)

 

この点に関して、プレサックはこう述べている。

 

「1942年6月初頭、ヒムラーはヘスをベルリンに召喚し、彼の収容所をユダヤ人の大量絶滅センターとして選択したことを伝えた。SSの長官がアウシュヴィッツを選んだのは、それが鉄道に近いという好適な位置を持っており、収容所には1日で1400体を焼却する能力を持つ特別な焼却棟が提供されることになっていたためであった(このエピソードを、ヘスは誤って1941年夏のことであるとしており、アイヒマンもヘスの著作を読んだ後に、同じことをしている)。この行動は7月1日に始まることとされ、この日付までにこれを実行するすべての準備が行われなくてはならなかったであろう。」(イタリック――マットーニョ)(41頁)

 

 実際には、この事件を誤って1942年としているのはプレサックのほうである。年表的にも、ヘスによる事件の進展の記述からしても、これは1941年に起こったに違いない。

 われわれはこの進展を次のようにまとめる。

 

(ヘス)1941年夏、正確な日付は思い出せないが、私は突然ベルリンの国家指導者(ヒムラー)のところに召喚された。

(ヒムラー)総統はユダヤ人問題の最終解決を命令し、われわれSSは、この命令を実行しなくてはならない。

私がアウシュヴィッツを選択したのは、それが交通の最適な位置にあり、周辺地区から簡単に隔絶されて、カモフラージュできるからである。

詳細については、すぐに派遣する国家保安本部のアイヒマン少佐から聞くことになる。

(ヘス)まもなく、アイヒマンがアウシュヴィッツの私のもとにやってきて、さまざまな国のための行動計画を話してくれた。

ここで、われわれは、絶滅計画を実行する方法について議論を進めた。その方法はガスでしかありえなかった。・・・

アイヒマンは、特別な設備を必要としない、容易に製造されるガスの存在を知ることになり、この件についてあとで私に知らせることを約束した。

われわれは、最適の場所を探すために地区の検証に向かい、ビルケナウの建物ののちの第3地区[ビルケナウののちの地区BⅢ]の北西の隅にある農場(のちのブンカー1)に定めた。

アイヒマンは、われわれの会談の中身を彼(ヒムラー)に報告するために、ベルリンに戻った。

11月末、ベルリンのアイヒマンの事務所で、ユダヤ局の会議が開かれ、ここに参加するように招かれた。

われわれは、いつ行動が始まるのか伝えられておらず、アイヒマンも適当なガスを発見することができなかった。

1941年秋、ゲシュタポは、捕虜に出された秘密命令によって、すべての政治囚、人民委員を分離し、彼らをもっとも近い強制収容所に送って、彼らを清算しようとした。

アウシュヴィッツでは、これらの人々の小規模な輸送が絶えず到着していた。彼らは、(タバコ)独占の建物の近くの砂利の壕かブロックⅡ[ブロック11]の庭で射殺された。

私が公務で旅行したとき、私の代理のフリッチュ大尉が、自分の発意で、ガスを使ってこれらの捕虜を絶滅した。彼は、地下室にロシア人を満たし、ガスマスクで自衛して、チクロンBを投入させた。それは犠牲者たちを即死させた。

アイヒマンが次に訪問してきたとき、私は、チクロンBの使用について彼に報告し、われわれは、差し迫った大量殺戮のためにこのガスを使うことにした。

前に述べた、チクロンBによるロシア人捕虜の殺害は続けられたけれども、ブロックⅡにおいてではなかった。ガス処刑の後には、少なくとも2日間は建物全体を換気しなくてはならなかったからである。結局、ドアに密閉措置がほどこされ、ガスの投入口が天井に空けられてから、病院の近くの焼却棟の死体安置所が使われた。

ユダヤ人の絶滅がいつはじめられたのか正確には知らない。恐らく1941年9月に始まっていたのかもしれないが、多分、1942年1月になってからのことであろう。[47]

 

 このように、ヘスがベルリンに召喚されたのは、最初の殺人ガス処刑がブロックⅡのブンカーで行われたとされる(そして、アウシュヴィッツの焼却棟Ⅰの死体安置所でガス処刑が続けられたとされる前)であったことは明らかである。しかし、プレサックは、この事件を1941年12月としている(34頁)のだから、召喚は1942年ではなく、1941年であることも明らかである。

 ヒムラーがアウシュヴィッツを選択した第二の動機は「注釈」のなかにも、ヘスの宣誓供述書のなかにも、まったく証拠はなく、プレサックの単純な空想にすぎない。そして、召喚の日付(6月初頭)、絶滅の開始の日付(7月1日)もやはり空想である。

 プレサックは、自分の著作をなぜこのようなごまかしから始めなくてはならなかったのか。答えは単純である。モスクワではビルケナウの焼却棟の設計図の中に犯罪の証拠をまったく発見できず、これらの焼却棟がもともとは殺人ガス室なしに設計されていたことを認めざるを得なかったので(53頁)、彼は、ユダヤ人を絶滅するという決定を1年遅らさざるを得なかったのである。そうしないと、絶滅の主要センターとなるはずの場所にガス室なしの焼却棟を計画することはまったくありえないことになってしまうからである。にもかかわらず、プレサックは矛盾に陥っている。彼は、ブンカー1での殺人活動の開始を1942年5月末、すなわち、ヘスがヒムラーからいわゆる絶滅命令を受け取る(6月初頭)前としてしまっているからである(39頁)。ここで、思い起こすことは、『アウシュヴィッツ・カレンダー』の初版[48]では、ブンカー1の活動の開始が1942年1月とされているのに、第二版では3月に移っていることである。[49] プレサックはそれを5月末にまで移している。これら3つのケースには、まったく証拠がない。さらに、『アウシュヴィッツ・カレンダー』の第二版[50]は、ブンカー2の活動の開始を1942年6月30日としているから、ヘスが理論的には6月初頭にベルリンに召喚されたに違いないことは明らかである。そして、ヘスがそれについて特定していないのは問題ではない。

 このように、ヘスがヒムラーによるベルリンへの召喚を1941年6月と述べていることは、最初から、プレサックの論拠を覆しているのである。

 これを認めつつ、この論拠を論理的、年表的な進展から見ておこう。

 指摘したように、プレサックは最初の殺人ガス処刑を1941年12月5日と同月末のあいだとしている(34頁)。これに関して、プレサックは、次のように述べている。

 

「ヘス(関与していない)によると、死は即死であったにちがいない。ガス処刑は2日間続き、最初の毒が全員を殺していなかったので、第二の毒が投下されたと語る人もいる。27度で気化する青酸が、シレジアの真冬に暖められていない地下室で使用され、致死量の誤解があったので、このガス処刑は異常なまで長くかかったのである」(イタリック――マットーニョ)(34頁)。

 

『アウシュヴィッツ・カレンダー』によると、さまざまな目撃者にもとづいて、この事件は1941年9月3日と5日の間に行われたことが知られている。[51] ポーランドの歴史家クロジンスキは、1941年に登録されていたアウシュヴィッツの囚人250名にアンケート調査を行ない、このガス処刑の日付を1941年9月5日と9日の間に変えている。[52] 1989年には依然として『アウシュヴィッツ・カレンダー』にしたがっていた[53]プレサックは、少なくとも日付を3ヶ月後にずらしている。どのような理由なのか。われわれの190頁の研究「アウシュヴィッツ:最初のガス処刑」[54]のなかで、われわれは、この事件には資料的な証拠がなく、むしろ、利用できる資料から見ると矛盾しており、この問題に関するすべての証言は本質的な諸点で矛盾しているので、この事件にはまったく歴史的な根拠がないことを明らかにしたが、プレサックはこれに依拠しているのである。彼は、当然の結論を受け入れるかわりに、われわれの論拠のひとつが真実であると考え、[55] ついで、この事件は歴史的現実性を持っているだけではなく、「今日では」(34頁)、自分が示したのが公式の日付であると述べているのである。

 ここで、プレサックは、用心深い方法の多くの例のひとつを示している。チクロンBの投下の話は、クラの証言(1945年6月11日の供述)[56]に由来している。しかし、この証言は、最初のガス処刑を1941年8月のことと断言しているのである。

 

「私の情報によれば、最初のガス処刑が行われたのは、ブロック2のブンカーで、1941年8月14―15日の夜と15日の昼であった。私がこの日付を正確に記憶しているのは、これが、私が収容所にやって来た記念日と一致しており、そのとき、最初のロシア人捕虜がガス処刑されたからである。」[57]

 

クラは、プレサックが、焼却棟Ⅱ,Ⅲのいわゆるガス室にチクロンBを投下するための4つの針金網柱の話を借りている証人である(74頁)。[58]

 いわゆるガス処刑が「異常に」長引いたことについてのプレサックの説明は、低い温度と致死量への無知である。この説明は、同じ証人の証言にもとづいて、われわれの著作の中で論駁されている。

 

 「証人グロヴァツキ:非常に暑かった。

証人キエラー:空気は息苦しくなるほど暑かった。」

 

それらはまた、1940―1941年のチクロンBを使ったバラックの害虫駆除での実際の経験からも反駁されている。このときには、地元の気温はマイナス4度からマイナス8度であり、ガスは1、2時間後に最大にまで放出した。[59] 最後に、この研究の中で、われわれは、青酸の致死量は、フルリーとツェルニークの古典的著作Schädliche Gase, Dämpfe, Nebel, Rauch und Staubarten (Verlag von Julius Springer, Berlin 1931)にもとづいて、1930年代にすでに完全に知られていたことを示してきた。こうしたことは、プレサックの論拠とは直接に矛盾している。[60]

 プレサックの説は、もうひとつの矛盾を抱えている。この事件は、ユダヤ人の絶滅決定の少なくとも5ヶ月前のことであり、この決定とはまったく関係がない。にもかかわらず、プレサックは、4月末に困難が発生したために、ビルケナウに活動を移すことが決定されたと確言している。換言すると、ブンカー1を使うことが決定された。しかし、それはユダヤ人の絶滅と結びついていたというのである。

 それゆえ、ここで、プレサックは、1989年の著作には存在していた論理的一貫性(論理的には認められるが、歴史的には偽り)を破綻させてしまっている。

 

「致死量が知られていなかったので、SSは1941年9月3、4,5日に、中央収容所のブンカー11の地下室で実験的なガス処刑を行なった。850名のソ連軍捕虜とその他の囚人が犠牲者であった。

 その後、死体が当然その後に行くべき同じ場所でガス処刑することがもっと便利であると思われるようになった。焼却棟Ⅰの死体安置所である。

 しかし、技術を完全にするための実験は、収容所に隣接するこの焼却棟では実行することができなかった。このためにビルケナウの森の端の孤立した場所にブンカー1を設置するという考えが生まれた。」[61]

 

 「最終解決」について、プレサックは、次のように述べて、ヴァンゼー会議に関する伝統的な解釈に最後の一撃を加えている。

 

「1942年1月20日、いわゆるヴァンゼー会議がベルリンで開かれた。ユダヤ人を東部地区に『追放する』という作戦が労働による『自然の』除去を招くことが予想されていたので、このときには、誰も工業的な清算については語らなかった。続く日々、週間、アウシュヴィッツ建設局は、この目的にかなった設備を設置することを求めた要請も、電報も、書簡も受け取らなかった。」(イタリック――マットーニョ)(35頁)

 

 いわゆる「最終解決」の話は、ヒムラーからの口頭の命令で始まったが、それが終わるにあたっても、別の口頭の命令で終わった。

 

「1944年11月末、ヒムラーからの口頭の命令にもとづいて、殺人ガス処刑は中止された。」(93頁)

 

 言うまでもないことだが、この「口頭の命令」の実在についてもまったく証拠がない。[62]

 

第5章:焼却棟ⅡとⅢ

 プレサックは、1日に1440体という能力が中央収容所の新しい焼却棟のために期待されており、それは後にビルケナウの焼却棟Ⅱ、Ⅲの原型となったと断言している(28頁)。すでに見てきたとおり、これが、ヒムラーがユダヤ人の絶滅を実行するためにアウシュヴィッツを選択した理由であったという(41頁)。にもかかわらず、彼は、こう述べている。

 

「焼却棟Ⅱの存在はユダヤ人を絶滅するにあたって、アウシュヴィッツを選択する触媒の役目を果たしたが、焼却棟Ⅱはこの絶滅に直接結び付けられているのではなく、一時的な補足手段とみなされる。焼却棟Ⅲは20万の囚人を扱うために、Ⅱの拡張としてだけ設計されたものであり、SS官僚の要求によって『犯罪化』されたにすぎない。」(54ー55頁)

 

 焼却棟ⅢはⅡと同じような「衛生的傾向」(50頁)をもっており、当然にもその延長線上にあった。焼却棟Ⅱ、Ⅲの建物は、殺人ガス処刑の意図を持って計画されてはいなかった(63頁)。ビルケナウの4つの焼却棟はどれひとつとして当初には殺人ガス室を予定していなかった(53頁)。焼却棟Ⅳ、Ⅴは「ブンカー1、2に付属していた」(50頁)。それらは「ブンカー1、2と運命をともにして」いた(52頁)。「直接ブンカー1、2に結び付けられていた」(54頁)。

 したがって、プレサックによると、焼却棟Ⅱ、Ⅲはもともとは、通常の保健衛生的な機能を持っており、(殺人ガス室を備えていない)焼却棟Ⅳ、Ⅴは、ブンカー1,2でガス処刑された人々を焼却したというので、犯罪的機能を持っていたということになる。

 このことは、アウシュヴィッツ建設局の技術者は、30炉室(1日に2880体の処理能力とされている)を収容所の通常の保健業務に、そしてわずか16炉室を大量絶滅に割り当てたという無意味な結論となる。換言すれば、技師たちは大量殺害よりも、自然死の死者のほうを多く見積もっていたことになる。

 もう一つのプレサックの結論は、ヒムラーがアウシュヴィッツを選択したのは、新設計の焼却棟によって(プレサックは1日に1440体の処理能力としている)ユダヤ人の絶滅を始めようとしたためであったというものである。しかし、建設局の技術者は、この焼却棟とその双生児のⅢを絶滅のセンターとするかわりに、はるかに能力の劣ったその他の2つの焼却棟を使ったことになる。

 その他の3つの焼却棟(Ⅲ、Ⅳ、Ⅴ)の起源に関して、プレサックはこう述べている。

 

「8月19日は、ビルケナウに別に3つの焼却棟を建設する決定が承認された日付とみなされる。そのうちの二つはユダヤ人の絶滅という犯罪プロセスと直接に結びついていた。」(49頁)

 

 しかし、8月19日は、収容所の囚人を殺したおそろしいチフスがアウシュヴィッツ・ビルケナウで蔓延した日付でもある。

 プレサックもこれを認めている。

 

「毎日250-300の囚人を殺していたチフスの蔓延、民間人とこれに同伴するSS、ユダヤ人輸送列車の絶え間のない到着の圧力のもとで、ビショフはヘスの命令で、焼却計画を促進しなくてはならなかった。」(50頁)

 

 事実、ビルケナウの4つの焼却棟を建設する決定は、収容所の人口が約10倍に膨張することを予想したSSのなかに生じたチフスの蔓延への恐怖から出ている。[63]

 プレサックは、チフスの蔓延の阻止を目指した施設とSSの警戒措置が、SSの用語法では、『特別』(Sonder-)という単語を持っていたことを示している。ヴィルト医師は「衛生状態の改善のための特別措置が緊急にとられなくては、チフスが蔓延することを予想した。」(イタリック――マットーニョ)(82頁)

 プレサックは次のように正しく説明している。

 

「『特別措置』、『特別建設措置』という用語は、衛生措置や(たとえば、水の供給、囚人への保健措置など)の建物に関係する処置を意味している。」(イタリック――マットーニョ)(107頁、注256)

 

 中央サウナの害虫駆除施設の建設によって、

「SSは、ビルケナウでのチフスの再流行を『断固』として防止しようとしていた。」(69頁)

 中央サウナは「特別建設措置(Sonderbaumassnahmen)」の一部であり(107頁、注256)、焼却棟とともに、このような「特別措置の実行(Durchführung der Sonderbehandlung)」に関連していた。

 それゆえ、新しい焼却棟の建設が、(プレサックも認めているように)純粋に衛生的な目的であるとすれば、チフスが蔓延していた1942年7月末の資料が述べているように、「特別行動」(47頁)がとられなくてはならなかったのである。これらの「特別行動(Sonderaktionen)」とは疫病に対する戦いと関係しているのであり、犯罪とはまったく関係がなかったのは明らかである。

 そして、同じ資料が「ビルケナウの囚人の特別措置のための4つのバラック(4 Stück Baracken für Sonderbehandlung der Häftlinge in Birkenau)」について言及しているとすれば、収容所の登録された囚人のための「特別措置」は、プレサックの言葉を使えば、たんに「囚人のために実行された衛生措置」をさしていることも明らかである。

 そして、最後に、1942年8月26日、チフスが蔓延しているとき、チクロンBが「特別措置のために(für Sonderbehandlung)」デッサウで調達されたとすれば、それが害虫駆除目的のためであったことも明らかである(47頁)。[1942年10月28日のアウシュヴィッツ建設図面では、囚人の保健衛生措置のために、「特別措置のための(für Sonderbehandlung)」1000㎡の「害虫駆除施設(Entwesungsanlage)」が予定・計画されていた。そこには、「暖房、シャワー、害虫駆除設備(Heiz-Brause- u. Desinfektionsanlage)」が備えられており、73680マルクであった。別の小さな(262.84㎡)「害虫駆除施設(Entwesungsanlage)」は「看守のための(für die Wachtruppe)」ものであった。Zusammenstellung des Bauvorhaben Kriegsgefangenenlager Auschwitz (Durchführung der Sonderbehandlung, 28 Oktober 1942. Photocopy in: Florian Freund, Bertrand Perz, Karl Stuhlpfaffer, "Der Bau des Vernichtungslager Auschwitz-Birkenau", Zeitgeschichte, Heft 5/6, May-June 1993, p. 207).

  自己矛盾的に、プレサックは、「特別措置(Sonderbehandlung)」はビルケナウでの労働不適格ユダヤ人をガスによって清算することを意味している便宜的な用語であったとも主張している(46頁)。

彼はさらに次のように述べている。

 

「殺すという行動は特別措置あるいはユダヤ住民の移送と呼ばれていた。選別、労働不適格な人々の移送、殺人ガス処刑を含む作戦全体は、特別行動という用語で呼ばれていたからである。その用語はとくに犯罪的な用語ではない。それは犯罪的ではない作戦にも適用できたからである。」(46頁)

 

 プレサック自身は、「特別行動(Sonderaktion)」という用語がまったく犯罪的な意味を持たなかったケースにも言及している。1942年12月17日と18日、民間人労働者が、何と絶滅収容所でストライキを起こした後に、ゲシュタポは、労働拒否の原因を突き止めるために、労働者に調査尋問する「特別行動(Sonderaktion)」を行なったという(63頁)。

 「特別措置(Sondermassnahmen)」、「特別建設措置(Sonderbaumassnahmen)」、「特別処置(Sonderbehandlung)」、「特別行動(Sonderaktion)」も犯罪的な意味は持っておらず、プレサックは、これとは逆のことを立証する資料をひとつたりとも提出してはいない。それゆえ、彼の推論にはまったく根拠がない。

プレサックは、アウシュヴィッツでのチクロンBの供給について書いているが、そこには信じられないことがある。彼は、SS経済管理局は、1942年にアウシュヴィッツ・ビルケナウで蔓延したチフスについて何も知らなかったと考えている。この疫病は、害虫駆除のために膨大な量のチクロンBを必要としていた。プレサックは、SS中央機関に疫病の蔓延を知らせたくはなかった収容所管理局が、自己欺瞞を図ることによって、チクロンBの供給を要請せざるを得なかったと主張している。プレサックは、窮状をどのように切り抜けようとしているのか。

 

「策略が案出された。使われるガスの量をごまかす口実はユダヤ人に向けられた。8月26日の搬送許可は、『特別措置』に対してであった。ベルリンのSS経済管理局は、『措置』の結末を知っていたにもかかわらず、その内実、使われる毒の量については知らなかった。だから、2-3%で十分であったけれども、大半のチクロンBは、ブンカー1と2の殺人ガス処刑に必要であると部外者に考えさせることができた。このようにして、アウシュヴィッツ収容所当局は、ガスの97ー98%を害虫駆除のために使うことができたのである。」(47頁)

 

 このような説明には、明らかな目的がある。すなわち、チクロンBを発注する理由が明らかに二重である、一方では「特別措置(Sonderbehandlung)」(8月の調達文書)、「ユダヤ人の再定住(Judenumsiedlung)」(10月の調達文書)があり、これについては、プレサックは犯罪的な意味で解釈している。他方では、「収容所の害虫駆除のためのガス(Gas zur Desinfektion des Lagers)」(7月29日の調達文書)[64]がある。したがって、官僚的に定義された二つのかたちの調達文書、すなわち、ユダヤ人をガス処刑するための調達文書と収容所の害虫駆除のための調達文書が存在するというのである。だとすると、殺人目的のためのチクロンBの量は膨大となってしまい、アウシュヴィッツに供給されたチクロンBの2%から3%が殺人目的のために使われたという、プレサックが1989年の著作の中で述べた説[65]とは矛盾してしまうことになる。この矛盾を克服するために、実際には、殺人(「特別措置」「ユダヤ人の再定住」)のためのチクロンBの注文は、衛生目的のための注文のカモフラージュにすぎなかったと主張する以外に、プレサックには方法がなかったのである。だが、SS経済管理局は、アウシュヴィッツに蔓延するチフスについて十分に知っていたのである。このことは、ヴィルト医師が、1942年9月6日に、「チフスの蔓延を食い止めるために、アウシュヴィッツ収容所守備隊の主任医師に任命され」、強制収容所監督局[66]、すなわち経済管理局D課から派遣されてきていたという事実によっても推論できる。

 プレサックは、自分の論拠が希薄であることを知っていたので、1942年9月23日に、ポールがアウシュヴィッツにやってきた目的を捏造することによって、自分の説明をより信頼できるものにしようとした。

 

「SS経済管理局長官ポール上級集団長は、1942年9月23日の朝突然に、アウシュヴィッツにやってきた。それは、何が進行しているのか、配給された数トンのチクロンBがどこへ向かうのか知るためであった。ポールは最初に建設局に向かい、収容所の全体計画について説明させた。すでに建設された建物、建設中のもの(ビルケナウの4つの焼却棟を含む)などである。そして計画中のものを彼に示させた。チクロンBに対する彼の質問に関しては、この製品を使って、ユダヤ人とシラミが同時に根絶されるという回答であった。」(イタリック――マットーニョ)(59頁)

 

上記の件についてのプレサックの典拠資料は、『SSの目から見たアウシュヴィッツ』(Auschwitz vu par le SS (Edition du Musée d’Etat à Oswiecim) [Auschwitz Viewed by the SS (Edition of the State Museum at Oswiecim, 1974)])の中に発表されたクレマーの日記である(pages 233 and 234 (notes 182 and 183 on p. 105)。この233頁の終わりから234頁の終わりまでの2頁には、次のようにある。

 

「朝、上級集団長ポールが副官とともに、武装SSの宿舎までやってきた。玄関には歩哨がいた。はじめて私は手を差し出した。夕方の20時、SS将校クラブで夕食があった。それはまさに祝宴であった。われわれが望むすべてのもの、本当のコーヒー、素晴らしいビール、サンドイッチが出された。」

 

 これがすべてである。残りはプレサックの想像の産物である。117頁で、彼は2度矛盾をおかしている。すなわち、彼は、ポールがアウシュヴィッツに行ったのは、「とりわけ、チフスの危険を取り除くために、ブロシュコヴィツ(アウシュヴィッツ町の北)に大規模な水の浄化設備を建設することに関心を抱いていたためであった」(イタリック――マットーニョ)(117頁)と述べているのである。

 それゆえ、SS経済管理局はすでにチフスについて知っており、ポールがアウシュヴィッツを視察したのは、「彼らに与えられた数トンのチクロンBがどこへ向かったのか」を質問するためではなかった。

 プレサックの基本的なテーゼは、当初は衛生設備として計画・建設された焼却棟Ⅱ、Ⅲ両方が、後に犯罪の道具に変わっていったというものである。

 

 「1942年10月末ごろ、ブンカー1と2のガス処刑活動を、換気設備を備えた焼却棟Ⅱの部屋に移すという考え方が生まれた。このことは、1941年に、焼却棟Ⅰの死体安置室ですでに実験されていた。」(60頁)

 

これはプレサックの勝手な発言である。どの資料でも実証されていない。さらに、彼は次のような根拠のない主張を付け加えている。

 

「1942年11月、建設局のSSは、焼却棟に殺人ガス室を備えることを決定した。」(66頁)

 

プレサックによると、SSのもともとの考えは、

「できるだけ速やかに、焼却棟Ⅱの地下室をガス処刑のために使うことであった。もしも、必要な資材が遅れたならば、換気扇を備えた後に、焼却棟Ⅰの地下室をもう1度使うということであった。これらの換気扇は、建物のすべての部屋から、1時間に8300立方メートルの空気を引き出し、地下室からは1時間に3000立方メートルの空気を引き出すことができた。」(61頁)

 

これは、プレサックの考え方からしても、明らかに非合理的である。一方においては、建設局は、焼却棟Ⅱの地下室1を殺人目的のために改造する資材を待っているあいだに、ブンカー1と2をユダヤ人の大量絶滅のために使い続けることができたに違いない。しかし他方では、ガス処刑はすでに1942年4月末に焼却棟からビルケナウに移されていた。なぜならば、「ガス処刑は焼却棟地区の完全な孤立を必要としていたからである。」さらに、「作業が進行中の間、それは実践することができないからである。」(35頁)

  SSが、いわゆる殺人ガス処刑を焼却棟Ⅰに再び移そうと考えていたという説がプレサックの頭に浮かんだのは、1942年11月27日のメモが、焼却棟Ⅰに換気システムを設置する命令を出していたためであった(60頁)。にもかかわらず、彼は同時に、「毒を使った殺人ガス処刑は、その死体安置所が機械的に換気されているために、そこでも実行されえた」(23頁)とも述べているのである。(ボース社が焼却棟Ⅰに臨時の換気システムを設置したのは、1941年2月23日から3月1日までのあいだ)(18頁)。

  それゆえ、もしも臨時の換気システムが殺人ガス処刑をすでに補助できていたとすれば、恒常的なシステムをなぜ導入したのであろうか。もし、恒常的な換気システムが殺人ガス処刑に不可欠であるとすれば、なぜそのシステムはすぐに設置されないで、倉庫に放っておかれていたのか。それは1942年4月16日にトップフ社から搬出されていた。その時には、焼却棟Ⅰを大量ガス処刑のために使うという考え方は放棄されていた。建設局は焼却棟Ⅱ、Ⅲの犯罪的な改造に集中していたというのである。

 

 「殺人ガス処刑を焼却棟Ⅱ、Ⅲに移すことは、紙の上では簡単なようであった。しかし、プリュファーが計画し、ヴェルクマンによって改良されたこの建物は、この目的のためには考えられていなかったので、そこに殺人ガス処刑を移すことはそんなに簡単ではなかった。炉室とサービスルームのある地上階は改善される必要はなかった。しかし、地下は『特別行動』がそこで実行されるようにするために手を加えられなくてはならなかった。」(イタリック――マットーニョ)(63-64頁)

 

1942年末以降、焼却棟Ⅱの地下が、もともとの計画からすると、さまざまな改造を受けたことには疑いがない。一方、炉は、もともとの計画からすると、数の面でも容積の面でもまったく改造を被っていなかったことにも疑いはない。この矛盾をどのように説明すべきなのか。もし、焼却棟Ⅱが、収容所の自然の死者には十分な、単純な衛生施設として計画されてきたとすれば、それを大量絶滅の道具に改造するには、炉の容積の増加、言い換えれば、炉室の数の増加が必要となるであろう。しかしこれは実行されなかった。それゆえ、矛盾を説明するために残されたことは、炉の実際の能力を極端に増加させ、そして矛盾しているのであるが、炉が衛生保健目的に設計されていたとしても、大量絶滅を処理することができたと主張するしかない。そして、プレサックにとっては、この矛盾を克服するために、焼却棟Ⅱは実際に24時間で1440体を焼却することができたと述べれば十分であった。

  事実は全く異なっている。210平方メートルのガス室(死体安置室1)の中では、1800名の犠牲者を難なくガス処刑することが可能であったということになっている(目撃者は3000人とも言っている。)このガス室を焼却棟Ⅱ、Ⅲに導入するには、1日で死体を焼却するために、既存の15に代わって、75の燃焼室が必要となったであろう。犠牲者の死体を焼却するのに必要な時間は、5日間であり、そのことは絶滅プロセスに重大な障害となったであろう。だから、焼却炉が改造をされていないという事実は、地下での改築が犯罪的な性格を持つものではなかったことを示しているのである。

  焼却棟Ⅱ、Ⅲの地下で行われた改築は、1942年12月19日の図面2003に依拠している。プレサックは、この計画を「建築学的な痕跡」[プレサックによれば、『痕跡』とは、人間の大量ガス処刑でしか説明し得ない、焼却棟の異常な使用に関して、文書資料(書簡、図面、写真)の中にある記載]とみなしている。死体滑降路(Rutsche)が姿を消しているからであるというのである。

 

 「北の階段が死体安置所に唯一つアクセスする方法となる。このことは、死者は歩いて階段を下りなくてはならなかったことを意味している。」(64-65頁)

 

実際には、図面2003は、滑降路の除去ではなく、地下へのアクセスを通路側に移す(Verlegung des Kellerzuganges an die Strassenseite)提案にすぎなかった。[67] それゆえ、滑降路の除去は、設計の一部を基本的に単純化するものであり、技術的には非合理である。すなわち、収容所での自然死による死亡率は高くなり続けていたので、(死体を死体安置室に運ぶためにエレベーターが使われなかったとすれば)滑降路の除去は、技術的に非合理に違いないであろう。実際には、滑降路は、焼却棟Ⅱでも焼却棟Ⅲでもオリジナルな計画に従って作られていた。このことは、プレサックが主張するように、「図面2003が建築現場30(焼却棟Ⅱ)と建築現場30a(焼却棟Ⅲ)に到着したのが遅すぎた」(65頁)という事実とは無関係だった。しかし、このことは、(まだ建築が進んでいなかった)焼却棟Ⅲにはあてはめることができない。もっと正確に言えば、死体が死体安置室に簡単にアクセスできるという論理的な必要性に依存していたのである。

  プレサックによると、(1942年11月の)SSのもともとの計画は、交代で稼働する二つの殺人ガス室を焼却棟Ⅱ、Ⅲに導入するというものであったという。

 

 「SSは、二つの死体安置所がガス室として利用できると期待していた。5つの3室炉の処理能力が高いので、交代で稼動することが可能であろうと誤って信じ込んだためである。このようなことを考えたので、外部脱衣室が不可欠であった。中央の玄関を介して二つの部屋を結び付ける階段に直接つながっている外部脱衣室が必要となった。さらに、送風機タイプの換気装置を付け加えることによって、死体安置室2の換気を改善することが必要であった。そのままでは、吸気による換気だけが、すなわち、部屋から空気を排出することだけが行なわれていたからである。炉がテストされ、その処理能力の改善が見積もられると、この解決策は認められなかった。それは地下に死体の山を積み上げ、地上の炉が、それを焼却するのにあまりにも長い時間がかかったからである。」(イタリック――マットーニョ)(66頁)

 

 ここでも、プレサックは一連の矛盾をおかしている。一方では、炉の能力の過大評価にもとづく交代制の殺人ガス室計画は、1942年11月には実現しえなかったに違いない。ビルケナウの焼却棟Ⅱ、Ⅲの炉と同様のモデルであったブッヘンヴァルトの焼却棟の二つの3室炉が稼働し始めたのは、それぞれ1942年8月23日と10月3日であったからである(39頁)。だから、11月には、すでに4ヶ月も稼働しているのだから、炉の実際の能力は、完全に分かっていたはずである。その上、炉のテストによって、実際の能力を知ったうえで、交代制のガス室計画を放棄することは1942年11月には不可能であったに違いない。プレサックによれば、焼却棟Ⅱの炉の最初のテストは、1943年3月に行なわれたからである(72頁)。

  計画は、焼却棟の地下の殺戮能力を、地上の炉の処理能力よりもはるかに多く見積もっている。確実なことは、プレサックがこの計画の非合理性を認めていることである。事実、彼は、これらのガス室が、絶滅のプロセスのバランスを取るために二分割されたとさえ述べている。(技術的基礎を欠いている彼の意見では)炉の能力は、ガス室の能力よりも依然として劣っていた。

 

「作業効率の追求は、焼却棟の稼動が始まってからでさえも続けられた。その結果、1943年末には、焼却棟ⅡとⅢの活動を『平準化する』ために、強制収容所当局は、そのガス室を二分割し、それぞれをガス処刑のために100平方メートルとし、24時間で、(多くの子供たちを含む)500名から700名の労働不適格な到着者を殺し、焼却しようとした。」(イタリック――マットーニョ)(67頁)

 

この情報の源は、タウバーの供述であるが、彼は焼却棟Ⅱのことしか述べていない。だから、焼却棟Ⅲが改造されたというプレサックの主張も根拠がない。プレサックは、1989年の著作の中で、ガス室の分割とその後のガス処刑に関するタウバーの話に関して、「証言の中のごく少数の議論の余地のある点のひとつである」と述べている。[68]

言うまでもないことだが、資料的にみても建築学的にみても、このガス室の分割についてはまったく証拠がない。

焼却棟ⅡとⅢの最大限の実際の能力は、(子供の死体の存在を考慮しても)一日に360体である。だから、プレサックは、建設局による絶滅計画なるものの無意味さを一層強く認めてしまっているのである。

  プレサックによると、SSの最終計画は、死体安置室1を殺人ガス室に、死体安置室2を脱衣室に改造することであった。したがって、焼却棟ⅡとⅢにはもはや死体安置所がなくなってしまっている。ということは、自然死して焼却しなくてはならない登録囚人の死体を、SSはどこに保管していたのかという疑問が生じる。計画されていた焼却棟ⅡとⅢには、もともとは、全体で671平方メートルの、もっぱら衛生目的のための3つの死体安置所が計画されていたのであるから、この疑問はまったく当然である。[69]

  プレサックは、自説を補強するために、一連の「痕跡」を引いているが、それについてはあとでみることとする。他方、彼が「決定的証拠」としているのは、焼却棟の換気システムである。

 <換気システム>

新しい焼却棟のもともとの換気計画は以下のとおりである。

B-Keller(将来の死体安置室1)用の4800立方メートル/時の換気扇(No.450)

・ B-Keller用の4800立方メートル/時の排出換気扇(No.450)

・ L-Keller(将来の死体安置室2)用の10000立方メートル/時の排出換気扇(No.550)

・ 検死室用の3000立方メートル/時の排出換気扇(No.375)(30頁)

 

  プレサックは、各室の容積を記しているので(30頁)、1時間あたりの空気の交換量を算出することが可能である。

・ 4000÷483=9.93:B-Keller

・ 10000÷966=10.35:L-Keller

・ 10000÷1031=9.69:炉室

・ 3000÷300=10:検死室

 

したがって、換気扇の能力を高い順にならべると、次のようになる。

・ B-Keller用の換気扇:8000立方メートル/時(=1時間16.56回の空気交換)

・ B-Keller用の排出換気扇:8000立方メートル/時(=1時間16.56回の空気交換)

・ L-Keller用の換気扇:13000立方メートル/時(=1時間13.45回の空気交換)

・ 炉室用の換気扇:12000立方メートル/時(=1時間11.64回の空気交換)

・ 検死室用の換気扇:4000立方メートル/時(=1時間13.33回の空気交換)(38頁)

 

プレサックによる換気扇の能力は、いかなる資料によっても確証されていない。彼がモーターの力によってこれを算出しているのは明らかである。これは、1942年3月10日のトップフ社の図面D59366(プレサックの資料13-15)のなかに示されており、その日付からみて、焼却棟がもっぱら衛生目的のためにのみ計画されていた時期のことである。

プレサックは、焼却棟ⅡⅢの死体安置室1が8000立方メートル/時の換気扇を備えていたと述べており(74、118頁)、焼却棟Ⅲの換気システムの送付状:1943年3月27日の送付状No.729にさえも言及している。(105頁、注184)

彼は、4800から8000立方メートル/時への換気扇の能力の増加が、通常の死体安置室として計画・建設された換気システムの配置を補完するものであったと理解させようとしている。事実、彼は、ガス検知器――これについてはのちに扱う――との関係で、次のように述べている。

 

「SSは、死体安置室1の換気能力が、そのもともとの設計、すなわち、死体安置室を想定した強い吸気と低い排出とマッチしているかどうか検査しようとしていた。その意図は、それを弱い吸気と強い排出を必要とするガス室に変えようとするものであったからである」。(71-72頁)

 

また、プレサックによると、死体安置室2は脱衣室となっていたので、もはや換気システムを必要としていなかった。換気システムは焼却棟Ⅱ、Ⅲに設置されたが、換気扇のモーターは設置されなかったという。(79、80頁)

焼却棟Ⅱ、Ⅲの換気システムを研究すれば、死体安置室1が殺人ガス室には改造されなかった決定的証拠が登場する。第一に、プレサックが引用している1943年3月27日のトップフ社の送付状No.729[70]は、4800立方メートル/時の換気扇がB-Raum、いわゆるガス室に必要とされており、10000立方メートル/時の換気扇がL-Raum、いわゆる脱衣室に必要とされていることを述べている。焼却棟Ⅱのための1943年2月22日の送付状No.171[71]も同様のことを指示している。

プレサックは、1989年の著作のなかに、焼却棟の設計図にもとづいて、「焼却棟ⅡとⅢの地下室の面積と容積」をまとめた表を掲載している。すなわち、死体安置室1は、長さ30メートル、幅7メートル、高さ2.41メートルであり、面積は210平方メートル、容積は506立方メートルとなる。死体安置室2は、長さ49メートル、幅7.93メートル、高さ2.30メートルであり、面積は392. 5非平方メートル、容積は902.7立方メートルとなる。[72] したがって、いわゆる殺人ガス室に対しては、SSは、4800÷506=9.48回の空気交換を、一方、いわゆる脱衣室に対しては、10000÷902.7=11回の空気交換を想定したことになる。何と、ガス室の換気は脱衣室の換気よりも少ないのである。しかしそれだけではない。焼却棟の設計に関するヒープケ技師の古典的な著作には、死体安置室には、1時間に最小限5回の空気交換、酷使する場合には、10回の空気交換が必要であるとある。[73] それゆえ、死体安置室1の換気システムは、死体安置室の用に設計・建設されたことは明らかである。比較の手段として、循環空気システム(Kreislauf system)を持った害虫駆除ガス室に対しては、1時間に72回の空気交換が想定されていた。[74] プレサックはその設計図を資料16と17に公表している。さらに言えば、1時間に72回の空気交換は、アウシュヴィッツの焼却棟Ⅰのトップフ社の最初の換気計画に対して想定されていた(18頁)。これは、何と、焼却棟ⅡとⅢのいわゆる殺人ガス室のほぼ2倍である。だから、これらの計画は、純粋に衛生的な目的を持ち、まったく殺人的な目的を持たない、検死室と死体安置室のためのものであった。

  死体安置室2の換気に関しては、確かに、この区画の用に設計されたモーターは、1943年3月19日の図面2197には登場していないが、そこにはまったく設置されないと決定されたことを意味しているのではない。焼却棟で行なわれた作業は、それとは逆のこと明らかにしている。焼却棟Ⅱでは、死体安置室1のいわゆる殺人ガス室の換気システムは、1943年2月22日と4月14日の間に設置された。脱衣室とされている死体安置室2の換気システムは3月13日と28日の間に設置された。焼却棟Ⅲの死体安置室2の換気システムは4月10日と22日の間に設置された。このことについては、プレサックが1989年の著作の中で明らかにしている。[75] 換気扇のモーターがないことが、死体安置室2を殺人ガス室に変えようとするSSの決定にもとづいていたとするならば、SSが、死体安置室2には換気システムが必要ではないと決定した後に、換気システムを二つの焼却棟の死体安置室2に設置させたのを理解することは困難である。それゆえ、SSが死体安置室2に換気システムを設置させたのは、それを使おうとしていたためであったということは明らかである。モーターがすぐに設置されなかったのはまったくの偶然にすぎない。

  以上の点だけでも、プレサックが考えている「痕跡」の犯罪的な性格を打ち消すには十分である。その「痕跡」は、実際にはまったく別の文脈の中のものにすぎない。

プレサックは、害虫駆除システムがアウシュヴィッツでのチフスに対する戦いを助けたと述べているが、これは正しい(84頁)。SSは、チフスが最初に発生してから、既存のシステムの拡張について考え始めた。新しい技術の導入についてさえも考え始めていた。1942年6月30日の会議)(83頁)。新しい害虫駆除システムが緊急に必要であったことは、中央サウナの設計によっても確証される(1942年11月24日)。[76] それはチフスの蔓延と戦うためであり、「特別建設措置(Sonderbaumassnahmen)」の一部であり、「特別措置の実行(Durchführung der Sonderbehandlung)」のもとに行なわれた。これらのことを考えると、1942年末に、SSは、いくつかの臨時の害虫駆除ガス室の設置を決定していたことになる。このうちの最初のものは、建設が進んでいた焼却棟ⅡとⅣにあった[これはかならずしも異常であるわけではない。害虫駆除施設は、マイダネク(Plan of 23 October 1941 (Archiwum Państwowego Muzeum na Majdanku, sygn. VI-9a, vol.1)、ダッハウPlans of the "Baracke X" (crematorium) of March 1942 (NO-3884, NO-3885, NO-3887)、シュトゥットホフPlan of the crematorium of 29 May 1945 (Pressac, Technique and Operation of the Gas Chambers, p. 561)の焼却棟でも計画されていた。]プレサックが言及しているすべての「痕跡」は、歴史的、論理的に、このことによって、次のように説明される。

 

           死体安置室1に与えられている「特別室(Sonderkeller)」という用語は、こうした用語法の一つである。「特別(Sonder-)」とはチフスに対する戦いに使われていた。

           「ガス化室(Vergasungskeller)」という用語は害虫駆除地下室を意味している。1941年10月30日のビルケナウ強制収容所建設に関する説明報告の中では、二つのチクロンB害虫駆除施設(Entlausungsbaracken)が続いて建設され、BW5aと5bが、「ガス化室(Vergasungsraum)」を備えている。[77]

           死体安置室1を前もって暖めておくという計画(73頁)は、害虫駆除ガス室に対して意味を持っている。ガス消毒の時間を短縮することを意味しているからである(1平方メートルあたり20グラムの青酸を使用してガス消毒する時間は、25度-35度の気温では、45分を必要とするが、0度-5度の気温では3時間を必要とした)。[78] 犠牲者のからだがこの区画を十分に暖めるであろうから、殺人ガス室、大量絶滅にはあてはまらないであろう。それゆえ、前もって暖めておくことはまったく余計なことなのである。[通常の成人の体は、1分間に1.72キロカロリーを生み出す(F. Flury, F. Zernik, Schädliche Gase, Dämpfe, Nebel, Rauch und Staubarten, Verlag von Julius Springer, Berlin 1931, p. 29.)。それゆえ、1800人の体は1分間に3096キロカロリーを生み出す。青酸の気化に必要な熱は、1モルあたり6.67キロカロリーである。6キログラムの青酸の気化に必要な熱は6000×6.67÷27.03=1480キロカロリーであり、1分間に1800の体が生み出す熱の半分以下である。]

           ガス気密ドアの存在(80頁)は、害虫駆除ガス室ではごく正常なことである。

           「10個のガス検知器(10 Gasprüfer)」が注文されているのは(71頁)(付録資料7と8を参照)、それが「青酸の残余物を検知する道具(Anzeigegeräte für Blausäure Reste)」(72頁)と考えれば、害虫駆除ガス室にはごく正常なことである。

 

 反対に、プレサックは熱狂的かつ素朴に、「この資料は、焼却棟Ⅱに殺人ガス室が存在した決定的証拠である」(イタリック―マットーニョ)(72頁)と書いている。

  しかし、この資料は、ガス室の実在の決定的証拠ではなく、せいぜい徴候にすぎない。そして、このガス室が殺人ガス室であるということは、プレサックによるまったく恣意的な推論にすぎない。

この点に関して、プレサックは次のような非常に重要な説明を付け加えている。

 

「チクロンBの予備的な投入についてのいくつかの実験がなされた。青酸ガスの残余物を計測したのは、化学的な方法によってであり、10個のガス検知器によってではなかったであろう。後者は発注が遅くて間に合わなかったからである。」(イタリック――マットーニョ)(73頁)

 

 この文書はわれわれの説と完全に一致しているけれども、われわれの見解では、偽造文書である。以下がその理由である。

a.ドイツの技術的な用語では、ガス検知器(Gasprüfer)とは、たんに燃焼ガスの分析装置にすぎなかった。[79]

b.青酸ガスの残余物の存在の検知には、化学的な方法だけしかなく、物理的特性にもとづく検知器はまったく存在しなかった。[80]

c.このテストのために使われた装置は、「チクロン用ガス残余物検出器(Gasrestnachweisgerät für Zyklon)」と呼ばれた。[81]

d.この装置は、アウシュヴィッツも含むすべての害虫駆除施設で必要とされていた装備であった。

e.この装置は収容所の害虫駆除施設で利用できたので、それを生産していない会社に注文することは意味のないことである。この装置は、害虫駆除施設から手に入れることができたし、それらを生産、供給していた会社(チクロンBを生産していた同じ会社)に直接注文することができた。

f.焼却棟の当局は特別なフィルター(青酸のための)「J」をつけたガスマスクもガス検知器(Gasprüfer)も注文していないので、収容所でそれらを手に入れることができたことは明らかである。収容所ではまた、「チクロン用ガス残余物検出器(Gasrestnachweisgerät für Zyklon)」も手に入れることができた。

 

 われわれの結論は、ガス検知器(Gasprüfer)とは焼却炉の燃焼ガスのたんなる分析装置にすぎなかったというものである。

 

           死体安置室1に14のシャワーが存在したことに関して。プレサックによれば、このことは、これらのシャワーが偽物であるために(81頁)、それゆえいわゆる殺人ガス室について、犠牲者を欺くために使われたものであるがゆえに、犯罪の「痕跡」である。しかし、これらのシャワーが偽物であるというのは、プレサックの単純な恣意的な推測である。

           死体安置室1に「木製の送風機(Holzgebläse)」が言及されていることは(70頁)、プレサックにとっては、「技術的な痕跡」である。なぜならば、「このことは、排出される空気が、死臭が混じりあった死体安置室の空気ではなく、腐食性の物質を交えた空気であったことを証明しているからである。腐食性の物質を交えた空気を換気できるのは、まったく木製の、非腐食性のファンだけである。殺人ガス室で使われている毒ガスは、濃縮された青酸(1立方メートルあたり20グラム)であり、酸は腐食性である。」(イタリック――マットーニョ)(70-71頁)

 

しかし、この木製の送風機は後に金属製の送風機に取り換えられた。1943年3月25日の記録簿[82]がこのように記している。

 

「死体安置室1の排気システムには、木製の送風機の代わりに、金属製の送風機が最終設計として採用された。」

 

だからプレサックは次のことを説明しなくてはならない。建設局の技師は、青酸が腐食性であることを知っていながら、なぜ木製の送風機を金属製の送風機に変えたのか。なぜデゲシュ社の技師は、プレサックの著作の資料16と17に登場しているように、循環空気システムを備えた害虫駆除ガス室に金属製の装置を提案しているのか。青酸によって腐食してしまうはずなのに、なぜ彼らはこのようなことしたのであろうか。

標準的にせよ「正常」にせよ、これらの部屋の容積は10立方メートルである。この中で、1立方メートル当たり20グラムの濃度のガスを発生させるには200グラムのチクロンBの缶(中身はHCN)一つが使われた。プレサックは、いつものようにまったく証拠もなく、これが、いわゆる殺人ガス室の濃度であると述べている。しかし以前には、彼は、ビルケナウの殺人ガス室で使われたガスの濃度は、1立方メートル当たり12グラムであったと主張していたはずである。[83] 数字を増加させた理由は後で検討しよう。

 

           Drahtnetzeinschiebvorrichtungとは、「針金網投下装置」(79頁)ではなく、挿入装置を意味する(einschiebenという動詞は「挿入する」、「すべりこませる」を意味する。例えば引き出しを戸棚の中に「挿入する」というように。

 

いわゆるガス室の中にチクロンBを投入する装置であるとすれば、Einwurfvorrichtungと呼ばれるであろう(プレサック自身も、いわゆる殺人ガス室にチクロンBを「注ぎ込むこと」と呼んでいる(89頁))。「木製遮蔽物」Holzblenden)(79頁)は、プレサックが主張しているような、チクロンB投下装置の木造カバーではありえない。もしそうであれば、「遮蔽物」ではなく「カバー」を意味するHolzdeckelと呼ばれるであろう。

プレサックは、これらの装置は、「死体安置室1」、すなわち、殺人ガス室とされている死体安置室1で発見されたと述べている。実際には、焼却棟Ⅱの装備品目録を見れば、[84] これらの装置は、脱衣室とされている死体安置室2のためのものである。だとすると、SSは、犠牲者を脱衣室の中でガス処刑しようとしていたのであろうか。だが、何と、これだけではない。これらの装置は焼却棟Ⅲの装備品目録の中にはないのである。[85] だとすると、SSはどのようにしてガス室のなかにチクロンBを投入しようと考えたのだろうか。犠牲者に、チクロンBの缶を持たせ、ガス気密ドアが閉じられた後にそれらを開けるように頼んだのだろうか。

  以上のことから、これらの装置はプレサックが主張しているようなものではありえなかったに違いないのである。

 

           死体安置室2を「脱衣室(Auskleidekeller)」(74頁)と呼ぶことは、臨時の害虫駆除ガス室が死体安置室1に設置されてからは、まったく普通のことである。

 

プレサックは、どのような歪曲された論理を使って、自分の「犯罪の痕跡」を捏造しているのか。イェーリングの「痕跡」についての記述がこの点をもう一度明らかにしている。この文章はその全文を引用するに値するが、まず、歴史的な背景を手短に概観しておかなくてはならない。循環空気システムを備えた19のチクロンBガスの害虫駆除室は、中央収容所の「新しい囚人を迎え入れる建物(Aufnahmegebäude)」のために設計されていた。当初、循環空気システムは設置されていなかった。

  1943年末、このうちの8つの部屋を、ジーメンス社が新たに開発した高周波害虫駆除室に改造するという決定がなされた。作業が始まったのは1944年2月であった(88頁)。同時に、循環空気システムを設置することによって、残りの11の部屋を稼働させるという決定がなされた。この作業を完成させるはずであったボース社は異議を唱えた。チクロンBの配給元テシュタ社(テシュ・ウント・シュタベノフ)も、事態に関心を持っていた。ヴィルト博士も、チクロンBを別のガス、すなわち、アルギナルに取り替えなくてはならず、そうするには、チクロンBを使ったガス室を改造しなくてはならないと考えていた。

  プレサックは次のように述べている。

 

「このとき、民間人従業員イェーリングは、テシュタ社あての書簡の中で、驚くほどの筆のすべりをおかしている。彼は、害虫駆除ガス室を『ノーマルなガス室』と呼び、そこに下線を引いて、引用符で囲んでいるのである。それは、『ノーマルなガス室』とは別に『アブノーマルなガス室』が存在しているかのようであった。この呼び方はテシュタ社に採用された。同社は当初、アルギナルへの転換は新しい施設だけに限るべきであると主張していた。[ここでアルギナルと呼ばれているガスは、おそろしい穀物寄生虫である穀ぞう虫を殺すために、穀物倉庫の害虫駆除用に、カルトックスととも使用された。 (H.W. Frickhinger, Schädlingsbekämpfung für Jedermann, Leipzig: Heilingsche Verlagsanstalt, 1942; G. Peters, Die hochwirksamen Gase und Dämpfe in der Schädlingsbekämpfung: Sammlung chemischer und chemischtechnischer Vorträge, Stuttgart: Verlag von Ferdinand Enke, 1942, pp. 37-38 and 55-57)そして、青酸を使ったノーマルなガス室を扱う人員は十分に訓練されていなくてはならないと主張した。つまり、その作業は、『アブノーマルなガス室』にチクロンBをたんに注入するよりもはるかに難しいと示唆しているのである。」(イタリック――マットーニョ)(89頁)

 

 もしもプレサックが、青酸を使った害虫駆除ガス室について、ほんの少しでも知識を持っていたとすれば、「ノーマルなガス室(Normalgaskammer)」とは基準に従ったガス室、すなわち、循環空気システムを備えた標準的なデゲシュ社製のガス室であると知ったことであろう。基準に沿っていない害虫駆除室は、たんに「補助ガス室(behelfsmässige Blausäurekammer)」であった。[86]

 だから、イェーリングは、デゲシュ社製の循環空気システムを備えた青酸ガス室に改造されるものを「ノーマル」として、そのようなシステムを備えていない、ビルケナウのBW5bのようなガス室を「アブノーマル」として下線を引こうとしたにすぎない。ただそれだけのことである。

 

第6章:ブンカー1と2

ブンカー1と2に関するプレサックの記述を検討する前に、この呼び名(「赤い家」と「白い家」)は、ドイツ側資料にも、アウシュヴィッツの地下抵抗運動の報告にも存在していないことを指摘しておく必要がある。それは戦後の「目撃者」によって作られてきたのである。

  プレサックは、大量絶滅のためのブンカー1は、1942年5月末に稼働し始めたと述べている(39頁)。すなわち、ヘスがヒムラーから、いわゆるユダヤ人の絶滅命令を受ける前のことであった。

ブンカー1と2が殺人施設として存在したことに関する資料はまったくない。このテーマについてプレサックが述べていることは、あたかも証明された歴史的真理であるかようであるが、実際には、その本質的な諸点でたがいに矛盾する証言を組み合わせたものにすぎない。[87] プレサックによると、ブンカー2が稼動し始めたのは、1942年6月の初めであった(41頁)。プレサックはこの施設の起源を次のように述べている。

 

 「ブンカー1からあまり遠くないところに、105平方メートルの広さの第二の小さな白壁の農家があった。これをガス室に改造することは簡単であった。この作業はブンカー1ですでに行なわれており、500人がこれに従事していたからである。しかし、ヘスは換気を改善しようとした。彼はビショフに相談したが、ビショフは、デゲシュ社(チクロンBの製造元)社長ペテルスの論文を見せた。この論文は、10立方メートルの8つの小さなガス室を備えた、チクロンBを使った害虫駆除施設について書いていた。」(41-42頁)

 

 この論文は、プレサックが記述しているところでは、ボース社の求めに応じて書かれたものであった。それは「19の同じような害虫駆除室を、中央収容所の新しい囚人の受け入れ施設に備えるための案内書として使うためであった。」(42頁)

  それゆえ、この論文は、囚人の「受け入れ施設(Aufnahmegebäude)」のために計画された、循環空気システムを備えた19の青酸害虫駆除室に関するものであった。注文の日付は1942年7月1日であり(103頁、注135)、それはブンカー2の活動が始まったとされる1カ月あとのことである。プレサックは、この論文(プレサックは、循環空気システムを備えたデゲシュ社のガス室図面を資料16-17として掲載している)が、ブンカー2に排気システムを備えるために、ビショフからヘスに示されたとしているが、このことはいかなる資料によっても確証されておらず、プレサックの純粋な空想にすぎない。プレサックはさらに、ブンカー2にはいかなる機械的な換気システムも設置されなかったと述べている。

 

「約50立方メートル(ママ)の4つの小さなガス室が白壁の農家(ブンカー2)の中に建設された。それらは並列に配置されていた。機械的な換気を持ってはいなかったが、風向きの良い方向に向けられていた(ビルケナウの南東)。」(イタリック――マットーニョ)(42頁)

 

プレサックの記述の目的はきわめて明瞭である。いわゆる殺人ガス室に関する彼の前の著作に対する批判の一つは、ドイツ人は、デゲシュ社の循環空気システムの発明のおかげで、青酸害虫駆除室の技術においては最先端を行っていたにもかかわらず、ドイツの殺人ガス室は技術的に洗練されていないではないかというものであったからである。だからプレサックは、狡猾なやり方で、二つのシステムを結びつけなければならなかった。彼は、一方では、「フランクフルト・アム・マインのデゲシュ社が導入した害虫駆除システムを模倣することによって(並列に配置された部屋)」(イタリック――マットーニョ)(115頁)、殺人ガス室へのブンカー2の改造が行なわれたと述べ、さらに、焼却棟Ⅱでの最初の殺人ガス処刑は6キログラムのチクロンBの投入によって行なわれたと述べている。そして、6キログラムのチクロンBとは「1立方メートルあたり約20グラムの青酸濃度であり、それは害虫駆除室用にデゲシュ社社長が認めていたものと一致している」(イタリック――マットーニョ)(119頁)というのである。

  だとすると、建設局の技師はペテルス(とヴュスティガー)論文の中から、もっとも重要ではない箇所、すなわちガス室を並列に配置することだけを受け入れたことになってしまう。面積105平方メートルのガス室を一つだけ設置することができながら、彼らは、合計50平方メートルの面積を持った、平均すると12.5平方メートルの部屋を設置したことになる。ブンカー2は大量絶滅用であったとされているから、これはまったく不自然で、絶滅過程を阻害することしかできない。最後に、残った55平方メートルはどのように使われていたのか明らかではない。また、ブンカー2とされている場所には、土台だけが残っており、それは7つの区画に分かれているが、これらの区画の高さについては、何も分かっていない。だから、プレサックの容積計算(おのおの50立方メートルの4つの部屋)は、まったくの空想の産物である。

青酸の濃度に関して。死体安置室1の容積(506立方メートル)は1492体の犠牲者とセメントの支柱が占めている約100立方メートルを引くと、約406立方メートルに減少するので、6キログラムのチクロンBの濃度は、6000÷406=約14. 8グラムとなり、20グラムではない。[焼却棟Ⅱでの最初のガス処刑なるものについてのデータは、プレサックの純粋な発明にすぎない。この件については、まったく資料がなく、このときに6キログラムのチクロンBが使われたとは誰も証言していないからである。プレサックがこのデータを引き出してきたのは、各1キログラムのチクロンBを5-7缶使ったと話しているヘスからである(NI-034, NI-036)。]

  プレサックは、いわゆる殺人ガス室での青酸の濃度は、1立方メートルあたり20グラムであったと断言している。ここでは、デゲシュ社の害虫駆除ガス室といわゆる殺人ガス室との第二の作為的な結びつきが、まったく実在しないものから作り出されているのである。

プレサックによると、当初、SSは、ブンカー1と2に対して脱衣室を予定していなかった。犠牲者は戸外で脱衣した。しかしその後、

「ビショフは二番目の報告で、労働不適格者の脱衣室用に、4つの木造の小屋を二つのブンカーの近くに建設するように要請した。各小屋のコストは、15000マルクであった。この要請は、『ビルケナウの囚人の特別措置のための4つの小屋4 Stück Baracken für Sonderbehandlung der Häftlinge in Birkenau)』となっている」という。(イタリック――プレサック)(45-46頁)

 

この報告が書かれたのは、チフスが蔓延していた1942年7月末であった。すでに説明したように、「囚人の特別措置」とは犯罪的な意味を持ってはおらず、疫病を阻止するためにSSが定めた保健衛生条項のもとでとられている衛生措置であった。これらの小屋とブンカー1と2との関係は、プレサックのまったく恣意的な見解であり、いつものように資料的な裏付けをまったく持っていないが、そのように言うのは、もはや余分であろう。

  1942年8月21日の記録簿に言及されている「特別行動のための入浴施設(Badeanstalten für Sonderaktionen)(52頁)も、同じ機能を持っていた。それぞれが、二つの単純な形式の3室炉を備えていなくてはならず、明らかにチフスで死亡した囚人の感染死体を焼却するためのものであった。

プレサックは、アウシュヴィッツ・ビルケナウの興味深い地域計画の中に「痕跡」を発見したと信じこんでいる。「ブンカー1と2およびその焼却壕がある場所は、『封鎖区域』と分類されていたことを示している」(52頁)というのである。

  しかし、この資料の日付は1943年6月2日である。この時、すでに2ヵ月半前に、二つのブンカーの活動は停止しており、いわゆる「焼却壕」(プレサックは「埋葬壕」としている)は土で覆われており、盛り上がっていた。一体、SSはこの地域に何を隠そうとしていたのであろうか。

実際には、「封鎖区域(Sperrgebiet)」とは、斜線内の全域を指しており、それゆえに、ビルケナウ収容所全域を含んでいるのである。ヘスは、1942年7月10日(115頁)、1943年2月8日(118頁)に、チフスの拡散を防ぐために、収容所閉鎖を命令しているが、「封鎖区域」とは、これと関連している。1943年6月でも、チフスはビルケナウのジプシー収容所で依然として蔓延しており、BⅠ区画ではチフスの症例が7月末まで報告されていた(120、121頁)。

プレサックによると、ハンガリー系ユダヤ人がアウシュヴィッツに移送されていた1944年5月から6月、「ブンカー2は少数集団用に活動を再開し、その死体は30平方メートルの焼却壕の中で焼かれた」(90-91頁)という。

これは、まったく非合理的である。SSは、一時に「500名」の死体を提供する絶滅施設に、実際の必要のわずか10分の1にすぎない、せいぜい50体を処理する焼却区画を付け加えたというのである。さらに、「目撃証人」ニーシュリは、50メートル×6メートルの二つの「焼却壕」(600平方メートル)について述べており、それは一日に5000名から6000名の死体を処理したという。[88] プレサックは、前著の中で、この証人を信頼できるとみなしている。彼の唯一の欠点は、数字を4倍にしたことであるという。[89] しかしこの問題では、プレサックは、ニーシュリが述べているよりも20倍も少ない焼却面積について語っており、この区画から推定される焼却能力は何と、100―200倍も少なくなってしまうのである。

  147頁に、最初のものよりも小さい第二の壕が突然登場している。プレサックは、ハンガリー系ユダヤ人のいわゆる絶滅を技術的に正当化するために、ブンカー2の能力をわずかでも増やそうとして、そのようにしているのである。このことによっても、われわれが今までに明らかにしてきたことは、何ら変わらない。

 

第7章:焼却棟ⅣとⅤ

 プレサックは、焼却棟ⅣとⅤはブンカー1と2に依存しており(50頁)、それらに付属していたと述べている。(52頁)

 兵站学的には、この配置はナンセンスである。ブンカー1から焼却棟までの距離(道路の距離)は約800メートルであり、いわゆるブンカー2からは900メートルであった。だから、死体はトラックによって焼却棟まで運ばれなければならないことになる。(プレサックによれば)焼却棟Ⅰにおいて、もっと合理的な絶滅手順がすでに考えだされていたとすれば、ビルケナウのその他の四つの焼却棟においては、焼却棟のなかに殺人ガス室を配置するということから始めるはずである。二つの「犯罪的な焼却棟」はガス室を持っていないだけではなく、いわゆる殺人ガス室から800メートル、900メートル離れている。この計画はまったく無意味である。

 プレサックは、これらの焼却棟の起源について次のように書いている。

 

「焼却棟Ⅳ(とⅤ)に関しては、1942年8月の最初の図面では、炉室部分だけが存在していた。10月半ば、屋根の建設を委託されていたコンラート・ゼグニツ社が、最終的な面積を、炉室は48×12(576平方メートル)の巨大な死体安置室の拡張であるとした。犠牲者の脱衣とガス処刑という『最終段階』の機能は、いつもブンカー2にあったが、生み出された死体は焼却棟Ⅳに保管され、その後焼却された。そのときSSは、(ストーブで暖められた)ガス室を建物の中央に配置しようとした。次のような論理的配置となるであろう。

脱衣室→ガス室→気密室→8室を備えた炉室」(イタリック――マットーニョ)(67頁)

 

 ゼグニッツ社の図面は1942年10月14日の図面1361である。[90] プレサックは、「そのとき」、SSがストーブで暖められた建物の中央にガス室を配置しようとしたと述べているが、ストーブは1942年8月14日の図面1678に登場しているので、この話は虚偽である。プレサックはこの件について、次のようにコメントしている。

 

「図面1678の未完成の部屋にストーブが存在していることは、この部屋がガス処刑のために使われたことを明白に示している。」[91]

 

 そして、プレサックは、焼却棟ⅣとⅤの計画がその後どのように進んだのかを次のように説明している。

 

「しかし、脱衣室は失われている。小屋の建物がその代わりとなり、脱衣室→ガス室→死体安置所→気密室→8燃焼室を備えた炉室という具合となる。

焼却棟ⅡとⅢの半分の焼却能力しか持っていなかった焼却棟ⅣとⅤは、もっと慎ましいガス室を持つことになった。SSは、小グループの犠牲者を『処置する』ための、少ない面積のガス室の必要を別の作戦と結びつけ、1943年1月11日に、焼却棟Ⅳ(とⅤ)の最終図面を作成した。」(67頁)

 

 プレサックがレイアウトした簡単な設計はこうである。おのおの500名の「労働不適格者のための二つのガス室(No.1と2)を備えた脱衣室、廊下、死体安置室、気密室、炉室(67頁)。

彼は次のように補足している。

 

「このやり方では、戸外の脱衣室を作らなくてはならなかった。戸外の脱衣室は、晴天の時には必要ではなく、犠牲者は戸外で脱衣したが(1944年夏)、冬には必要であった。SSは、その建設をさけるために、中央のホールに、脱衣室と死体安置所という二つの機能を割り当てた。」(68頁)

 

 結局、「建設局の技術者と技師によって建設された」(68頁)焼却棟ⅣとⅤの犯罪的構造は、「建設局の技術者と技師が、(プレサックによると)ブンカー1と2に二つの脱衣小屋を備えたのちに、どういう訳か、焼却棟ⅣとⅤの近くには一つの小屋を建てるのも避けなくてはならなかった」という理由だけで、「常軌を逸している」(68頁)。いったい何のために。まったく不可解なミステリーである。

 プレサックは、焼却棟ⅣとⅤは、おのおの100平方メートル、合計200平方メートルの二つのガス室を備えており、それは1000名を一度に収容することができたと述べている。1平方メートルあたり5人である。しかし、『技術と作動』のなかでは、彼は、こう述べているのである。

 

三つのガス室のブロックの床面積は、240平方メートル(4800立方メートル[480立方メートルの誤植])であった。それゆえ、2400名が1平方メートルあたり10名の密度で押し込められていた」(イタリック――マットーニョ)。[92]

 

 ここでは、突然に第三のガス室が147頁に登場している。この理由については後述する。上記の著作のなかで、プレサックは、焼却棟ⅣとⅤの絶滅システムは、自分が水増しした炉の能力をもってしても、「常軌を逸していた」ことを認めている。

 

「2400名を焼却するには4、5日かかったことであろう」[93]

 

 炉の実際の最大能力を考えると、2400体の焼却には12日間が必要であろう。2400体を1日で焼却するには、既存の8燃焼室ではなく、100の燃焼室が必要であろう。

 プレサックが想像するガス処刑の技術はこうである。

 

「最初のガス処刑は破滅的であった。顔にマスクをかぶったSS隊員は、小さなはしごを登って『窓』に接近し、それを片手で開けて、別の手でチクロンBを投入しなくてはならなかった。これはバランスを必要とする軽業のようなものであり、6回も繰り返されねばならなかった。」(イタリック――マットーニョ)(76頁)

 

 プレサックは、この軽業のSS隊員が、片手で梯子をつかみながら、自分を押し戻したり、つかんだり、なかに引き入れたりしないように、犠牲者に優しく懇願しなくてはならなかったことを付け加えるのを忘れている。そして、このSS隊員は、自分の手を伸ばして窓のなかに入れ(歩道から1.70メートル)、ガス室のなかにチクロンBの缶を投入しなくてはならなかったのである!

 プレサックの話は続く。

 

「気密ドアがガスを排出するために開かれると、自然の換気だけでは効果がなく、空気の流通をはかるために、北の廊下のドアを開くことが緊急に必要であったと考えられる。」(イタリック――マットーニョ)(76頁)

 

 焼却棟ⅣとⅤの換気に関する話は、プレサックの議論が馬鹿げていることを示しているものの一つである。彼は『技術と作動』のなかで、写真をつけて、焼却棟Ⅳの「北」の壁のドアが「緊急に」開かれたかのように見せかけているが[94]、その写真は、焼却棟ⅣとⅤの「南」側だけを写しているのである。つまり、前面にあるかのように見える焼却棟Ⅳではなく、焼却棟Ⅴであり、それは背景のなかで、木々によって部分的に曖昧となっている。もともとの写真[95]を検討すると、プレサックが木々の影をドアと取り違えたことがわかる。

 プレサックによると、プリュファーは5月18日か19日にビルケナウに到着すると、

「焼却棟Ⅳの炉の保証期間が過ぎたこと、第二級の材料で炉を修理することはもはやできないことを、悲しみを偽りながら述べた。彼は、にもかかわらず、機械的に換気すれば、ガス室は依然として使用しうると判断した。彼は、2510マルクに達する、焼却棟ⅣとⅤのための二つの換気システムの注文をして、20日に戻っていった。」(79-80頁)

 

 プレサックが注247(107頁)で示している典拠資料は、「1943年6月9日のトップフ社からの書簡と見積もり」である。しかし、彼は『技術と作動』のなかでは、同じ資料に関して、こう断言している。

 

「私は、この書簡のなかのどれ一つとして、焼却棟ⅣとⅤのための空気排出システムがガス室のためのものであったことを示してはおらず、むしろ、炉室のためだけのものであったと指摘しておく。」(ゴシック――プレサック)[96]

 

 換気システムが、いわゆる殺人ガス室の良好な作動のために緊急に必要であったとすると、それは即座に設置されたと考えられるであろう。しかし、実際に起こったことは、プレサックによっても、こうであった。

 

「換気システムに関しては、トップフ社は12月21日に、二つの換気システムのうちの一つを普通列車で搬送した。それは、1944年1月1日に鉄道の倉庫に保管され、そのまま1944年5月までそこに残された。」(88頁)

 

 これに関して、プレサックはこう補足している。

 

「1月以来倉庫に保管されていた換気システムは、5月に、炉が正常に作動すると判断された焼却棟Ⅴに設置された。480立方メートルとなる二つのガス室と廊下のために、シュルツェは、焼却棟ⅡとⅢの死体安置室とほぼ同様の換気を想定していた。すなわち、換気扇:1時間に8000立方メートルの能力を持つ、3.5CVモーターによるNo.450である。」(89-90頁)

 

 プレサックによれば、死体安置室1(焼却棟ⅡとⅢのいわゆる殺人ガス室)の容積は483立方メートルであり(30頁)、1時間に8000立方メートルの換気扇を備えていた(38頁)。1時間に16.56回の空気交換を行うことになる。シュルツェは、焼却棟Ⅴの三つのいわゆる殺人ガス室(容積480立方メートル)のために、1時間8000立方メートルの換気扇を計画した。1時間に16.66回の空気交換を行うことになる。それゆえ、二つのシステムは同じ能力を持っていたというのである

 すでに指摘したように、地下室1の容積は483ではなく506立方メートルであり、その換気システムは1時間8000ではなく、4800立方メートルである。したがって、1時間16.56回ではなく、9.41回の空気交換となる。だから、焼却棟Ⅴについて、1943年1月11日の図面2036によると[97]、ガス室に改造されたとされる三つの区域の面積は、次のようになる。

12.35×7.72=95.3×2.20=209.6

11.69×8.40=98.2×2.20=216.0

11.69×3.50=40.9×2.20= 90.0

合計:       234.4平方メートル、515.6立方メートル

 

 ここでも、プレサックはもう一つの難点に直面している。二つのガス室の合計容積(67、68頁に言及している)が425.6立方メートルであるので、1時間8000立方メートルの能力を持つ換気扇は1時間18.8回の空気交換となる。言い換えると、トップフ社の技術専門家はドアと窓を備えた(したがって、換気が容易な)地上の部屋に、換気が困難な地下の部屋の換気システムよりも強力な換気システムを設置させたことになる。だから、プレサックは、第三のガス室を持ち込み、全体の容積を515.6から480立方メートルに減らして、同じ力を備えた二つの換気システムを捏造したのである。

 90頁に、プレサックは、「1943年6月にカール・シュルツェが設計し、1944年5月に設置された焼却棟Ⅴのガス室の換気システム」の図面を掲載している。

 典拠資料は示されていない。存在していないからである。この図面は、実際には、プレサックの想像の産物である。さらに、1943年6月9日のトップフ社からの書簡[98]は、「壁に埋め込まれた」換気口の建設について言及しているのに、プレサックの設計図には「むき出しの」管があるので、誤った空想の産物である。


第8章:結論

 ここで、アウシュヴィッツに関するプレサックの著作に対する批判をしめくくっておこう。

 ヒトラーの絶滅政策に関するフランス人歴史家の1979年の声明は、次のような定式を持って終わっている。

 

「われわれは、このような大量殺人が技術的にどのように可能であったのか問うてはならない。それは起こったから、技術的に可能であったのである。このことが、このテーマに関するあらゆる歴史的研究の出発点となるべきである。」[99]

 

 しかし、プレサックは、この研究を引き受ける技術的な能力を持っていなかったにもかかわらず、アウシュヴィッツ・ビルケナウの焼却炉といわゆる殺人ガス室を技術的に研究しようとした。だが、プレサックは修正主義者の方法的な原則を受け入れなければならなかった。その原則によれば、証言と技術が一致していない場合には、技術の方を採用しなくてはならないというものである。彼は、(彼が狡猾に水増ししている)焼却炉の能力とは一致していないために、いわゆる殺人ガス処刑の犠牲者の数を減らすことによって、この原則を採用した。彼はこのようにして、伝統的な歴史学のなかでは抑え切れないような情報が外に漏れ出していく出口を開いてしまった。技術は、アウシュヴィッツ・ビルケナウでの大量絶滅が物質的に不可能であること明らかにしているからである。だからプレサックが技術的なスタンスで一貫していたいとするならば、彼に残されたことはこの結論を受け入れることである。もし受け入れないとすれば、いわゆる大量絶滅が技術的に可能であったかと質問してはならないというフランスの歴史家たちの声明を受け入れることによって、後退するしかない。

 いずれにしても、ひとつのことは確かである。アウシュヴィッツに関するプレサックの著作は伝説の終焉となっていることである。

 

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[1] L’Express, 23-29 September 1993, pp. 78 and 80.

[2] 以下の事例だけで、プレサックの技術的能力を評価するには十分である。彼は、「青酸が気化するには27度にまで温度が上昇しなくてはならない」(『技術と作動』、375頁)と考えているが、青酸の気化はその沸騰点(25.6度)以下でも、さらには0度以下でも起こりうることを無視している[これと関連して、G. Peters, Die hochwirksamen Gase und Dämpfe in der Schädlingsbekämpfung: Sammlung chemischer und chemischtechnischer Vorträge [Stuttgart: Verlag von Ferdinand Enke, 1942], pp. 85-88参照していただきたい]。

焼却炉に関して、プレサックは、タウバーの証言にもとづいて、「焼却棟Ⅱ、Ⅲの二つのモデルの中に作られた三つの部屋を持ったトップフ社炉の作動計画」を提示している(J.C. Pressac, Auschwitz: Technique and Operation of the Gas Chambers, op. cit., p. 492)。ここでは、ガス発生装置からのガスが室の周り(around)を通ったとなっているが、誤訳である。プレサックの二人の翻訳家はポーランド語の前置詞przez through )をaroundと訳している。誤訳は489頁にもある。ポーランド語のテキスト(Archiwum Państwowego Muzeum w Oświęcimiu, hereafter: APMO, Dpr.-Hd, 11a, p. 133)は、prezez obie boczne retorty[through the two lateral chambers、二つの側室を通って]と述べている。

[3] Pressac, Auschwitz: Technique and Operation of the Gas Chambers, p. 264.

[4] Ibid., p. 183.

[5] Ibid., p. 97.

[6] Ibid., p. 183.

[7] Kostenanschlag of Topf for KL Mauthausen of 1 November 1940. Bundesarchiv Koblenz (hereafter: BK), NS4 Ma/54.

[8] Letter from Topf to SS-Neubauleitung KL Mauthausen of 6 January 1941. BK, NS4 Ma/54.

[9] Letter from Topf to SS-Neubauleitung KL Mauthausen of 14 July 1941. Staatsarchiv Weimar, LK 4651

[10] "Factors Which Affect the Process of Cremation: Third Session" by Dr. E.W. Jones, assisted by Mr. R.G. Williamson. Extracted from: The Cremation Society of Great Britain Annual Cremation Conference Report, 1975.

[11] APMO, D-Z/Bau, nr. inw. 1967, p. 65.

[12] Letter of H. Kori G.m.b.H. to SS-Sturmbannführer Lenzer, Lublin, of 23 October 1941. Archiwum Państwowego Muzeum na Majdanku, sygn. VI-9a, vol.1.

[13] APMO, BW 30/46, p. 18.

[14] APMO, BW 30/46, p. 6.

[15] On the Volckmann-Ludwig oven see:
- Dipl. Ing. Volckmann, Hamburg, "Ein neues Einäscherungsverfahren", Zentralblatt für Feuerbestattung, 1931;
- Kurt Prüfer, "Ein neues Einäscherungsverfahren. Eine Entgegnung", Die Flamme, 40 Jg., 1931;
- Richard Kessler, "Der neue Einäscherungsofen System Volckmann-Ludwig", Zentralblatt für Feuerbestattung, 1931;
- Friedrich Helwig, "Vom Bau und Betrieb der Krematorien", Gesundheits-Ingenieur, 54. Jg., Heft 24, 1931;
- H. Wolfer, "Der neue 'Volckmann-Ludwig' - Einäscherungsofen im Stuttgarter Krematorium", Gesundheits-Ingenieur, 55. Jg., Heft 13, 1932.

[16] H.R. Heinicke, VL-Kremationsofen Bauart Heinicke. Summary of the sales kindly furnished by the H.R. Heinicke company of Stadthagen.

The two Volckmann-Ludwig ovens installed in the crematory of Dortmund in 1937 are described in Herman Kamper, "Der Umbau der Leichenverbrennungsöfen und die Einrichtung von Leichenkühlräumen auf dem Hauptfriedhof der Stadt Dortmund", Gesundheits-Ingenieur, 64. Jg., Heft 12, 1941.

[17] R. Kessler, "Rationelle Wärmewirtschaft in den Krematorien nach Massgabe der Versuche im Dessauer Krematorium", Die Wärmewirtschaft, 4. Jg., Heft 8-11, 1927.

[18] W. Heepke, Die Leichenverbrennungs-Anstalten (die Krematorien) (Halle a.S.: Verlag von Carl Marhold, 1905), p. 71.

[19] R. Schnabel, Macht ohne Moral: Eine Dokumentation über die SS (Frankfurt/Main: Röderberg-Verlag, 1957), p. 351.

[20] Dr. H. Frölich, "Zur Gesundheitspflege auf den Schlachtfeldern", Deutsche Militärärztliche Zeitschrift, I, 1-4, 1872, pp. 109-110.

[21] Kostenanschlag auf Lieferung von 2 Stück Dreimuffel Einäscherungs-Öfen und Herstellung des Schornsteinfutters mit Reinigungstür of Topf, 12 February 1942. APMO, BW 30/34, pp. 27-33.

[22] W. Heepke, "Die neuzeitlichen Leicheneinäscherungsöfen mit Koksfeuerung, deren Wärmebilanz und Brennstoff verbrauch", Feuerungstechnik, 21. Jg., Heft 8/9, 1933.

[23] List of the cremations of the crematory at Gusen (26 September-12 November 1941). Öffentliches Denkmal und Museum Mauthausen, Archiv, B 12/31.

[24] D. Czech, Kalendarium der Ereignisse im Konzentrationslager Auschwitz-Birkenau 1939-1945 (Reinbeck bei Hamburg: Rowohlt Verlag, 1989), p. 281.

[25] H. Langbein, Menschen in Auschwitz (Vienna: Europaverlag, 1987), p. 74.

[26] APMO, BW 30/7/34, p. 54.

[27] 死亡者数は、男性収容所については、LeichenhallenbuchAPMO, sygn. D-Au-I-5)とSterbebücherAPMO, Φ 502-4)に、女性収容所については、改訂・改正された地下レジスタンス運動資料(APMO, Ruch Oporu, t. II, sygn. RO/85, pp. 62, 62a)にもとづいている。

[28] APMO, D-Au-I-4, segregator 22, 22a.

[29] この数は『アウシュヴィッツ・カレンダー』からとっている。

[30] J.C. Pressac, Auschwitz: Technique and Operation of the Gas Chambers, p. 227.

[31] Commander at Auschwitz: Autobiographical memoirs of Rudolf Höss (Turin: Einaudi, 1985), p. 180. Kommandant in Auschwitz. Autobiographische Aufzeichnungen des Rudolf Höss ed. Martin Broszat (Munich: Deutscher Taschenbuch Verlag, 1981), p. 171.

[32] J.C. Pressac, Auschwitz, p. 132.

[33] Ibid., p. 183.

[34] Ibid., p. 183.

[35] Ibid., p. 236.

[36] Ibid., p. 236.

[37] Ibid., pp. 162 and 213.

[38] Ibid., pp. 236 and 390.

[39] F. Piper, "Estimating the Number of Deportees to and Victims of the Auschwitz-Birkenau Camp", Yad Vashem Studies 21 (Jerusalem, 1991), 49-103; Auschwitz. Wie viele Juden, Polen, Zigeuner ... wurden umgebracht (Krakow: Universitas, 1992).

[40] R. Jakobskötter, "Die Entwicklung der elektrischen Einäscherung bis zu dem neuen elektrisch beheizten Heissluft einäscherungsofen in Erfurt", Gesundheits-Ingenieur, 64. Jg., Heft 43, 1941, p. 583

[41] グーゼンの焼却炉が稼動を開始したのは、1941年1月29日であった。1941年2月から10月までに、グーゼン収容所では、3179名の囚人が死亡した。H. Marsalek, Die Geschichte des Konzentrationslager Mauthausen. Dokumentation (Vienna: Österreichische Lagergemeinschaft Mauthausen, 1980), p. 156.

[42] Bescheinigung über besondere Berechnung geleistete Tagelohn-Arbeiten, 12 October - 9 November 1941. BK, NS4 Ma/54.

[43] R.L. Braham, The Politics of Genocide: The Holocaust in Hungary (New York: Columbia University Press, 1981). See the summary table of the deportations on p. 602 of vol. 2.

[44] Records of the Defense Intelligence Agency (RG 373). Mission 60 PRS/462 60 SQ, CAN D 1508, Exposure 3055, 3056.

[45] J.C. Ball, Air Photo Evidence (Delta, B.C., Canada: Ball Resource Services Ltd.)

[46] この関連では、Carlo Mattogno, La soluzione finale: Problemi e polemiche (Edizioni di AR, Padua 1991)を参照していただきたい。

[47] Commander at Auschwitz, pp. 171-174; Kommandant in Auschwitz, pp. 157-159.

[48] D. Czech, Kalendarium der Ereignisse im Konzentrationslager Auschwitz-Birkenau, in: Hefte von Auschwitz, Wydawnictwo Państwowego Muzeum w Oświęcimiu, 3, 1960, p. 49.

[49] D. Czech, Kalendarium der Ereignisse im Konzentrationslager Auschwitz-Birkenau 1939-1945, p. 186.

[50] Ibid., p. 239.

[51] Ibid., pp. 117-119.

[52] S. Klodziński, "Pierwsza zagazowanie więzniów i jenców w obozie oświęcimskim", Przegląd Lekarski, I, 1972.

[53] Pressac, Auschwitz: Technique and Operation of the Gas Chambers, p. 132.

[54] Carlo Mattogno, Auschwitz: La prima gasazione [Auschwitz: The First Gassing] (Edizioni di AR, Padua 1992).

[55] Ibid., p. 159: 「さらに、ゼーン判事によると、最初のガス処刑は、ミルドナー委員会が選別した死刑囚の処刑であり、このミルドナーがアウシュヴィッツにやってきたのは1941年11月であり、仕事を終えたのは一ヵ月後のことであるから、最初のガス処刑が12月以前に行なわれたはずはない。」

[56] Ibid., p. 85.

[57] Ibid., p. 84.

[58] プレサックは、この柱について自分の図面を掲載している(Auschwitz: Technique and Operation of the Gas Chambers, p. 487)。

[59] Mattogno, Auschwitz: La prima gasazione [Auschwitz: The First Gassing], pp. 131-132. The reference is to the article by G. Peters and W. Rasch, "Die Einsatzfähigkeit der Blausäure-Durchgasung bei tiefen Temperaturen", Zeitschrift für hygienische Zoologie und Schädlingsbekämpfung, 1941.

[60] Ibid., pp. 28-29 and 36-37.

[61] Pressac, Auschwitz: Technique and Operation of the Gas Chambers, pp. 184.

[62] 『アウシュヴィッツ・カレンダー』は、この命令を1944年11月2日としている。(op. cit., p. 921)

[63] Sterbebücherにもとづくプレサックの死亡率は、女性囚人のあいだでの死者の少数部分しか登録されていないので、実際よりも低い。

[64] NO-2362, NO-2363; Kalendarium der Ereignisse im Konzentrationslager Auschwitz-Birkenau, p. 259.

[65] Pressac, Auschwitz: Technique and Operation of the Gas Chambers, p. 188.

[66] Auschwitz vu par les SS [Auschwitz Seen by the SS] (Musée d’Etat à Oświęcim [Oświęcim State Museum], 1974), p. 337.経済管理局は、アウシュヴィッツを含むすべての強制収容所での死亡者数について月例報告を受けとっていた(PS-1469)。

[67] Pressac, Auschwitz: Technique and Operation of the Gas Chambers, p. 302.

[68] Ibid., p. 484.

[69] See note 72.

[70] APMO, D-Z/Bau, nr. inw. 1967, pp. 246-247 (see appendix, Document No. 2).

[71] APMO, D-Z/Bau, nr. inw. 1967, pp. 231-232 (see appendix, Document No. 3).

[72] Pressac, Technique and Operation of the Gas Chambers, p. 286.

[73] Heepke, Die Leichenverbrennungs-Anstalten, p. 104 (see appendix, Document No. 4).

[74] これはとくに、ペテルスとヴュスティガーの論文による。プレサックも41、103頁でこの論文に言及しており、ここから、資料16-17を引用している。プレサックが引いている表題"Entlausung mit Zyklon Blausäure in Kreislauf-Begasungskammern", (Zeitschrift für hygienische Zoologie und Schädlingsbekämpfung, Heft 10/11, 1940)(103頁の注134頁)は誤りである。正確な表題は、"Sach-Entlausung in Blausäure-Kammern" (Zeitschrift für hygienische Zoologie und Schädlingsbekämpfung, 1940, pp. 191-196)である。その195頁には、「モーターつきの換気扇。12立方メートル/時の能力が、ガスの急速な拡散をもたらし、ガス処理された部屋の内部空気を急速に換気する(1時間に72回の空気交換)のに十分である」とある。(付録資料5と6を参照)

[75] Pressac, Auschwitz: Technique and Operation of the Gas Chambers, p. 370.

[76] Ibid., p. 68.

[77] APMO, nr. neg. 1034/7, p. 5.

[78] F. Puntigam, H. Breymesser, E. Bernfus, Blausäuregas kammern zur Fleckfieberabwehr. Sonderveröffentlichung des Reicharbeitsblattes (Berlin, 1943), p. 31.

[79] "Hütte" des Ingenieurs Taschenbuch (Berlin: Verlag von Wilhelm Ernst & Sohn, 1931), vol. 1, p. 1013, No. 3, with specific and exclusive reference to the "Rauchgasanalyse" (analysis of combustion gases) (p. 1011) (see appendix, Document No. 9).

[80] Blausäuregaskammern zur Fleckfieberabwehr, p. 21.

[81] Letter of the Tesch & Stabenow company of 29 July 1942 to the Waffen-SS Kriegsgefangenenlager Lublin, Verwaltung (see appendix, Documents No. 10 and 11).

[82] APMO, BW 30/25, p. 8.

[83] Pressac, "Les Carences et Incoherences du 'Rapport Leuchter'" [The Deficiencies and Incoherences of the ‘Leuchter Report’], Jour J, 1988, p. III.

[84] Übergabverhandlung of Crematory II, 31 March 1943. APMO, BW 30/43, p. 12.

[85] Übergabverhandlung of Crematory III, 24 June 1943. APMO, BW 30/43, p. 24.

[86] Blausäuregaskammern zur Fleckfieberabwehr. This work describes with great accuracy two types of gas chambers: the standard ones with the Kreislauf system and the Behelfsmässige Blausäurekammern (pp. 62-68).

[87] プレサックは59頁で、共同埋葬地に埋められている死体の焼却に従事する囚人のことを次のように記している。

「偶然、彼らは、SS隊員以外では、ユダヤ人の虐殺の様子についての唯一の目撃者となった。この『清掃作業』に従事した囚人は、誰も生き残ってはいないからである。」(イタリック―マットーニョ)

 では、ブンカーでの絶滅作業の目撃証人が生き残っているのはどのように説明されるのであろうか。

[88] M. Nyiszli, Médecin à Auschwitz: Souvenirs d’un médecin déporté, traduit et adapté du hongrois par Tibère Kremer [M. Nyiszli, Doctor at Auschwitz. Memories of a Deported Doctor, translated and adapted from Hungarian by Tibere Kremer] (Paris: Julliard, 1961), pp. 96-98.

[89] Pressac, Auschwitz: Technique and Operation of the Gas Chambers, p. 479. 実際には、ニーシュリは、虚偽の証人である。これについては、われわれの研究 «Medico ad Auschwitz»: Anatomia di un falso ["Doctor at Auschwitz": Anatomy of a Fake] (Parma: Edizioni La Sfinge, 1988)を参照していただきたい。

[90] Pressac, Auschwitz: Technique and Operation of the Gas Chambers, p. 397.

[91] Ibid., p. 392.

[92] Ibid., p. 384.

[93] Ibid., p. 384.

[94] Ibid., pp. 416-417.

[95] APMO, nr. neg. 20995/465.

[96] Pressac, Auschwitz: Technique and Operation of the Gas Chambers, p. 386.

[97] Ibid., p. 399.

[98] APMO, BW 30/27, p. 18.

[99] Le Monde, 21 February 1979, p. 23.


『いわゆるヒトラー一派のガス室といわゆるユダヤ人の虐殺は、同一の歴史的嘘である。この嘘のおかげで、非常に大きな政治的・金銭的詐欺行為が容認され、そのおもな受益者はイスラエル国家と国際シオニズムであり、そのおもな犠牲者はドイツ国民―その指導者ではない――とパレスチナ民族全体である。』

— ロベール・フォーリソン教授博士

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Karl Marx: The Jewish Question

アウシュヴィッツ:伝説の終焉
カルロ・マットーニョ

"Anti-Semitism" - What is it?

動画   

The Jews Banished 47 Times in 1000 Years - Why?

シオン長老の議定書

The International Jew - By Henry Ford

Pravda interviews Ahmed Rami

The Founding Myths of Modern Israel
Shahak's "Jewish History"


1980年代のイスラエルの戦略 この記事は1982年2月『Kivunim、A Journal for Judaism and Zionism』の第14号、冬季5742にヘブライ語で掲載されたものである。

Judaism and Zionism inseparable

第二次大戦中のドイツの強制収容所における殺人ガス処刑についての目撃証言
ユルゲン・グラーフ

"Jewish History" - a bookreview

写真  

アウシュヴィッツ国立博物館員ピペル博士へのインタビュー
デイヴィッド・コール

Racist Jewish Fundamentalism

The U.S. cost of supporting Israel

Talmud unmasked
タルムード抜粋一例

Jews DO control the media - a Jew brags! - Revealing Jewish article

航空写真と矛盾している12の「目撃証言」(J.ボール)  

Quotes - On Jewish Power / Zionism

今日の米国ユダヤ人の経済力

政治漫画 

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