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試訳:ガス室問題に関するプレサックへの回答

(およびさらに二つのコメント)

ロベール・フォーリソン

 

歴史的修正主義研究会試訳

最終修正日:2003722

 

本試訳は当研究会が、研究目的で、Robert Faurisson, Answer to Jean-Claude Pressac on the Problem of the Gas chambersTwo further comments on my answer to Jean-Claude Pressacを試訳したものである。
 誤訳、意訳、脱落、主旨の取り違えなどもあると思われるので、かならず、原文を参照していただきたい。

online: http://vho.org/GB/Books/anf/Faurisson1.html

online: http://vho.org/GB/Books/anf/Faurisson2.html

 

 

 

目次

           読者へのノート

           前書き

           序文

1.     プレサックが隠すことのできない証拠

2.     プレサックが言及していない実態

3.     プレサックがほかの歴史から借用したトリック

4.     プレサック自身の偽り

5.     小説家的な余談

結論

付録:資料NI-9912

 

<読者へのノート>

 本小論は、プレサックの著作『アウシュヴィッツの焼却棟。大量殺戮装置』への回答であるが、プレサックの著作は、刑法に定められた、また17世紀の矯正裁判所の判事と11世紀のパリ控訴院の判事、カーン、フォンテンブロー、アミアン、ニースその他の判事によって適用されてきたものとしてのFabius-Gayssot法に抵触するに違いない。そのようにせよとの法的な要請はないけれども、彼の著作は、ニュルンベルク裁判の判事が19451946年に布告したドグマに関して修正主義的な異端が存在しうるということを示すような示唆、隠された意図、あるいは傾向を持っているのである。

 プレサックの短い序文(12頁)だけでも、四つの訴因がある。

 プレサックは次のように断言している、あるいは理解させようとしている。すなわち、ニュルンベルク裁判で、判事たちは「大量殺戮装置に関する明確な技術的情報を」持っていなかった。判事たちの事実認識は「まったく十分ではなかった」。虐殺と殺人ガス室の歴史に関する判事たちの認識は、「つねにあやういものである目撃者による口頭あるいは文書証言から」自由ではなかった。例を挙げれば、判事たちが設定した「最終解決の工業的な局面の開始」の日時は、誤っており、実際には、その1年後に設定しなくてはならない。プレサックの200数頁からは、その他100の訴因を取り出すことができる。彼がメディアで行なっている話は、彼の立場を悪くするだけである(とくに、『ル・モンド』1993926/27日のローレン・グライルサマーの記事を参照)。

 もし、プレサックがFabius-Gayssot法あるいはその他の法律にもとづく訴追から逃れようとすれば、彼が選択した土壌で彼に回答している人々と同様になることであろう。

 一方、後者が訴追されたとすれば、プレサックも、彼の著作を出版したCNRS (Centre National de la Recherche Scientifique)経営陣とともに、17世紀のパリ矯正裁判所の被告席に引き出されるはずである。

 

<前書き>

 修正主義者とは誰か。彼らは何を語っているのか。

 人々は、70年代末期以来、修正主義者について語ってきた。しかし、誰も彼らのことを見たことも聞いたこともなく、彼らの議論はその反対者によって紹介されてきた。彼らの著作を読む機会はまったくない。法律が妨げているからである。彼らは非難され、殴られ、投獄されている。なぜなのか。

 彼らに対する特別法、Fabius-Gayssot法があった。彼らに対する別の法律が起草されている。Méhaignerie-Pasqua-Goldenberg 法である。

 同時に、彼らは死んで、葬られたといわれている。

 フランス人薬剤師プレサックは最近の著作『アウシュヴィッツの焼却棟。大量殺戮装置』の中で、フランスの修正主義者の指導者、すなわちフォーリソン教授に対するほやほやの、科学的、決定的な回答を行なったとされている。もっとも、彼は、フォーリソンの名前を挙げてはおらず、間接的に言及しているだけであるが。少なくとも、これこそが、西側世界で行なわれている防音的メディア・キャンペーンで語られていることである。

 プレサックは、自分が注意深く、正確な研究者であると装っている。メディアでは、彼は、アウシュヴィッツの「ガス室問題」の核心をつかんでいる冷静な科学者を装っている。彼の本には技術的データがあふれている。少なくとも、そのように見せかけている。

 フォーリソンは、このような著作に回答するに値する人物である。プレサックは80年代に、フォーリソンに近づいて、アウシュヴィッツのガス室の存在への疑問を告白しているので、フォーリソンはプレサックのことをよく知っていた。プレサックは何か役立つことをしましょうとまで申し出ていた。この申し出は一時的に受け入れられた。しかし、フォーリソン教授は、プレサックが科学的研究能力に欠けていること、表現能力に欠けていること、「精神状態が混乱していること、度外れた恐怖心を抱いていること、明晰かつ率直に話すことを嫌っていること」といった理由で、彼をしりぞけた(Revue d'histoire révisionniste no. 3, November 1990/January 1991, p. 130)。

 フォーリソンと連絡を取って、何年もの研究から生まれてきた著作についてのフォーリソンの意見を尋ねようとするジャーナリストは誰もいなかった。ジャーナリストたちは、プレサックの新著にはまったく新しいものは何もない、これは外見的にだけ科学的である、さらには、いずれにせよ、修正主義者の立場が健全であることが示されてきたというように考えたのであろうか。

 『ル・モンド』が、「アウシュヴィッツの噂」や「ガス室問題」(ユダヤ人生まれの歴史家オルガ・ヴォルムゼル・ミゴの表現)に関するフォーリソン教授の見解を掲載したのは、1978年末と1979年初頭のことであった。そのとき、強力なメディアの反抗が始まり、修正主義は芽のうちに摘み取られたと世論を説得した。19826月、ソルボンヌで開かれた国際会議は、ファンファーレを奏でながら、歴史的修正主義の死を断言した。続く年に開かれた多くの会議(とくに、出版界の大物ロバート・マクスウェルが1988年に、オクスフォードで大規模に組織した会議)は、画期的な新しい資料的証拠と演繹的証拠は修正主義を永遠に葬るのに十分なほどそろっているというニュースを広めた。1986年には、フランスや各国で、「ナントの博士論文事件」が大きな関心を集めた。論文の執筆者であるアンリ・ロックはさらし者にされ、彼の学位は取り消され、彼の論文は歴史の記憶の穴に落ち込んで、消え去っていったということになった。1990年、今度は、リヨン大学研究員ベルナール・ノティンを迫害する目的で、ふたたび、メディアが動員された。一連の見世物裁判が、リヨン、イスラエル、ドイツ、カナダで開かれ、修正主義者に対する新たな、決定的勝利を収めることができたように見えた。しばらくのあいだ、修正主義者の声を聞くことはなくなり、このこと自体が、修正主義者がまたもや死んでいったことを如実に証明しているかのようであった。反修正主義的な著作が、大きなファンファーレを奏でながら、次々に刊行された。1980年には、フィリップ・ミューラーの『アウシュヴィッツのガス室での3年間』が、1981年には、ジョルジュ・ヴェレールの『ガス室は存在した』が、1984年には、オイゲン・コーゴン、ヘルマン・ラングバインその他21名の著者による『ガス室、秘密の存在』が出版された。毎年毎年、新しいホロコースト博物館、展覧会、『ホロコースト』や『ショアー』のようなフィルム、ドキュメンタリー作品が登場し、修正主義者の死を明らかにしているようであった。

 プレサックの著作は、このような狂言じみた出版活動の一部である。

 プレサックは、歴史研究の自由を禁止する禁止条項に、意図的ではないものの、打撃を与えてきた。このことを認めておくことはフェアーであろう。彼の著作は、実際には、Fabius-Gayssot法への挑戦である。彼は、この法について、歴史分野での「言論の自由を禁止するもの」と述べており、彼自身も、この法を気ままに破ってしまっている(『ル・モンド』1993926/27日)。こうして道は開かれたのである。…

 19925月、『歴史的修正主義者評論』は、第6号を刊行したのちに、出版停止を余儀なくされた。われわれは著作を出版する権利を持っていなかった。このために、「プレサックへの回答」を論文としても、著作としても出版することはできなかった。しかし、われわれはそれを配布しようとした。2年間、フォーリソンはわれわれの雑誌の学術的助言者であり、われわれは、数多くの彼の論文や研究を公表してきた。われわれに対する内務大臣ピエール・ジョクスによる禁止条項、歴史的修正主義を犯罪とみなす(ニュルンベルク裁判が告発した人々と同様に、「人道に対する罪に異議を唱えること」)Fabius-Gayssot法の条項にもかかわらず、われわれは、無法者とされた人々に意見を発表する場を提供してきた。

 15年前、フォーリソンは、科学的・物理的な土台のうえで「ガス室問題」を扱うべきであるとおおやけに提案した。そのようなことを行なったのは、彼が始めてであった。しばらくのあいだ、彼の大胆な議論は、神聖なものを汚すことであるかのようであった。今日では、修正主義者の敵も、フォーリソンが選んだ戦場で戦わざるをえなくなっている。プレサックの著作は技術的なものと称しているのだから、それに反論する場合も、その反論が技術的性格を持つのは正常である。フォーリソン教授の専門は、「テキストと文書資料(文学、歴史、メディア)の分析」とされているが、その彼が、まさに技術的な議論を展開したのである。

 フォーリソン教授の分析を介して、この「プレサックへの回答」は、歴史の問題を検証する適切な方法についての論考となっている。これは、どのようにして、虚偽の事実が、虚偽の科学によって――これは薬剤師プレサック個人による――、メディアの助けを借りながら、真実という見せかけを与えられているのかを描いている。1993年末、歴史学が歴史的修正主義に対してなさねばならなかった譲歩を検証することができるようになった。あまりにも長く続きすぎた戦争宣伝の歪曲を検証する権利を主張することは、実際の真実に貢献することであろう。人々がこれらの歪曲を信じている限り、本当の戦争犯罪、本当の「人道に対する犯罪」とは戦争そのもの、戦争に伴う恐怖の連鎖であることを理解できないであろう。

『歴史的修正主義者評論』編集局

19931224

 

<序文>

 プレサックの近著は、「アウシュヴィッツの焼却棟」という表題、「アウシュヴィッツの大量殺戮装置」という副題を持っている(CNRS éditions, August 1993, viii-156 pp. and 48 pp. photographic collection)。表題は正確であるが、副題は正確ではない。この著作には、焼却棟の存在――誰もそのことを疑っていない――を示す膨大な証拠と資料がある一方で、アウシュヴィッツの殺人ガス室の存在――論争の対象となっている――を示す証拠と資料が欠如しているという驚くべきほどのコントラストがある。

 

写真も図面もない

 誰もが、ナチスのガス室が実在したと主張するプレサックに対して、この恐るべき化学的屠殺場についての物理的記述を要求する権利を持っている。しかし、プレサックの著作には、殺人ガス室の写真も、図面も、スケッチも、模型もない。48頁の写真集には、60の「資料」があるが、そのどれもが、殺人ガス室とはまったく関係がなく、後述するように、誤って証拠として提示されているたった一つの「資料」(10個のガス検知器についての№28)があるだけである。プレサックは、見学者がアウシュヴィッツで見ることのできる焼却棟Ⅰのガス室の写真でさえも掲載しようとしていない。彼はまた、ビルケナウ焼却棟Ⅱのいわゆるガス室の――非常に明瞭な――廃墟の内部や概観も掲載していない。ポーランド人がアウシュヴィッツ博物館ブロック4に軽率に展示している模型も掲載していない。このような省略の動機は容易に理解することができる。すなわち、殺人ガス室とされるものを物理的に記述しようとすれば、これらの建物でシアン化水素を使ったガス処刑が物理的、化学的に不可能であることが、すぐに露見してしまうからである。(1

 

実質的に新しいものは何もない

 この著作の中身は非常に穏当のようであるが、実質的に何も新しいものを提供していない。これは、1989年にプレサックが誤解を誘うような『アウシュヴィッツ:ガス室の技術と作動』(2)という表題をつけて刊行した退屈な概説書の短縮版に過ぎない。1989年の著作については、"Auschwitz: Technique and Operation of the Gas Chambers (1989) ou Bricolage et 'gazouillages' à Auschwitz et Birkenau selon J.C. Pressac (1989) "3)、"Improvised Gas Chambers and Casual Gassings at Auschwitz and Birkenau According to J.C. Pressac (1989)" 3a)という表題の論文で、書評している。プレサックがガス室に関する自分の説を、2頁の内容のない、混乱した記述にまで短縮し、英語版の表題よりも野心的ではないフランス語版の表題を選択したきっかけとなったのは、あつかましさを恐れずいえば、私の1990年の書評であろう。

 

アウシュヴィッツ:900万のかわりに80万の死者

 フランス語版での唯一重要で新しい点は、アウシュヴィッツの死者についてのプレサックの数字である。アラン・レネの映画『夜と霧』では、900万という数字であった(映画の末尾では、「900万人の死者の魂が、この田舎をさまよっている」と語られる)。ニュルンベルク裁判では、法廷が「法廷に既知の事実」とした資料(USSR008)は400万という数字を挙げている。19904月までは、同じ数字が、ビルケナウの記念館の19の石碑に、19ヶ国語で刻まれていた。その月、アウシュヴィッツ博物館当局は、150万という数字を刻んだ新しい石碑に慎重に代えた。フランスでは、歴史家フランソア・ベダリダは95万と見積もっている(『ル・モンド』1990722/23日、7頁)。そしてプレサックは、この数字が775000名、約80万となるべきであると語っている。彼は、ガス処刑されたユダヤ人の数を63万と見積もっている(148頁)(4)。本当の数字は、ユダヤ人、非ユダヤ人を含めて、1939年から1945年までに15万人ほどであろう。死因の大半は、自然死、とくにチフスによるものである。

 

プレサックはもはや「ヴァンゼー」は信じていないが、依然としてヒトラーは信じている

 新しいことがもうひとつある。プレサックは、ドイツ人がハイドリヒの主宰する1942120日のヴァンゼー会議でユダヤ人の物理的絶滅を決定したということをもはや信じていない(後述)。ユダヤ人絶滅政策(いわゆる「虐殺」)が存在したとも信じていないようである。いずれにせよ、彼はヒトラーについてはまったく触れていない(5)。相当の名前が彼の著作に登場するのはわずか4回だけである。「新しいドイツと失業を減らしたことをたたえる」ヒトラーの「建築プロジェクト」という話題に関して(6頁)、彼の秘書の一人に関して(10頁)、ユダヤ人への彼の酷評に関して(65頁)、そして最後に、「ヒトラーが宰相になってからの[経済]活動の再生」に関してである。

 

「略式ガス処刑」理論

 プレサックのアウシュヴィッツ理論はグロテスクである。すなわち、「略式ガス処刑」、「手仕事」、」「へま」、「不手際」といった具合である。確かに、プレサックが「略式ガス処刑」という言葉を使ったのは、私的な会話の中だけであるが、この表現が彼の理論の問題性を象徴している。

 プレサックによると、ドイツ人は犯罪および凶器を改良した。彼らは、100万人近くを殺すまで、あちこちで様々な規模の集団をガス処刑したが、組織的な計画にもとづく大量ガス処刑はまったく実行しなかった。プレサックによると、当初、ドイツ人は殺人ガス室を建設さえもしなかったという。たとえば、彼は、1943年に完成したビルケナウの焼却棟ⅡとⅢは、19428月には殺戮目的で設計されてはおらず、もっぱら死体を焼却するものであったことを認めている。彼は、無害な冷たい部屋(死体安置室と呼んでいる)が、焼却を待つ死体を保管するために、焼却棟に付属して設置されたことを認めているが、ドイツ人は定かでない状況のもとで、定かでない日付に、この冷たい部屋を殺人ガス室に改造することを決定したと付け加えている。これに関与したドイツ人は、佐官たち、尉官たち、下士官たち、焼却・絶縁・換気を専門とする一握りの民間人エンジニアと技術者であり、普通考えられるような、政府の高官、化学者、毒物学者、医師ではなかった。そして、もっとも深くかかわったのが、もともと石工であって、焼却炉建設の専門家となり、エルフルトのトップフ・ウント・ゼーネ社のために働いていた人物であった。この悪の天才の名は、クルト・プリュファーであった。戦後、アメリカ人は彼を逮捕し、尋問したが、彼が行なったのは焼却棟の建設だけであると判断して、釈放した。プリュファーはエルフルトに戻ったが、そこはソ連地区であり、これが誤りであった。KGBは彼を逮捕して、尋問し、19484月、彼は、25年間の強制労働の刑を受けた(6)。4年後、彼は獄死した。

 プレサックによると、プリュファーと彼の同僚の仕事は非常に粗雑であったので、冷たい部屋をガス室に改造する仕事はやっつけ仕事に他ならなかったという。たとえば、プレサック自身も認めているように、空気が上から入ってきて、下から出て行くというのは、死体を保管する冷たい部屋には適切であった。しかし、チクロンBの主要成分であるシアン化水素は、空気よりも軽いのである。だから、換気システムは、犠牲者の大量殺戮が終わったのちに、ガスが上から出て行くように、逆のかたちで作られなくてはならなかった。そうでなければ、シアン化水素ガスの使用は、「技術的に狂気の沙汰」(71頁)となるであろう。にもかかわらず、換気専門家たちは、空気の流れを逆転させるのではなく、以前のまま放置したのである。彼らは、「換気力」を保証しただけで満足してしまった(同頁)。プレサックは、空気の流れの方向と動きの詳細および換気扇の能力の詳細を使って、われわれを煙に巻いている。あるユーモアのある修正主義者が、プレサックはガス室を空気室に改造してしまい、自分の言葉で大きな風を呼び起こしていると彼のことを非難したが、それは理由のないことではない。

 プレサックは、狭い分野の仕事にたずさわったこれらのドイツ人たちは、自分たちの犯罪行為についてのはっきりとした痕跡や証拠をまったく残そうとしなかったと述べている。だから、処刑ガス室が存在した明白かつ確定的な証拠を期待してはならないというのである。その代わりに、プレサック特有の用語では犯罪的「へま」「不手際」となっている、証拠の端切れ、一部、ほかのものとは異なるディーテールに満足しなくてはならないという。そして、もちろん、歴史に先例のないような犯罪の小さな痕跡を発見する特殊な知恵が必要であるという。そして、当然にも、この知恵を持ち合わせることができるのは、昼間は薬剤師で、夜は歴史家であるプレサックであるというのである。

 

プレサックの約束と実態

 プレサックは序文の中で、「アウシュヴィッツの厳格な歴史」、「犯罪技術のほぼ完全な理解」、「つねにあてにならないものであり、時とともに明確ではなくなる口頭の目撃証言、文書の目撃証言から自由な歴史的再構築」をわれわれに約束している(12頁)。

 われわれは、この約束がはったりにすぎないこと、それどころか、彼の著作は混乱、支離滅裂さ、あて推量に満ちていることを知るであろう。すなわち、議論が、「殺人ガス処刑」に関係するときにはほとんどいつも、目撃者に頼ってしまうのである。焼却炉に関する問題においてさえも、彼の記述は脈絡がなくなり、しばしばあいまいになってしまう。

 こうした仕事を評価するには、もっとも単純な基準をあてはめればよい。すなわち、プレサックがナチスのガス室の写真や図面を見せてくれるならば、関心を向けるべきである。そうでなければ、関心を向けるべきではない。プレサックは巧みな写真家、図面作成者、模型製作者であるが、この怪物のような化学的屠殺場の物理的記述を与えてくれるはずである酸性テストを、注意深く回避してきた。だから、混乱した頭脳からの作品に多くの時間を費やすべきではない。しかし、私は、この著作がどの程度、絶滅論の支持者を破局的事態に追い込んでしまったのかを読者に理解してもらうために、この作品に時間を費やしておこう。

 私は、プレサックが隠すことのできない証拠、彼が見ようとしない実態、彼が他の「ホロコースト史家」から借りてきたトリック、彼自身の詐術、彼の小説家的な余談という5段階に分けて、論じていく。

 終わりにあたって、私はアメリカ人ロイヒターの提案をふたたび取り上げ、われわれの論敵に、専門家の調査委員会――アウシュヴィッツとビルケナウに出かけ、前代未聞のもっとも残虐な犯罪の凶器を検証する――を設立することを提案する。数十万(かつては数百万といわれていた)のユダヤ人がシアン化水素ガスで殺された場所と施設は、法医学専門家によって検証されるべきである。

 自分たちは忙しくて、アウシュヴィッツの科学的歴史に携わる時間がないとする歴史家にとっては、このような技術的研究を行なわないとする言い訳は認められない。

 

1.プレサックが隠すことのできない証拠>

 修正主義者による本質的な発見のおかげで、絶滅論者がもはや隠すことのできない、彼らを当惑させるような証拠がある。プレサックもこれを受け入れている。

 

「ヴァンゼー」はもはや「ヴァンゼー」ではない

 何十年ものあいだ、いわゆるユダヤ人の「ホロコースト」についての歴史家たちは、1942120日、ベルリンのヴァンゼー会議で、ドイツ人はヨーロッパ・ユダヤ人の物理的絶滅を決定したと繰り返し論じてきた。1984年になってはじめて、絶滅論者がシュトゥットガルトでの大会に集まって、この説を静かに放棄した(Eberhard Jäckel and Jürgen Rohwer, Der Mord an den Juden im Zweiten Weltkrieg, DVA, 1985, p. 67)

 1992年になってはじめて、イェルサレム大学教授で、イスラエルの「ホロコースト専門家」の中心人物であるイェフダ・バウアーが、この説は「馬鹿げて」いるとおおやけに声明した (The Canadian Jewish News, 30 January 1992; cf. as well, "Wannsee: 'Une histoire inepte'", R.H.R. no. 6, May 1992, pp. 157-158)。プレサックは、新しい定説にしたがって、次のように記している。

 

120日、『ヴァンゼー会議』と呼ばれる会議がベルリンで開かれた。ユダヤ人を東部地区に移送するという作戦が計画され、そこでは、労働によって幾分かのユダヤ人が『自然に』清算される可能性が含まれていたとしても、工業的な大量清算について語った者は誰もいなかった。この会議に続く日々、週、アウシュヴィッツ建設局は、工業的な大量清算という目的のための施設を計画することを要請する呼び出し、電報、書簡をまったく受け取っていない。」(35頁)

 

 プレサックの「年表的なまとめ」には、「[1942年]120日――東部地区へのユダヤ人の移送に関するベルリンでのヴァンゼー会議」(114頁)とある。プレサックは、「移送」と書いており、「絶滅」とは書いていない。

 

アウシュヴィッツでは、秘密のことは何もなかった

 アウシュヴィッツという場所が選ばれたのは、そこが人里から離れており、秘密を保持できる場所であったからといわれてきた。しかし、プレサックは、収容所が設立されたのは鉄道網の上にあるアウシュヴィッツ町の近くであり、その鉄道網は、ベルリン、ウィーン、ワルシャワにつながっていたことを認めている(9頁)。列車の旅行者は、毎日、収容所の近くを通過して行ったのである。

 今日では、アウシュヴィッツ収容所は、焼却棟の建設や作動も含む、さまざまな仕事に従事したドイツ人、ポーランド人、その他の民族の民間労働者であふれていたという点に関してはまったく異論はない。例外は、チフスが蔓延した期間であって、このような労働者の大半は、家に留まっていた。この事実は、数十万(数百万とされていたこともあった)の犠牲者を呑み込んでいった科学的屠殺場の存在と作動を秘密にしておかなくてはならないという必要性とは両立していない。これらの民間人は緑の腕章をつけていた(62頁)。

 

「ビルケナウの焼却棟の建設には、20の民間会社が関与している。…あらゆる建設プロジェクトには、…当該会社の職長の監督下に100名あるいは150名の労働者がおり、そのうち、2/3は囚人で、1/3が民間人であった。」(56頁)

 

 プレサックは、外部の大量の民間人が犯罪現場にいたという変則性について、および、ドイツ帝国では極秘条項と考えられていたことが収容所外部の民間会社の職工の監督下にあったという事実について説明していない。

 

文書資料の大半は発見されてきた

 1945年、ドイツ人は収容所関連の文書をほぼすべて破棄したという話であった。しかし、プレサックは、数十万とはいわないまでも、数万の大量のアウシュヴィッツの文書資料がアウシュヴィッツとモスクワに残っていることを認めている。中央建設局の文書資料は、完全に残っている。これらの資料はプレサックの目には、最も犯罪の臭いがするものであるはずであるから、真っ先に、それを破棄しなくてはならなかったはずである。なぜ破棄されなかったのであろうか。大規模な犯罪などというものはなかったために、その痕跡を隠す必要もなかったので、これらの資料を破棄する必要性などまったくなかったというのが、常識的な回答である。プレサックは、SSがこれらの文書を破棄しなかった理由を別様に説明している。すなわち、SSはその中身の「爆発的」本質を理解していなかったというのである(1頁)。これが彼流の「やり方」である。すなわち、プレサックは、自分が理解できない現象があると、それをSSのおろかさや無知のせいとするのである。

 

1972年、二人の建築家は放免されなくてはならなかった

 アウシュヴィッツの焼却棟の主要設計者であるデヤコとエルトルは1972年のウィーンでの裁判で無罪判決を得ているが、私は、この無罪判決が非常に重大な意義を持っていると、再三指摘してきた。ソ連とポーランドの共産主義者は、自分たちの資料を法廷に持ち込んだ。結論は、ごく常識的なものであり、三つの文書は犯罪の証拠をまったく提供していない、それらは、設計士、エンジニア、技術者にはまったく普通の技術的意味を持っていたに違いないというものであった。しかし、わが薬剤師プレサック君は、これらの人々が無能であったと論じている。

 

「…ポーランド人とソ連人が提供したすばらしい歴史資料を評価する能力を持つ者、判事、いわゆる技術専門家は誰もいなかった。」(96頁)

 

 デヤコ・エルトル裁判記録と資料はオーストリア司法当局が保管しており、修正主義者はこれにアクセスできない。どうして公開しないのであろうか。

 

チクロンBによるチフスとの闘い

 東ヨーロッパの住民のあいだでいつも猛威を振るっていたチフスがアウシュヴィッツを襲った。ドイツ人は、ソ連の東部地区で「1941年夏に、チフスが15万件蔓延した」(15頁)と述べている。プレサックは、修正主義者が主張してきた真実に譲歩することを余儀なくされ、次のように記している。

 

SSの医師たちは、アウシュヴィッツ地区が湿地帯であることを知っていた。彼らはすでに、エバース桿状菌による腸チフスを引き起こす未処理の水問題に直面していた。19425月末、腸チフスが囚人のあいだではやったので、SSと収容所で働く17の民間会社の従業員は、蛇口の水を飲むことを禁止された。無料で大量に供給されていたミネラル・ウォーターに代わった。医師が心配していたのは、湿地からの蚊が引き起こす夏のマラリアによる災難が起こることであった。SSはこの危険に対処するために、ライスコに衛生研究所を開設することを計画した。これは10月のことであった。しかし、チフスが突然襲いかかった。医師たちは、予防措置(隔離、髪を切ること)講じ、新しく到着した囚人に衛生措置(髪の毛の殺菌駆除、シャワー)を行なうことによって、媒介者であるシラミを除去し、そのことが、収容所で疫病の発生を防ぐと考えた。これは正しかったが、このような措置を受ける必要がない人々、すなわち毎日囚人と接している民間人から問題が発生した(8)。まもなく、民間人が感染し、収容所の衛生状態は嘆かわしいものとなり、死亡者数はうなぎのぼりとなった。19405月から12月まで、月ごとの死亡者は220名であった。194117月に、それは三倍となった。19418月から12月には、1000名に達した。19427月には、4000名を超えた。衛生環境は対処不能となった。チフスが近隣地区に広がるのを防がなくてはならなかった。収容所全体が封鎖され、そこから出ることは禁止された。[1942年]710日、部分的な隔離措置をとることが命令された。」

 

 プレサックは続けている。

 

「しかし、チフスの猛威が弱まらずに続き、事態が破局的となると、[1942年]723日、収容所を全面隔離することが命令された。」(46頁)

 

 疫病の毎日の死亡者数は、囚人、民間人、SSのあいだで250300名に達した(50頁)。プレサックは、主任医師ポピエルシュ博士自身がチフスで死んでいることに言及していない(9)。194297日から12日は、最初の蔓延が頂点に達し、1375名が死んだ(145頁の表を参照)。

 第二の蔓延、第三の蔓延が1943年前半に起こった(82頁)。

 とくにチクロンBを使った殺菌駆除が、きわめて必要となった。

 

「[194275日、SSの看守が暮らしており、害虫でいっぱいであった建物が、[チクロンBで]ガス消毒された。](16頁)

 

 ビルケナウの中央サウナは、

「温風に殺菌駆除用の4つの部屋(資料23)、3つの工業用高圧釜(資料24)、散髪室、医学検査室、15のシャワーを備えており、高い能力を持つ衛生施設であった。SSはこの施設を使って、ビルケナウにチフスが蔓延することを『断固として』阻止しようとした。囚人は、髪を切られ、検査を受け、殺菌駆除され、シャワーをあび、彼らの所持品も殺菌駆除された。不運なことに、この施設が稼動し始めたのは、19441月末であった。」(69頁)

 

 資料23、とくに資料2440は、ドイツ人が、とくにジプシーが収容されていた収容所の衛生状態について、かなり配慮していたことを示している。資料4243は、チクロンBをつかった19の殺菌駆除ガス室の列(これは完成していなかった)の内部と外観を示している。

 アウシュヴィッツは、

「ドイツで開発された最新の殺菌駆除技術を備えていた。固定式の高周波殺菌駆除ユニット(デシメートル-センチメートル波)であった。」(8283頁)

 

 すでに1946年に、ストラスブルク大学医学部教授で、アウシュヴィッツの囚人であったマルク・クラインは、「短波による殺菌駆除」と、強制労働収容所に近い条件の下にいる囚人に対して、ドイツ人医師が講じたかなりの数の措置について言及している。 ("Observations et réflexions sur les camps de concentration nazis", Études germaniques no. 3, 1946, p. 18).

 

焼却:衛生措置

 プレサックは次のように書いている。

 

「チフスその他のコントロール不能な疫病を防ぐために、戦争による死体とそれが持ち歩いている害虫を、完全に燃やし尽くさなくてはならなかった。[アウシュヴィッツに関する限り]これは、プリュファーの仕事であった。」(32頁)

 

 当初ドイツ人は、死体を埋めていたが、アウシュヴィッツは湿地帯の中にあった。水面が地面を越えることもあった。だから、死体を掘り起こして、焼却しなくてはならなかった。

 

「死体からの腐敗物質が地下水を汚染し始め、地下水は、水面が上昇したときには、完全に汚染されてしまったに違いない。冬がやってくる前に、死体を掘り起こして、戸外で焼却する以外に方策はなかった。」(57頁)

 

 プレサックの著作の大半は、焼却棟の歴史、焼却棟と呼ばれた建物の歴史、その中でも、これらの焼却棟の炉を扱っている。その記述は退屈で、脈絡がなく、ほとんど理解できない。炉はしばしば停止し(2281頁、注108その他)、このために、プレサックも含む絶滅論者の挙げている穏当な焼却能力(70日間で30万(148頁)、14285以上!)は、はるかに減少したことであろう。

 

ガス室なしで設計された焼却棟

 ここで、プレサックは修正主義者に対して、もっとも重要な譲歩をしている。ビルケナウの4つの焼却棟は、公式の歴史家によるユダヤ人絶滅政策開始の日付よりもかなり遅れて、19428月に設計されたが、それは、「ガス室なしで計画されていた」(53頁)というのである。これらの焼却棟は1943331日から625日のあいだに完成したが、それが「ガス室を持って計画された」正確な日付を探しても無駄であるというのである。

 彼の譲歩は重大である。歴史家たちが、すべての焼却棟はガス室を持って、計画・設計されていたと断言していた1982年に、プレサックは、大胆にも、焼却棟ⅣとⅤはガス室なしで、設計されたと書いていた。その後、1989年には、彼は修正して、二つの焼却棟はガス室を持って、設計されたと記した。今では、彼は、1982年の立場、すなわち、焼却棟はガス室なしで、設計されたという立場に戻っている。彼は、1982年には焼却棟ⅡとⅢについては何も語っていないが、1989年と現在では、焼却棟ⅡとⅢはガス室なしで、設計されたと論じている。他の焼却棟に先行する中央収容所の焼却棟Ⅰについては、プレサックはいつも自説を変えているので、彼がガス室を持って計画されたのか、それともガス室なしで計画されたのか、どちらと考えているのか、確定することはできない。神秘的なブンカー12についても同じような不明瞭さに直面する。プレサックの立場の変化については、R.H.R. no. 3, pp. 74-79 (cf. equally my Réponse à Pierre Vidal-Naquet, La Vieille Taupe, 1982, 2nd edition, pp. 67-83)を参照。

 

プレサックが隠すことのできないその他の証拠

 写真のコレクションに関心を限定すると、プレサックが隠すことのできないその他の証拠が現れる。犯罪活動に従事しているものならば、ひそかに、秘密裏に仕事をするはずであるのだが、それとは逆に、アウシュヴィッツ中央建設局のスタッフは、自分たちの様子を丁寧に写真にとっている(資料12)。技師、設計士、技術者たちが事務所で働いており、その壁には、焼却棟の設計図が誇らしげに貼ってある写真があるが、プレサックはこのような写真を掲載することができたはずである。写真コレクションの中には、収容所から少々はなれた暖房プラントの写真(資料44)、囚人が忙しく働いている馬小屋の写真(資料4546)、囚人が働いている、兵器庫と合成燃料工場の写真(資料4748)、大きなジャガイモ倉庫――連合国が「絶滅収容所」と呼んでいる場所としては、驚くべき存在であろう――の写真(資料49)、焼却棟の近くの下水処理施設(資料50)、囚人が働いている豚小屋の写真(資料51)、野菜栽培のための畑と温室の写真(資料52)がある。

 プレサックが隠すことのできない証拠の題名を見ても、あらゆることがアウシュヴィッツ絶滅説と矛盾していることに気づかざるを得ないであろう。歴史学的な定説の代表者がこうした事実を認めざるを得なくなったのは、修正主義者が強い圧力を加えたためであった。

 

2.プレサックが言及していない実態>

 プレサックは、アウシュヴィッツとビルケナウが「絶滅収容所」(連合国が作り出した表現)ではなく、強制収容所、労働収容所、通過収容所であったことを示している多くの事実に沈黙を守っている。また、多くの重要資料にも沈黙を守っている。数例をあげておこう。

 

焼却棟Ⅰの写真も設計図もない

 プレサックの著作は「アウシュヴィッツの焼却棟」を扱ったものであるが、逆説的なことに、60枚の写真と資料の中に、焼却棟Ⅰとそのガス室の1枚の写真も設計図もない。しかし、ここは、殺人ガス室を持っていたとされる最初の焼却棟であり、見学者に、犯罪の反駁できない証拠として提示されているところである。プレサックが掲載しているのは、ダッハウの炉の写真(資料7)、ブッヘンヴァルトの炉の写真(資料60)であるが、アウシュヴィッツの炉に関しては、見せようとはしない。彼は意図的にそのようにしている。「ガス室」を持つこの焼却棟が、まったく偽物であることを知っているからである。プレサックは、焼却棟Ⅰについての事実を1976年に発見したのが私であること、私がセルジュ・ティホンとの共著(Vérité historique ou vérité politique? (La Vieille Taupe, 1980, pp. 316-317)の中で、それを立証したことを読者に示していない。彼は、アウシュヴィッツ博物館の中で、きわめて難儀しながら、アウシュヴィッツとビルケナウのすべての焼却棟の設計図を発見し、それを公表して、これらの建物で殺人ガス処刑を行なうことは物理的、化学的に不可能であることを世界で始めて示したのが私であることを読者に伝えていない。

 

焼却棟Ⅱの「ガス室」の写真もまったくない

 プレサックは、彼がビルケナウ焼却棟Ⅱのガス室――実際には、部分的に地下にもぐった冷たい部屋(死体安置室)――と呼んでいるものの廃墟の写真もあえて掲載していない。解体してしまったコンクリートの屋根には、何かを投入できるような開口部はまったく存在していない。今日見ることのできる唯一二つの穴は、戦後に開けられたものである。その証拠に、鉄筋はねじれており、曲がっている。それゆえ、SSはこの目的のために作られた4つの開口部からチクロンBの丸薬を投入したというプレサックの理論は、今日誰もが見ることのできる物理的な証拠からも、支持することができない。

 

専門家の報告について一言もない

 アメリカ人ロイヒター、ドイツ人ルドルフ、オーストリア人リュフトル(10)は次々と専門家報告を公表し、そのすべてが、アウシュヴィッツとビルケナウでは殺人ガス室はなかったという結論に達しているが、プレサックはこれらについて一言も触れていない。

 とくに、プレサックはクラクフの専門家報告について沈黙を守っている。アウシュヴィッツ博物館当局は、ロイヒター報告に対抗するために、クラクフの法医学研究所に専門家報告を依頼した。199024日付のこの専門家報告は、それを依頼した人々を満足させず、公表が抑えられてきた(11)。プレサックにはどのような権利があって、アウシュヴィッツの記録の科学的要素を読者から隠さなくてはならなかったのか。この専門家報告が気に入らなければ、そのように著作の中で述べて、自分の好みに合う専門家報告を提示すべきである。われわれは、修正主義を批判している人々に対して、アウシュヴィッツとビルケナウで犯罪のために使われたとされる凶器に関する専門家報告を自由に提示してくださいと申し出ていた。まだ半世紀しかたっていない建物やその廃墟の科学的検証は、容易なはずである。どうやったら、このような専門家報告あるいは検証を拒みつつ、その一方で、修正主義者と同様の科学的歴史研究を行なっているふりをすることができるのであろうか。

 

『アウシュヴィッツ・アルバム』からの写真は完全ではない

 アウシュヴィッツの実態に関するもっとも貴重な資料は、『アウシュヴィッツ・アルバム』と呼ばれている189枚の写真である。これは、1944年にアウシュヴィッツ・ビルケナウに到着したユダヤ人の運命についての御伽噺をきっぱりと反駁している。それは、絶滅論者の当惑を呼び起こすものであったので、彼らが、その全体を公表したのは、1945年に発見されてから36年後のことであった。それまでは、さまざまな著作に、数枚の写真が掲載されていただけであった。1981年、セルジュ・クラルスフェルトが、このアルバムが「奇跡的」に発見された事情についての小説を書いて、コレクション全体の出版が考えられた。2年後、このクラルスフェルトが、フランス最大の出版社Editions du Seuilの手で「完全版」を出版するという仕事をプレサックに委任した(12)。(この件については、R.H.R. no. 3, Annex 3: "Les Tricheries de Pressac dans L'Album d'Auschwitz", pp. 149-152を参照。)プレサックは、ユダヤ人女性のカバー写真(このアルバムの写真からの1枚)を除いて、この貴重なコレクションから1枚の写真も掲載していない。

 

航空偵察写真についても一言もない

 プレサックは、1979年にアメリカ人Dino A. Brugioni Robert G. Poirierが発表した航空偵察写真(13)を1枚も掲載していない。これらの写真は、焼却棟の近くには人々の群れがまったく存在していないこと、煙突は煙の雲など吐き出していないこと(『アウシュヴィッツの焼却棟』91頁の「炎を噴出す二つの煙突」を参照)、「焼却壕」は想像の産物にすぎないことを立証している。

 

冷たい部屋の記録簿(死体安置室記録簿)についても一言もない

 1989年にやっと、アウシュヴィッツ博物館は、アウシュヴィッツ焼却棟Ⅰの死体安置室記録簿、Leichenhallebuch(死亡者全員が記録されている収容所死亡者記録簿、SterbebücherおあるいはTotenbücherと混同してはならない)の存在をやむやむ認めざるを得なかった。

 ダヌータ・チェクは、1989年に刊行されたアウシュヴィッツ・ビルケナウの事件カレンダーの新版Kalendarium der Ereignisse im Konzentrationslager Auschwitz-Birkenau 1939 — 1945 7部に分けられていた同じカレンダーの初版(Hefte von Auschwitz no. 2 in 1959, no. 3 in 1960, no. 4 in 1961, no. 6 in 1962, no. 7 and no. 8 in 1964, no. 10 in 1967)では、奇妙なことに語り忘れていたことを記している。すなわち、1941107日から1943831日まで焼却棟Ⅰの冷たい部屋(死体安置室)に保管された人々を記録した重要な記録簿が存在したことである(『カレンダー』、1989年、10頁その他)。たとえ、これらの死者のうち何人かは、収容所が始めて開設されたときには、焼却されず、埋められたとしても、行なわれた焼却の理論的な数字ではなく、実際の数字を理解する手がかりとなる資料が存在したわけである。

 プレサックは、死者の焼却に関するその他多くの資料を無視している。例えば、焼却が行なわれたことを記録した死亡者ノート、死亡を知らせた電報やテレックス、遺灰の発送状、焼却された、あるいは冷たい部屋に保管された死体の数をまとめた報告である(例えば、ブッヘンヴァルトについては、the death notice (Totenmeldung) reproduced by Reimund Schnabel, Macht ohne Moral, Frankfort, Rödenberg-Verlag, 1957, p. 346を参照)。

 ガス処刑された人々は登録されなかったという神話があるが、プレサックの著作は『アウシュヴィッツの焼却棟』という題名であるのだから、この神話によって、彼が情報を提供していないことが免罪されるわけではない。

 

言及されていないその他の資料

 その他の資料も無視されている。例えば、木材、石炭、石油の割り当てに関する資料、焼却棟への燃料配給に関する資料である。炉が24時間中稼動し得ないことを証明している資料が無視されていることはいうまでもない(作業マニュアルについては、『作動と技術』136頁に掲載されている)。

 

プレサックが言及していないその他のこと

 彼の前作『作動と技術』について、私は多くの論評をしてきたが("Trois petits secrets de J.C. Pressac" (Three little secrets of J.C. Pressac) (R.H.R. no. 3, pp. 134-135) and "Omissions délibérées" (Deliberate Omissions) (ibid., pp. 137-140))、その内容について、ここでふたたび取り上げることはしない(14)。プレサックは、過去11年間にわたって、アウシュヴィッツについてさまざまな見解を披瀝しており、そこには、180度変化してしまったものもあるが、それについて、丸々1章を書くことができるであろう。プレサックはこうした変化について沈黙している。とくに、沈黙しているのは、ドイツ人が数千の死体を「焼却壕」で焼却したという話に信憑性を与えようとして、自分の庭でウサギの死体を焼却した実験のことである。何回も繰り返したにもかかわらず、この実験は失敗した。プレサックは、壕で死体を焼却することは、酸素不足のために不可能であるとの結論に達した。とくに、前述したように、アウシュヴィッツのような、水面が地面よりも上昇してしまうところではなおさら不可能である。にもかかわらず、後述するように、アウシュヴィッツではドイツ人は犠牲者を「焼却壕」で焼却し、生きたまま犠牲者を「焼却壕」に押し込んだこともあった(91頁)とプレサックは主張するのである。

 プレサックは、多くの実態、重要な資料に沈黙しているだけではなく、他の手段を使ってアウシュヴィッツの真実を隠そうとしている。他の研究書や自分の著作に共通のトリックを使ってきたのである。

 

3.プレサックが他の歴史家から借りてきたトリック>

 プレサックが隠すことのできない証拠を扱っているにせよ、プレサックが言及していない実態を扱っているにせよ、それらすべては、アウシュヴィッツとビルケナウでの虐殺あるいはガス室の痕跡をまったく発見できないという結論に導いてくれる。絶滅論に固執しようとすれば、ごまかしに頼らなくてはならない。これこそが、わが器用な歴史家が行なっていることなのである。ポリャーコフ、ヴェレール、ヴィダル・ナケ、ヒルバーグ、ブローニング、フランスの法廷といった輝かしい先人にならって、プレサックは、こうした人々が使ってきた魔法の箱に頼っている(cf. R.H.R. no. 3, pp. 204-205, as well as no. 4, pp. 192-193)4つの箱がある。立証されていない主張、検証されていない目撃者の話に頼ること、コード化されている用語の謎を解くこと、SSがうっかり残してしまった証拠の断片、「へま」、「しくじり」を集めることである。

 

立証されていない主張

 プレサックは、『技術と作動』のなかで少なくとも5回(115313464501533頁)、「ビルケナウの焼却棟ⅡとⅢの破壊、それゆえ、ガス処刑の中止をもとめた19431136日のヒムラーの命令」について言及している。私はこの著作の書評の中で、「わが自動筆記者は、(日付については諸説あるが)、有名なユダヤ人研究者の主張を検証することもなく繰り返しているにすぎない」(R.H.R. no. 3, pp. 83-84)と書いた。わが自動筆記者は新著の中で何と書いているのであろうか。プレサックは、「[1944年]11月末、殺人ガス処刑は、ヒムラーの口頭命令によって中断された」(93頁)と記している。だが、当然にも、彼は、この命令が実在したという証拠をまったく提示できず、今度は、「口頭」であったとしているのである。その命令の日付などは、まったく定まっていない。同じように、プレサックはまったく勝手に、1942717日、「ヒムラーはビルケナウのガス処刑に立ち会った」(115頁)と書いている。プレサックは次のように論じている。

ユダヤ人の物理的絶滅は、

194256月以前にベルリンのSS当局[誰のことか?]によって決定されたのではなく、その後に[正確にはいつのことであるのか?]、アウシュヴィッツのSS建設局とエルフルトのトップフ社の技師によって技術的に実現された。」(2頁)

 

 プレサックは、人間がブンカー2でガス処刑された(42頁)「74日、スロヴァキア系ユダヤ人が始めて『選別された』[部分的にガス処刑されたことを意味する]」(43)、「194211月、SS建設局は、焼却棟に殺人ガス室を設置することを決定した」(66頁)、換気専門家シュルツェは、プリュファーから、[焼却棟Ⅱ]の死体安置室1の吸気・排気換気システムの特別目的を知らされた」(71頁)と述べるにあたって、証拠や証言をまったく無しで済ませている。プレサックは、「特別な目的」とは人間のガス処刑であるとしている。同じように、彼は、「SS70日間で30万人を処分することができた」(148頁)、足場や屋根から下りてきた二人の監督官は、「別の会社に属する監督官に、炎の熱が立ち入り禁止地域の緑の森を、赤・黄色に変えたと語った」(58頁)、「194210月末、「ブンカー12の『ガス処刑行動』[ママ]を焼却棟に移すという考え方が登場した」(60頁)と断言している。

 プレサックは、証拠のない断言というやり方に忠実で、伝統的な反ドイツ的宣伝という嘘を自分のものとしている。すなわち、「幸運にも、稼動することがなかった」(68頁)ダッハウの「ガス室」の歴史を語っているのである。

 プレサックが証拠や、目撃証言でさえも提供していない、この種の主張のリストは長いものとなるであろう。著作が大量ガス処刑というきわめて重要な告発に関与をしている場合には、その著作が比較的頁数の少ない本だからといって、自説のための証拠、目撃証言、正確な資料的典拠がないことは許されるべきではない。

 

検証されていない目撃証言に頼ること

 プレサックは、序文で述べた約束を早々と裏切って、全編で目撃証言を利用している。例えば、SS隊員のブロードとヘスの証言、囚人のタウバー、オレールの証言である。名前を挙げていない目撃者であることもあるが、この場合には、それ自体が目撃証言に満ちているチェクの『カレンダー』を頼りにしている。

 彼は大胆にも、SS隊員ブロードの証言を引き合いに出し、それに手を加えている(15)。1989年には、プレサックは彼の証言について、「問題がある」、文体と中身には「虚偽の響き」があると述べていた。さらに、今あるブロードの話は「幾分か大げさなポーランド愛国主義に彩られている」、オリジナル原稿はない、ポーランド人がブロードの供述を「作り直した」と述べていた(『技術と作動』128頁)(16)。

プレサックが、しばしば引用している(cf.『アウシュヴィッツの焼却棟』索引参照)SS隊員ヘスの証言は今日では完全に信憑性を失っている。1989年、プレサック自身が「彼の自伝の各所で」ヘスがおかしている「誤り」を「彼は見ることなくそこにいた」(『技術と作動』128頁)と説明している。「目撃者」とされている人物描写としては、驚くべき観察である。1993年には、プレサックは、長い注(102103頁)でこの目撃者を次のように扱っている。すなわち、ヘスの供述には、「まったくありえないこと」、「純粋なアナクロニズム」、「年代的誤り」、「普通、2倍か3倍とされた・・・死亡者数」がある。プレサックは、「ヘスは『最終解決』の中で本質的な役割を果たしたにもかかわらず、日付とか数に関しては信頼できる目撃者とはみなすことができない」と結論する。

ユダヤ人靴工タウバーについては(注203204)、1989年に、プレサックは、彼の数多くの「誤り」と「矛盾」をあげ、彼は殺人ガス処刑を目撃してはいないと結論した。タウバーは、「この当時の政治的風土」のもとで、かなりの誇張を行なっていたというのである。(『技術と作動』、483484489494頁)

オレールに話を向けよう。プレサックは、この人物の中国インク絵を「資料」と呼んでいる(資料30――誤って33とされている――、313235頁を参照)。しかし、1989年には、この目撃者は「焼却棟シンドローム」に苦しんでいたと判断していた(『技術と作動』、556頁)。彼の絵は、醜悪な空想話に過ぎない。1989年、プレサックは彼の絵のひとつについてこう書いている。「この絵が完全に想像の産物であるにせよ、この画家が目撃したものにもとづいているにせよ、殺人ガス処刑を表している唯一のものである」(『技術と作動』、258頁)。この絵の中で、チクロンBの丸薬は、「ガス室」の床に落ちている箱の周囲に散らばっている。プレサックの説は、丸薬は、外部から「チクロンBを投下するために網の目ダクト」を介して投入されたというものであり、オレールの絵はそれと矛盾している(資料31、オレールの絵)。

プレサックが典拠も名前も挙げていないその他の目撃者の供述については、彼は注の中で、いつもチェクの『カレンダー』を参照している。しかし、彼のことを信じるとしても、引用されている『カレンダー』、その著者、目撃者は、参照に値するものとしては、ほとんど価値を持っていないに違いない。彼は次のように書いている。

 

「チェクは、説明抜きで他の目撃者の供述を犠牲にして、特定の目撃者の供述を重視し、資料に対して、目撃者の供述に優先権を与えており、この点で反対者からの攻撃を受けることであろう。この異例な歴史学的傾向は、チェクの『カレンダー』の三版、最新版でも維持されている。それは、実際にはポーランドで出版されたのであるが、モスクワの中央文書館に保管されていた建設局の資料を利用しておらず、この基本的な著作――60年代の政治的見解に強く影響されている――の価値はかなり低くなっている(注107)」

 

 もしそうであるとするならば、プレサックは、疑問があるとみなされている著作に、なぜ、頻繁に頼ろうとするのであろうか。プレサックは、1989年の英語版の著作(『技術と作動』)の中では、ニーシュリ(『アウシュヴィッツの医師』というベストセラーの著者とされている)とミューラー(『アウシュヴィッツのガス室での3年間』の著者で、人種差別主義と反ユダヤ主義に反対する連盟賞の受賞者)の目撃証言をきわめてよく利用していた。しかし、驚くべきことに、1993年には、この二人について言及さえもしていない。プレサックは、これらの目撃証言の濫用に対する私の批判(cf. R.H.R. no. 3, pp. 126-130, "Drôlerie [involontaire] de Pressac à propos de M. Nyiszli" and p. 123)から何事かを学ぶことができたのであろう。

 プレサックは、ミューラーの名前はあえて挙げないで、彼の証言をこそこそと使っている。「焼却壕」のエピソードを思い出していただきたい。

 

「夏の終わり、チクロンBの供給が不足し始めたので、依然としてアウシュヴィッツに移送されていた移送集団のうち、労働不適格者は、焼却棟Ⅴとブンカー2の焼却壕に直接投げ込まれた。」(注29391頁)

 

 注293とは、: "Hermann Langbein, Der Auschwitz-Prozess, eine Dokumentation, Band I, Europa Verlag, Vienna, 1965, p. 88"を指している。この本を手にとって、当該頁(実際には8889頁)を見ると、生きたまま焼却壕に投げ込まれた犠牲者に関する証言はミューラーのものであることがわかる。もっとも、ミューラーは、壕の深さは2.50mであったというようなディーテールも付け加えているが、プレサックはこれを削除している(この深さは、湿地帯では不可能であり、酸素不足をいっそう招いてしまうであろう)。さらに「…彼らは、燃えている死体から流れ出している脂肪をすくいだして、焼却を速めるために、それを死体に注ぎかけていた」という箇所も削除している。

 

コードのなぞを解くこと

 多くの歴史家が、ドイツ人は自分たちのユダヤ人絶滅政策を「コード」を使って記述していたと主張してきた。そして、自分たちは、このコードを解く鍵を持っていると主張してきた。このために、彼らの仕事は、「コードの謎を解くこと」、すなわち、資料の中に、そこにあるはずであるコードを発見することであった。そして、自分たちは、多くの「謎を解いてきた」と主張してきた。1989年、プレサックは、「コード」あるいは秘密の言葉の「神話」を否定した(『技術と作動』、247556頁)。

 しかし、1993年には、プレサック自身が、かつては否定した馬鹿げたやり方を採用している。気ままに謎を解いているのは、今度はプレサックだったのである。彼によると、結局、ユダヤ人問題の「最終解決」は、ユダヤ人の絶滅を意味し(29頁)、「特別労務班」は、ガス処刑された犠牲者の死体を焼却壕に運んでいく仕事を与えられたユダヤ人グループを指しているというのである(43頁)。「特別措置」、「ユダヤ住民の移送」という表現は、「ビルケナウでの労働不適格ユダヤ人のガス処刑」という意味を隠していた(46頁)。「特別行動」、「措置された」も同じようにおそろしい意味を持っていた(6477頁)というのである。

 しかし、プレサックは疑いも抱いている。彼は、「特別行動」という表現は、民間労働者が自然発生的にストライキを起こした場合、アウシュヴィッツに干渉すること、警察を動員することを意味していたことを認めている(63頁)。また、「特別処置」は、ある種の衛生措置を意味していたに違いないとも認めている(82256頁)。

 プレサックは、「特別措置」については、自分自身の注を注意深く読むべきである。収容所の役人が「ビルケナウの囚人用の4つのバラック」を建設するために6万マルクを求めているとき、その目的は、テキストの字句どおりにバラックに囚人を収容することであり、新しい到着者をガス室に送ることではないと、彼自身が述べているからである。

 

SSの「へま」と「しくじり」

 プレサックは、「犯罪のへま」を次のように定義している。

 

「各種の資料(文書、設計図、写真)の中にある、人間の大量ガス処刑以外には説明できないような焼却棟の異常な使用法に関連したことを示唆していること」。(60頁)

 

 彼はときには、「へま」の代わりに「しくじり」という単語を使っている。

 実際には、このような定義では、次のようなことになる。プレサックが――彼だけが――、薬剤師である自分が異常とみなすようなことを、あるいは、薬剤師である自分が説明できないようなことを焼却棟(焼却炉?)の使用法の中に発見した場合、これはおそろらしい犯罪を示唆しているという結論になるというわけである。もっとも有能な科学者でさえも、自分の分野での未知の問題に困惑してしまうことがありうるし、知恵の始まりとは、自分が何も知らないときには何もしゃべらないことにあるということを考慮すると、わが薬剤師の無邪気さと思い込みには、驚愕してしまうであろう。プレサックは自分自身の経験を思い起こすべきである。1989年の著作では、彼は、丸1章全体を(第8章)を39の「へま」の記述にあてていた。しかし、今では、5つか6つだけの「へま」を主張している。このことは、4年前には、おそろしい犯罪を示唆していたとされるディーテールのうち、30ほどは説明することができるようになったということを意味しているはずである。1990年の書評" (R.H.R. no. 3, pp. 89-104)で、私はこれらの39の「へま」について検討し、それについては、この書評を参照していただきたい。ここでは、そのうちのいくつかを扱い、プレサックが発見したと称している、いくつかの新しい「へま」についてコメントしておこう。

 

死体滑降路の「消滅」(6465頁)

犠牲者は階段をを通って、「ガス室」の隣の「脱衣室」に歩いて入っていくために、死体滑降路は消滅したというが、実際には消滅していない。それが、19421219日の部分的な図面に載っていないとすれば、設計士が関心を抱いていたのが、通りにつながる階段だけだったのであり、滑降路を含めておく必要性がまったくなかったという単純な理由による。いずれにせよ、それは9ヵ月後の、1943924日の設計図には登場しているのである(『技術と作動』、327頁)。今日でさえも、この傾斜路(Rutsche)の名残を焼却棟Ⅲの廃墟に見ることができる。死体を運ぶ運搬車のために作られたのである。1989年には、プレサック自身がそのように述べ、廃墟の写真を示している(『技術と作動』、544545頁)。いわゆる「脱衣室」の狭い階段についていえば、大勢の集団が使用するには、まったく適切ではないであろう。

 

Vergasungskeller69頁)

 今日われわれが利用できる図面は、あまり詳しくないので、Vergasungskeller(ガス化室?)がどこにあったのか、その機能がどのようなものであったのか、誰も正確に述べることはできない。チクロンのケース、ガスマスク、フィルター検知器、チクロンの丸薬を並べるシート、箱を開ける道具など殺菌駆除資材が保管されていた地下室であったかもしれないし、その他の可能性もある (cf. R.H.R. no. 3, pp. 100-103)

 

ガス気密ドアと14個の偽シャワー(80頁)

私は、書評の中で、焼却棟にガス気密ドアとシャワーが存在するのはごく正常のことであると論じた(R.H.R. no. 3, pp. 95-99)。さらに指摘しておかなくてはならないのは、ドイツ側資料に登場しているのは、14個の(偽の)シャワーではなく、14個の本物のシャワーヘッドである。

 

「ガス室」の暖房(73頁)

私の書評(R.H.R. no. 3, pp. 104)を参照していただきたいが、暖房システムを設置するという提案は、それが作られた数日後に放棄されたことを付け加えておきたい。これについてはプレサックも述べている(77頁)。

 

チクロンBの挿入装置

私の書評(R.H.R. no. 3, pp. 99100)を参照していただきたい。繰り返しておくが、いわゆるガス室の屋根には、このような装置のための開口部はまったくなかった。さらに、イタリア人修正主義者マットーニョは、プレサックが誤訳をしているという事実を私に指摘してくれた。すなわち、"Drahtnetzeinschiebvorrichtung"は、「投入」ではなく「挿入」(einschieben)用の装置という意味であるというのである。このドイツ語の単語は、ある組み立て部品を挿入・設置するためにコンクリートの中に配列された鉄の網をさしているのかもしれない。

 

木製の送風機(7071頁、資料26

 通常の木製の送風機以外の特別な意味はまったくない。プレサックは、送風機が木製であったのは、金属製の送付機ではガス室からのガスで腐食してしまうからであったと説明している。彼は、その6頁後(77頁)、SSは「ガス室の排気用の木製の送風機を、金属製の送風機と取り替える」ことを決定したと述べている。この点に関して、プレサックが苦労して作り上げた説明は、SSはシュルツェが「腐食の危険性を過大評価した」と考えたことであったというものである。送風機に関する彼のコメントには、プレサックの特徴がよく出ている。すなわち、プレサックは自分で作り上げた、SSの粗雑さ、一貫性のなさ、無能力さで事態を説明しようとするのである。

 

「正常な」ガス室と「異常な」ガス室

 混乱した頁が、チクロンBの配給者であるテシュ・ウント・シュタベノフ社にあてた書簡の中で、普通の民間人従業員が行なってしまった「特別なへま」にあてられている。この「へま」は、書簡の中で、「正常なガス室」という用語が使われており、回答の中で、テシュ・ウント・シュタベノフ社は、同じ表現を使っているという事実にあるというのである。プレサックはここから、「異常な」すなわち、殺人ガス室が存在したに違いないと推論する。彼は、この書簡のテキストを掲載しておらず、かなり混乱した要約を行ない、そこから、「正常な」ガス室はチクロンBを使うものとして計画され、「異常な」ガス室は、チクロンBを使うために計画されたのであるが、19445月のチクロンBの不足のために、別の物質アレギナルを使っても稼動するように計画されたという結論を引き出しているのである。

 

10個のシアン化水素ガス検知器(7172頁)

 われわれは、シアン化水素ガス検知器を以て「へま」や「しくじり」、「犯罪の兆候」や「証拠の示唆」の領域から、ついに、「決定的証拠」に入っていく。

 これは何についてなのか。

 それは、「焼却棟Ⅱに殺人ガス室が存在したこと」(72頁)についてである。驚くべきことに、この建物を使ってドイツ人に対するもっとも深刻な告発がなされているのであるが、その根拠が通常の商業上の書簡にもとづいているのである。

 194332日、エルフルトのトップフ社は、焼却棟Ⅱ用の10個のシアン化水素検知器の発注に関する書簡をアウシュヴィッツ中央建設局に送った。ここには、奇妙なことは何もない。書簡は商業的なものであり、何も秘密のことを含んではいない。「ガス検知器/焼却棟」という単語がヘッダーである。この装置は、「シアン化水素痕跡検知器」と呼ばれていた。私のMémoire en défense [...] (La Vieille Taupe, 1980, p. 171)では、「ガス痕跡検知装置」と呼んだところのものである。これは、"Gasrestnachweisgerät"の翻訳である(17)。この装置は、ガス化(Vergasung)資材が保管されているところではどこにでも、チクロンBを使った殺菌駆除が行なわれているところではどこにでも、発見することができる。アウシュヴィッツではチフスが蔓延し、焼却棟にはチフスの犠牲者の死体が蓄積されていったことを考えれば、ここでの殺菌駆除活動が必要であり、このような紙の検知器を使うことが普通であったのである。1922年(18)から今日まで、チクロンは、居住空間、穀物サイロ、図書館、船舶その他を殺菌駆除するために使われてきたのである。

 プレサックが他の歴史から借りてきた多くのトリックの中に、無知と悪意が混じりあっているものを多く発見することができる。次に、この混じりものに彼が付け加えた、彼自身の偽りを検討しておこう。

 

4.プレサック自身の偽り>

 過去何度となく、私は、プレサックがトリックを使うことをさし控えようとはしていないと指摘してきた。前述したように、彼の英語版の著作に対する私の書評の付録のひとつは、「『アウシュヴィッツ・アルバム』でのプレサックのトリック」という題である (R.H.R. no. 3, pp. 149-152)。ここで、私は、二つの際立った偽造の事例を指摘した。最初の事例では、プレサックは、ビルケナウの地図に手を加えて、その道路を削除し、道路を行くユダヤ人の終点が焼却棟であるかのように見せかけようとした。第二の事例では、彼は、写真資料の分類、その配置、さまざまなセクションの表題を、かなり意図的に作り変えている。

 プレサックは、『アウシュヴィッツの焼却棟』では、この2点については過ちを認めているようである。48頁では、私が削除したと非難した道路が、地図上で、こっそりと復元されている。作り変えられた写真については、1983年の『アウシュヴィッツ・アルバム』では彼が最後のものと分類し、殺人ガス室が存在した決定的証拠とされていたものも含んで、それらの写真は消えている。

 

不適切な挿入

 プレサックが頻繁に多用する偽りは、そうでなければたわいもない文章に、文意を歪曲し、ドイツ人が犯した汚らわしいことを示唆するような単語を二、三挿入することである。

 前述したように、資料(80頁)が「14個のシャワー」(あるいはシャワーヘッド)としている箇所で、プレサックは、「14個の(偽)シャワー」と論じる。彼は、括弧でくくられた「偽」という単語をすべりこませることによって、引用している資料の意味を歪曲し、犠牲者をだますために偽のシャワーヘッドを備えた本物の殺人ガス室を前にしているかのようにほのめかしている。

 以下は、ヒムラーのビルケナウ訪問に関する3行の文章である。

 

「次に、彼は、ビルケナウのすべての区域を訪れた(資料19)。ついで、彼は、オランダ系ユダヤ人の移送集団の選別と、ブンカー2での労働不適格者のガス処刑に立ち会った。最後に、彼は、当時は大きな広場にすぎなかったモノヴィツのブナ[工場]に出かけた(注14244頁)」。

 

 注がつけられている最初の文は、本当の事実を語っている。やはり注がつけられている三番目の文も、本当の事実を語っている。しかし、この二つの文に挟まっている文は、フィクションを伝えている。ヒムラーが立ち会ったとされる選別とガス処刑の話は創作であるが、本当で、根拠のある二つの事実のあいだに挟まると、あたかも本当で、根拠のある事実であるかのように見える。

 

大きな嘘を小さな本当の事実と結びつけること

 大きなうそがはじめに登場し、その後で(注のある)小さな本当の事実が続いて登場することがある。以下の文章がそれである。

 

550850名の犠牲者が、焼却棟の2炉室炉で焼却された。それは12週間の過重作業であったので、第二の炉が損傷を受けてしまった。」(注10834頁)

 

 典拠資料――プレサックはそのテキストを掲載していない――にあたってみれば、この文章の中で本当のことは、ある炉がある日に損傷を受けたということだけであることに気がつくであろう。

 小さな本当の事実が大きな嘘の前に登場することもある。収容所の主任医師ヴィルツ博士に関する以下の文章がそれである。

 

「[害虫駆除手段が欠如していることについての報告の中で]、彼は、事態を改善する『特別措置』が即座にとられなければ、チフスが再流行してしまうと考えていると述べている。彼は、労働適格者もチフスに感染しているのだから、SSの医師を新しい到着者の選別に使うことは無益であり、彼ら全員を列車から降りたら、ガス室に送ってしまう方がよいと説明している。」(82頁)

 

 この文章の中の、「彼ら全員を列車から降りたら、ガス室に送ってしまう方がよい」という箇所は大きな嘘である。このような偽りの結果、プレサックは、収容所の衛生状態に配慮していた主任医師ヴィルツ博士を、アウシュヴィッツには殺人ガス室が存在したことを「知っている」人物として描いている。

 このように、真実と虚偽を結び合わせる方法を使えば、ヒトラーは、ベルグホフである日、第三帝国のユダヤ人の絶滅を決定し、それから、お茶を飲んだとも、お茶を飲む前に、彼はユダヤ人虐殺決定を下したとも簡単に書くことができるであろう。そして、脚注にある典拠には、調べてみると、お茶の会があったことだけしか書いていないのである。

 これら二つの形での偽りを発見することは簡単であるが、ヒムラー、ヘス、アウシュヴィッツのSSについての彼の発明にある偽りを発見することはそんなに簡単ではない。

 

図面や地図の修正

 プレサックが掲載している地図の多くは修正されている。48頁のビルケナウの地図もそうである。焼却棟の近くに、地図では「BIIf」と呼ばれている大きな長方形の地域がある。その左の部分は、運動場で、右の部分には病院がある。運動場と病院はユダヤ人、非ユダヤ人囚人用である。それらの存在はまったく正常である。運動場と焼却棟Ⅲの庭を隔てる線は、簡単な鉄条網の塀であり、選手や観戦者は、焼却棟のどの部分でも見ることができた。しかし、囚人等の運動場と病院の存在は、収容所が「絶滅」収容所であったとする絶滅論とは合致しない。SSは、囚人の集団が、極秘事項が行なわれており、その近くには毎日数千の犠牲者が集まっていたとされている焼却棟を直接見てしまうことをどうして許してしまったのであろうか。

 プレサックは、病院の存在を隠す代わりに、焼却棟を背景とした近くの運動場を消し去ってしまうという工夫をしている。48頁の地図では、彼は次のようにしている。病院も含む右の部分には、何も書かずに白紙にしておき、「運動場」と書かなくてはならない左の部分に、「BIIf:収容所病院」と記載したのである(19)。

 その他の図面、例えば90頁には、同じような偽りがある。「ガス室」というラベルが、ブロック体で書かれている。しかし、オリジナルの図面には、このような記載は何もないのである。

 

表題にさえも誤解を招くような言葉の使い方がある

 嘘の上に真実をかぶせる、あるいは、真実の上に嘘をかぶせるというプレサックの習慣は、彼の中に深く根付いているものであるので、自著の章の表題、表題や副題でもこの習慣を踏襲している。

 第6章の表題は、「モギリョーフ契約とアウシュヴィッツでの最初のガス処刑」(31頁)であるが、次の章の表題は、「ユダヤ人の大量殺戮の開始とチフスの蔓延」(41頁)である。後述するように、最初のケースでは、真実が嘘の前に登場し、二番目のケースでは、真実が嘘の後に登場している。最初のケースでは、焼却炉の建設に関する契約という事実が、アウシュヴィッツでの処刑ガス室という嘘のために利用されており、二番目のケースでは、アウシュヴィッツの処刑ガス室という嘘が、破滅的なチフスの蔓延という現実によって補強されている。プレサックは、読者の頭の中にある焼却炉と「ガス室」の混同、チフスの犠牲者の死体と「ガス処刑された犠牲者」の死体との混同を意図的に利用している。

彼の著作の表題と副題はこの種の偽りの代表である。『アウシュヴィッツの焼却棟。大量殺戮装置』の中で、表題は真実で、副題は虚偽である。プレサックのやり方は簡単である。「強制収容所」と「殺戮」とは広く結びついて広まっているが、プレサックはこれを利用しているのである。

 

「冷たい部屋」のかわりに「ガス室」(殺人ガス室)を使うこと

 プレサックがもっともよく使っているごまかしは、機会があればいつでも、「冷たい部屋」のかわりに、「ガス室」という表現を使うことである。たとえば、彼は次のように書いている。

 

「[1943年]310日、シュルツェとメッシングは、16時間にわたって、焼却棟Ⅱのガス室の吸気・排気システムを点検した。メッシングは、11日にさらに11時間、13日にさらに15時間そこで仕事をしているから、何らかの問題があったのであろう。」(注 22773頁)

 

 プレサックは、注227のテキストを提示していない。この資料が明らかにしていることは、二人の男が仕事をしたのは殺人ガス室ではなくて、プレサックが殺人ガス室と命名すると決めた冷たい部屋であったことである。さらに彼は、「チクロンBの投入の予備実験があった」とも付け加えている。彼はこの重大な主張の典拠をあげていない。注227のようなものであれば、この主張がまったくの創作であることがわかってしまうからであろう。

 

「殺菌駆除室」のかわりに「ガス室」(殺人ガス室)を使うこと

 この種のごまかしは、殺菌駆除ガス室についての資料を扱う際にも行なわれており、これが殺人ガス室を意味していることを読者に信じさせようとしている。彼は、監督官について、次のように書いている。

 

「彼は、毎日の業務報告に『ガス気密ドアを設置』と記している。32日、彼は、ガス気密ドアが設置された場所にコンクリートの床を敷いたのちに、『ガス室にコンクリートの床を敷く』と記している。」(注23376頁)

 

 プレサックの場合、多くがそうであるのだが、脚注はあっても、典拠テキストがない。例えば、専門家だけが、アウシュヴィッツの錠前屋(Schlosserei)の記録簿を見て、ここで扱われているのが殺菌駆除ガス室にすぎないことを知ることができる。ヘス裁判の調査判事であったポーランド人のヤン・ゼーンがこの記録簿からの抜粋を編集している。ゼーンは、まったく偶然に、1943529日の資料459をコピーすることによって、アウシュヴィッツのドイツ人がこの種のガス室を"Entwesungskammer"(害虫駆除室)とか、もっと単純に、"Gaskammer"と読んでいたことをわれわれに示している。

 問題の資料は次のように述べている。

 

Entwesungskammer K.L. Auschwitz [...]. 1. Die Beschläge zu 1 Tür mit Rahmen, luftdicht mit Spion für Gaskammer(アウシュヴィッツ強制収容所用の害虫駆除室、…ガス室用の、枠とのぞき穴を持った1個のガス気密ドアの装備品)」

 

 プレサックは、1989年にはかなり正直に、"GASKAMMER" (ガス室)という記載を発見したのは、ビルケナウの殺菌駆除バラックの"WASCH- und BRAUSEBAD" (洗濯室とシャワー室)という言葉の上であったことを書いており、「シャワーとガス室との結びつきは囚人たちに『シャワーとはガス室である』と考えさせたに違いない」と付け加えている(『技術と作動』、549頁)。

 しかし、プレサックは、1993年の著作では、読者の中の混乱を拭い去ろうとするどころか、ドイツ人が「ガス室」という表現を使った場合、それは殺人ガス室を意味するということを読者に信じ込ませようとするように――直接そういっているわけではないが――欺こうとしている。

 

本質的な事実とは関係のない資料

 プレサックは、いわゆる「焼却壕」(物理的に不可能、とくにビルケナウの湿地では不可能)について次のように書いている。

 

「[焼却棟]Ⅴの炉はまたたくまにあふれてしまい、戸外で犠牲者を焼却するために、ガス室の近くに小さな壕が掘られた。」(資料57)(90頁)

 

 資料57は、この文章をまったく立証していないし、この文章に関する何事かも描いていない。これは、半世紀にわたって、ユダヤ人の絶滅に関する著作や論文で流通してきた写真である。この写真は、焼却壕ではなく殺人ガス室の存在を立証していると信じられている。この写真がいつどこで撮影されたのか、どこから出てきたのかを確定することはできない。ここには、地上に散乱した裸の死体の山のようなものの真中に民間人が写っている。遠くには、明るい煙が立ち昇っているが、それは死体の山からではなく、芝からのようである(この写真が本物だとしても、悪臭を減らすため、あるいは害虫を駆除するための火からの煙であろう)。いずれにしても、ここには壕は存在しない。

 

フィクションの典拠資料の使用

 プレサックの別のごまかしのひとつは、自分が思いついたことに、真実と検証・決定されたことというお墨付きを与えることである。彼は、「私は考えを変え、このように考えている」と記す代わりに、「今では、次のように考えられている」と書く。

 1989年には、彼は、アウシュヴィッツでの最初の殺人ガス処刑は、194193日に行なわれたと断言していた(『技術と作動』、132頁)

 4年後、本書では、彼は次のように書いている。

 

「今日、毒ガスを使った最初の殺戮は、[1941年][12月]5日と12月末のあいだに起こったと考えられている。」(34頁)

 

 彼は古い日付を正当化しなかったのと同様に、新しい日付も正当化していない。彼は、自分にとって苦痛となる個人的な見解の変更を、不特定の人物――実際していない――に押し付けている。そうすることで、彼は、なぜ自分の見解が変化したのか、なぜ、あいまいになったのかを説明する義務から逃げている。マットーニョは、1992年に、「アウシュヴィッツの焼却棟」という未発表の論文の中で、これらの最初のガス処刑は起こり得なかったこと、とくに、194193日には起こりえなかったことをプレサックに説明したと述べているが、私は、マットーニョを信じようとしている。(cf. Carlo Mattogno, Auschwitz: la prima gasazione, Padua, Edizioni di Ar, 1992, 190 pp.)

 プレサックは、同じような言い逃れを使って、次のように記している。

 

「今日では、毒ガスを使った比較的少数の殺人だけが焼却棟[Ⅰ]で起こったと見積もられているが、殺人が直接間接の目撃者に与えた深い印象のために、もっと多くの数が報告されている。」(34頁)

 

 多くの人々をさすような「と見積もられている」という文の背後には、唯一の観察者である「私は見積もっている」という文が隠されている。

 1989年には、プレサックは、焼却棟Ⅰでの殺人ガス処刑の数を10000としていた(『技術と作動』、132頁)。今日では、彼は、もっと正確になるのではなく、「ごく少数」のガス処刑があったと見積もっている。ここでも、説明なしに見解を変えており、ここでも、あいまいさの中に身を隠している。

 ここで立ち止まって、嘘の説明、正当化の理由を聞こう。直接の目撃者(誰?)や間接の目撃者(何のことを意味しているのか)が強い印象を受けたので、「もっと多いガス処刑の数を報告した」というのである。

 この「ごく少数のガス処刑」という表現は、マイダネク博物館副館長のしらばくれと似ている。彼女は、収容所のガス室に関してプレサックにインタビューされたとき、「ガス室が使われたのは少なかった、実際、非常に少なかった」と回答したのである。これは、「まったく使われなかった」ということを意味するとプレサックは喜んで話している。 (Jean-Claude Pressac, "Les carences et incohérences du 'Rapport Leuchter'", La Lettre télégraphique juive, 12 December 1988, p. IX).

 

意図的に培われたもつれた思考

 プレサックは、その本性から混乱している。しかし、自分自身の混乱を使用して、読者をミスリードし、さまざまな支離滅裂さの中で混乱させ、騙す方法を知っている。彼は自分の目的にかなっているので、ドンキーゲームを行なっているドンキーのように、混乱を積み重ねる。「最初の明確な犯罪のへま」に割かれた多くの頁は、重要な事件を扱っているがゆえに、とくに明晰でなくてはならない(6061頁)。だが、そうなってはいない。それらは、抜け出すことができないほど意図的にもつれ合わされているようである。「これらの公式の数字は虚偽の宣伝であるが、にもかかわらず貴重である」(80頁)というような文章がいたるところに登場するが、それは、プレサックの責任を回避し、あいまいさの中に彼が身を隠すためである。

 47頁の冒頭は、この種の意図的な混乱の事例である。ここで、プレサックは、自分たちがチフスを抑制できないことをベルリンに隠すために、アウシュヴィッツのSSが行なった「狡猾な方法」を描いている。すなわち、アウシュヴィッツのSSは、殺菌駆除のために消費される「おそらしいほどのガスの量」を、ユダヤ人絶滅活動のために必要であるものと説明したというのである。プレサックによると、SSはガスの9798%をシラミの駆除に、23%をユダヤ人のガス処刑にあてていた(プレサックはこの数字の典拠を挙げていない)ので、「搬送されたチクロンBの大半はブンカー12での殺人ガス処刑に使われたとベルリンに信じさせようと」決定した。しかし、ベルリンでは、SS当局は、ユダヤ人の「処理方法」については知らず、「処置の結果」だけを知っていたというのである。何と、混乱した記述であろうか。

 残りの記述も明確でもなく、支離滅裂である。このようなバイキング料理は、明確で批判に耐える議論をわれわれに提供することなしに、ガス室神話でわれわれをもてなすという利点を持っている。

 

綱渡り芸人と薄っぺらな芸人

 彼の偽りをごまかすのに役立っているもう一つの混乱は、ある現象を説明するために彼が考え出した馬鹿げた現象をSSの愚かさのせいにすることである。例えば、プレサックは、焼却棟ⅣとⅤでのガス処刑の手順を記述するにあたって、建物の配置のために、話を作らなくてはならなかった。すなわち、SS隊員は、一つの建物からもう一つの建物に梯子を持ちながら移り、それを、ガス室のさまざまなチクロンBのハッチの近くに立てかけて、片手でハッチを開け、もう一つの手でチクロンBの丸薬を投入した。SS隊員は、このスタントマン的な仕事を6回行なったという。1989年、彼は『技術と作動』(386頁)の中で、SS隊員は、各地点で3回梯子を上ったと述べている。すなわち、SS隊員は梯子を18回登り、18回降り、結局、36回昇り降りした。プレサックは、この手順を「非合理的」、「馬鹿げている」、「サーカスのようなもの」と呼んでいるが、「収容所当局は、ちょっとした運動がガス処刑に責任をおった衛生管理の兵士にはよい世界を与えたであろう」と述べている。彼は、『アウシュヴィッツの焼却棟』では、「[SS隊員の]仕事は綱渡り芸人の仕事に似ていた」(76頁)と述べている。しかし、綱渡り芸人は、薄っぺらな芸人に過ぎないのである。

 

過重な詐欺行為:人間ガス処刑の二つの記述

 殺人ガス処刑の記述は、プレサックの著作の核心となるはずである。しかし、この部分は、かなり片隅に追いやられてしまっている。34頁が、ブロック11での殺人ガス処刑と焼却棟Ⅰでの殺人ガス処刑にあてられ、74頁が焼却棟Ⅱでの殺人ガス処刑にあてられている。これだけである。

 ごまかしの数を決定するには、二つの事例がおきていることを数えればよい。一つのケースでは、証拠や典拠の名前、典拠を参照している研究書の名前を伴っていない重大な主張。別のケースでは、証拠や典拠の名前、典拠を参照している研究書の名前によって支えられているはずと思われる主張。後者のケースでは、読者は、プレサックがいつもごまかしてきたことを検証できる。彼は、匿名の目撃者、あるいは、慎重に対処しなくてはならないことを彼自身も認めている目撃者、名前が隠されている目撃者(この場合、彼は『カレンダー』を頼っている)、『小さな真実』が『大きな嘘』とはまったく関係のない資料を使っている。最初のケースは、注106109に、別のケースは注228230に、資料のケースでは、資料[ママ]3035にある。

 例として資料と注を取り上げてみよう。

 「資料」30はチクロンBの箱の写真にすぎない。注228をみると、それは、"Kalendarium ..., op. cit., p. 440"と述べているにすぎない。しかし、苦労して、著作の当該頁にあたったとしても、プレサックが、1492名のガス処刑の犠牲者(クラクフからのユダヤ人)というフィクションを借用したのがこの『カレンダー』――彼は注107で完全に批判している――からであったことを知る。『カレンダー』の作者であるチェクは、この話を当てにならないタウバーから借用した。チェクによると、タウバーは、ドイツ人は自分が属している特別労務班を焼却棟Ⅱの解剖室に閉じ込めていたので、ガス処刑のあいだは何も目撃したことはないことを認めているのにである。

 

ごまかしの鉄砲水

 焼却棟Ⅱでの1492名のガス処刑の話をしばらく検討しておこう。

 注目すべきことに、私があげた多くのごまかしの中で、プレサックは、自分を当惑させるようなすべての物質的環境を無視している。SSは、そもそも屋根には開口部が存在しなかったのだから――今日でさえも確認できる事実――、この開口部からチクロンBを投入することはできなかった。

 さらに、プレサックは、私が1980年に公表した資料(とくに、チクロンBとその使用方法についてのニュルンベルク資料NI-9098NI-991220)を読んだことがあるから、特別労務班員が「15分か20分後に」ガス室に入ることはできないこと、210㎡(30×7m)のスペース(21)で働きながら、「二日間で」(74頁)、犠牲者の髪を切ること、金歯を引き出すこと、指輪や宝石を引き抜くこと、1492の死体を小さなエレベーターのところまで連れて行って、死体を焼却することといった膨大な仕事を果たすことはできないことを十分に知っている。彼は、チクロンBの主要組成物であるシアン化水素は表面に固着すること、それを無害にするのは難しく、時間がかかること(地上にある窓付きの部屋で、排気にほぼ1日かかる)、シアン化水素は髪の毛、皮膚、粘膜に吸収され、死体に浸透するので、シアン化水素で毒殺された死体を扱うことは危険であること(ちょっとした接触で毒におかされる)を知っている。特別労務班は、シアン化水素のガスの雲の中に入って、1492体のシアンにおかされた死体を取り除くことはできなかったに違いない。たとえ、特別なフィルター(フィルターJ)のついたガスマスクをつけていても、物理的な努力はあまり効果がなかったであろう。プレサックは、換気扇の能力を自分が望む限りの最大としているが、そのような換気システムであっても、床、天井、かべ、ドアに固着した毒の分子を数分間で追い出し、片隅や死体の山の間の死体を無毒にすることはできなかったであろう。シアン化水素ガスを使ってたった一人の人間を処刑するアメリカの処刑ガス室の方法を参照していただきたい(S. Thion, Vérité historique ou vérité politique?, La Vieille Taupe, Paris, 1980, pp. 301-309)

 15の炉室(石炭燃料、おそらく24時間のうち12時間作動可能)を使って2日間で1492体を焼却することに関して、プレサックは、1炉室につき1日約50の焼却を行なわなくてはならないので、これが不可能であることを知っている(今日のフランスの焼却炉はガス燃料であり、かなり効率的であるが、それでも、8時間で35体を焼却できるだけである)。

 また、1492体を焼却する前にどこにおいておくのであろうか。この質問はプレサックに何回もされたはずであるが、いまだにまったく答えがない。

 さらに、答えなくてはならない問題がある。

 プレサックによれば、ビルケナウの4つの焼却棟は屠殺場に変えられたという。たとえば、焼却棟ⅡとⅢでは、通常の死因で死亡した死者の死体を受け入れ、保管するための二つの部屋が、一つは、ユダヤ人が服を脱ぐ部屋(死体安置室2)に、もうひとつは、同じユダヤ人がガス処刑されるガス室(死体安置室1)に改造されたという。だとすれば、おもに疫病――焼却棟が計画建設されたそもそもの理由――によって、毎日平均100名ほど死亡した死者の死体を、ドイツ人はいったいどこで受け入れ、どこの保管したのであろうか(22)(焼却棟ⅡとⅢに適用できる議論は、焼却棟ⅣとⅤにも適用できる)。(23

問題は以下のとおりである。

もしも、焼却棟と呼ばれている建物が、ユダヤ人を受け入れ、処刑し、焼却する屠殺場に他ならないとすれば、通常の死因で死亡した、とくに、収容所で蔓延していた疫病の犠牲者の死体は、ビルケナウのどこで、受け入れられ、保管され、焼却されたのであろうか。

言い換えれば、ビルケナウの本当の焼却棟はどこにあったのであろうか。

 プレサックは、事実に身をゆだねること、空想や偽造を拒否することを抑えようとはしていない。歴史家であるならば、あらゆる歴史家がそのようにしなくてはならないのだが。それどころか、プレサックには、フィクション、とくに小説のフィクションに身をゆだねることのほうが心が休まるようである。

 

5.小説家的な余談>

 歴史学的な性格を持つ文章を検証するとき、普通、その文体について大いに悩むことはない。自分自身をうまく表現しえない歴史家は、その華麗な文体で有名な歴史家よりも評価されることがありうる。しかし、プレサックはそうではない。彼の記述スタイル、用語法、言い回しは、だらしのなさ、粗雑さ、体裁の悪さで比類がない。そうではないと考える人は、以下のような抜粋の中にある言葉の貧困、陳腐な表現、不器用な表現、ウィットのない表現の羅列に遭遇できるような、一冊の歴史書――一冊の小説でもよいから――を私に提示すべきである。プレサックの文体は、とくに、自分の文体を格調のあるもの、華麗なもの、多彩なものにしようとするときに、ぎごちなく、平板なものとなる。

 以下が、「厳格な歴史」(1頁)からの多くのサンプルであり、それについて、私はコメントしない。私が読者に言っておきたいのは、「『厳格な歴史』の発見者と称するプレサックは、自分がここで語っていることの証拠をいったいどこで発見したのか」という疑問を念頭に置きながら、プレサックの著作を読んでいただきたいということである。

 

[以下は、プレサックの原文(仏文)の英訳である。――歴史的修正主義研究会]

 

The conversation turned sour and the SS-man hung up (p. 24).

Naumann was obviously not a "normal" SS-man, because a real SS-man would never apologize, whatever his conduct might have been (ibid.).

That request made the engineer very happy [...] His colleague Shultze, however, was anything but happy (ibid.).

Good news usually comes in pairs (p. 25).

Naumann [...] humbly demanded [...] (ibid.).

At this point Prüfer made a bad mistake, trying to push his luck. Naumann's refusal was firmly blocked. He intrigued so cleverly [...] (ibid.).

[...] a certain SS adjutant Heider [...] (ibid.).

Now a secret battle was begun [...] to sabotage this imposed business deal.

[...] thanks to a clever administrative blockage [...] and the unanticipated assistance of a fire possibly caused by an Allied bombing [...] (ibid.).

[...] he was answered dryly [...] (ibid.).

[...] without good relations with Party bigshots [...] The personnel of the firm sympathised with Ludwig because he was quite affable, as opposed to his aggressive, pretentious, strict and married younger brother (p. 30).

Of course, this was a pure lie [...] (ibid.).

But that he still owed them anything became a servitude and a mortal snare to Ludwig as the events to follow would show [end of chapter] (ibid.).

Prüfer did not say any more in the — probably only — personal letter he wrote to Bischoff. In effect, an incredible burden had been placed on Prüfer which left him panting for commercial relief (p. 31).

But Prüfer fell into his troublesome error again, in continuing [...] raged in vain, thinking it useless to put the blame on Kammler [...] (p. 37).

The SS members of the political section feared for their precious lives [...] (p. 40).

Himmler had unloaded an abominable criminal task on Höss, who, hardened jailer though he was, did not appreciate the doubtful "honour" bestowed upon him (p. 45).

[...] the inane passion of the Reichsführer for his prima donnas, his Waffen-SS divisions (ibid.).

[...] unexpected windfall [...] that the Jews' undressing in the open was disorderly [...] (ibid.).

They found a sneaky way out: make it seem the Jews were to blame for the frightful quantities of gas consumed (p. 47).

[On inmates who died of typhus] civilians and SS members accompanied them to the beyond [...] (p. 50).

[...] while chatting with SS members he found out something he was not sensed [sic, means "supposed"] to know [...] (p. 52).

Actually, Prüfer had bad luck, because Ertl was severely scolded by Bischoff [...] (p. 53).

[...] whatever was not too extravagant [...] (ibid.).

The project was crazy [...], but none of these brilliant Topf engineers recognized that they had just crossed the boundary between the normal and the abnormal, which left them swaying in criminal complicity (p. 55).

The three SS-men were back in Auschwitz for lunch. We do not know if they were able to swallow it (p. 58).

[...] hell opened its reddened maw day and night in the middle of the birch forest (ibid.).

[SS general Pohl showed up suddenly] at Auschwitz to learn what was happening there and where the consignments of tons of Zyklon B were disappearing. [...] When he asked about the Zyklon B, he was told that they used it to destroy lice and Jews at the same time. Pohl, impressionable and sympathetic, asked nothing more. [...] As soon as he returned to Berlin, he informed Ernst Grawitz, the SS chief of medicine, a pretentious and aggressive fool, who debarked the 25th at Auschwitz, where his idiotic advice [etc.] (p. 59). Holick and Koch's return to Erfurt certainly provoked a disturbance in the firm. Belonging to Prüfer's department, they made their report to him and mentioned the blaze at Birkenwald. If the engineer knew what was going on from hear-say, he never saw the result. Embarrassed by their story, he must have counselled them to be quiet and to stay at home to enjoy the Noel season. Holick, who had already made acquaintance with the world of the concentration camps at Buchenwald, which he perceived to be hard and implacable, could not imagine that Hitler's diatribes against the Jews could take the form of the horrors which he had witnessed with Koch. A letter of Topf from the beginning of March 1943 hints that the two men talked. Possibly in the factory, after having been questioned by the Topf brothers on their stay at Auschwitz, or at home with family members or friends, who quickly "confided" their statements to the officers of the firm. As soon as the story leaked out, Prüfer was duly summoned by the Topfs and ordered to explain himself. That interview would occur at the beginning of January 1943. It was easy for Prüfer to inquire politely of Ludwig Topf if he had had as good a Noel season as the one the year before with the charming Mademoiselle Ursula Albrecht, to add that the young woman was relieved and happy that the Director was no longer a soldier, then to convince Ernst-Wolfgang Topf, who had approved the first sales sent to Auschwitz and proudly signed the contracts for the sale of ten triple-chamber ovens for crematories II and III, that if the "crematory construction" division had not landed these sales, the competition, Heinrich Kori or the Didier-Werke of Berlin would have gotten them. In addition, the Topf ovens had not been part of the Birkenwald atrocities and only had a health purpose, the destruction of pathogenic germs by fire. If Ernst-Wolfgang Topf accepted Prüfer's biased explanations, Ludwig Topf, neutralized, did not object to them, since, having signed off on the specification for the ventilation of crematory III since his return from the army, he condemned himself by signing nine months later that for the exhaust system of crematoria IV and V, which were criminal pure and simple (p. 65). [Prüfer] confirmed with a pretended sadness that the guarantee of the oven of crematory IV had expired [...] (p. 79). Topf opposed the detachment of vaults furiously [...] (p. 81).

[...] he denied it vehemently (p. 82).

[During a visit by Himmler] The convoy of cars crossed the bridge crossing over the railway lines, stopped at a goods dock to look at the new potato warehouse which adjoined the ramp where the Jews were sorted (document 49), and departed at high speed towards Birkenau. The passage on Birkenau in the report stated, "The 1st and 2nd stages of construction of the KGL as well as the crematories and the troop quarters were inspected in detail. The interior of the inmate quarters in the 2nd stage of construction, which were nearly ready for occupancy, were particularly praised." The SS passed by the water treatment station (document 50), the two potato warehouses in the KGL yard, and then dashed toward Harmense where there were duck and poultry farms and a fish hatchery near the new dike on the Vistula. A slight car collision did not moderate the crazy speed of the inspection, which ended at the recent camp of the female inmates of Budy, with its piggeries (document 51), its stables and its forestry school. At a high speed, they covered the "Reichsstrasse" leading to Raisko, where they explored the SS Institute of Hygiene and the SS Establishment for Agricultural Research with its out-buildings from top to bottom (document 52). They toured the vegetable greenhouses almost at a run [...] (p. 85).

[...] which provoked an outcry of disappointment, barely hiding the general shameful relief (p. 86).

They had a lavish feast (ibid.).

[Title of chapter XI:] Horror, shabby business and final debacle (p. 87).

[IG Farben] begged a thousand tons [of cement] [...] (p. 91).

The "chief" [Pohl] was generous, too generous [...] knew that he'd promised the wind [...] (ibid.).

[...] the gypsy children, stricken with "noma", with necrotic cheeks and feverish eyes, smiling through the fetid gangrene, shook Pohl deeply. Having in front of him the radiant gaze of these small tattered creatures, unmoving in front of the doors of the black barrack-stables, and having behind him to the left in the azure sky, two squat chimneys spitting flames, and on his right a whitish cloud rising from the Birkenwald, Pohl must have understood that his administration had transgressed the ethical norms and would be marked by it for a long time. He remembered Monday, the 22nd May 1933, the day when he had encountered Himmler in the gardens of the casino of Kiel, and he cursed that day. But worse was yet to come. (ibid.).

 

 プレサックは、青年時代、アウシュヴィッツの3人の所長の一人ヘスの話から発想を手に入れたロベール・メルレの小説 (La Mort est mon métier (死は私の仕事), 1952)に強い印象を受けた (『技術と作動』、539)。彼は、いつの日か自分も小説を書くことを夢見ており、そこでは、「1945年か1946年にドイツが勝利したときの世界を描けたら」(『技術と作動』、541頁)、すなわち、アウシュヴィッツでのユダヤ人の絶滅を記憶に呼び起こすことができる世界を描けたらと考えていた。『アウシュヴィッツの焼却棟、大量殺戮装置』は、ある程度、彼が夢見ていた小説である(24)。

 

<結論>

 プレサックは、自分は絶滅論者の説と修正主義者の説の中間の道を発見したと主張している。前述したように、彼の説は実際に異種混合で、奇怪である。すなわち、下級の技術者、民間の技師、軍人技師が、死体を保管する普通の冷たい部屋をこっそりと殺人ガス室に改造したというのである。しかし、プレサックは、その技術、作動方法については、科学的用語を使って描くことができない。

 プレサックのやり方は、物質的実態を無視するところにある。今日でもアウシュヴィッツとビルケナウに見ることができる建物と部屋――そして、プレサックはこの部屋を「殺人ガス室」と命名している――、チクロンBを使用する危険性、ガスを排出するときの難点、焼却を待っているガス処刑された死体の保管場所の欠如、通常の死因で死亡した死体の受け入れ場所、保管場所、焼却場所の不在(この目的のための焼却棟は、ユダヤ人を受け入れ、ガス処刑し、焼却する化学的屠殺場に改造されたというのだから)、焼却棟がそのように大量の死体を処理する能力を持っていないこと、こうした現実を無視している。彼の方法はまた、とくに、資料、典拠、注を扱うにあたって、偽ったり、トリックを使ったりしている。

 その結果、彼の著作は哀れなものとなった。彼の著作から引き出すことのできる唯一のことは、アウシュヴィッツとビルケナウでガス処刑されたユダヤ人の数を63万とし、(19401945年の)犠牲者総数を775000、あるいは80万とすべきであることである。この数字には、根拠がないので、それすら科学的な価値がない。数字を低くしなくてはならないという不断の必要性があることだけを明らかにしている。近い将来、同じように、さらにこの数字が低くなっていくことには疑いがない(25)。

 モスクワの文書館で参照しえた8万の資料の中で、プレサックが使っているのはたった一つである。ガス検知器に関する取るに足りない取引上の書簡である。私は、プレサックが、修正主義者の説を補強してしまうような資料を押さえているのではないかと疑っている。とくに疑っているのは、プレサックは、自分が「殺人ガス室」と命名している焼却棟ⅡとⅢの冷たい部屋(死体安置室)の詳細な図面、および焼却棟ⅣとⅤの部屋の詳細な図面を発見しているのではないかということである。ドイツ人は、簡単な素描図面では満足しなかったはずだからである。私が1986年に個人的に発見したザクセンハウゼンの死体安置室のきわめて詳細な図面は、このことを明らかにしている(cf. R.H.R. no. 3, pp. 106-107)。

 アウシュヴィッツで、ドイツ人は、巨大な犯罪を犯したといわれてきた。このような悪行を行なうにあたって、ドイツ人が使用したとされる凶器の専門的な研究は不可欠である。今日では、数千年前の廃墟についての専門的な研究が存在する。わずか半世紀前の建物と廃墟についての専門的な研究がありえないはずはない。もし、焼却棟Ⅰが「部分的に再建された」というのであれば、どの部分がオリジナルであり、どの部分が再建されたものであることを決定する専門的な研究を妨げる必要はないはずである(26)。焼却棟Ⅱの「ガス室」と称されるものについても、崩壊した屋根の下に、それは完全に現存しており、専門家には思いがけない贈り物である。戦後行なわれたように(Criminological Institute of Cracow, 12 July 1945, report signed by J. Robel)、毛髪、金属物、漆喰への専門的な研究をする代わりに、これらの物品の専門的な研究がなぜ行なわれないのであろうか。

 『アウシュヴィッツの焼却棟』の出版によって、CNRSの経営陣は、窮地に追い込まれた。本の序文は、「いつも根拠が薄弱で、年月とともに正確さを失っていく口頭証言や文書証言からついに解放された歴史的再現」を呼びかけていた。こうした要請は時代の要請であった。もしも、これらの役人が、1988年以来、修正主義者の説を確証してきた専門家や独立研究所のすべての専門的報告を否定しなくてはならないと考えるならば、もしも、彼らにはアウシュヴィッツ博物館の要請で1990年に実施されたクラクフ法医学研究所の専門的報告の結果を秘密にしておかなくてはならない理由があるとすれば、残された解決方法は、自分たちで専門的報告を作成するか、専門家の国際委員会にその仕事をゆだねることであろう。

 人類史最大の犯罪といわれている事件は、公式の研究を求めて悲鳴を上げている。ニュルンベルクの判事は、その仕事を引き受けようとはしなかったし、その後の多くの判事、とくにアウシュヴィッツの看守裁判(19631220日―1965820日)の判事もそうであった。ドイツ人判事は、アウシュヴィッツを2回訪問したが、いわゆる凶器を検証しようともしなかった。修正主義者のラッシニエが裁判の膨張を禁止されたのと同じ理由で、この関心の欠如にも理由がある。

 たしかに、このような研究は、アウシュヴィッツという名前の回りに存在する伝説を危険にさらしてしまうであろうが、疑いもなく、科学、歴史、正義はそこから恩恵を受けることであろう。

 あちこちで、修正主義者はその道を示してきた。行なわなくてはならないことは、彼らを真似て、真剣に研究に着手することである。

199312

 

 

 

<付録:資料NI-9912

 

資料 NI-9912:これは、殺人のためにチクロンBを使用したことについてのいわゆる「目撃証言」を例外なく粉砕する(27)。

 読者は、資料NI-9912がシアン化水素痕跡検知装置の使用方法を6箇所で言及していることを知るであろう(cf. the terms "Gasrestnachweisgerät" or "Gasrestnachweis")28)。この装置がなければ、チクロンBを使った殺菌駆除は不可能であったろう。だから、プレサックが、殺菌駆除ガス使用に広く使われていた10個の器具を注文する純粋に商業上の書簡の中に、この用語が登場していることを、殺人ガス室が実在した決定的証拠としていることは理解できない。1943年初頭、アウシュヴィッツ中央建設局は、通常の供給者からこれらの器具を手に入れることに難儀していた。当時、どのような製品であれ、配給してもらうことはますます困難になっていた。だから、建設局が、トップフ社に目を向けたことは少しも不思議ではない。平時でものが豊かなときでさえ、製造元から手に入れられない場合、サード・パーティに注文することがある。戦争中で配給制の時代にはなおさらである。さらに、プレサックも自著で、サード・パーティに発注された別の注文に触れている(57頁には、瀝青の注文がある、70頁には、中央建設局は、エレベータをトップフ社に注文している)。

 資料NI-9912はニュルンベルク裁判文書からのものである。アメリカ人が1947821日に、参照コードNI(ニュルンベルク産業人、Nuremberg Industrialists)をつけて登録した。それは、デゲシュ社(29)からのものであり、「虐殺」(ママ)と呼ばれるものも含む、4つのカタログにリストされている。

 オリジナルは、壁に貼ることができるように4つの大きな頁である。それは、多くのコピーをとって配布される回覧のようなものである。この場合には、プラハの衛生局が戦時中に配布した。その内容は、民間施設であれ、軍事施設であれ、建物の中で害虫を絶滅するためにチクロン(シアン化水素)を使うにあたっての指示である。この資料によって、実物実験によって得られる結果を知ることができる。それが、疑いもなく、もっとも扱いが難しい凶器であるということを。その殺戮は完全であるので、それを扱う人にもやすやすと致命的となりえたのである。

 シアン化水素で自殺することが簡単であるので、近くの隣人を殺すには、かならず大きな危険がともなったのである。

 この資料は、爆発の危険性と毒性も含むチクロンBの特質を描いている。特別な訓練コースを終了したのちに与えられる資格を持つ人物だけが、この製品を扱うことができた。ガス作業の計画・準備には、数日ではないとしても、何時間の測定と労働が必要であった。その後、作業が行なわれる。多くの詳しい記述を見ると、チクロンBの丸薬は単純に山積みされたり、不注意に投げられたりしたのではないことが判る。もっとも効果を発揮するには、紙のシートの上に薄い層状に広げられなくてはならず、そのうちのひとつでも隅にもぐりこんでしまったりさせてはならないし、すべてが適切な時間に集められなくてはならなかった。害虫を殺すには832時間(平均21時間)かかる。そして、もっとも重要な一節が来る。排気についてである。テキストは、「排気は関係者にも非関係者にも非常に危険である。それゆえ、注意深く行なわなくてはならないし、ガスマスクをいつも付けているべきである」と述べている。排気は「少なくとも20時間」続けられるべきである。建物は、作業時間全体およびその後も、厳重に監視されるべきである。ガスの痕跡がまったくないことを調べるために、ガスマスクをつけた専門家が、ガス痕跡検知器として使われる紙片をもって現場に入る。たんにドア、窓、その他の封印された穴、閉じられた穴を開く前の20時間(この仕事は、数千の死体を引き出す作業とは比較にならない)は非常に危険なので、各フロアを排気したのちには、専門家は新鮮な空気の中に出て、マスクをはずし、少なくとも10分間は新鮮な空気を吸わなくてはならない。ここでのすべてが、ガスの危険性を語っている。私がこの資料を掲載するのは、この資料の一行一行から、「殺人ガス処刑」に関する目撃者の話が物理学と科学の法則と矛盾していることを発見していただきたいためである。

 

 

資料NI-9912

害虫の絶滅(殺菌駆除)用のシアン化水素(チクロン)使用のガイドライン

 

Ⅰ シアン化水素のプロパティ

シアン化水素は気化によって放出されるガスである。

沸点:26

氷点:-15

重量:0.69

比重:0.97(空気=1.0

液体は容易に気化する。

液体:水のように明るく無色。

臭い:独特、苦く甘い。

シアン化水素は溶けやすい。

爆発の危険

1㎥に75gのシアン化水素(通常の使用は1㎥あたり約810g、そんなに爆発性ではない)。シアン化水素を、火、灼熱の金属網などに触れさせるべきではない。ゆっくりと燃え、その能力を完全に失う。(炭酸、水、アゾットを生み出す)。

温血動物への毒性

シアン化水素は気づかれることなく作用するので、かなり毒性が高く、かなり危険とみなすべきである。シアン化水素はもっとも強力な毒物のひとつである。体重1kgにつき1㎎で十分に人を殺すことができる。子供と女性は、男性よりも通常は反応しやすい。ごく微量のシアン化水素は、絶えず吸い続けても、害を与えない。鳥と魚もシアン化水素に反応する。

昆虫への毒性

昆虫へのシアン化水素の反応は、他のガスよりも、温度に依存しない。すなわち、それは低温でも作用する(-5℃でさえも)。多くの種、とくに、南京虫やシラミにとっては、卵のほうが成虫よりも反応する。

植物への毒性

毒性は、植物の成長の程度に依存する。硬葉植物は、軟葉植物よりも反応しない。カビと乾燥腐朽物はシアン化水素では死なない。

青酸はバクテリアを殺さない

 

Ⅱ シアン化水素が使われる形態

チクロンは、シアン化水素と培養物に吸収された刺激剤との混合物である。木製の円盤、赤茶の資材の丸薬("Diagriess")、小さな青い四角("Erco")が培養物となる。

刺激剤は警告手段として使われ、昆虫の呼吸を促進するという追加的な利点を持つ。シアン化水素と刺激剤の放出は気化による。チクロンの保存期間は3ヶ月である。最初に購入した缶から使いなさい。缶の中身をいつも完全に使いきりなさい。液体のシアン化水素は、光沢、ニス、ペンキなどに損傷を与えるが、ガスのシアン化水素は与えない。シアン化水素の毒性は、刺激剤によっては影響を受けないが、危険は減る。

チクロンは燃やすことによって無害にできる

 

Ⅲ 毒におかされたときの症状

1. 軽症:

めまい、頭痛、吐き気、不快感など。これらの症状は、すぐに外の新鮮な空気の中に出れば、なくなる。アルコールはシアン化水素ガスへの抵抗力を減らす。ガス作業の前にアルコール飲料を飲んではならない。

手当て:心臓疾患を防止するために一錠のCardiazolVeriazol、必要ならば、23時間後にもう23錠。

 

2.重症:

犠牲者は、突然倒れ、意識不明となる。救急措置:新鮮な空気、ガスマスクをはずす、服を緩める、呼吸の補助。

Lobelin intramuscular 0.01 g.

カンフル注射は禁止。

 

3.皮膚から毒におかされること

症状は1と同様。処置も同様。

 

4. 胃が毒におかされること

処置:

Lobelin 0.01 g. intramuscular
iron sulfate vitriol
calcinated magnesia.

 

. ガス防護

チクロンを使ってガス作業をするときには、ベルリンのAuergesellschaft社かリューベックのDrägerwerke社が生産する挿入フィルタ「J」のような特別なフィルターだけを使いなさい。

ガスがマスクの中に入ってきたときには、すぐに建物を出て、フィルターを交換し、マスクとマスクの気密性をテストしなさい。挿入フィルターは、ガスがマスクに入ってくるとすると、消耗している。フィルター「J」を持って、最初は2分間戸外に行きなさい。呼吸からの湿気が挿入フィルターから除去されるために。

ガスが充満した部屋でフィルターを交換してはならない

 

. 作業員

あらゆる殺菌駆除では、少なくとも2名からなる殺菌駆除チームが使われる。ガス作業指導者は、ガス作業に責任を負う。検査、排気、あらゆる安全措置をとることが彼の義務である。ガス作業指導者は、自分が不在の場合には、副官を任命すべきである。ガス作業指導者の命令には、ためらいなく従わなくてはならない。

訓練を受けていない人物や、訓練を受けてはいるが資格証明書を持っていない人物を、ガス作業に使うべきではない。このような人物がガスの充満する部屋に入ることを許すべきではない。ガス作業指導者は部下がどこにいるのかいつも把握していなくてはならない。すべての作業員は、害虫の殺菌駆除のためにシアン化水素を使用する公的な許可証を持っていることをいつも証明できなくてはならない。

以上のガイドラインをあらゆるケースで厳守しなくてはならない。

 

. 装備

各作業員はいつも以下のものを持っていなくてはならない。

 

1.自分のガスマスク。

2.チクロンシアン化水素を防ぐための少なくとも2つの特別な包み。

3. 「シアン化水素犠牲者の救急措置」マニュアル。

4. 作業命令のコピー。

5. 許可資格証明書。

 

各殺菌駆除チームはいつも以下のものを持っていなくてはならない。

 

1. 少なくとも3つの追加特別包み。

2. 1個のガス痕跡検知器

3. 1個のLobelin注射器

4.  Lobelin, 0.01 g. ampules

5.  (Cardiazol), Veriazol錠。

6. チクロンの缶を開けるための1個のプライヤーかスパイク・ハンマー。

7. 警告ポスター。

8. 密閉資材。

9. チクロンをおく紙のシート。

10.発火信号灯。

すべての装備品は、清潔を保ち、稼動状態にしておくべきである。故障は速やかに修理すべきである。

 

. ガス作業計画

1. ガス作業を行なうにあたって、以下の諸点を調査すべきである。

a) 建物の形式と様子。

b) 屋根の性質と状態。

c) 窓の性質と状態。

d) 壁に暖房シャフト、空気シャフトなどの存在。

2. 絶滅すべき昆虫の決定

3. スペース容積の決定(図面に頼ってはならない。自分で計測すべきである。)

4. 占有物の決定(家庭動物、植物、食物、未現像の写真、飲み物とタバコ、ガスマスクフィルターの除去)。

5. 密閉困難な開口部の決定。(空気シャフト、排水溝、木製の板張りを持つ大きな開口部、屋根)。

6. 必要な安全措置の決定。(見張り、密閉のための作業隊)。

7. 作業の日付と疎開時間の設定。

8. 必要ならば、近隣地区の安全計画の作成。

9. 当局への通知。

 

Ⅷ.ガス作業の準備

1. 密閉。

2. すべてのドア、衣装だな、引き出しその他を開ける。

3. 寝具類を広げる。

4. 外に出ている液体の除去(残ったコーヒー、洗濯水など)。

5. 食料の除去。

6. 植物と家庭動物(水槽など)の除去。

7.  未現像の写真とフィルムの除去。

8. 外に出ているものであっても、包まれているものであっても、治療用薬物の除去。

9. ガスマスクのフィルターの除去。

10. 結果の検証の準備。

11. 占有者の疎開。

12. 鍵の収集(すべてに入り口ドアの鍵)。

 

Ⅸ.ガスの濃度と措置時間は以下に依存する

                  昆虫の種類

                  温度

                  スペースが埋まっている程度

                  建物の気密性

 

内部温度が5℃以上のときには、通常、1㎥につき8gのシアン化水素を使用すべきである。

 

措置時間:16時間、建設が閉鎖様式のような条件は、もっと短い時間にする。温かい天気のもとでは、6時間にまで減らすことができるかもしれない。温度が、5℃以下のときには、時間は少なくとも、32時間にまで、長くなるかもしれない。

 

上記の濃度と措置時間は、南京虫、シラミ、ノミなどに、卵、さなぎ、幼虫に適用できる。

 

衣服のダニには、温度が10℃以上の時には、1㎥あたり16g21時間の適用時間

 

床ダニには、南京虫と同様。

 

X.建物のガス作業

1.全員が建物を退去しているかチェックする。

2. チクロンBのケースを開く。各フロアに、必要量を準備する

3. 缶を配分する。一人が建物の中に入り、作業班が渡してくれた缶を受け取り、配分する(それを紙のシートに置く)。

4.作業班を解散する

5.見張りを配置する。ガス作業チームの指導者は命令を出す

6.密閉と疎開が完全であるかチェックする

7.すべてのガス保護ギアをつける

8.缶を開き、中身を取り出す。中身を薄く広げる。チクロンが速やかに気化し、必要なガス濃度をできるかぎりはやく得られるようにするためである。措置は、一番高いフロアから行なわれるべきであり、地下室は、出口のない場合には、1階よりも前に措置されるべきである。すでに措置された部屋には、できるだけ入るべきではない。措置はゆっくりと整然と実行されるべきである。階段はとくにゆっくりと進め。措置を中断すべきなのは、緊急の場合だけである。

9. 入り口をロックし、密閉する(鍵穴を忘れてはならない)、鍵をガス作業指導者に渡す

10. 各外側のドアに「警告:毒ガス――致死性――入室禁止」という標語のあるプラカードを掲げる。もし必要なら、警告プラカードは多言語であるべきである。少なくとも1個の頭蓋骨を示すべきである。

11. すべてのガス保護ギア、蘇生装置、ガス痕跡検知器は取り扱い容易であるべきである。ガス作業チームの各メンバーは、これらの装備品の場所を知っているべきである。

12. ガス作業チームの少なくとも1個メンバーは、ガス処置されている建物の近くに残っているべきである。見張りは、自分の立場を知っているべきである。

 

XI. 排気

排気は、関係者と非関係者双方にきわめて危険である。それゆえ、注意深く行なわれるべきであり、ガスマスクをつねに付けているべきである。排気は次のように行なわれるべきである。1) 無ガス空気ができるだけ短時間で到達しうること2)ガスが、非関係者にまったく危険のない一方向に流出すること。排気が難しいときには、特別な訓練を受けた人物がガスの流れを観察するために、建物にとどまるべきである。

 

1.                 ガス作業に関係のない人が建物の近くに残っていないようにすること

2.                 見張りを、建物の入り口を観察できるように配置するが、ガスが流れてくる途中には配置しないこと

3.                 ガスマスクをつけること

4.                 建物に入り、ドアを閉めるが、鍵をかけないこと

5.                 風上の建物の側のドアを最初に開ける。ひとつのフロアを排気する。1階から始め、各階ごとに少なくとも10分休憩すること

6.                 建物各室の中では、ドアと窓を結ぶ廊下のドアを開けるべきである。もし、開けることが難しい窓があれば、ガスの大半が流出するまで、それらを開けるのを待つこと

7.                 簡単には扱えない板張りその他の密閉は、大半のガスが流出したのちに、取り除くこと

8.                 凍結や凍結の危険がある場合には、暖房システムや水道が凍結しないようにすること

9.                 衣服倉庫のような貴重品が保管されている部屋は、窓が開かれるやいなや、閉じられること

10.            開いたドアや窓が自分で閉じてしまわないようにすること

11.            煙突の密閉は、臨時の全開放ののちに取り除かれるべきこと

12.            排気は少なくとも20時間続けられるべきこと

13.            見張りが、排気のあいだずっと建物の近くにとどまるべきこと

 

XII. 臨時の全開放

ガス処理された部屋は、ガス痕跡検知器として使用された紙片がカラースケールの真中よりも明るい青を示すやいなや、窓とドアを開け放したままで、アクセスするために、臨時に開けることができる。排気と清掃作業だけが、臨時に開けられた部屋の中では行なうことができる。このような部屋の窓とドアは開け放たれているべきである。

 

XIII. 臨時の全開放ののちの清掃

1.                 ガス処理された部屋からのチクロンの残りの除去。普通は、それらは缶とケースとともに製造者のもとに送り返すべきである。送り返す前に、「毒」というラベルをはがすべきである。湿ったあるいは汚れた残り物および損傷を受けた缶は返還されるべきではない。それらは、ゴミ箱かもえがらの上に捨てられるべきであり、決して排水溝に捨てるべきではない。

2.                 マットレス、藁のマットレス、枕、備え付け家具その他の物品は、ガス作業チーム指導者かその副官の監督の下で、少なくとも1時間、戸外でゆすぶられるか、たたかれるべきである(雨の場合には、廊下で少なくとも2時間)。

3.                 藁のマットレスの詰め物は、できれば交換すべきである。古い詰め物を焼く必要はない。更なる換気ののちに再利用できる。

4.                 煙突上部の穴がカバーされているならば、密閉を注意深く取り除くべきである。そうしないと、炉や炉辺の火が十分な空気を供給されなくて、一酸化炭素中毒が発生する危険があるからである。

5.                 最終的な清掃ののちに、規定の書式でガス処理報告を作成し、二つのコピーをとるべきである。とくに、次の項目が含まれていなくてはならない。

a)                                ガス処理されたスペースの容積

b)                                使用したチクロンの量

c)                                ガス作業チーム指導者の名前

d)                                その他の関係者の名前

e)                                措置時間

f)                                 殺菌駆除された部屋の最終的清掃の日時

 

XV. 最終的清掃

1.                 排気開始後21時間以前ではないこと

2.                 揺さぶるために取り除いたすべての物品を元に戻すこと

3.                 窓とドアを1時間閉めること

4.                 暖房された部屋の温度を少なくとも15℃に戻すこと

5.                 ガス痕跡検知。シートやマットレスのあいだ、アクセスすることが難しい場所、排気が難しい場所で、紙片がカラースケールの明るい終わりよりも明るい青であってはならない。もし、そうでなければ、排気を続け、数時間後に、ガス痕跡検知を行なうべきである。

6.                 人々がすぐに睡眠用に使用する建物では、各部屋ごとにガス痕跡検知を行なうべきである。ガス処理された次の夜に、ガス処理された部屋で眠るべきではない。窓は、部屋が使われる最初の夜には、開け放しておく。

7.                 ガス作業チーム指導者あるいは副官は、最終的な清掃が最後の部屋に行なわれるまで、建物から離れるべきではない。

 

 プラハのボヘミア・モラヴィア総督府衛生局発行

 

 

 

 

1)写真資料、とくに、ポーランド人による模型については、私が、シュテークリヒ『アウシュヴィッツの神話、批判的研究、ドイツ語からの翻訳』La Vieille Taupe, 1986, pp. 485-510に「図版、イメージの中のアウシュヴィッツ神話」という題で付け加えた25頁を参照していただきたい。

2Jean-Claude Pressac, Auschwitz: Technique and Operation of the Gas Chambers, New York, The Beate Klarsfeld Foundation, 1989, 564 pp., 45 x 30 cm., 以下A.T.O.と略す。

3Revue d'histoire révisionniste, no. 3 (November 1990/January 1991), pp. 65-154, subsequently referred to as R.H.R..

3aThe Journal of Historical Review, Spring 1991, pp. 25-26; Summer 1991, pp. 133-175.

4)信頼すべき情報によると、プレサックは、減らされた数字を受け入れるムードが世論の中に熟成して来たならば、アウシュヴィッツの死者の総数を70万まで減らすつもりであるという。1989年には、プレサックは、ガス処刑された数だけで、100万から150万という数字を挙げていたのでる。『アウシュヴィッツ:ガス室の技術と作動』553頁)。

5)プレサックは、ヒトラーに対して偏愛を抱いており、自分の家の屋根裏部屋につながる階段のところに彼の半身像を持っている。彼は、軍歌を聞くために、自分の部屋を防音にしている(これについては、Pierre Guillaume, Droit et histoire, La Vieille Taupe, 1986, p. 124を参照)。

6)プレサックは、ソ連人とKGBをアメリカ人よりも賢明であったとみなしており、プリュファーは、「わずか25年の強制労働という判決を受けた」(136頁)と記している。

7)例えば、「アウシュヴィッツ、そこでは500万以上の男性、女性、子供が死に、そのうちの90%はユダヤ人であった」という声明(パリのユダヤ人無名殉教者記念館での記念儀式)『ル・モンド』1978420日)。それゆえ、『ル・モンド』の声明では、400万以上が、アウシュヴィッツとビルケナウ収容所だけで死んだことになる。

8)一方、ポーランドのレジスタンスは、チフスや腸チフスを意図的に広めた。この新事実は、Revue d'histoire révisionniste no. 1, (May 1990, pp. 115-128): "Le rapport Mitkiewicz du 7 septembre 1943 ou l'arme du typhus" (194397日のミトキエヴィチ報告あるいはチフスという武器)からである。この報告は、19431月に、「腸チフス菌とチフスに感染したシラミを広めた数百の事例」が合ったと記している(127頁)。フランスのレジスタンスも同じような方法を使った(116頁)。

9Comité international d'Auschwitz, Anthologie (blue), French Version, vol. I, 2nd part, (Warsaw, 1969), p. 196.を参照。アウシュヴィッツでは、ドイツ人も数多くチフスの犠牲者となったが、その中には、ジークフリート・シュヴェラ博士(ポピエルシュ博士)、収容所の監督官ゲルハルト・パリチュの妻、 農業労働監督官ヨアヒム・カエサルの妻がいた。チフスに感染したがしにはしなかったドイツ人高官には、ヨハン-ポール・クレマー博士、ハインリヒ・シュヴァルツ博士、クルト・ウーレンブロック博士、ヨーゼフ・メンゲレ博士がいた。チフスで死亡した著名な囚人には、ソ連軍捕虜の世話をしたマリアン・チエピロフスキ博士、ジグムント・レンピスキ教授、ドイツ人が殺したという話になっている歯科医ダニエル・カサノヴァがいる。東部地区で生活していたドイツ人は、いつもチフスを恐れながら暮らしていた。アドルフ・ヒトラー自身も、194327日と14日に、ラステンブルクでチフスに対するワクチンを接種している。(これについては、ヒトラーの医師テオ・モレル博士の回答を参照。David Irving, The Secret Diaries of Hitler's Doctor, New York, McMillan 1983, p. 109)。

10)ロイヒターは、アメリカの刑務所で広く使われているガス室処刑技術の専門家であり(ボストン)、ルドルフは、マックス・プーランク研究所の化学者であり(シュトゥットガルト)、リュフトルは、オーストリア技術者合同会議議長である(ウィーン)

11) 修正主義者は、この報告のコピーをうまく入手した。そのテキストは、"Crise au Musée d'État d'Auschwitz/La Contre-expertise de Cracovie" (Crisis at the Auschwitz-Museum: The Counter Expert Report of Cracow), R.H.R. no. 4, February 1991, pp. 101-104)参照。

12)比較のために、比較的誠実であるアメリカ版(The Auschwitz Album, New York, Random House, 1981, XXXIII-167 pp.)をまず参照し、その後で、かなり不誠実であるプレサック版 (L'Album d'Auschwitz, French edition, compiled and completed by Anne Freyer and Jean-Claude Pressac, éditions du Seuil, 1983, 224 pp.)を参照すべきである。

13The Holocaust Revisited: A Retrospective Analysis of the Auschwitz-Birkenau Extermination Complex, Washington, CIA, February 1979, 19 pp.

14)プレサックが、これまでの修正主義者による豊かな研究の歴史についてまったく触れていないのは重要である。彼は、アメリカ人教授バッツの基本的な著作『20世紀の神話』――これは1976年以来「歴史評論研究所」から数版を重ねている――をまったく引用していない。 (P.O. Box 2739, Newport Beach, Calif. 92659, USA). 彼はまた、カナダ人弁護士クラシュカのDid Six Million Really Die? Report of the Evidence in the Canadian "False News" Trial of Ernst Zündel — 1988, (with a preface by Robert Faurisson, Toronto, Samisdat Publishers (206 Carlton Street, Toronto, Ontario, M5A-2L1), 1992, 564 pp., 28 x 21 cm.)にも言及していない。彼は、イタリア人のマットーニョ、スペイン人のアイナト、アメリカ人のウェーバーとグルバクの研究を無視している。

15)プレサックが引用している注(55)のテキストと、『SS隊員の目に映ったアウシュヴィッツ』(アウシュヴィッツ国立博物館、1974年、166頁のテキストを比較しておかなくてはならない。プレサックは、「ふたのでカバーされた6つの換気穴」についてのブロードの話には、虚偽があることを証明してしまうようなすべての点を取り除いてしまっている。

16)「郊外の薬剤師」の保護者を自認するヴィダル・ナケでさえも、「アウシュヴィッツの資料には、勝利者の言語を使ったような印象を与える目撃証言がある。これは、SS隊員ブロードの場合にあてはまる」と述べている(Les Assassins de la mémoire, La Découverte, 1987, p. 45)

17)付録にある、チクロンBの使用に関する資料NI-9912を参照。「ガス痕跡検知器」は、殺菌駆除では普通に必要とされるものであり、6回も言及されている。

18)食料・農業大臣が1922717日に公布した法律 (Reichsgesetzblatt, Jahrgang 1922, pp. 630-631)

19Hefte von Auschwitz, No. 15, Verlag Staatliches Auschwitz-Museum, 1975 (outside the text, between pages 56 and 57)にはBIIf地区が正確に提示されている。運動場はSportplatz と、病院地区はKrankenbaulager für Männer と呼ばれている。その他多くの病院地区があった

20)付録に、資料NI-9912が翻訳されている。これは、チクロンBを使用するにあたっての危険性を評価するにはきわめて重要である。

217つの強力なコンクリート柱の占有面積を210㎡から引かなくてはならない。

224つの焼却棟が稼動し始めたのは、1943331日から625日のあいだであった。プレサックは、死者登録簿が、1943年には、「ガス処刑されなかった人々の」毎日の死亡者数を100名と見積もっていたと断言している(145146頁)。

23)プレサックは、焼却棟ⅣとⅤに関しては、私が15年前に提起した質問『おのおのが石炭燃料炉を持っている焼却棟の中にある二つの部屋をどうして処刑ガス室と呼ぶことができるのであろうか』を執拗に避けている。そしてまた、部屋の配置は、犠牲者が焼却棟に入って最初に目にするのが、プレサックがガス処刑された犠牲者を保存する部屋とわれわれに信じさせようとしたがっている冷たい部屋と呼ばれていたホールであったという具合である。

24)この小説には、多くのつづりの間違い、誤植があるが、そのようなものを、éditions CNRS が出版したのは驚きである。

25)プレサックと絶滅論者は、モスクワ、その他の東ヨーロッパの都市での文書に大きな希望をかけていた。しかし、彼らは失望してしまった。プレサックもジェラルド・フレミングもモスクワで、「ホロコースト」の定説を確証してくれるような価値のあるものをまったく発見できなかったし、クラコフスキもプラハ、ブダペスト、リガ、ヴィルノでそのようなものを発見できなかった ("Neue Möglichkeiten der Forschung/Die Holocaust-Forschung und die Archive in Osteuropa", Antisemitismus in Osteuropa, Vienna, Picus Verlag, 1992, pp. 115-129)

26)焼却棟Ⅰの再建されたガス室は「19411942年に存在したものと非常に似ている」というアウシュヴィッツ博物館の不十分な説明は、昔からのものである。デイヴィッド・コールが考えているように、1992年に生まれたのではない。ユダヤ系の若きアメリカ人修正主義者コールは、自分が録画したインタビューの中で、アウシュヴィッツ文書館長ピペルからこの説明を聞いたとき、それをセンセーショナルな発見にしてしまった。しかし、私は、この説明を17年前、1975317日に、別の館員ヤン・マチャレクから聞いている。私はこの話を何回もしてきた。コールとは異なり、この不十分な説明には満足せずに、どこが再建されたのであり、どこが再建されなかったのかを理解できるような図面を要求していたからである。当時、私はこの発見を「焼却棟Ⅰのガス室の詐欺」と呼び、その証拠とともに、私の本、論文、インタビュー、フランスとカナダでの裁判証言の中で、何回も述べてきた。とくに、Storia Illustrata, August 1979, p. 26; Serge Thion, Vérité historique ou vérité politique?, La Vieille Taupe, 1980, pp. 185, 314; The Journal of Historical Review, Summer 1980, p. 109; Winter 1981, p. 335; Summer 1990, p. 187; Spring 1991, pp. 33-35; R.H.R. no. 3, pp. 75-77; the transcript of my testimony at the first Zündel trial in Toronto, Canada in 1985, pp. 2364-2366; also see my videofilm on "Le Problème des chambres à gaz" (1982) and my cassettes on the same subjectを参照。すでに、1968年に、歴史家Olga Wormser-MigotはアウシュヴィッツⅠには「ガス室がなかった」ことを認めている" (Le Système concentrationnaire nazi (1933 - 1945), P.U.F., 1968, p. 157)1985年の最初のツンデル裁判で、ヒルバーグは、「部分的に再建されたガス室」と語っている(transcript of trial, p. 774)。同年、ヴィダル・ナケは、この焼却棟Ⅰが「戦後にポーランド人の手で再建された、…この点については疑問の余地はない」と認めている (L'Allemagne nazie et le génocide juif, Gallimard/Le Seuil, 1985, pp. 510, 516)1989年、プレサックは、焼却棟が「オリジナルの状態の忠実な再現とは程遠く」、「再建されてきた」、「作り直されてきた」、「改造が行なわれた」と、この事実について三回も指摘している (『技術と作動』、pp. 108, 123, 133)。不幸なことに、19929月、コールはこの問題での研究成果を知らなかったために、型どおりの説明に満足してしまい、私が公表して、「部分的再建」とされているものの虚偽を暴いた図面を突きつけることをしなかった。

27)この付録の大半はRobert Faurisson's book Mémoire en défense contre ceux qui m'accusent de falsifier l'histoire (Note in defense against those who accuse me of falsifying history), La Vieille Taupe, 1980, pp. 165-178からのものである

28"Gasprüfer" (ガス検知器)という用語が一般的用語である。それは、あらゆる種類のガスを検知するあらゆる種類の器具を指している。プレサックが引用している商業上の書簡では、10個の検知器は"Anzeigegeräte für Blausäure-Reste" (シアン化水素痕跡検知装置) (doc. 28)と呼ばれている

29"Deutsche Gesellschaft für Schädlingsbekämpfung" (疫病管理ドイツ会社)の短縮形、チクロンBを生産していた。

 

 

 

 

プレサックへの私の回答についてのさらに二つのコメント1

ロベール・フォーリソン

 

アウシュヴィッツに関するプレサックの著作(2)は次々とドイツ語(3)、英語(4)に翻訳されていった。これらの二つの翻訳は、著作と、La-Ville-du-Bois (Essonne, France)の薬剤師プレサックに関する新しい事実に富んでいる。

ドイツ語版では、プレサックは、アウシュヴィッツの死者の数をさらに低くしている。1989年には、彼は、ガス処刑された犠牲者の数を「100万から150万のあいだ」に設定しており(5)、全体の死者の数を150万から200万のあいだに設定しているようであった。私が回答を寄せた1993年の本では、プレサックは、死者の数を775000(約80万)に減らし、うち、60万がユダヤ人のガス処刑犠牲者であった(Les Crématoires ..., p. 148)。私は『回答』の中で、数を減らしていくことは、さらに数を減らしていくことになるであろうと述べた。次のように書いている。

 

「信頼すべき情報によると、プレサックは、減らされた数字を受け入れるムードが世論の中に熟成して来たならば、アウシュヴィッツの死者の総数を70万まで減らすつもりであるという。」

 

 しかし、ドイツ語版では、プレサックは、アウシュヴィッツの死者を63万から71万に設定し、うち、47万から55万をユダヤ人のガス処刑犠牲者とした(Die Crematorien ..., p. 202)

 英語版も興味深い。ひとつには、ガス処刑の犠牲者総数の見積もりを載せていない。

 プレサックが自分の研究を合衆国で英語で出版するにあたって困難に遭遇したことを、私は知っているが、その典拠を明らかにすることはここではできない。彼は、19934月にワシントンに設置された合衆国ホロコースト研究所の所長マイケル・ベレンバウムとデリケートな交渉を行なった。プレサックは、空威張りをするという弱い性格を埋め合わせようとして、「自分は侮られるつもりはない」と自慢した。しかし、19947月に登場した英語版は、「彼が侮られた」ことを明らかにしているだけではなく、研究者が受ける最悪の屈辱、すなわち、校閲を受けるということに同意してしまったことを明らかにしている。彼は、自分のほんのある部分を削除し、実質的に書き直し、共著の1章に短縮した。これはすべて、ベレンバウム氏の校閲の下でなされた。彼は、死者あるいはガス処刑の犠牲者についての自分の数を公表することを禁止された。ベレンバウム氏が薬剤師プレサックをどのような条件の下に置いたのか。彼は次のように書いている。

 

「ファン・ペルトは、技術論文が明晰かつ明瞭および正確になるように、および最近の学問成果を踏まえるようになるために、プレサック氏と緊密に協力した。」(Anatomy ..., p. XV)

 

 明らかに、ベレンバウム氏には、プレサック作のフランス語版(Les Crématoires ...)が、混乱しており、あいまいで、科学的ではなかったのである。不幸なことに、ペルトの努力にもかかわらず、プレサックの文章は、フランス語版と同様に、英語版でも忌まわしいものである。

 英語版の共著は、1982年以来、自分を独立した研究者として描きたがるプレサックが、豊かなユダヤ人財団(ビート・クラルスフェルト財団)の金で生活していることを明らかにしている。ベレンバウム氏はこう書いている。

 

1982年以来、プレサックの仕事は、資料的にも、本の編集の面でも、財政的にも、ビート・クラルスフェルト財団によって、奨励・支援されてきた。」(p. XIII)

 

 1955年のアラン・レネの映画『夜と霧』は今日でも、フランスの学校で上映されている、その末尾では、アウシュヴィッツの死者の数は900万人とされていた。「900万の死者の魂がこの田舎をさまよっている」というのである。

 しかし、10年前のニュルンベルク裁判では、法廷が「法廷に既知の事実」とみなした資料は、400万を設定していた。

 1989年、プレサックは推定死者数を150万から200万とした。

 1993年、プレサックは約77500にまで減らした。

 1994年、プレサックは63万と71万のあいだにまで進んだ。さらに、彼は沈黙させられた。そして、沈黙していることを受け入れている。

 修正主義者は沈黙しない。彼らは問題提起して、自分たちの回答を出している。

1.                 アウシュヴィッツの最終的な死亡者数はいくつであるのか。今でも、フランスの子供たちに教えられている900万であるのか。それとも、プレサックの考えている63万であるのか。この件を研究している修正主義者は15万としている。

2.                 ナチスのガス室。シアン化水素を使ったこの空想的な化学的屠殺場の物理的な記述を提供することが一貫して拒まれているのはなぜなのか。今日まで数百万の見学者が訪れているアウシュヴィッツⅠのいわゆるガス室の写真が掲載されていないのはなぜなのか。原告が、犯罪を行なった凶器に関する専門的報告を提供していないのかなぜなのか

 

 修正主義者は、アウシュヴィッツの死者の大半は疫病によること、ちょっとした常識を持っていれば、「オリジナルな状態」、「再建された状態」、「廃墟の状態」のこれらの現場が殺人ガス室ではなく、焼却前の死体を保管する普通の冷たい部屋であることがわかるという議論を展開してきた。そして、修正主義者には、自説を支える専門家報告(ロイヒター、ルドルフ、リュフトル、ポーランド人報告草案)がある。

 事実と数字に無関心な人々だけが、これらはまったく重要ではないと主張できるであろう。

199411

 

1Robert Faurisson, Réponse à Jean-Claude Pressac sur le problème des chambres a gaz, diffusion RHR, BP 122, 92704 Colombes Cedex), 1994, 96 pp.

2Jean-Claude Pressac, Les Crématoires d'Auschwitz. La Machinerie du meurtre de masse, CNRS éditions, 1993, VIII-156 pp. and 48 pp. photographic collection.

3Jean-Claude Pressac, Die Crematorien von Auschwitz/Die Technik des Massenmordes, Munich/Zurich, Piper Verlag, 1994, XVIII-211 pp.

4Jean-Claude Pressac with Robert-Jan Van Pelt, "The Machinery of Mass Murder at Auschwitz", chapter 8 (pp. 183-245) of the collective work published by Yisrael Gutman and Michael Berenbaum, Anatomy of the Auschwitz Death Camp, published in association with the United States Holocaust Memorial Museum, Indianapolis, Indiana University Press, 1994, XVI-638 pp.

5Jean-Claude Pressac, Auschwitz: Technique and Operation of the Gas Chambers, New York, Beate Klarsfeld Foundation, 1989, pp. 553.

 


『いわゆるヒトラー一派のガス室といわゆるユダヤ人の虐殺は、同一の歴史的嘘である。この嘘のおかげで、非常に大きな政治的・金銭的詐欺行為が容認され、そのおもな受益者はイスラエル国家と国際シオニズムであり、そのおもな犠牲者はドイツ国民―その指導者ではない――とパレスチナ民族全体である。』

— ロベール・フォーリソン教授博士

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1980年代のイスラエルの戦略 この記事は1982年2月『Kivunim、A Journal for Judaism and Zionism』の第14号、冬季5742にヘブライ語で掲載されたものである。

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