Races? Only one Human race United We Stand, Divided We Fall |
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No time to waste. Act now! Tomorrow it will be too late |
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5.
アウシュヴィッツ
5.1.
序論
5.1.1.
ホロコーストのあいだの「オペラ」
「私たちは皆、アウシュヴィッツの名前を知っている。大半の人々は、アウシュヴィッツをユダヤ人の『死の収容所』として知っているだろう。多くの人々は、それがポーランドにあったことを思い起こすことができるだろう。詳しいことは知らない人も多いかもしれないが、少なくともその名前は知っている。いずれにしても、それは現代文化の一部である。
アウシュヴィッツは普通、ユダヤ人(ユダヤ民族ではない、そんなものは存在しない)を絶え間なく、組織的に、計画的に絶滅した場所として描かれている。
まったくの恐怖、いたるところに広がる苦難の雰囲気、差し迫る死のアセンブリー・ラインについての多くの証言や記述がある。一体、このような場所に囚人用の水泳プールがあるということなどはありうるのであろうか。社会教育センター、討論グループ、劇場、少年合唱隊、オペラの上演があり、しかもすべてが、囚人によって運営され、かつ囚人のためであったというなことがありうるのであろうか。まったくありえない。それは、私たちが親しんでいるイメージにはそぐわない。
定説とはなっていいない証拠や見解を述べている書物、論文、ビデオがある。それを有名書店で手に入れることはできない。しかし、これらの書物、論文、ビデオを捜し求めれば、上記の情報を手に入れることができるであろう。
戦時中のさまざまな航空写真が公表されているが、この水泳プールはそこに登場している。もちろん、これらの写真が偽造されていることもありうるかもしれない。しかし、囚人用のプール――クローズ・アップされている――は、今日のアウシュヴィッツを撮影したフィルムに登場している。このビデオには、ツアー・ガイド長で、今日の収容所の監督者であるフランツィシェク・ピペル博士との驚くべきインタビューも入っている。このフィルムを作成したのは、デイヴィッド・コールであった。
コール氏はアメリカ系ユダヤ人である。おそらくビデオは偽造かもしれない。しかし、他の施設が実際に存在した、存在しているとすれば、水泳プールも存在しているのであろう。
他の施設が実在していた証拠としては、とくに、『イェルサレム・ポスト』(国内版)、1995年1月25日、7頁をあたってみればよいであろう。
筆者はオリジナルのコピーを持っている。イスラエルから送られてきたものである。1頁半の記事の題は、『殺戮の只中で、子供たちは兄弟愛の歌を歌った』というものである。『1943年、10歳になるダニエル K.はアウシュヴィッツに到着した。彼は、今では大学教授となっているが、死の収容所の別の顔を思い起こしている』と出だしは始まっている。『[ベートーベンの第九交響曲]からの合唱が、…1943年、アウシュヴィッツ・ビルケナウのユダヤ人少年合唱団によって歌われた。…私もその一員であった・・・私が文化や歴史、音楽に始めて親しんだのは収容所においてであった。』
『1944年3月、私はジフテリアにかかって、収容所の病院に送られた。私の母は、病院で一緒にいられるように頼んでいた。[回答は記されていない]…看護婦、医者、患者は生き残った・・・』
なぜ、看護婦、医者がいたのであろうか。殺されるはずの人々のために病院が存在したのであろうか。少年は、2-3年間、食事、衣服、住居を与えられたのであろうか。ダニエル K.は続けている。
『われわれのグループの青年指導者の一人が、…子供たちのための教育センターを作ってくれるように頼んだ。彼は許可を得た。ほどなく、この教育センターは、家族収容所のための精神的・社会的センターとなった。[家族収容所!]それは、収容所の魂であった。』
『このセンターでは、少年オペラも含む音楽や劇が上演された。さまざまなイデオロギー、シオニズム、社会主義、チェコ民族主義が議論された…イムレという指揮者がいて、…少年合唱団を編成した。リハーサルは、音響効果のよい大きな便所バラックで行なわれた…』
『1944年秋、労働に適した囚人の大集団がドイツに送られていた。』(引用終了)
なんと、囚人の『大集団』が労働に適格のまま存在していたのである。絶滅やガス炉などもいつものように数多く触れられているが、それについては、意図的に無視した。それらは私たちのまわりにうんざりするほどころがっているからである。
私の目的は、これらのレジャー施設が認められて存在していたという事実に関心を向けることである。これらが実在したことには疑問の余地がない。これらが実在したことは、私たちすべてが親しんでいる話に、新たな、思考を呼び起こすような光を投げかけている。すなわち、アウシュヴィッツは、普通描かれているような場所ではなかったのではないか。」
Dan McSweeneyによる上記の記事は、1997年5月1日、オーストリアの新聞Killoy Sentinel
(New South Wales)
に掲載された。この記事にあるコールのビデオは目を見開かせるものであるが、今日でも購入できる。[88]
この記事にあるレジャー施設は、ここにあるような通常の文献にまったく登場していなかったわけではない。むしろ、強制収容所での体験を扱った文献や同じテーマを扱った第二次的文献には、入院、重病の「労働不適格」者への高価な治療、歯医者、遊び場、コンサート、スポーツ(ビルケナウにはサッカー場もあった)、アウシュヴィッツ町へのアクセスなどの話で満ちている。もちろん、これらの話は中心的なテーマではない。よく知られている恐怖物語、虐殺行為のかたわらで、言及されているにすぎない。このような話を意識的に探して、編集したとすれば、アウシュヴィッツの証人たちが描いているイメージとはまったく逆であること、アウシュヴィッツ自体ではないことに気づくことであろう。それだけで、われわれの「思考の糧」となるであろう。目撃証言は、極端なまでに誇張されてきた。これを丹念に分析しなくてはならない。しかし、誰が、この見返りのない仕事を引き受けるのであろうか。
ポーランドの上部シレジアの町アウシュヴィッツの名前は、民族社会主義者による「ユニークな」ベルトコンベアー的ユダヤ人絶滅をさす同義語として使われているけれども、世界を見回しても、この強制収容所についてのバランスのとれた記述は存在してこなかった。このテーマについての数千の著作が存在するが、そのうち、わずか3つだけが、検討対象に値する。
ダヌータ・チェクの『アウシュヴィッツ・カレンダー』。これは戦後のポーランドの共産主義者による宣伝のための著作であるが、収容所の歴史についての既存の資料に対して、理論的に明確かつ批判的な検討をまったく行なわないまま、実際の事件、発明された事件を年代誌風に編集したものである。[89]
プレサックの著作は、収容所の5つの建物、焼却棟だけに焦点をあてており、この建物の技術と作動についての解明を目的としているが、[67]、[90]
技術的・建築学的専門能力がないために、この目的の達成は、惨めにも失敗している。[91]
ペルト(Robert van Pelt)とドヴォルク(Deborah Dwork)は、アウシュヴィッツの町の歴史に関する著作のなかで、強制収容所についてはごく表面的にしか扱っていないが[92]
、ペルトの最近の著作は、おそらくかなり狭すぎるほど、殺人ガス処刑に焦点をあてている。しかし、プレサックがすでに提起している論点を超えてはいない。[69]
書店の本棚で手に入れることができるものは、その大半が証言報告をまとめたものにすぎない。[93]
やっと1990年代初頭になって、すなわち、東ヨーロッパの共産党体制が崩壊したのちに、第三帝国の諸部局の資料が利用可能となり、それを利用して、アウシュヴィッツ収容所の信頼すべき歴史を書ける環境が整った。この面では、モスクワにあるZentralbauleitung der Waffen SS
und Polizei Auschwitz
(アウシュヴィッツ武装SS・警察中央建設局)の資料[94]
、プラハの軍事史文書館にあるKriegsarchiv der Waffen SS
(武装SS戦争文書)の資料、アウシュヴィッツ博物館にあるアウシュヴィッツ強制収容所資料がとくに重要である。これらの文書館には10万以上の資料があるので、このテーマについての実証主義的な研究が登場するには、まだ数年が必要であろう。このような研究はまだ始まったばかりであるが、それが出現すれば、アウシュヴィッツ強制収容所についてのわれわれのイメージは、確実に、大きく修正されることであろう。
当面、十分な資料にもとづいた研究が存在していないので、アウシュヴィッツの歴史を概観するにあたっては、プレサックの記述に依拠することにする。プレサックはアウシュヴィッツの技術の「専門家」として賞賛されつづけているけれども、アウシュヴィッツの歴史に関する彼の記述は[67][90]、批判の対象となっていないからである。[95]
アウシュヴィッツⅠ収容所は、Stammlager
(中央収容所)とも呼ばれ、アウシュヴィッツの町の周辺に位置しているが、その建物は、もともとは、オーストリア・ハンガリー帝国の兵舎の一部であり、1939年9月にドイツがポーランドに侵攻したのち、強制収容所に改造された。ビルケナウの町の周辺にある収容所Ⅱ(アウシュヴィッツ・ビルケナウとして知られている)は、ロシア戦役の開始後に、公式には、ロシア軍捕虜を受け入れるための武装SS捕虜収容所として作りかえられた。両収容所とも上部シレジアに30以上の小規模な付属収容所を持つ収容所群に属していた。それは、ドイツがアウシュヴィッツに建設した大規模化学プラント、とくに、ドイツの大工業体I.G. Farbenindustrie AG石炭精製ブナ工場(人造ゴムと燃料生産のための液化・ガス化プラント、アウシュヴィッツから東のモノヴィツ村の近くにあった)に労働力を提供するためであった。図10参照。なかでも、ビルケナウ収容所は、労働不適格な囚人を収容するために使われた。最終的な計画では、その収容人員は20万から30万であり、第三帝国の強制収容所のなかでもユニークであった。しかし、この収容人員計画が達成されたことはない。
衛生施設の発展が始まったばかりの環境の中で、大量の人間を収容所という限られた空間に押し込めたために、第三帝国のすべての収容所では、深刻な保健衛生問題が生じた。囚人や収容所で働く民間人は、あらゆる種類の害虫、とくにシラミとのみを収容所に持ち込んだ。シラミは、東ヨーロッパでたびたび蔓延したことのあるチフスの媒介者であった。このために、収容所は衛生設備をそなえていた。とくに、殺菌駆除施設は、たとえば、この用途でよく使われていたチクロンB(液体シアン化水素をしみこませた多穴性の物質)で、新たにやってきた囚人の衣服や所持品を殺菌駆除した。囚人は毛髪を切られ[96]、シャワーを浴びねばならなかった。殺菌駆除施設や資材が収容所に不足していたり、収容所で働く民間人の殺菌駆除が不十分であったこともあったために、チフスがしばしば発生し、大量の囚人と看守を殺した。
死亡率が高かったので、これらの収容所は焼却施設をそなえていた。1942年夏、チフスが蔓延し、そのピーク時には、毎日300名以上が死亡した。大量の死体を処分するために、ビルケナウに4つの焼却施設を建設することが計画された。しかし、この4つの焼却棟のうち、2つが稼働直後に故障した。4つの焼却棟の処理能力が、必要とされていたよりもはるかに高かったので、故障した2つの焼却棟は修理されずに、休止状態となった。アウシュヴィッツ中央収容所も一つだけ焼却施設を持っていたが、それは、ビルケナウの施設の稼働とともに、休止状態となった。
今日、歴史家たちは、上記の焼却施設がもともとの目的、すなわち自然死した死者の焼却だけではなく、のちに、とくにユダヤ人の大量絶滅のために使われたと考えている。このような歴史家によると、囚人に対して使われた"arbeitsunfähig"
(労働不適格)という用語は、「生きるに値しない」という意味に等しかったという。すなわち、働くことができない囚人は、到着するとすぐに殺されたというのである。この目的のために、特別な焼却施設の中のいくつかの部屋が改造され、害虫駆除のためのチクロンBを使って、その部屋の中で、人間が殺された(ガス処刑された)という。そして、犠牲者は、一部が焼却炉の中で、一部が戸外の壕の中で焼却されたという。
目撃証言によると、殺人ガス室はアウシュヴィッツⅠの焼却棟に存在したという。ここは今日でも現存しているが、後述するように、ごまかしの手がかなり加えられている。その他の殺人ガス室は、3キロほど離れたアウシュヴィッツⅡ、ビルケナウ収容所に存在したという。これらのガス室は、収容所の4つの焼却棟、および、殺人ガス処刑用に改造された、収容所外の2つの農家にあったという。
ビルケナウ収容所には、チクロンBを使った殺菌駆除施設が存在したが、そのうち、建設区画1a/b (Bauabschnitt 1a/b)にあった建物5aとb (BW 5a/b)
だけが現存している。これらの建物の中で、おのおの一つの翼室が、シアン化水素を使った所持品の殺菌駆除に一時的に使われたという。以下は、アウシュヴィッツ中央収容所とビルケナウの建物の配置と使用目的である。図11と12。
図10:第二次大戦中のアウシュヴィッツの周辺地図。IGファルベン工場地区の境界線はのちのものであり、工場地区を大まかに示しているにすぎない。ビルケナウ強制収容所地区は、1945年の計画に対応しているが、その計画は実際には、完了しなかった。 |
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図11:1991年のアウシュヴィッツ国立博物館の案内小冊子によるアウシュヴィッツⅠ中央収容所の地図 |
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図12:
中央収容所の北西約2kmのところにあるアウシュヴィッツⅡ・ビルケナウ捕虜収容所、1944年末の状況。影のかけられている建物は現存しているが、そのうちのいくつかは廃墟となっているか、土台だけである(焼却棟Ⅱ-Ⅳ)、残りは、戦後に、ポーランド市民が建築資材として持っていってしまった。1991年のアウシュヴィッツ国立博物館の案内小冊子による。 |
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近代戦以前には、武器の使用よりも戦争中の疫病の方が、多くの兵士と民間人を殺してしまうことは当たり前であった。このような状況に変化をもたらしたのは、合衆国が国際法に違反して、非武装の市民に対して、無慈悲に、犯罪的に使用した原子爆弾であった。
第一次大戦中の東部戦線でもっとも恐れられた疫病は、チフスであった。[98] ロシア戦線では何十万のドイツ軍兵士がチフスで死亡し、戦後になって、厳格な防疫措置がとられたことで、やっと国内へのチフスの流入を防ぐことができた。それ以降、医療関係者、軍部は疫病の危険性を深刻に認識するようになった。[99]
たとえば、ドイツの百科事典Der große Brockhaus、1930年のライプツィヒ版第6巻にはチフスについての包括的な項目がある。この感染性の高い疫病は、人間の身体につくシラミを媒介としてだけ広がるというのである。[100]
「この病気はRickettsia prowazeki (1910年にRicketts、1913年にProwazekによって発見された)、感染したシラミの腸と唾液腺になかにある微生物によって引き起こされる。…
チフスはおもに、不潔で栄養状態のよくない環境のもとで発生する。湿った人口過密な居住区画、病院、監獄、移民船などである。凶作や穀物価格の高騰が生じたときにも発生する。このために、飢餓チフス、病院チフス、監獄チフス、船チフス、戦争チフスとも呼ばれる。チフスは、ロシア、バルカン半島、北アフリカ、小アジア、メキシコで蔓延している。タラセヴィチによると、1918-1921年にロシアでは、人口の20-23%にあたる2500万-3000万人がチフスに感染した。…
チフスの流行を防止するには、ありとあらゆる手段を使って、身体についたシラミを駆除することである。」
第二次大戦中のドイツの医師の経験もこれと異ならなかった。[101]、[102] 疫病の話題は無数の出版物に登場している。実験も行なわれ、この病気の対策についての知識が増大した。
F. Konrich教授博士は、論文「ドイツの捕虜収容所の衛生設備について」[103]のなかで、ここで問題となっている疫病は「…ここ[ドイツ]ではかなり前から消滅している」と述べているが、これはまったく正しい。しかし、1942年7月初頭に、アウシュヴィッツ強制収容所でチフスが発生したとき、管理当局がすべて過剰に反応した理由も十分に理解できる。[104]チフスの発生をもたらしたのは、アウシュヴィッツに移送されてきた囚人というよりも、収容所で働く民間人労働者であった。また、この疫病を隔離・根絶する措置が精力的に取られたので、収容所周辺住民への広がりを防ぐことができた。
シラミを根絶する、これによってチフスを隔離・根絶する――同時に、穀物虫、のみ、ゴキブリ、シロアリ、ねずみといった害虫も駆除する――もっとも効果的な方法は、揮発性の高いシアン化水素を使って毒処理することである。
液体シアン化水素は保存期間が短く、正しい取り扱いをしないと、非常に危険である。第一次大戦が終わると、シアン化水素は、扱いが容易で安全なかたちで市場に現れた。シアン化水素をしみこませた多穴性の物質である。それには、安定剤と、刺激性の警告物質も含まれていた。シアン化水素は低い濃度の場合には、少ししか臭わないので、ほとんどの人がその臭いに気がつかない。そこで、臭いで警告する物質も付け加えられた。チクロンBと呼ばれたこの製品は、特別な道具でしか開けられないような缶に詰められていた。チクロンBへの付加物のために提出されたパテントの数は、安定剤と刺激性の警告物質については、簡単明瞭な解決策がなかったことを示している。[105] 法的には、チクロンBの安定剤と刺激性の警告物質のあいだには、扱いに大きな相違があった。ドイツの法律では、チクロンBの安定剤は付加を義務づけられていたが[106]、反対に、刺激性の警告物質は義務づけられていなかった。[107]
チクロンBはフランクフルトのデゲシュ[108]社が製造免許を持ち、製造していた。[109] 第二次大戦が終わるまで、チクロンBは、食糧倉庫、列車や船のような大型輸送機関での害虫やげっし動物の駆除にきわめて重要な役割を果した。[110]、[111] それはヨーロッパでもアメリカでもそうであった。[112]
たとえば、G.
ペテルス博士は自著Blausäure zur Schädlingsbekämpfung
(害虫駆除用のシアン化水素)[113]の中で、すでに1910年に合衆国で行なわれていたシアン化水素をつかった船の燻蒸、殺菌駆除を受ける列車を収容するトンネル設備(図13参照)について報告している。公共の建物、兵舎、捕虜収容所、強制収容所でのチクロンBの使用についても、当時の文献で扱われている。[114]、[115]、[116]、[117]もちろん、チクロンB以外のガスを使った害虫駆除もあった。[118]、[119] チクロンBは、DDTやその後継剤に取って代わられるまで、戦後になっても重要な役割を果たした。[120]、[121]
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図13:
A
シラミの生息している列車がブダペストのガス処理トンネルに入る。[112] |
戦時中戦後の時期から大量の出版物を利用することができる。[113]、[114]、[117]、[122]、[123]、[124]、[125]、[126]
また、やはり、戦時中と戦後に、家や部屋を燻蒸するにあたっての詳細な手順を記したガイドラインもある。[127]、[128]これらは、今日適用されている規定とほとんど変わらない。[129] 以下はこれにもとづいた、技術と手順の概要である。
もともと、個人の所持品の殺菌駆除には、普通の部屋(床面積10-30㎡)が一時的に改造された。窓やドアを、フェルトの資材や紙片を使ってできるかぎり気密とし、部屋を暖房・換気するための措置をとった。ガス・マスクを付けた作業員が、殺菌駆除する所持品のある部屋の床に均等にチクロンBをばら撒く。この手順は、害虫駆除のための普通の部屋の通常の燻蒸と同様であった。このように改造された部屋は、今日でもアウシュヴィッツⅠ中央収容所で見ることができる。燻蒸のために臨時に気密化された部屋を使うのは、気密が完全でないために、危険を伴っている。
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のちに、窓のない特別な気密設備が作られ、それは、効果的な暖房・換気装置を備えていた。また、室内のガスをもっと急速に循環させるために、空気循環システムを備えたものも作られた(いわゆる、デゲシュ循環手順、図14)。ここでは、チクロンBの缶は外部装置で開けられたので、作業員が危険にさらされることはもはやなかった。缶の底が自動的に穴を開けられ、調剤がかごに落ち、そこに送風機が温風を吹き込み、その結果、シアン化水素がすみやかに放出され、煙を運び去った。いわゆる循環手順を備えた施設は、高価な害虫駆除剤を節約するために、比較的小さく、数㎥であった。
これらの専門設備は衛生施設群の一部であることが多かった。一般的に、この建物群は、次のように構成されていた。(図15参照)。[103]
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図15:衛生施設群の組織図 |
今日のダッハウ強制収容所(ミュンヘン近郊)にも見ることができるように、同じ建物群に焼却棟を設置することも普通であった。ダッハウの建物群の中では、衛生施設は衣服の殺菌駆除のためのデゲシュ社の空気循環システムをもっており、囚人シャワー室の右側と左側に脱衣室と着衣室、ならびに焼却棟を備えていた。(今日ダッハウで「ガス室」とされている部屋は、実際には、上記の図に不可欠な囚人シャワー室であり、博物館が意図的に誤った名称をつけている。)
衣服の殺菌駆除のための濃度は、害虫の種類と外部条件に応じて異なっており、普通は、空気1㎥につき5-30gのシアン化水素である。時間も非常に異なっており、2時間から10時間以上にまたがっている。暖房(25℃以上)と空気循環装置をそなえた近代的な設備では、濃度20g/㎥で1-2時間が効果的である。他方、普通の部屋での殺菌駆除は、24時間以上も続くことがある。
ここでは、1939年のドイツ軍規則(Heeresdienstvorschrift
194)が定めた技術用語を使うこととする。[127] この規則は、収容所を殺菌駆除しようとする作業員、すなわち医師がどのように作業に取り掛かるべきかを定めているからである。
「殺菌(Disinfection)
Disinfectionとは、… 物品、室内、排泄物、感染した人々の身体にいる疫病を引き起こす媒体を駆除することである
「駆除(Disinfestation)
Disinfestationとは、部屋、物品、人々から、病原菌を運び、経済的損失をもたらし、人々を苦しめるような害虫(小生物)を取り除くことである。」
この規則は、殺菌・駆除についてのよく知られている物理的、化学的方法すべてをリスト・アップしている。同様に、武装SS衛生研究所は1943年に、「作業ガイドライン」"Entkeimung, Entseuchung und Entwesung"[114]を発行している。
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図16:ガス処理を適用できるさまざまな対象:製粉所、船舶、倉庫、穀物倉庫、家、鉄道、自動車、トラックについてのデゲシュ社の広告。[131] |
武装SSおよび強制収容所での衛生に責任を持っていたのは、"Hygieneinstitut der Waffen-SS"[132](武装SS衛生研究所)であった。それは、1942年にベルリンに設立され、アウシュヴィッツ近くのライスコに"Hygienisch-bakteriologischen
Untersuchungsstelle Südost d. W-SS" (武装SS衛生・バクテリア実験ステーション南東)をそなえた支部を持っていた。この実験センターのファイルは現存している。(1943年から1945年までの151巻)[133]
守備隊の医師(軍医将校)と医療関係者が衛生措置の実行に責任を負っていた。アウシュヴィッツの場合でもそうであるのだが、この医師は、衛生措置に関連するあらゆる計画について、特別専門家として相談を受けることになっていた。シアン化水素が使われるときには、特別に訓練を受けた専門家が要請された。アウシュヴィッツでは、この役目を担ったのは"disinfectors(殺菌駆除作業員)"であった。
一般的に、アウシュヴィッツでは4つの殺菌駆除手段が使われた。
アウシュヴィッツ収容所で稼動していた殺菌駆除施設のデータは、部局長C(ベルリン)あての1943年1月9日の"Hygienische Einrichtungen im
KL und KGL Auschwitz"[134] (アウシュヴィッツ捕虜収容所、強制収容所の衛生施設)
のリストと 1943年7月30日の"Aufstellung über die im KL.
und KGL. Auschwitz eingebauten Entwesungsanlagen Bäder und Desinfektionsapparate"[135](アウシュヴィッツ捕虜収容所、強制収容所に設置されている駆除施設、入浴・殺菌システムのリスト)から見ることができる。
後者の資料には、24時間の作業での処理能力が次のように記されている。
a.
強制収容所
(予防拘禁収容所):
ブロック1:
クライン社製造の1台の温風駆除装置、1940年秋以来、1800名、約3600の毛布。
ブロック3:1台のシアン化水素ガス駆除装置(すなわちチクロンB)、1400名、約20000の洗濯対象品[136]。
ブロック26:1台の温風装置、2000名。
Deutsche Ausrüstungs-Werke (ドイツ装備工場、すなわちカナダⅠ)の駆除装置:1台のシアン化水素ガス駆除施設(BW 28)、約30000の洗濯対象品、毛布など(1942年夏以降の稼動)。
民間労働者駆除バラック:ホッホハイム社製の1台の温風駆除施設、1日2000名、常設の多くのシャワー入浴施設と殺菌消毒装置をそなえる。
b.
捕虜収容所(K.G.L., Birkenau):
B Ia
にあるBW 5a : 1台の駆除装置(ヴェルナー社製)と1台の温風装置(ホッホハイム社製)、1942年11月以降稼動、2000名。
8000の毛布のために、1台のシアン化水素燻蒸室が建設され、1942年秋以降稼動。
B Ib
にあるBW 5b: BW 5aと同様の設備。
ここにリスト・アップされている施設すべては、改築されていった。上記の二つの資料が示しているように、囚人の数の増大とともに、衛生施設の数も増えていった。プレサックは、検証できる資料を明示していないが、チクロンBを使った25の部屋が存在していたと述べている。[137]
これらの施設で殺菌駆除を受けた人々の数を知ることができれば、その結果をまとめることができるであろう。しかし、この数は明らかになっていない。チェクは自著[89]のなかで、長期にわたるこのような資料がアウシュヴィッツ文書館で利用できると述べているが、われわれは今のところそれを検証できない。ここでは、既存の殺菌駆除施設が収容所の人員に対して一貫して十分であったかどうか明言することはできない。プレサックは二番目の本[138]の結論部で、1942年の「9月7-11日」の最初のピークには「一日375名が死亡した」と述べているが、このことは施設の処理能力が十分でなかったことを明らかに示している。
SS国家管理局とその後継部局のなかにあったSS-Hauptamt Haushalt und Bauten
(SS中央予算建設局)は二つの政策を作成したが、それは収容所での措置に影響を与えたにちがいない。1940年6月5日の最初の決定[139]は、HCNをもはや使わず、それに代えて、温風を使うことを定めた。その理由は、間に合わせの害虫駆除室でHCNを使うことは信頼性にかけ、多くの事故を引き起こし、危険すぎるというものであったろう。21ヵ月後の1942年3月11日の第二の決定[140]は、最初の決定を覆し、「すべての害虫駆除室をHCNを使ったものに代えることを」要請していた。この決定はこの点について次のように述べている。
「この形式からの逸脱、すなわち、温風や温風蒸気での害虫駆除が認められるのは、HCNの安全な取り扱いが保証されない臨時の施設に関してだけである。」
1943年2月11日、C部Ⅳ課は所長に書簡を送り[141]、おそらく、1940年6月5日の書簡について、「殺菌駆除のためにHCNの使用を禁じた処置」と述べている。これは、全力を尽くして、すべての稼動施設を信頼できるHCNを使ったものに改造するが、HCNの使用が認められるのは安全性と信頼性が保証されている場所に限定され、間に合わせの害虫駆除室にHCNを使うことは認められないということを意味している。
責任ある部署にいる人々は、意志決定をたびたび行なわなくてはならなかったので、危険な疫病が民間人にまで拡大して、予想もできない結果が生じてしまう事態に直面すると、適切な措置をとって、適切に行動するであろう。シアン化水素(=チクロンB)は、この当時もっとも信頼できる害虫駆除剤であった(詳しくは、"Blausäure als Entlausungsmittel in Begasungskammern"、[142]
もしくは"Entlausung mit Zyklon-Blausäure in Kreislauf-Begasungskammern"を参照。[143]) 唯一の問題は、このような施設に適切な場所を見つけることであった。それは、実際には収容所の外であったろう。 (5.4.3.節参照)
1942年9月2日、E. Wirths博士が守備隊医師としてアウシュヴィッツに着任した。記録を読むと、彼は自分の職務を適切に果たしたといえる。とくに、ここでは、上層部に対する彼の批判について触れておこう。
時間の経過とともに、囚人の数はたえず増えていき、不幸なことに、疫病の流行は1回ではすまなかった。それゆえ、ここでは、ヴィルツ医師が抱いた結論と、彼が取った措置をまとめておこう。
1942年12月4日、ヴィルツ博士は、ビエリツ地区管理会議での議論について本部に報告している。テーマはチフスの蔓延であった。軍医、国防軍、政府代表といった多くのさまざまな人々がこの議論に参加した。疫病の蔓延がきわめて深刻に受け取られていたのかを物語っている。[144]
「彼は次のように報告している。現時点では、3つの大きな駆除、シャワー、サウナ施設が稼動可能であり、そのうち2つが囚人用で、1つがSS隊員用である。これらの施設の処理能力は24時間で3000-4000名である。チクロンBによる駆除は、この手段では100%の成功が保証されていないので、まったく中止されている。」
建物BW5a
と5bは囚人用であった。これらの施設の処理能力は、この時点での囚人の数には十分であったろう。しかし、同じ時期に、19台のデゲシュ社製空気循環燻蒸室の外枠が中央収容所の建物BW160(入所建物)に完成されようとしていたことを考慮しておかなくてはならない。上記の書簡の別のパラグラフには、カトヴィツの守備隊医師が2つの可動式ボイラー設備の貸し出しを申し出ているとある。
1943年4月18日、ヴィルツは所長あての報告のなかで、ビルケナウの下水システムについて警告を発して、「疫病の大きな危険が不可避である」と結論している。[145]
1943年5月7日、ヴィルツは、部局C長、SS少将、武装SS技師中将カムラー博士との議論なかで、"II. Bauten in Zuständigkeit
des Standortarztes" (II.
守備隊医師の管轄下にある建物)[146]という節で次のように説明している。
「…劣悪な便所施設、不十分な下水システム、病院バラックの欠如、病人のための別個の便所の欠如、洗浄・入浴・駆除施設の欠如のために、大きな任務を果たす囚人の健康状態を維持することは保証し得ない。」
ヴィルツ博士は不十分な点とそれを正す方法も明確に指摘している。
ここで、われわれは、歴史的文脈をよく知らない読者に、誤った結論に飛びつかないように警告しておかなくてはならない。戦時中にこれらの施設を建設するのに必要な資材や物資を手に入れるには、さまざまな問題があるが、読者はこうしたことについてよく知らないであろう。比喩的にいえば、煉瓦一つを購入するのにも文書の許可が必要であった。
また、当時の東ヨーロッパでは、下水システムはどのようなものであれ、手始めとなる事業であり、このことは、多額の費用と高い技術を使って二つの収容所のために建設された下水処理施設にはまさにあてはまることであったことを指摘しておかなくてはならない。
上記に引用した文書はこう続けている。
「少将はこれらの事柄の緊急性を認め、欠陥を修復するためにできる限りのことをすることを約している。しかし、彼は、良好な衛生環境についての医学的報告を受けとっている一方で、まったく反対の状況を示している報告も受けとっていることに驚いている。そこで、中央建設局長は、T1943年5月15日までに、修復計画を提出するように命じられている。」(強調――引用者)
ヴィルツは、まず、便所施設から修復しなくてはならないと考えた。たとえば、便器の覆いである。そうでなければ、「…疫病の大きな危険が不可避である」からであった。[147] 1943年5月10日、WVHA (Wirtschafts-Verwaltungshauptamt、経済管理本部)C部長がこれらの覆いを発注した。[148] この問題は、ジプシーの子供遊び場に屋根覆いをつける問題で終わった。[149]
「ジプシー収容所の子供遊び場ブロック29と31の屋根が損傷しているので、私は、屋根覆いフェルト100ロールを要求する(緊急)」
一方、1943年5月28日、[150]、彼は、6台の空気循環害虫駆除装置を選び――手書きで書きとめられているように――、1943年5月29日、建設局の暖房専門家イェーリングがそれらを発注した。1943年6月1日には、水質検査[151]などが行なわれたという。[151] これらの多数の往復書簡は、中央建設局の書類分類システムでは、「衛生状態」という別個の書類となった。[152]
ヴィルトの現場調査は大規模でさまざまであり、それだけで一つの論文に値する。彼は、囚人厨房の腰掛などの検査を含む、厨房の人員の検査にまで責任を負っていた。ヴィルツ博士がほとんどすべてのことに目を光らせていたことは、資料からも明らかである。
ヴィルトの忠告や勧告は日増しに多くなっていった。もちろん、今日のわれわれの社会と同じように、SS隊員の中には、日和見主義者や出世主義者がいた。しかし、その一方で、ヴィルト博士の例は、SS隊員の中に、信念と義務感を持ち、自己の信念に忠実な職業倫理と勇気を持つ人物がいたことを示している。
1943年5月9日の覚書のコメント部分には、次のような一節がある。
「当座の措置として、少将は、新しい害虫駆除装置の貸し出しを申し出ている。」
(強調――引用者)
おそらく、アウシュヴィッツ強制収容所のもっとも魅力的な側面のひとつは、高周波装置の設置であろう。それは、技術的には、今日使われている高周波炉のさきがけであった。1930年代末に、ジーメンス社がこの技術を開発し、戦時中に大量生産可能なところまでこぎつけていた。これは、1936年のベルリン・オリンピックをテレビ中継するために作られた強力な電波管の副産物であった。強力な電波はアンテナ周囲の昆虫を殺したからである。ドイツ国防軍は、東部地区で蔓延している疫病の防疫措置を改善したがっていたので、この技術を財政的に支援した。強制収容所の軍需産業に割り当てられていた囚人の労働力は、戦争末期にはとりわけ貴重になっていたので、ドイツ帝国指導部は、最初の装置を兵士の衣服の害虫駆除にではなく、ドイツ帝国最大の作業場、すなわちアウシュヴィッツに投入することを決定した。しかし、連合国による空襲のために、この装置の完成は1年遅れた。このために、数万の囚人が命を落とした。アウシュヴィッツ収容所当局はその設置を1943年と予想しており、そのために、他の害虫駆除計画を延期していた。この装置は1944年夏に稼動し始めたが、その速度と費用の面で、革命的な効果を発揮した。個人の所持品は湿気を与えられて、コンベア・ベルトの端に置かれ、数分後に、完全に衛生・駆除措置を受けて、もう一方の端に登場した。[153]
5.2.4.
害虫駆除施設BW 5a
と5b
アウシュヴィッツ・ビルケナウでチクロンBを使った個人所持品の害虫駆除室をもって現存している唯一の建物は、B1aとb地区の建物(Bauwerk, BW)5aと5bである。二つの建物は対称形に設計された。これらの建物の西(東)翼は、少なくとも一時的ではあるが、チクロンBを使った害虫駆除に使われた。設計図では、これらの部屋は"Gaskammer"
(ガス室)と呼ばれていた。図17参照。
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図17:
改築以前の建物5aと(対承継の建物5bのHCN害虫駆除翼室の平面図。建物5bのサンプルが採取された場所は書き入れてある[154]。 |
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図18:
1943年の改築以後の建物5aの温風害虫駆除翼室の平面図。建物5aのサンプルが採取された場所は書き入れてある。[154] |
これは決して些細なことではない。当時、「ガス室」という用語が、これを設計する建築家によっても、害虫駆除専門家によっても、もっぱら個人所持品の害虫駆除施設を指していた重要な証拠である。シアン化水素を使った害虫駆除についての、当時の重要文献のひとつはF. Puntigam, H. Breymesser,
それゆえ、それと反対のことを示す証拠がない限り、この当時のドイツ側資料で[ガス室]という用語が使われていれば、それは、個人所持品の害虫駆除のための部屋を指していると考えなくてはならない!
それゆえ、これ以降は、ガス室という用語が、人間の処刑のための部屋をさす場合には、その用語を一重括弧でくくって使うことにする。これには二つの理由がある。
1.
もともと、ドイツの技術用語Gaskammer
は毒ガスを使った害虫駆除室だけを指していた。この用語を人間の処刑のための部屋に適用することは、当時の用語法の誤用である。
2.
「ガス室」という単語との混同を避けるためにも、表記上の区別が必要である。
図17は、ほぼオリジナルな状態での、建物5aと5bの二つの害虫駆除室の平面図である。建物5aの部屋は1943年夏に改築され、二つの小さな温風室を設置された。これは、図18で見ることができる。[154] 建物は、普通の煉瓦壁と、地上レベルのコンクリートの土台を持ち、内部は、石灰石のモルタルで漆喰が塗られていた。建物5bの部屋は個別の天井を持っておらず、屋根の枠組みは不明の資材(おそらくヘラクライト)の板で下から覆われている。今日の建物5bと同様に、建物5aの害虫駆除翼室には、もともと窓がなかったが、改築の結果、開けることのできないはめ殺しの窓を備えるようになった。
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図19:建物5bの害虫駆除翼室の排気口、現在は装置とはつながっていない。水道管の端を内側に見ることができる、図20も参照。 |
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図20:建物5bの害虫駆除翼室の内部のシャワーヘッドつきの水道管システム。これらの水道管は何とも結びついていない。換気口で中断している、図19参照。 |
建物5bの害虫駆除室の切妻壁には、二つの丸い穴がある。それは、直径50cmほどで、それぞれ、排気穴、吸気穴に対応している、図19。屋根には3つの換気煙突がある。この部屋には稼動中には、3つの炉があったにちがいない。[155] 内開きの二重ドアが設計図には書き込まれているが、やはり、内開きの一重ドアに取り替えられた。今のところ、この害虫駆除室がどのような装備を備えていたのかについては、推測できるだけである。
部屋の床面積は130㎡ほどであるが、屋根枠に向かって開かれているので、容積は少なくとも400㎥であろう。しかし、高さ2m以上のスペースは、使うことのできないデッド・スペースとみなされていたにちがいない。したがって、膨大な量のHCN/チクロンBが浪費されることになった。1回のガス処理で、室内の個人所持品の多少にかかわらず、少なくとも4-5kg(1㎥あたり10g)のシアン化水素を含んだチクロンBが必要であったからである。[156] たとえば、1年に100回の燻蒸が行なわれるとすると(3日、4日に1回)、0.8トンほどのチクロンBがこの建物5aだけで消費される。1942年にアウシュヴィッツに搬入されたチクロンBの総量は7.5トンであるから、その10%にあたることになる。[157]
この害虫駆除施設に加えて、ビルケナウには別のHCN害虫駆除施設があった。ビルケナウ収容所への搬入は、付属の労働収容所(30以上)にチクロンBを供給していた。また、囚人バラックもこの殺虫剤でしばしば燻蒸されていた。[158] このことを考えると、アウシュヴィッツ収容所に搬入されたチクロンBの量は、通常の害虫駆除目的であったといいうる。
チフスの流行が完全におさまることはなかったので、この1年の搬入量だけでは、アウシュヴィッツ収容所群のすべての収容所の個人所持品と建物を害虫駆除するにはまったく不足していた。
HCNを使った害虫駆除のために、建物5aと5bの害虫駆除室がどのくらい使われたのかについては、今のところ確定されていない。これに関する資料はまったく発見されておらず、また、前述の資料は、チクロンBの使用を1942年12月までに、すなわち、この施設の稼動してから数週間後に、(少なくとも安全が確保されていない施設では)中止するように求めているからである。
建物5bのこの部屋の注目すべき特徴は、図20にあるように、傾いた屋根の留め金に固定されたフックに付けられた、込み入った水道管である。シャワーヘッドを付けた水道管もある。水道管は何とも結びついていない。不思議なことに、それらは、換気口のところで中断しており、そこに設置されていた換気装置が取り除かれてから、付けられたと考えられる。もちろん、これらの建物には、まったく別の場所にシャワー室がある(図17参照)。しかし、かつて存在していたシャワー装置は、まったく取り除かれている。これらの部屋へのドアは開かれており、見学者はこの特殊な設備を検証できる。この建物のオリジナルなドイツ側の図面や文書は、この水道管がドイツ占領時代に設置されたとは述べていない。すなわち、それらは何らかの理由で、戦後に設置されたのであろう。
プレサックによると、中央収容所の焼却棟に殺人「ガス室」が実在したことを示す物的資料的証拠はまったく存在しないが、多くの目撃証言があるという。[159]
「殺人ガス室の実在性を確定する証拠としては、関係者の証言が残っているにすぎない…」
プレサックは、これらの証言には、多くの矛盾、技術的に不可能な点があり、概して信用できないと述べている。彼は、「誇張する一般的な傾向」の存在を認め、収容所長ヘスの目撃証言と記述のなかにある大きな誤りや技術的不可能性を次のように述べることで説明している。
「彼は見ることなく、現場にいたのである。」
すなわち、プレサックは、ヘスはチクロンBを扱うにあたっての方法、リスク、危険をまったく知らなかったと主張している。しかし、このことは、チクロンBでバラックを燻蒸するときの注意――ガス中毒の事例を考えると必要な注意――についての所長ヘスの命令[158]と矛盾している。チクロンBに関係する事故を警告する所長特別命令は、収容所全体に配布されたが、ホロコースト定説に従えば、遅かれ早かれ同じガスで死ぬことになっている囚人に対して、配慮しなくてならないという義務感が存在していたことを示している。ヘスの証言には、あとで立ち戻ろう。
さらに、プレサックは、SS隊員ペリー・ブロードの証言の形式と基本的なトーンが不正確なのは、ブロード自身がSS隊員であり、ポーランドとはまったく結びつきがないにもかかわらず、この証言が、SS隊員に対するポーランド人のむき出しの憎悪はいうまでもなく、ポーランド愛国主義に彩られているためであり、この「証言」――そのオリジナルは失われている――がポーランド人によってわずかに書き換えられたためであると説明している。言い換えれば、ポーランド人がつぎはぎしたこの「文書」は、その由来を批判的に検証する限り、まったく価値のないものである。にもかかわらず、プレサックは、殺人ガス処刑についてのこの証言を基本的に正確であるとみなしている。[160]
中央収容所の「ガス室」は、同じ場所にあった旧オーストリア・ハンガリー軍の兵舎の厨房であった地上階の建物のなかの部屋である。[161] 焼却棟Ⅰの床と天井は、強化コンクリートであり、外壁はレンガ造りで、タールのコーティングで防腐措置が施されている。入り口を除いて、建物は、土が壁に向かって積み上げられているために、事実上は地下になっている。内壁は漆喰で塗られている。
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図21:アウシュヴィッツⅠ/中央収容所の焼却棟1のオリジナルな状態での平面図。死体安置室はのちに、「ガス室」として使われたという。「162」
1:入り口; 2:配列室 3:洗浄室; 4:死体安置室; 5:炉室; 6:
石炭室; 7:
骨室 |
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図22:
1944年に防空シェルターに改築されたのちの、アウシュヴィッツⅠ中央収容所の焼却棟Ⅰの平面図。[166]
1:
堰;
2:
作戦室;
3:旧洗浄室、今は便所つきの防空シェルター;
4:
防空シェルター;
5:
旧炉室 |
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図23:
その後の偽造後の今日のアウシュヴィッツⅠ/中央収容所の焼却棟Ⅰの平面図。[168]
1:
「ガス室」'; 2:まがいもののチクロンBの投下穴 ; 3:
便所の排水口; 4:死体安置室と洗浄室の旧隔壁; 5:防空シェルターからの換気煙突; 6:
今日では犠牲者の入り口と呼ばれている防空シュート; 7:骨室, 8:
石炭室; 9:再建された炉; 10:炉室への新しい通路、古い入り口 11:古い炉の跡; 12:まがいものの煙突 |
図21は、死体安置室を持つ通常の焼却棟として設計・建設された、開戦時の平面図である。[162] これはまた、土を積み上げたのは、均等の冷たい気温を保証するためであったことを説明している。同じ理由で、死体安置室と炉室との隔壁は、防熱バリアーをはさんだ二重壁である。
死体安置室を、窓、外部ドア、強制換気装置なしで使うのは考えられないが、私の知るかぎりでは、この死体安置室に換気システムを設置したという資料はまったく存在しない。
死体仮置き室はのちに、「ガス室」として使うように改築されたといわれてきた。のちに、殺人ガス処刑目的で、チクロンBを室内に投下するために、3つか4つのハッチが屋根に、および強力な換気扇の設置のためにさらに1つか2つのハッチが開けられたという。[163] しかし、アウシュヴィッツ博物館長ピペルは、次のような見解である。[164]
「焼却棟Ⅰにはまったく換気装置がなかった。ドアが開かれ、ガスは対流によって排出された。」
プレサックは、解放直後にソ連側が撮影した焼却棟の屋根の写真を掲載している。そこでは、屋根フェルトのうえの3つの黒い点が、チクロンBの投入穴のくぼみであったという。[163]、[165] しかし、彼の著作に掲載されている写真は、何かを識別するには質が悪く、まして、建築上・技術上の結論を下せるような素材ではない。だから、プレサックの憶測には根拠がない。
1944年秋、焼却棟は防空シェルターに改築された。建物の変更、とくに、薄い隔壁を厚い壁と取り替えたことは図22から見てとることができる。[166] それが存在していたと推定する場合に限るが、チクロンBの投入穴と換気穴はふさがれたという。
この改築作業は、資料の中で、細かく記述されている。[167] 屋根にあけられていた古い穴をふさぐことはまったく言及されていない。むしろ、ガス気密窓とドアおよび新しい穴を開けることが言及されている。
「ガス気密ドア、窓シャッター、窓の設置、
暖房炉、および換気出口、吸入穴、パイプのために石壁に開口部を作ること。」
このことは、この時期以前には、ガス気密ドアや窓、換気装置のための開口部、その他の目的の開口部(チクロンBの投入穴)が存在しなかったことを強く示唆している。もし存在していたとすれば、古い開口部がこれらの目的のために使われたであろうし、もしくは、それらをふさぐことが言及されていたはずであろう。
防空シェルターは死体安置室/「ガス室」を分割することで作られたが、そこに直接入るには、新しく付け加えられた、堰をもつ入り口から入らなくてはならなかった。今日、この新しい入り口は犠牲者が入っていった入り口として展示されている。実際には、「ガス室」に直接入る入り口は存在しない。外から直接には入ることはできなかったのである。[163] 便所も同様に、以前の洗浄室のなかに作られた。
図23は、今日の状態での焼却棟の平面図である。[168] プレサックによると、死体安置室/「ガス室」から炉室に入る入り口は、オリジナルな場所ではなく、戦後に新しく作られた場所にある。防空シェルターのなかの、壁から洗浄室――これは死体安置室(のちの「ガス室」)の一部ではない――までの隔壁は取り壊された。したがって、注意深い見学者であれば、二つの便所からの排水パイプが「ガス室」内部に入っていくのを見ることができる。プレサックは根拠を示していないが、屋根はタール紙で新たに覆われ、その過程で、「ガス室」のチクロンBの穴の痕跡と換気穴の痕跡が覆われてしまい、それゆえ、戦後ポーランド博物館が新たにあけた粗雑なチクロンBの投入穴は同じ場所にはなかった、と述べている。プレサックのこの説には驚かざるをえない。内部からは、屋根/天井は漆喰で塗られていないむき出しのコンクリートであるからである。内部から作業をすれば、ふさがれてしまったとされているオリジナルの開口部の場所を定めることは可能なことにちがいないし、同じ場所に開口部を作ることができるはずだからである。
博物館当局が見学者の質問に答えているように、炉室のなかの二つの煙突開口部、および煙突自身は、建物の外部とはまったくつながっておらず、オリジナルの設備があったとされる場所に、戦後、「博物館の目的にしたがって作り直された」ものであった。[169]
フランスのジャーナリストで有名な反修正主義者Eric Conanは次のように書いている。[170]
「もう一つのデリケートなテーマ:共産党当局が残した偽造にどのように対処するか。1950年代と60年代に、消え去ってしまったか、廃墟に近くなっているいくつかの建物が大きな誤りを抱えながら、再建され、本物として展示されている。『新しすぎた』ものは世間には公開されなかった。殺人ガス室として展示されていた害虫駆除ガス室についてはいうまでもない。このような逸脱行為は、否定派を大いに助けてきた。否定派はこの逸脱行為から自分たちの神話のエッセンスを取り出している。焼却棟Ⅰは典型的な事例である。その死体安置室には、最初ガス室が設置されていた。それは、1942年の初頭、ごく短期間だけ稼動していた。ガス処刑には区画の閉鎖が必要であるが、それは収容所の業務を妨げた。このために、ユダヤ人犠牲者を工業的に処理するとすれば、殺人ガス処刑をビルケナウに移すことが1942年4月末に決定された。焼却棟Ⅰはその後、手術室を持った防空壕に改築された。1948年、博物館が設立されると、焼却棟Ⅰがオリジナルといわれた状態で再建された。しかし、そのすべてが虚偽である。[171] すなわち、ガス室の広さ、ドアの位置、チクロンB投入の開口部、炉、煙突の高さが何人かの生存者の記憶にもとづいて作り直された。1970年代末、当時は、博物館員はまだこのことを認めるのをためらっていたので、ロベール・フォーリソンがこれらの偽造を利用した。[172] アメリカの修正主義者[88]が、まだ本物として展示されていたガス室内でビデオを撮影した。そこでは、この人物が自分の『発見』について見学者に意見を求めている。…今のところ、事態はそのままであり、見学者には何も語られていない。このことが事態をいっそう紛糾させている。のちに何をすべきか見ることであろう。」(強調――引用者)
語形変化にしたがえば、彼らは嘘をついていたし、嘘をついているし、これからも嘘をつくであろうというわけである。
戦後にこのような非現実的な「再建」が行なわれたことを考慮して、ユダヤ系アメリカ人の建築学教授ペルト――実際には文化史の教授にすぎないが――は、ユダヤ系カナダ人のホロコースト史家ドヴォルクと共同で、次のような、少なからずあいまいな結論に達した。[173]
「ソ連軍が1945年に収容所を解放したとき、『人間』を『下等人種』に変容させる建築はそのまま残っていた。その後、そのすべての痕跡は取り除かれた。書店で販売されているガイドブックはこの建物[焼却棟Ⅰ]にはまったく言及していない。おそらく、博物館を設立した男性と女性は、その意味するところと、自分たちの抵抗イデオロギー――全面的な犠牲を否定するイデオロギー――とを調和させることができなかったのであろう。おそらく、見学者へのサービスのための元手の必要という問題にすぎなかったえあろう。教義的な理由からであれ、実際的な理由からであれ、今日の見学者受け入れセンターのなかでのオリジナル配置を壊してしまったことは、戦後の混乱であり、損失であった。
ロシア人が1945年に発見した収容所に、追加と削除が行なわれた。囚人の受け入れ場所を削除したことは、現在の博物館収容所の北東の端の外側に焼却棟1を再建することで埋め合わされた。煙突とガス室を持つこの焼却棟は、収容所見学の荘厳な終末となった。見学者が目撃しているこの焼却棟が、戦後に作り直されたものであることは、彼らには語られない。
戦後、アウシュヴィッツが博物館となったとき、収容所全体の歴史を一つの構成部分に凝縮するという決定がくだされた。大量殺人が行なわれた悪名高い焼却棟は、2マイル離れたビルケナウの廃墟の中にあった。委員会は、見学の旅の最後に焼却棟が必要であると感じ、
焼却棟Ⅰが、ビルケナウの焼却棟の歴史を代弁するために再建された。この簒奪計画は、かなり詳細であった。ビルケナウの究極的シンボルである煙突が、作り直された。屋根には、下のガス室にチクロンBを投入するかのように、4つのハッチ状の開口部が作られた。3つの炉のうち2つがオリジナル・パーツを使って作り直された。これらの作り直しを説明する表示はまったくなく、見学者が、それが起こったと考えている場所を通過するときにも、ガイドは作り直しについては沈黙している。」
この「簒奪」説にはダイナマイトがつまっている。この説は、焼却棟Ⅰで起こったとされている事件、目撃者ルドルフ・ヘス、ペリー・ブロード、その他数少ない人々が証言している事件が実際にはこの場所では起こらなかったことを意味しているからである。さらに、このことは、その他すべての目撃証言の信憑性を――ビルケナウについてのも含む――最初から掘り崩しているからである。二人の著者はこのことに気づいているのであろうか。
少なくとも、天井、外壁、ならびに土台だけはオリジナルの状態を保っていることについては異論はないであろう。もしも、チクロンBの投入穴と換気穴が強化コンクリートの屋根に存在していたとすれば、内部から、強化コンクリートの亀裂に対応する場所に見ることができるであろう。これらの亀裂を消し去っても、何らかの痕跡が残るはずだからである。しかし、今日現存しているチクロンBの投下穴以外には、屋根に穴が存在していたことを示すものはまったくない。それゆえ、別の場所に存在していたとされる穴は存在していなかったのである。
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図24、25:アウシュヴィッツ中央収容所の焼却棟Ⅰの死体安置室の内部天井にある崩壊現象。50年以上経過して、表面の近くにある鉄筋が錆びていき、それがコンクリートに亀裂を生じさせ始めた。博物館当局は一時的に、これらの穴(右側)に漆喰を塗ろうとしたが、無駄であろう。 |
今日でも見ることのできるコンクリートの穴は漆喰を塗られていないし、切断された鉄筋の残りも専門的なやり方では取り除かれていない。穴には、木製の枠が取り付けられ、タールでシールされている。このようなやっつけ仕事は、毒ガス処理という、細心の注意を必要とする仕事にふさわしくないし、ドイツ的な熟練技能にもあてはまらない。
もしも、戦時中にSSがコンクリートを穿って、穴を開けたとすれば、チクロンBを均等に室内に配分するように、オリジナル(!)の死体安置室(「ガス室」)の天井に、これらの穴を均等に配置するはずであろう(図21と23を参照)。しかしながら、現存の投下穴の配置が意味を持つのは、戦後に「博物館目的のために」偽りの寸法で「作り直された」もの(B. Bailer-Galanda)[169]のためにとくに作られた場合だけなのである。このことは、ソ連人かポーランド人が以前の防空シェルターの内壁を壊したのちに、これらの穴が穿たれたという説に対する強力な状況証拠である。また、今日見ることのできる投下穴は、ふさがれたとされるそれ以前の穴の痕跡をまったく参考にせず、戦後に作られたものであると推定することにも異論がないが、この事実は、ソ連人かポーランド人が以前の防空シェルターの内壁を壊したのちに、これらの穴が穿たれたという説を確証している。[174]
焼却棟の平屋根は、すべての平屋と同様に、防水ではない。雨による腐食が進み、表面の近くにある鉄筋が錆びて、コンクリートに亀裂を生じさせたために[175]、部屋の内部では崩壊現象が起きている、図24参照。もちろん、博物館当局はこれらの場所に漆喰を塗ろうとしたが、すぐに漆喰は、鉄筋の錆びが砕けることによって破壊されてしまった。博物館の管理人は、砕けたモルタルとコンクリートから落下したくずを掃除せざるをえない。屋根に以前の投下穴が残っていたためにこれらの崩壊が起こっていると説明するのは正しくない。4つの事実から反論しうる。
1.
鉄筋は、どのような穴であっても、それを穿つときに取り除かれなくてはならなかったであろう。
2.
天井の古いコンクリートとのちに穴をふさぐために使われた資材との境目を見ることができるであろう。腐食の場所はすべて、コンクリートが同質の構造であることを示している。
3.
これらの場所は、オリジナルの死体安置室の天井に均等に配置されていなくてはならないだろう。
4.
これらの場所は、平らで、規則的な形(円形、四角形、長方形)となっていなくてはならないだろう。
以上のことから確実に結論できるのは、この部屋を殺人「ガス室」として使用したとされている時期に、チクロンBの投下穴はまったく存在しなかったということである。部屋の換気装置が存在したという痕跡もない。さらに、外側から[ガス室]に直接入る入り口もない。犠牲者は死体室(配列室)か炉室を通って入らなくてはならなかった。したがって、犠牲者たちは、ぞっとするような光景を見ながら、すでに殺されている同僚の死体のかたわらを苦痛に満ちて通っていかなくてはならなかった。このような環境のもとでは、犠牲者をだますこともできず、カモフラージュすることもできないであろう。犠牲者から意識的な協力や黙認を取りつけることもできないであろう、「ガス室」への直接の入り口がないということは、フォーリソンの言葉を借りれば、「ドアがなければ、絶滅もない」ということである。
規模、設備、建築様式の面で、これらの焼却棟は、当時のドイツ、および現代のドイツの民間焼却棟施設に匹敵する。[176] この意味で、ビルケナウ収容所の建設者の裁判に触れておこう。1972年、法廷は、主任建設者W.
デヤコと主任建設者F.
エルトルという二人の被告を無罪とした。大量殺戮に関与協力したという嫌疑が立証できなかったからであった。[177] この裁判の過程で、焼却棟の建設についての現存の図面と文書に関する専門家報告が書かれたが、それは、これらの建物が大量殺戮装置として使われたり、改築されたりすることはありえなかったという結論に達していた。[85] 最近の目撃証言では、アウシュヴィッツの主任建設者ヴァルター・シュライバーが、これらの焼却棟の計画について次のように述べている。[178]
Q.:
あなたの権限は。
A.:
監督技師として、フタ社を監督し、SS中央建設局と交渉しました。また、わが社の発送状を点検しました。
Q.:
収容所に入りましたか。どのようなことが起こりましたか。
A.:
はい。収容所の通りを妨げられずに、どこにでも歩いていくことができました。収容所を出入りするときに、看守に呼び止められるだけです。
Q.:
囚人の殺戮や虐待について、見たり聞いたりしましたか。
A.:
いいえ。しかし、比較的劣悪な状態の囚人の列を収容所の通りで見ることができました。
Q.:
フタ社は何を建設したのですか。
A.:
とくに、大きな死体安置室を持つ焼却棟ⅡとⅢでした。
Q.:
これらの大きな死体安置室は大量殺戮のためのガス室であったというのが定説ですが。
A.:
私たちが利用可能な図面からは、そのようなことはまったく推測できません。私たちが描いた図面と臨時の発送状は、これらの部屋を普通の地下室としているだけです。
Q.:
鉄筋コンクリートの天井の中の投下ハッチについて知っていますか。
A.:
いいえ、記憶にはまったくありません。しかし、これらの部屋は防空シェルターとしても使えるように考えられていたのですから、投下穴は逆の効果をもたらしてしまうことでしょう。私ならば、このような措置には反対したでしょう。
Q.:ビルケナウの地下水位は極端に高いのに、なぜこのような大きな地下室が建設されたのですか。
A.:
わかりません。しかし、もともとは、地上の死体安置室が建設されるはずでした。地下室の建設は、維持とシールの面で大きな問題を引き起こしました。
Q.:
あなたが欺かれており、SSはあなたに知らせることなく、あなたの会社にガス室を作らせたとは考えられませんか。
A.:
建設現場で何が起こっているか知っている人であれば、それはありえないことがわかるはずです。
Q.:
ガス室について知っていますか。
A.:
当然です。東部地区にいた者なら、殺菌駆除室を知っていました。私たちも殺菌駆除室を建設しました。それは、殺人ガス室とはまったく異なっています。私たちはこのような施設を建設し、それがどのようなものであるか知っていました。私たちは建設会社として、装置の設置の後に、しなくてはならない仕事を抱えていました…
Q.:
あなたの会社が、工業的な大量殺戮のためのガス室を建設したという話を知ったのはいつのことですか。
A.:
戦後になってからです。
Q.:
それを知って驚きませんでしたか。
A.:
驚きました。戦後、ドイツで上司と接触して、この件について尋ねました。
Q.:
何を知りましたか。
A.:
彼も戦後になって知ったそうです。しかし、フタ社が問題の地下室をガス室として建設したことはないと保証してくれました。
Q.:
フタ社が撤退したあとに、建物の改築が行なわれたとは考えられませんか。
A.:
考えられますが、時期的な要素を考えると、その可能性はないと思います。結局、SSには協力してくれるものが必要でしょうし、SSは、囚人を使っても、自分たちだけでは作業できないでしょう。ガス室については戦後に知るようになったのですが、ガス室の稼動のための技術的必要にもとづけば、私たちが建設した建物は、必要設備の面でも、実際の作業の面でも、この目的のためにはまったく不適当でしょう。
Q.:
それをなぜ公表しなかったのですか。
A.:
戦後当初は、私は別の問題を抱えていました。現在は、そうすることは許されていません。
Q.:
この件で、証人として尋問されたことがありますか。
A.:
連合国も、ドイツ当局も、オーストリア当局も、焼却棟Ⅱ、Ⅲ、Ⅰの建設についての私の知識、旧総督府での私の活動に関心を示しませんでした。フタ社での私の仕事は知られていたにもかかわらず、この件で尋問を受けたことはありません。フタ社での仕事については、履歴書、求職書に記しました、しかし、事実についての知識は危険であるために、その知識をぜひ広めようとは考えませんでした、しかし、今となっては、嘘がますます大きく広がっていき、私のような証人がゆっくりと、確実に死に絶えつつありますので、私は、喜んで、私の話を聞いてもらい、本当のことを明らかにしておきたいと思っています。重い心臓病をかかえていますので、いつ死んでも不思議ではありません。今がそのときなのです。」
ペルトは焼却棟Ⅱについて次のように述べている。[179]
「アウシュヴィッツはもっとも神聖な場所のようです。私は何年も準備してそこに出かけました。愚か者[ロイヒター]がまったく準備もせずにそこに立ち入りました。それは冒涜です。もっとも神聖なる場所に入って、のろいの言葉を吐くべきではありません。」[00:44:30]
「焼却棟Ⅱは、アウシュヴィッツの最上[意味不明の単語、悪名高いという意味か?]の場所です。2500平方フィートのこのひとつの部屋の中で、地球上のどの場所でよりも多くの人々が命を落としました。50万人が殺されたのです。人間の苦難の地図を描くとすれば、虐殺行為の地図を描くとすれば、こここそが絶対的な中心でしょう。」[01:00:00]
「ホロコースト修正主義者が正しいということになれば、私たちは第二次世界大戦についての私たちの歴史観を失うでしょう、民主主義についての歴史観を失うでしょう。第二世界大戦は生きるか死ぬかの戦争でした。善と悪のあいだの戦争でした。この戦争の核心であるアウシュヴィッツを全体の構図から取り出してしまえば、私たちはすべてを理解できなくなってしまいます。私たちは全員で、精神病院に入ることでしょう」[01:23:30]
ペルト教授は、ホロコーストを信じなければ、精神病院に収容されるだけであると考えているが、このような考え方に惑わされてはならない。だが、ペルトの証言が焼却棟Ⅱ(焼却棟Ⅲ、あまり集中しては使われなかったとされているが、焼却棟Ⅱの対称形)の重要性を強調していることに注目すべきであろう。焼却棟Ⅱについて以下で論じておこう。
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図26 (上):
アウシュヴィッツⅡ/ビルケナウ収容所の焼却棟Ⅱと焼却棟Ⅲ(対称形)の死体安置室1(いわゆる「ガス室」)の平面図
a:死体安置室Ⅰ(「ガス室」)30×7×2.41m
b:死体安置室Ⅱ(「脱衣室」)49.5×7.9×2.3m
c:死体安置室Ⅲ(のちに分割された)
d:死体を地上の炉室に運ぶエレベーター
e:換気口
f:コンクリートの支柱
g:コンクリートの梁 h:のちに付け加えられた地下室への入り口
図27 (下):
アウシュヴィッツⅡ/ビルケナウ収容所の焼却棟Ⅱと焼却棟Ⅲ(対称形)の死体安置室1(いわゆる「ガス室」)の立面図。[180]
1.
排気口
2.
吸気口
3.
地面
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十分な換気装置を備えた、この特別死体安置室は、疫病の犠牲者用の配列室として当時も使われていたし、今日でも使われている。この地下室は、"Infektionsleichenkeller" (感染死体安置室)と技術文献では呼ばれている。図26は、焼却棟Ⅱの死体安置室1(いわゆる「ガス室」)の平面図であり、焼却棟Ⅲの死体安置室1はその対称型になっている。図27はその立体図である。[180] 立面図からもわかるように、これらの死体安置室の大半は、地下にある。細長い形状、地下、という位置、炉室と接触していないことのために、この区画は、なべて低温であった。これは、これらの部屋が死体安置室として計画され、図面でもそのように呼ばれていることと合致している。
アウシュヴィッツでは、疫病が蔓延したピークの時期には、1日に数百名が死に、その死体をどこかに保管しなくてはならなかったので、このように大きな地下室が計画されたとしても、驚くべきことではない。プレサックでさえも、これらの部屋は無害な死体安置室として計画され、犯罪的な目的を持っていなかったことを認めざるをえなくなっている。
プレサックが掲載している資料によると、この施設は、中央収容所に新しい焼却棟を建設するという1941年の計画に由来している。[181] ビルケナウの焼却棟にアクセスする道は、煙突翼の側にあった(図29を参照)。しかし、中央収容所のためのオリジナル図面では、建物のもう一方の側にアクセスする道があった。さらに、ビルケナウの地下水位は高かったので、死体安置室の場所を完全に地下にはできなかった。[182] それゆえ、地下室は、持ち上げられて、地下水に完全に覆われないようにされた。地下室の上には土が積み上げられたので、車両が直接地下室にアクセスすることはできなくなった。だから、外側から地下室に直接にアクセスすることは阻まれた。このために、死体安置室3の事務所に階段がつけられ、また、死体安置室2の端にもつけられたのである(図29参照)。
1942-43年の冬に、ドイツ軍がスターリングラードで敗北したのちに、戦況が劇的に転換し、すべての建設計画はコスト削減され、できるかぎり人力が必要とされた。このために、新しい階段には、古い階段のように死体滑降路がついていなかった。その他のコスト削減のための変更が、焼却棟Ⅲになされた。[183] 焼却棟ⅣとⅤ使われた資材の質が悪かったので、これらの焼却棟はすぐに可動停止してしまった(次章参照)。
焼却棟ⅡとⅢの、死体滑降路を持ったオリジナルの地下階段はこのときまでに完成していたが、そこにアクセスするには難儀であった。これらの階段が作られてしまったという事実が、中央収容所のための古い計画があわててビルケナウの新しい状況に移し変えられてしまったことを示している。
死体安置室の壁は、二重の煉瓦でできており、隙間にはタールの層が塗りこめられている。[183] 内壁は、硬いセメント豊かな材料で塗られており、天井とコンクリートの支柱は、木造の支えのしるしを示しており、漆喰で塗られてはいない。鉄筋コンクリート製の屋根は、タール層から分離している。タール層は、それを覆っているかなり薄いセメント層による環境的・機械的損傷から保護されている。屋根の上と二つの煉瓦の壁のあいだのタール層は、ビルケナウの湿地帯の高い地下水位の水を防ぐバリアーとして、不可欠であった。二つの死体安置室には、いくつかの排水溝があった。
5.4.1.2.
強迫観念に付きまとわれた「犯罪の痕跡」の探求
プレサックは、アウシュヴィッツ博物館の大量の資料、のちには、モスクワに保管されている中央建設局の資料を渉猟した最初の研究者であった。また、今では広く使われている「犯罪の痕跡」という用語を作り出した最初の人物であった。プレサックは、殺人「ガス室」が建設されたことを立証する資料がまったくなかったので、意味論的な詐術にうったえ、無害な資料に犯罪的な意味を付け加えた。それは、アウシュヴィッツの焼却棟には何か正しくないことがあるという糸口とされた。しかし、研究が進むと、プレサックその他が作り上げ、ときには空想的な頭脳の曲芸にともなわれたこれらの「犯罪の痕跡」すべてが、崩壊してしまった。そのうち、もっとも有名なものをあげて、手短に反駁しておこう。
事実1:
階段を介した外部からの追加入り口路は、焼却棟ⅡとⅢの地下室に、のちに設置された。
間違った追加の主張:
古い、オリジナルの階段入り口にあった死体滑降路は破棄された。[184]
間違った結論:
死体滑降路のない新しい階段が作られ、同時にオリジナルの階段入り口路が破棄されたことは、一つのことだけを意味している。すなわち、もはや死体が地下室に滑り落ちていくのではなく、まだ歩くことのできる人間が数ステップを下っていったのである。したがって、彼らは入るときにはまだ生きており、建物に入ったのちに殺された。[185]
正しい結論:
新しい階段は、計画の変更にもとづいて必要であった、前章参照。このことは、計画の題「道路側への入り口路の変更」によっても確証されている。[186] さらに、死体滑降路は破棄もされていない。事実、マットーニョが示した以下の図面すべてに登場している。[187]
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図28:
アウシュヴィッツ中央収容所のためにもともと計画された新しい焼却棟の配置図 |
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図29:
焼却棟Ⅱの配置図、変更された計画。別の側(対称形の焼却棟Ⅲ)からのビルケナウの死体安置室と入り口路の高い位置にあわせるため。 |
「焼却棟Ⅲのための1943年2月22日の中央建設局図面2136」[188]
焼却棟Ⅲのための1943年3月18日の中央建設局図面2197」[189]
焼却棟ⅡとⅢのための1943年9月24日のフタ社の図面109-15」[190]
焼却棟ⅡとⅢのための1943年10月9日のフタ社の図面109/16A[191]
さらに、「滑降路」は、焼却棟Ⅱについての、1943年3月13日のHäftlingsschlosserei
あての中央建設局指示200と204に、存在しているものとして言及されている。[192]」
さらに、焼却棟ⅡとⅢの死体安置室は、その稼動期間すべてを通じて、疑いもなく、『自然死』(疫病、消耗、老衰など)し、焼却を待つ収容者の死体―少なくとも数千体――を一時的に保管するために使われていた。このような滑降路を持たない階段を通ったのは、まだ自分で階段を上り下りできる、生きている人々だけであったとすれば、次のような疑問が生じるであろう。『自然死』した収容者の死体は、どのように死体安置室に入ったのであろうか(もしくは、どこに保管されたのであろうか)。彼らも歩いていったのであろうか。そうではあるまい。彼らは運ばれたのである。数階段を下って運ばれなくてはならなかったのである。焼却棟の内部だけではなく。滑降路をもたない建物に死体を運ぶのは、不可能な作業なのであろうか。そうではあるまい。だから、滑降路がなくなったことは、生きている人々だけが建物に入っていったことを立証しているのであろうか。もちろん、立証してはいない。では、SSはなぜ、新しい階段に滑降路をつけなかったのであろうか。おそらく、たんに、ビルケナウという新しい場所での変更のために、すべての計画の費用が膨らんでしまったため、SSはコストダウンをはかりたかったためではないだろうか。この説明の方が、はるかにシンプルで論理的ではないだろうか。
事実1: SS中央建設局の資料には、焼却棟Ⅱのなかの"Auskleidekeller"
(脱衣室)について触れている資料がある。[193]
事実2:
焼却棟Ⅱのなかの"Vergasungskeller" (ガス処理室)について触れている資料がある。[194]
事実3:
焼却棟Ⅲのための"14 Brausen" (14
シャワー)をあげている資料がある。[195]
事実4:
焼却棟Ⅱの死体安置室1の天井の下側に木造の板張りの断片があることが、今日でも見てとることができる。[196]
間違った結論:
焼却棟ⅡとⅢの死体安置室1は、「偽の」シャワーヘッドを備えた殺人「ガス室」として建設された。「偽の」シャワーヘッドは、コンクリートに残された木片につけられており、犠牲者を欺くために使われた。死体安置室2は、犠牲者のための脱衣室であった。[197]
正しい結論:
上記の資料では、"Vergasungskeller"用語がどの部屋のことを指しているのかわからない。1940年代には、コンクリートの天井に穴を開ける適切な方法、プラスティックの差込口もなかったので、装置をむき出しのコンクリートに固定するには一つの方法しかなかった。すなわち、木片をコンクリートの上に流し込んで、その上に、電線、水道管、その他の装置をネジで固定するというやり方である。死体安置室1の天井にそのような木片が存在していることは、そこにシャワーヘッドが固定されていたことを証明しているわけではない。電灯や電線がそこに固定されていた可能性のほうが高い。さらに、資料に登場する「シャワー」がプレサックの述べているような「偽物」であるという証拠もまったく存在しない。実際には、中央建設局は、ビルケナウの焼却棟を、殺菌駆除施設、囚人のシャワー、脱衣室を備えた衛生センターに拡張しようとしていたが、のちには、この計画を放棄した。マットーニョはこの説を立証する膨大な資料を公表している。[198]
「トップフ社は、アウシュヴィッツの焼却棟Ⅱの特定の装置の建設に必要な金属について、1943年4月13日の'Aufstellung' (明細書)を記しているが、そこには次のような情報の断片がある。[199]
「2
アウシュヴィッツ捕虜収容所焼却棟Ⅱのためのトップ社製殺菌駆除ヒーター」
5月14日、ビショフはトップフ社に次のような「緊急電報」を発している。[200]
「月曜日に、100ほどのシャワーのための期限のすぎた温水プロジェクトを持ってくるように。また建設中の焼却棟Ⅲのごみ焼却炉の中に温水器かボイラーの設置。あるいは、放出されている高い温度を利用するための排出口の設置。大きな保存コンテナの収容のために臨時に炉の周りの高い壁を作ることは可能である。5月17日に、プリュファー氏と協議の上で、適切なデザインをいそいで送るように。」
1942年6月5日、トップフ社は『ごみ焼却炉にいボイラーを設置することについての』図面D60446を中央建設局に送った。このプロジェクトは、焼却棟Ⅱのための設置にも関係していた。[201]
ビルケナウの焼却棟に関して1943年6月に書かれたにちがいない日付のない「質問書」の中で、「排気ガスを利用しているか」との質問に答えて、中央建設局長ビショフは、「計画されているが実行されていない」と回答し、「もしそうであれば、何の目的で」という質問には、「焼却棟ⅡとⅢの入浴施設のために」と答えている。[202]
最後に、VEDAG Vereinigte
Dachpappen-Fabriken Aktiengesellschaft (合同屋根フェルト処理工場会社)
社からの発送状がある。それは、1943年7月28日付で、「アウシュヴィッツの焼却棟」に関するものであり、1943年5月21日から7月16日のあいだに行なわれた「殺菌駆除施設のシール作業が完了したこと」(強調――引用者)に触れている。図30参照。[203]
結論を下す前に、いくつかの説明が必要である。2つのトップフ社製の殺菌駆除ヒーターは中央サウナに設置されていたが、上記の資料は、焼却棟Ⅱとしている。焼却棟Ⅲ(と焼却棟Ⅱ)に100個のシャワーを設置するのは、焼却棟の「特別労務班」の囚人のためではなかったにちがいない。収容所全体の囚人のために設計されていた中央サウナのシャワー室にはわずか50のシャワーが設置されていたにすぎないからである。[204]だから、上記の「質問書」にある「焼却棟ⅡとⅢの入浴施設」は、収容所全体の囚人のためであったにちがいない。このことは、焼却棟ⅡとⅢを衛生センターに変える計画があったことを意味している。
このセンターの目的は囚人とその衣服を清潔にすること、すなわち、汚れた、疫病を媒介する寄生虫を駆除することであった。しかし、それには、殺菌・駆除施設が必要であった。しかし、焼却棟の拡張は完了しなかった。この目的にもっと適切な中央サウナの工事がすでに始まっていたからである。にもかかわらず、上記の資料は、中央建設局が、同じ建物の中で、焼却、囚人の清潔化、衣服の殺菌駆除を行なわせようとした意図を一時的に持っていたことを立証している。
ここで、次のことを指摘しておきたいと思う。このプロジェクトでは、シャワーのための温水システムは、焼却棟の炉ではなくゴミ焼却炉につながっていた。これは、ルブリン強制収容所の5炉室炉も同様である。私見では、このような決定の理由は、焼却棟の炉が継続的に使われて、1日を通じて、十分な温水を提供するのにはふさわしくなかったということであった。言い換えれば、焼却棟の炉は、温水システムを効果的に稼動させるのには適切ではなかったのである。
VEDAGの発送状[203]は中央サウナに設置された温風殺菌駆除室に言及しているが、このことは、上記の最初の発送状と同じ日付と内容を持つVEDAGの発送状によって確証される。しかし、それは、'BW 32 =殺菌駆除施設',
すなわち、中央サウナの中の施設に言及している。[図31参照、205] しかし、この発送状の題が「アウシュヴィッツ焼却棟」であるのは何のためであるのか。
この題は、その後中央サウナに設置された「焼却棟Ⅱのための2つのトップフ社製殺菌駆除ヒーター」についての、上記の1943年4月13日のトップフ社の「明細書」と関連している。いずれにしても、この2つの資料は、焼却棟と殺菌消毒との関連を明らかにしており、少なくとも、中央建設局は同じ建物の中に焼却と殺菌駆除を結び合わせようとしていたことを明らかにしている。」
5.2.2章で明らかにしたように、シャワー室、殺菌駆除室、脱衣室、着衣室、焼却棟を持つ衛生サンター施設は、けっして異常ではない。したがって、プレサックとペルトがそれらを「犯罪の痕跡」としているのは、間違った解釈にすぎない。
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図33アウシュヴィッツの木造殺菌駆除室のドア、ガス気密措置がほどこされており、のぞき穴と金属製の防護網が付けられている。殺人「ガス室」のガス気密ドアもこのようなものであったと考えられている。ひどくもろい錠がついていることに注意。 |
事実1:
焼却棟Ⅱの死体安置室1はのぞき穴を持つガス気密ドアを備えていた。[206]
事実2:
死体安置室1のドアは、もともと内開きの二重ドアとして設計されていたが、外開きの二重ドアに取り替えられた。[207]
間違った結論1:
焼却棟Ⅱの死体安置室1は、ガス気密ドアを持つ殺人[ガス室]に改造された。[208]
間違った結論2:
死体安置室1の内開きのドアは、ガス処刑された死体がドアの前に山積みされるので、開けることができなかったにちがいない。これに気づいたSSは、ドアを外開きに変えた。
正しい結論1:
たとえ、のぞき穴が殺菌駆除室には必ずしも必要ではなかったとしても、アウシュヴィッツに設置された殺菌駆除室にも、写真(図33)にあるようなのぞき穴が備えられていたことが証明されている。[209] ある資料は、100cm×192cmのガス気密ドアが焼却棟ⅡとⅢの死体安置室1([ガス室])のために発注されてたことを示している。[210]
引渡し図面、すなわち焼却棟Ⅱの最終図面では、ドアのサイズは以前のすべての図面と同様に190cm×200cmであり、これらのガス気密ドアはマッチしないであろう。[211] 廃墟を調べれば、ドアがふさがれて狭くなったのかどうか、ドアの枠の痕跡が残っているかどうか、今日でも、検証可能であろう。これを検証するには、発掘作業が必要であろう。
技術者NowakとRademacherは、アウシュヴィッツの囚人が木の板から作った「ガス気密」ドアは、技術的な意味では、ガス気密ではありえないことを明らかにしてきた。木の板は気密ではなく、建具はボルトによって木の板に固定されており、シール素材はフェルト片だからであるというのである。[212]
殺人「ガス室」があったとすると、そのドアは外開きでなくてはならないであろう。内開きのドアは、ドアの前にある囚人の死体によって、開けることができなくなってしまうからである。このようなドアには、パニックにおちいった数百の人々の圧力に耐えることができるような、とくにしっかりとした、錠や蝶番などの装置が必要であろう。この圧力については、サッカーの試合でパニックにおちいった観客の写真を見れば、容易に想像できる。観客席を隔てているフェンスや隔壁は、このような状況では、草の葉のようになぎ倒されている。いずれにしても、アウシュヴィッツにあったような、一時しのぎに気密とされた単純な木造ドア――この写真はプレサックの著作に掲載されている(図33参照)[213]――では、このような圧力に耐えられないであろう。
収容所当局は、頑丈な、技術的にガス気密の鉄製ドア(防空シェルターのドア、図34)を提供されていたので、このようなドアを発注することができたはずであるが、実際には、発注しなかった。そのようなものを切実に必要としていなかったのであろう。[212]
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図
34:カールスルーヘの個人の家の地下室にあるドイツの防空シェルターのドア、1939年。©
Photo: R. Faurisson, 1991 |
この意味で、アウシュヴィッツにあったもろい木造のドア(害虫駆除目的にだけ使われた)と、合衆国の処刑殺人ガス室で使われている技術的に気密な、頑丈な鉄製のドアを比較すれば、すなわち、図33と図5を比較すれば、ことの本質が明らかとなるであろう。
焼却棟Ⅱにフェルトのシールのドアが設置されたことは、一時的に焼却棟を衛生センターに拡張しようという計画があったこと、あるいは、ビルケナウ収容所の頑丈な鉄筋コンクリートの地下室だけを、主任技師シュライバーが述べているように、防空シェルターとして利用しようとしたことに関係しているのであろう。二、三の目撃証言が述べているように、この地下室は実際に囚人用の防空シェルターとして使われた。[214] このことで、ここでは扱っていないその他の小さな「痕跡」について説明できるであろう。クロウェルのいくつかの論文は、SSが自分たちのだけではなく、囚人用の防空シェルター施設を建設したことを明らかにしている。[215]
正しい結論2:
ドアの開き方の変更は、この死体安置室の換気システムのデザインによるものであったろう。このシステムの吸気は、排気よりも低い圧力を持っていたので(次章参照)、かなりの圧力低下が死体安置室1のなかで生じ、その他の建物から空気を吸い出してしまう。悪臭が他の建物にはいきわたらないので、多くの死体を保管する死体安置室にとっては、このことはプラスの効果である。外開きの二重ドアは、低い圧力の側(死体安置室1内部)に自動的に開くであろうし、高い圧力の方に自動的に閉じるからである。
事実:焼却棟ⅡとⅢのすべての部屋は、効率的な換気装置をそなえていた。[216]
間違った結論:
焼却棟ⅡとⅢの死体安置室1は毒ガスを排出するための装置をそなえた殺人「ガス室」に改造された。[217]
正しい結論:
疫病による大量の犠牲者で満杯で、窓もなく、一つのドアだけをもった大きな死体安置室が、換気装置をそなえていないとは考えられない。しかし、換気能力から考えると、これらの装置は典型的な死体安置室用のものであった。[218] 送風機の能力は、システムの設置後にトップフ社が中央建設局に送った発送状から見ることができる。[219] その発送状によると、二つの死体安置室#1、すなわち、いわゆる「ガス室」(発送状では"B-room")はそれぞれ、 4800 m3/h
の吸・排気送風機を備えており[220]、一方、"L-room" (いわゆる「脱衣室」)には、10000 m3/hの能力の排気送風機だけが設置されていた。[221]
二つの死体安置室(死体安置室1÷504 m3、死体安置室2÷900 m3)の容積を考えると、いわゆる「ガス室」では 1時間あたり(4,800/504 =)約9.5回、脱衣室では1時間あたり(10,000/900 =)約11回空気を入れ換えることができた。1943年5月末、すなわち、大量殺戮が始まったとされている2ヵ月後の時点で、「ガス室」の換気能力は、脱衣室、ひいては、解剖室、配置室、洗浄室――その換気能力はもっと大きく、1時間あたり
約131/3
回であった――より低かったのである。このようなことが考えられるであろうか。
焼却棟の建設に関するWilhem Heepkeの古典的な研究は、死体安置室には、最小限で1時間に5回の空気交換が、フル稼働のときには、10回の空気交換が必要であると述べている。[222] したがって、焼却棟ⅡとⅢの死体安置室に設置された換気装置は、その大きさから考えると、フル稼働状態の死体安置室もしくは疫病の犠牲者の死体で満杯の死体安置室を想定して、設計されたことは明らかである。比較してみると、空気循環システムを持つチクロンB殺菌駆除室には、1時間で72回空気交換する装置が設置されていた。[223] さらに、プレサックでさえも、SSは犯罪的意図をもっていなかったと認めている1941年の時点で、中央収容所の新しい焼却棟のオリジナル計画では、解剖室(!)と死体安置室に1時間17回(!)の装置が予定されていた。[224] この交換比率は、いわゆる「ガス室」を含む焼却棟ⅡとⅢの部屋すべての入れ換え能力よりもかなり高い。したがって、通常の健全な計画から(悪意のあるとされている)建設計画に移っていく途中で、空気交換比率は劇的に下がっていったことになる(おそらくコスト削減のために)。SSは、死体安置室を健全な利用から殺人「ガス室」に改造するにあたって、換気能力を上げるのではなく、下げたことになる。このようなことを信じることができるであろうか。かくして、これらの焼却棟に換気装置が設置されたことがその犯罪性を立証しているという説は決定的に論駁されているのである。
事実:
焼却棟ⅡとⅢの死体安置室は、一時的に暖房システムが考慮されたことがあるけれども、暖房されなかった。死体安置室1の水道管は除去された。[225]
間違った結論:
通常の稼動では、死体安置室には暖房は必要ない。焼却棟ⅡとⅢは殺人「ガス室」に改造され、「ガスが速やかに作動するように」暖房システムを備えた(そのように計画された)。パニックにおちいった囚人が水道管を破壊しないように、死体安置室の配管システムを取り除く必要があった。[226]
正しい結論:
専門文献によると、死体安置室にも何らかの暖房装置が必要である。死体を冬季の凍結気温から保護しなくてはならないからである。[227] したがって、通常の稼動においては、死体安置室は暖房装置を必要としていたかもしれないが、アウシュヴィッツの死体安置室に暖房装置を備える当初の計画は破棄されたので[228]、上記の結論は不適切である。水道管の除去については、次のような「非犯罪的」説明の方が論理的であろう。すなわち、これらの死体安置室には、暖房システムが設置されなかったので、水道管は凍結によって破裂する危険性があった。水道管が破裂して、死体安置室が水浸しになることを防ぐために水道管が除去されねばならなかった。
事実:
「電力供給と強制収容所と捕虜収容所の設置」に関して、1943年1月29日のアウシュヴィッツ中央建設局資料ノート ("Aktenvermerk")は次のように述べている。「229」
「しかしながら、[焼却棟Ⅱ]を稼動させることは、焼却棟への[電力]供給がその出力消費に対して弱すぎるので、利用可能な装置の限定的使用においてのみ可能である(この場合、焼却棟と同時の特別措置[原文は"Sonderbehandlung"]
が可能となるでしょう]。)
間違った結論:
ここに言及されている「特別措置」は明らかに電力を必要としていた。殺人「ガス室」は電気式の換気装置を備えていた。ここから、ペルトは、「特別措置」とは、電力の不足にもかかわらず、換気装置を稼動させることによって可能となる殺人ガス処刑をさしていると結論している。「230」
正しい結論:
第一に、この資料からは、「特別措置」のために電力が必要とされていたのかどうか明らかではない。さらに、1943年1月29日には、死体安置室のための換気装置が運ばれてもおらず、ましてや稼動してもいない。建設開始は1943年2月10日以前には予定されていなかった。「231」 設置が指示されたのは、1943年2月22日の報告においてである。「232」したがって、1943年1月1日に「利用可能な装置」には死体安置室の換気装置が含まれていることは絶対にありえない。実際には、W. Stromberger[104]や最近ではマットーニョが指摘しているように[233]、この場合の「特別措置」という用語には、「犯罪的」意味合いはまったく存在しない。
「1942年にはチフスが蔓延し、事態は危機的であった。このために、SS経済管理局D課長で、SS師団長、武装SS少将グリュックは、1943年2月8日に、『収容所の完全な検疫』[234]を命令している。このような歴史的文脈のなかで考えると、1943年1月29日のメモ文書にある『特別措置』という単語は、その他の資料にも登場している、衛生的な意味の拡張であるにすぎない。[235]すなわち、衛生的な観点から見ると、『利用可能な装置』は、限定的使用方法で、適切な焼却を保証したのである。
このことは、数週間前にさかのぼる文書で確証されている。1943年1月13日、ビショフは、アウシュヴィッツのドイツ武器会社に『建物設計室用の大工仕事の実行』について書簡を送っている。このなかで、ビショフは、『収容所の焼却棟Ⅰ用の』ドアの入手が遅れていることに不満を述べている。そのなかで、彼は次のように述べている。 『とくに、42年10月26日に発注した強制収容所の焼却棟Ⅰ用のドアBftgb.Nr.17010/42/Ky/Paは特別処置の実行のためにきわめて必要である。』[236]
『特別措置の実行』という用語には、まったく犯罪的な意味合いはない。それどころか、それは、ビルケナウのBⅢ地区の囚人用病院を含む衛生施設の建設に関係している。それゆえ、焼却棟が『特別処置の実行』のために建設されたとしても、それは、焼却棟がこれらの施設の一部であることを意味しており、その衛生的機能がもっぱら、死んだ囚人の死体の焼却であったことを意味しているのである。」
5.4.1.2.7.
「ガス検知器」と「HCN残余物検知器」
事実1:
トップフ・ウント・ゼーネ炉建設社の暖房技術者イェーリングが焼却棟Ⅱのために「10個のガス検知器」を注文した、1943年2月26日の電報がある。
事実2:
上記の電報と関連して、"Anzeigegeräte für
Blausäure-Reste" (HCN残余物検知器)について触れている1943年3月2日のトップフ社の書簡がある。
間違った結論: SSは、焼却棟Ⅱでシアン化水素を使った大量殺戮が終わったのちに、「ガス室」の換気がうまくいっているかどうかを調べるために、検知器を注文した。[237]
図35:
CO2
and/or CO+H2-
ガス用のジーメンス社製検知器の写真。ガス検知器の一部。[241] |
正しい結論:
技術文献によると、「ガス検知器」とは、炉からの排気ガスの組成を検査する排気ガス分析器である。[238] このような装置は焼却棟の標準装備であった。上記の注文書が触れているのはこのような装置であったことは、これを注文したのが炉建設会社の暖房技術者であったことからも明らかである。1943年3月2日のトップフ社の書簡は、このような装置を販売している会社を見つけなくてはならないと述べているが、いくつかの面で、不合理な箇所がある。[239]
以上の考察から、W. Rademacher、 C. Mattogno、そして筆者自身も、"Anzeigegeräte für Rauchgasanalyse"(排気煙分析検知器)という単語が"Anzeigegeräte für Blausäure-Reste"(HCN残余物検知器)という単語に置き換えられているトップフ社の回答が偽造文書であると確信している。
事実1:
焼却棟ⅡとⅢの死体安置室1の屋根には70cmほどの3つか4つの穴があったとする目撃証言がある。ある証言によると、針金網柱が死体安置室の床から天井の穴を通って、屋根に突き出ていた。チクロンBが大量殺戮の目的で、これらの穴に投入されたという。[242]
事実2:
屋根の上にある物体を写した二つの写真がある。
事実3: "Drahtnetzeinschubvorrichtungen" (針金網投下装置)に触れた資料がある。
図36:
ビルケナウの焼却棟Ⅱの写真、1943年2月撮影。[244]
図37:図36の拡大。
死体安置室の外枠とサイズが書き込まれている。3つの物体の幅は、55cmから75cmほどである。さらに、左から一番目の物体の影は、ほかの二つに比べて、かなり小さいことに注目すべきである。
Fig. 38:
焼却棟Ⅱの死体安置室1の横断面。物体の遠近法消尽線、すなわち、交差線上にある物体の推定位置。[245] 3つの物体は明らかに、屋根の上で均等には配置されていない。灰色の四角形は、今日現存している二つの穴の場所
図39:1943年1月20日の焼却棟Ⅱの写真、図36と同じ角度から。しかし、死体安置室1の上には物体は存在しない。
図40: 1944年8月25日に撮影された連合航空写真RG 373 Can F 5367,
exp. 3185 of Birkenau campの拡大写真。興味深い特徴は、二つの焼却棟の死体安置室1(「ガス室」)の上にある黒い点である。これについては、今日では、チクロンBの投下穴が存在しなかったことが知られている。
図 41:
図40の航空写真の解析。死体安置室1の上の点が投入口ではありえないことを簡単に見て取ることができる。大きすぎるし、不規則すぎるし、影の方向が間違っている。
図42:
航空写真に写っている焼却棟Ⅱ(1)の死体安置室1の上にある点(3)の場所とサイズ、ならびに、今日現存している穴の場所(2)の解析。[250]
図43:焼却棟Ⅱの死体安置室1(「ガス室」)の廃墟からの内部写真。矢印は、撮影した場所をさしている(8.3.3章を参照)。
図44:焼却棟Ⅱの死体安置室1(「ガス室」)の天井のいわゆるチクロンB投下穴。地下室内に入ることができる入り口。
図45:焼却棟Ⅱの死体安置室1(「ガス室」)の天井。サンプル1と2を採取した場所。
図46:焼却棟Ⅱの死体安置室1(「ガス室」)の屋根のいわゆるチクロンB投下穴。1991年12月。明らかに、鉄筋ロッドがきれいに取り除かれていない。曲げられているにすぎない。
図47:コンクリートの屋根のセメントの中に埋め込まれる、留め釘のついたたがをはめる鉄。
間違った結論:
目撃証言は正しい。
正しい結論: プレサックは、死体安置室1の上ある四角の物体を写した焼却棟Ⅱの写真を掲載している(明らかに4番目の物体は地下室のうしろにある)。[243] 同じ写真はチェクの著作にも登場している。[244] 撮影されたのは1943年2月初頭であり(図36参照)、図37は部分拡大したものである。プレサックが考えているように、これらの物体が本当にチクロンB投下穴であれとすれば、この物体の状態は次のようでなくてはならないであろう。
a.
同じサイズ。
b.
規則的に並べられている。
c.
屋根の上に規則的に配置されている。
d.
ほぼ同じような色。
e.
ほぼ同じ影を投げかけている。
図37は、地下室の外枠を示しており、その幅と3つの物体の幅をおおよそ明らかにしている。写真の解像度は普通であるにもかかわらず、これらの物体の幅は同一ではなく、屋根の上に均等にも配置されておらず、逆に、互いに立っている位置が接近しすぎていると結論できる。また、左から一番目の物体の影が、ほかの二つの物体の影と比べると、きわめて明るい色であるのも特異である。図38は、これらの物体の位置を上から眺めた図である。[245] 上記のaからeまでの条件を満足させるものは一つもないので、これらの物体がチクロンB投下穴の屋根に突き出た部分であるという説は、放棄されねばならない。
さらに、死体安置室を写したほかの写真には、これらの物体は写っていないことも指摘しておかなくてはならない。1943年1月20日に撮影された写真(図39)[246]、および、1943年夏に撮影され、プレサックの掲載しているもう一つの写真である。[247] それゆえ、1943年2月に撮影された写真に写っている物体については、別の説明を求めなくてはならない。たとえば、おそらく建物の建設中に屋根の上におかれた何かの物体であったかもしれない。あるいは、あまりありそうもないことであるが、身の毛もよだつことに、あとで、写真に手が加えられたのかもしれないということである。
図40は、1944年8月25日に撮影されたビルケナウ収容所の連合国の航空写真の拡大である。[248] 黒い部分が(矢印)を焼却棟Ⅱの死体安置室1(「ガス室」)屋根、横翼の上に見ることができる。この航空写真を立体的に観察すると、図40の黒い部分には高さがないことがわかる。[249]
もしも、チクロンBの投下穴が目撃証言の述べているように各側面70cm(21/3 ft)のサイズをもっていたとすれば、航空写真の点は2-3㎡(20-23 ft2)であるので、その点ではありえない。囚人バラックの煙突、大きな焼却棟の煙突はコントラストもはっきりしており、対称的であり、垂直であることに注意すべきである。これとは逆に、二つの焼却棟の死体安置室1の点は、焼却棟Ⅱの主要翼室に対して、ほぼ75-80度(焼却棟Ⅲ)、80-90度(焼却棟Ⅱ)である(図41を参照)。これらの点が何らかの物体であったならば、焼却棟Ⅱの煙突の影、囚人バラックの煙突の影、その他この写真にあるものの影と同じ配置となるであろう。実際の影は、点とは異なり、焼却棟ⅡとⅢに対して45度の角度である(図41)。
焼却棟Ⅱの煙突の高さは15mであった。[180] 写真に写っている煙突の影は、焼却棟Ⅲの死体安置室1(「ガス室」)の影よりも5倍ほど長い(煙突の影の長さ:20m、太陽の角度は37度ほど。焼却棟Ⅲの死体安置室1(「ガス室」)の上の点の長さは4mほど)。したがって、この長さの影を作り出すには、チクロンB投下穴は焼却棟Ⅲの死体安置室1(「ガス室」)の上に3m突き出していたことになる。こんなことはありえないであろう。
空間的な高さの欠如、不規則なサイズ(長さと幅)、不規則で、間違った点の方向。こうしたことは、これらの点が何らかの物体の影ではなく、まして、伝説のチクロンBの投下穴ではありえないことを、はっきりと明らかにしている。これらの点は不規則であいまいであり、それらは少なくとも一つの航空写真には存在していないことを考えると[251]、これらの点は、あとで、写真に手を加えた結果生じた偽造であると結論せざるをえない。カナダ在住の航空写真分析専門家John Clive Ballが1992年後半に発表した専門的研究は、この航空写真がCIAのもとに保管されていたときに偽造されたことを立証している。なんと驚くべきことであろうか。[252]
この航空写真に写っている点は、長いあいだ間違った解釈をされ続けてきた。そのために、いわゆるチクロンBの投下穴は焼却棟Ⅱの死体安置室1(「ガス室」)の屋根の中央に直線状に配置されていた、焼却棟Ⅲの死体安置室1の場合には、航空写真に写っている点から見て、屋根の中央の右側と左側に交互に配置されていた、という根拠のない説が作られた。しかし、交互の配置は、チクロンBの投入柱は、コンクリートの支柱の後ろに作られ、入室してくる犠牲者が疑わないようにするために、彼らの目から隠されていたたという説と矛盾している。実際には、コンクリートの支柱の陰に隠れている投入柱など存在しえなかったであろう。そのようなことがあったとすれば、鉄筋コンクリートの屋根に穴を開けるだけではなく、死体安置室全体を安定させていた大きな梁にも穴を開けなくてはならないからである、図26参照。だから、支柱の右側と左側に配置することはやむをえなかったことであろう。
誰によってかはここでは問題とはしないが、建物が戦争末期に破壊されてしまうと、残った廃墟は偽物で、オリジナルの施設は跡形もなく消えてしまっているという主張がたびたびなされている。このことは、ポーランド人は、ただ展示するためにだけ、戦後に数百万ズロチの金を使って、オリジナルに迫る焼却棟を再建したということを意味する。グロテスクな考え方である。筆者は、1991年12月6日に、裁判所から専門家証人としての資格を拒否された。その理由というのは、アウシュヴィッツの建物は偽物にすぎず、本物の「ガス室」は跡形もなく消え去っているので、筆者の「ガス室」研究はまったく不適切であるというものであった。[253]
このような主張は、もちろん馬鹿げており、この件を担当した判事が技術的問題では能力を持っていないことを示しているにすぎない。このような人物が、この論争での他人の運命を決定する権力を与えられているのは、恥ずべきことである。[254]
二つの焼却棟の死体安置室1(「ガス室」)の屋根は、今日では、崩壊してしまっているが、焼却棟Ⅱの死体安置室1(「ガス室」)の天井は比較的手付かずのまま残っている。焼却棟Ⅱの死体安置室1(「ガス室」)の7つの柱のうち最後の次の柱は、南から見ると、天井の断片を支えている。この場所で、天井の穴から地下室内部に降りることができる(図44)(また、図43と45も参照)。ここでは、かなり雨の降らない時期の続く夏でさえも、水が床を覆っている。石材とコンクリートの天井は、風雨から守られており、オリジナルな状態にある。爆発や腐食の跡を見ることはできない。プレサックは自著のなかで、焼却棟Ⅱの死体安置室2の天井を通る円形の換気パイプの開口部、ならびに焼却棟Ⅲの炉室のコンクリートの天井を通る円形の換気パイプの開口部の図を示している。[255]
図49-53は、1991年12月の焼却棟Ⅲの炉室の天井の上の5つの開口部である。それらは焼却棟炉からの放射熱を退避させるために使われた。天井は、炉室の破壊のときに崩壊し、5つの穴の大半は、この過程で部分的に破壊された。
もしも目撃証言のようなチクロンB投下穴が実際に存在し、そこには針金網柱が設置されていたとすると、どのような事態になるであろうか。
1.
目撃者ヘンリク・タウバーにようるように、犠牲者は、この部屋のなかのすべての装置を破壊するであろう。[256]
「ガス処刑されようとする人々、ガス室の中にいる人々は、電気装置を壊し、ケーブルを引き裂き、換気装置を破壊した。」
2.
数百の人々が狭い地下室に閉じ込められ、死を待っていたとすれば、パニックにおちいって、逃亡しようとして、自分たちの周りにあるものすべてを壊したであろう。地下室に閉じ込められた、犠牲者は、目撃者のいうところの針金網柱にいったいどのように対したことであろうか。もし、このような柱が実際に存在したとすれば、その外枠は、やわな針金網ではなく、頑丈な鉄でなくてはならなかったであろう。
3.
さらに、これらの柱は、コンクリートの天井、床、コンクリート柱にしっかりと固定されていなくてはならないであろう。しかしこの当時、頑丈な止め釘は存在していなかったので、たがをはめる鉄が地下室建設中に、コンクリートの中に組み込まれたことであろう。[257] 建物の完成後に実行されたとすれば、コンクリートに穴を開けて、たがをはめる鉄がその穴を埋めるセメントの中に組み込まれたことであろう、図47。いずれにしても、このように組み込まれた、たがをはめる鉄を取り除くことはできないであろう。できることといえば、のこぎりか溶接バーナーで切断することだけである。[258] したがって、投下装置がこれらの死体安置室に設置されたことがあるとすれば、このようなたがをはめる鉄の痕跡が今でも残っているはずである。
4.
さらに、鉄筋コンクリートの中の鉄の強化ロッドが、穴のまわりに花輪のように走っていなくてはならず、それは誘導装置を使えば、今日でさえも検出可能であろう。
5.
さらに、死体安置室の屋根は1.5mほどの厚さの土で覆われていたので、建物全体が土と雨の浸入から守られなくてはならなかったであろう。そうするには、穴の端を小さな煙突のように屋根の表面から突き出させることが不可欠であったろう。今日、問題に穴の直径に近い穴が二つだけあるが、それは、図46と44からわかるように、あとになって、粗雑にあけられたにすぎない。
焼却棟Ⅱの死体安置室1の屋根はその多くが現存しているが、この種のものを何も発見することはできない。プレサックでさえも、今日見ることができるのはこれらの穴だけであることを認めている。[259] しかし、彼の著作には多くの写真が掲載されているのであるが、この二つの現存の穴を写したはっきりとした写真は掲載されていない。
今日、焼却棟ⅡとⅢの死体安置室1(「ガス室」)の屋根にはその他の小さな亀裂、傷、開口部がある。これらすべては、鉄筋のロッドが突き出しており、あとになってから、鉄筋コンクリートに生じた亀裂である。コンクリートがきれいに注がれた端、あるいは漆喰の残った粗雑にあけられた端はどこにもない。以前のコンクリートや煉瓦/モルタルの穴の痕跡もまったくない。死体安置室の床、天井、支柱には、たがをはめる鉄、止め釘、その他の固定器具の痕跡はまったくない。
もしも、これらの穴のいずれかが、チクロンBの投下穴として使われたとすれば、屋根が完成したのちに、すなわち、いわゆる大量殺戮が始まる前に、付け加えられたはずである。[261] しかし、これらの穴には、粗雑な端を平らにする漆喰作業も施されていないので、毒ガスの流出や土や雨の流入を防ぐことはできなかったであろうし、そこに投下装置を設置することもできなかったであろう。このような粗雑な穴を使うことは、信じられないほどへまなやり方であったろう。
しかし、さらに問題点がある。図46にある開口部では、鉄筋はすぐに切断され、その後に曲げられている。今日でも、かなりの長さである。元に戻して、 写真の左側に移っている(雪に覆われている)左の突き出た切れ端につなげることができそうである。[262] 穴のまわりに花輪状に走っている鉄筋のロッドの痕跡はまったくない。それゆえ、この穴が投下穴として使われたはずはない。完成していないのである。もっと悪いことに、この穴は、現存している屋根のすべての穴と亀裂のなかで、「最上」のものである。その他の穴や亀裂は、もっと不規則な形をしており、鉄筋のロッドで一杯である。
当時の技術では、鉄筋のロッドが取り除かれてもいない、粗雑にあけられ、漆喰も塗られていない穴に、何らかの装置を付け加えることはできないであろう。それゆえ、ガス投下装置を頑丈に設置することはできなかったし、ましてや、外部からシールすることもできなかったであろう。このことは、ガスが開口部から漏れ出してしまうので、毒ガスを所持したいわゆる犯罪者も含んで、周囲全体が危険にさらされてしまうことを意味する。さらに、これらの穴を閉じることはできなかったので、犠牲者この穴から逃亡したり、チクロンBの投下を阻止したりすることを防ぐには、力を使わなくてはならなかったであろう。
建設後に死体安置室1(「ガス室」)の一つの屋根に開口部が開けられたとすると、すなわち、コンクリートと鉄筋の建物に損傷を与えたとすると、その後の建物の爆破から生じる天井の亀裂と裂け目は、かならず、まずこれらの穴を通ることであろう。
なぜならば、爆破は想像を絶するような力を生じ、物質的な緊張は、建築後に付け加えられた開口部の隅で非常に高いレベルに達し(裂け目効果、図48参照)、これらの亀裂はまず弱い個所を通過するからである。それゆえ、のちに付け加えられたために、周辺のコンクリート構造にすでに損傷を与えているこのような開口部は、亀裂や裂け目が走りやすいというだけではなく、かならず走ることになる個所となる。図49-53がこのことを示している。地上の炉室での爆破圧力が全方向に逃げることができ、上の階につながる天井が完全に手のつけられないまま残っていたとしても、炉室の5つの換気口のうちの3つは完全に破壊されている。明瞭にみることのできる亀裂は、プレサックが掲載している写真に写っている2つのその他の穴の隅に作られている。[255]
|
焼却棟Ⅱと焼却棟Ⅲの死体安置室では、爆破による圧力は上方に逃げることができただけであった。だから、その天井の方が、炉室の天井よりもはるかに壊れているのである。しかしながら、焼却棟Ⅱの死体安置室1(「ガス室」)の屋根のいわゆるチクロンBの投下穴は、比較的損傷を受けていない。図46に写っている穴の場合には、なんと天井すべての亀裂や裂け目が穴のまわりを通っているのである。現場検証すると、死体安置室の天井がまったく損傷をこうむっていない場所に開口部が勝手に配置されているのである。このことが建築学的に証明しているのは、この穴が屋根の破壊後に開けられたということだけである。!
図44の穴の端にある削り取られたしるしは、図46のしるしとよく似ており、二つの穴の経歴が同じであると推定しなくてはならない。[263]
それゆえ、目撃証言の語っているような「針金網柱」を介して毒ガス剤が投下されてくるような穴は、これらの部屋の屋根にはまったく存在しなかった。
ペルト教授はこの点を正確に述べている。[264]
「今日、針金網柱と煙突を結び付けていた[焼却棟Ⅱの死体安置室1の上の]これらの4つの穴は、破壊された屋根板の残骸に見ることはできない。しかし、このことはそれらがそこに存在しなかったことを意味しているのであろうか。」
この興味深い質問に対して、建築学史教授は次のように答えている。
「この点に関しては定かではないが、柱があった場所にガス室の天井のそこに何らかの型枠を取り付けて、穴のなかにコンクリートを注いで、板を復活させたであろうということは論理的であろう。」
ペルトは、収容所管理当局が、天井を復活させるために、1944年秋に天井の穴をふさいだと主張しているが、この説にはまったく根拠がない。しかし、少なくともペルト教授は、SS当局は、自分たちの犯罪の痕跡すべてを消し去ろうとしたという意味では、論理的に行動したと思っている。しかし、「ガス室」の屋根全体を取り除くのではなく――死体安置室2、すなわち脱衣室の屋根についてはそうなのであるが――、コンクリートで穴埋めするのが適切であったと、ペルトは考えているのであろうか。1944年12月21日の連合国の航空写真には、殺人目的ではない別の死体安置室の屋根が完全に取り除かれている様子が写っている。[265] 明らかに、ここでの議論すべてが無意味なのである。ペルトを信じるには、SSが、脱衣室の場合のように屋根全体を破壊するのではなく、のちの見学者やホロコースト研究者を混乱させるために、勝手に建築学的な遺物を作り出したと考えなくてはならないことになる。
しかし、ペルトが建築学の基礎について少しでも知っていたとすれば、まったく痕跡を残さずに、70cm×70cm(ほぼ半㎡)の穴をコンクリートから取り除くことは不可能であることを知っているはずである。しかし、実際には、のちにコンクリートでふさがれたとされる屋根にはまったく開口部がないのである。
さらに、のちに埋められたとされているコンクリートのパッチは、爆破のときにはシャンペンのビンからのコルクのように穴から飛び出してしまい、その結果、以前の穴が出現してしまうであろう。詳しく調査すれば、ペルトの主張は、明らかに誤りというだけではなく、まったく馬鹿げていることがわかる。
しかし、少なくとも、ペルト教授も、穴の痕跡が存在していない点で、修正主義者と一致している。このような痕跡が存在していないと指摘することで、ペルトは、実際には、この部屋の天井には穴が存在しなかったこと、したがって、どのようなものであるにせよ、チクロンBの投下穴が存在しなかったこと、したがって、「目撃証人」の話のように、毒物が投下されたことはなかったことを証明してしまっている。彼は、「目撃証人」が嘘をついていることを証明しているのである。彼は、アウシュヴィッツの大量殺戮の証拠が存在しないこと証明しているのである。そして、彼は、ホロコーストには証拠がないことを証明しているのである。「穴がなければ、ホロコーストもない」(ロベール・フォーリソン)というわけである。2000年という年に、偉大なる建築学教授ペルトが、1991年に、私がビルケナウの焼却棟Ⅱの「ガス室」の天井を調査したときに達したのとの同じ結論に達したことを見るのは、なんと素敵なことであろうか。われわれの結論は少しだけ異なっていたにすぎないのである。
ここで、リップシュタットに対するアーヴィングの裁判が2000年5月に終わったのちに、e-mailでアーヴィングと接触を求めてきた一人の証人のことを紹介しておきたい。彼はBarfordという名の技術者である。彼の同僚は、アウシュヴィッツ博物館管理局のために収容所の維持と再建を手伝っている。彼は、アーヴィング裁判のときに、穴のミステリーの調査がごく秘密裏にアウシュヴィッツで行なわれたとアーヴィングに伝え、次のように指摘した。
「彼ら[アウシュヴィッツ博物館]が焼却棟Ⅱの屋根に行なった実験はどうなったのでしょうか。チクロンBの穴を見つけたのでしょうか、それとも見つけなかったのでしょうか。結果をリップシュタットの弁護士に報告したのでしょうか、それはいつのことだったのでしょうか。…
あなたと修正主義者は間違っていると私は考えています。そして、さまざまな角度から、焼却棟Ⅱの地下ガス室の崩壊した屋根を30分ほど検証しました。結果はどうであったのでしょうか。ご推察のとおり、目撃証人が存在したと述べているような4つの穴についてまったくその証拠を発見することができませんでした。…
第二に、屋根板のいくつかの区画は、爆破によってばらばらとなった外側のコンクリート層からの断片で覆われていました。もしも、穴が存在していたとすれば、これらの断片は穴を通って下の空間に落ちていったことでしょう。…
私は、これらの穴の物理証拠がないことに困惑しております。」
2000年初頭、Charles D. Provanは論文を発表し、焼却棟Ⅱの死体安置室1の失われた穴の場所をつきとめたと主張した。しかし、彼が行なったことは、これらの亀裂が、崩壊した屋根に穴をあけられて存在しているコンクリートの支柱と屋根が折れ曲がったことによる亀裂による「穴」であると述べたにすぎない。Provan
の記述しているすべての穴には鉄筋コンクリートがあり、規則的な形をしていない。(計画された規則的な穴になら存在するような)まっすぐな端や角、(穴が屋根の完成後にあけられたならば、存在するような)漆喰の痕跡、これらの穴を土の上に突き出させるような拡張煙突の痕跡、固定装置(押し込み穴、たがをはめる鉄、留め釘など)の痕跡は、まったく存在しない。Provanは、屋根の図面を描くにあたって、ずうずうしくも、これらの亀裂を規則的な形をした穴のように提示している。[267] マットーニョは、Provanの主張がいかに根拠のないものであるか、歪曲されたものであるかを詳しく論じている。[268]
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図54:クラの記述にもとづいてプレサックが作成した伝説の「チクロンB投下柱」の図[270] |
図55:死体安置室2のための焼却棟Ⅱの物品リストにある手書きの項目。下のほうは、"Holzblenden" (木造のブラインド)と読むことができる。上のほうに何が書いてあるのか解読できるであろうか。[195] |
最後に、伝説的な「チクロンB投下柱」に焦点をあてておこう。この「柱」については、Michal Kulaがよく引用される「目撃証人」である。クラは自分が作ったというこの柱を詳しく描いている。[269] プレサック[270](図54参照)とペルト教授[271]もクラの記述にもとづいてこれらの柱の図面を作成している。第一に、これらの柱が存在したとする物的証拠も文書資料的証拠も存在しない。[268] この点について、われわれが実際に所持しているのは、焼却棟Ⅱの物品リストにある手書きの項目だけである。[195] それを"4 Drahtnetzeinschubvorrichtungen"と解読する人々がいる。文字通り翻訳すれば「4つの針金網投下装置」というようになろう。図55はその手書きの項目である。以下の諸点に注意しなくてはならない。
この手書きの項目が何を指しているにせよ、一つのことだけは明確である。焼却棟ⅡとⅢの死体安置室1(!)に複雑なチクロンB投下装置(!)が実在したというクラの主張を立証していないのである。
さらに、証人としてのクラの信憑性はきわめて低いとみなさなくてはならない。たとえば、彼はガス処刑された犠牲者が運ばれていく様子を次のように記している。
「私は、それら[死体]が緑がかっているのを見た。看護婦は、死体がはじけ、皮膚がはがれたと話してくれた。」
第7章で見るように、チクロンBの犠牲者は緑がからない(赤みを帯びる)。死体がはじけ、皮膚がはがれる理由はまったくない。これは虐殺宣伝に他ならない。
しかし、ここで、SSが、焼却棟ⅡとⅢの死体安置室1のなかに、その完成後に、HCNを投入するという問題に直面したとしよう。この問題の解決には二つの選択肢がある。読者は、適切であると思われる選択肢を採用すればよい。
a.
鉄筋コンクリートの屋根に(2×4=)8つの(2×4)穴を開けること。骨の折れる高価な作業で、屋根のタール層と上のセメント層に修復しがたい大きな損傷を与えてしまう。そして、屋根の上の土の層から少なくとも1mの高さに引き上げるために (2×4=) 8つの煉瓦かコンクリートの煙突を付け加えること。破壊的な穴あけ作業による損傷を修復する。これも骨が折れ、資材を消費する高価な作業である。そして、(2×4=)8つの、3mの高さの針金網柱を作ること。それは、頑丈な鉄製の、パニックにも耐えられる外部柱、(HCNがばらばらとなるのを防ぐ目的だけをもつ)真ん中の針金網柱、動かすことのできる内部の針金網柱という3つのパーツからできている。これも骨の折れる、資材と時間を消費する、高価な作業である。これらの8つの装置が、コンクリートの床、天井、柱にパニックにも耐えられるように固定する方法を見つけること。これも、骨の折れる高価な作業である。そして、このような作業を計画し、承認し、実験し、資材を割り当てること。こうしたことは、文書資料のなかに詳細で長い「紙上の痕跡」を残すはずであるが、実際にはそのような文書資料は存在しない。そして、そのような作業すべてが完了したとしても、内部柱にチクロンBを投入するための原始的な装置が必要となる。そして、HCNの致死量がチクロンBという媒体から放出され、死体安置室に広がるまで、長時間待機していなくてはならない。あるいは、放出量を増やしてすみやかに処刑をすませるために。大量のチクロンBを使用しなくてはならない。ガス処刑が終わっても、一部のHCNが放出されただけであるので、チクロンBを除去し、処分しなくてはならない。[273]
しかし、二番目の、はるかに簡単な選択肢がある。
b.
チクロンBを入れるための簡単なかごを、死体安置室1の吸気シャフトのなかの、簡単にアクセスできる吸気換気扇のすぐうしろにおくこと。それは、デゲシュ社の空気循環方式と同様に、HCNガスをすぐに「ガス室」に送り込むであろう。これによって、チクロンBが空気循環のないところで山積みとなってしまっているやり方と比べると、時間も使用量も削減することができる。[274]
さらに、このかごの中のチクロンBの放出割合を劇的に上昇させ、処刑手順を加速できるであろう。必要なことは、1943年3月にトップフ社の技術者が抱いていた考え方を変更することであろう。焼却炉の強制排出送風機の冷却問題に直面したとき、トップフ社の技術者は、この装置の余熱を利用して、死体安置室をあらかじめ暖めることを提案していた。このために必要な改築は、この余熱を死体安置室の吸気ダクトにむけることだけであった。[275] 強制排気送風機がオーバーヒートし、すぐに損傷を受けてしまったにもかかわらず[228]、炉室の煙突から死体安置室1の吸気ダクトに短い空気ダクトを付けることは簡単なことであったろう。このやり方を使えば、焼却炉からの暖かい空気がチクロンBのかごを越えて死体安置室1に流れ込み、HCNを大量に含んだ暖かい空気を部屋に送り込むことができたことであろう。
ここで私が指摘しておきたいのは、クラの証言しているようなやり方よりも、安価で簡単な方法が数多くあるということである。クラの方法は、きわめて実際的ではないし、技術的・建築学的知識を持っている人々にとっては、侮辱であろう。まして、焼却棟Ⅱの廃墟を見れば、そのような柱が設置された痕跡がまったく存在しないことを考えるとなおさらである。
プレサックの「犯罪の痕跡」は構造技術的な根拠にもとづいて反駁されてきた。また、すべての「目撃証言」も例外なく、その信憑性に疑問が呈せられている。それゆえ、いわゆる殺人「ガス室」は、建築技術学的な根拠にもとづいて反駁されている。フォーリソンの言葉「穴がなければ、ホロコーストもない」のである。
投下柱に関する議論を下記に要約しておこう。
表1:
チクロンB投下柱に関する議論
説 |
事実 |
航空写真には焼却棟ⅡとⅢの死体安置室1(「ガス室」)にはチクロンB投下穴が写っている。 |
この航空写真を分析すると、これらの点には空間的な高さがなく、不規則な形をしており、不正確なサイズ(長すぎるし、幅が広すぎる)、本物の影と比較すると不規則な方向を向いている。それゆえ、これらの点は物体の影でもないし、伝説のチクロンB投下装置でもありえない。 |
投下穴を焼却棟Ⅱの地上写真に見ることができる。
|
これらの3つの物体は一つの写真だけに写っており、ほかの写真には写っていない。それらは隣接して立っており、異なったサイズをもち、不規則に配置されている。投下穴は同じサイズで、規則的に配置されており、屋根に均等に配置されているはずである。これらの物体は実際の存在する穴とは、場所の面でも数の面でも一致していない。
|
計画的に設置された投下穴であれば、屋根の上の土の層から突き出たコンクリートか煉瓦の煙突を持つきれいな計上をした強化穴が屋根の上に存在するはずである。 |
穴という名に値するのは二つの穴だけであるが、その穴には削られた跡がついている。コンクリート構造はあとになって破壊された。滑らかに削られたコンクリートの端や表面はない。雨や土の流入を防ぐ煙突のようなものはない。その他の亀裂や開口部はひどく不規則であり、鉄筋ロッドがはみ出ている。したがって、柱によって穴をあけられたり、折れ曲がってしまった崩壊した屋根が作り出したものである。 |
開けられた穴の鉄筋ロッドは取り除かれ、端は磨かれ、突き出た煙突が作られた。このような穴は、爆破によってひどい損傷を受けた。 |
すべての穴で、鉄筋ロッドは穴に突き出ている。ある穴では、切断されて、折り曲げられている。すべての穴と亀裂の端は漆喰を塗られていない。タールの隔離材が存在する。煙突が付け加えられた痕跡はまったく存在しない。これらの「穴」の中で一番「穴」らしいものは、死体安置室の爆破では影響を受けていない。すなわち、この穴が戦後に開けられたものであることを証明している。 |
天井から床まで走る投下装置の設置には、頑丈な差込口、止め釘のついたたがをはめる鉄などの、パニックに耐えることのできる器具が必要である。 |
このような器具の痕跡はどこにも存在しない。したがって、このような装置が設置されたことはない。 |
図56:
アウシュヴィッツ/ビルケナウ収容所の焼却棟ⅣとⅤ(対称形)の北の側面図(上)と平面図(下)
1:
いわゆる「ガス室」; 2:
いわゆるチクロンB投下ハッチ; 3:
暖房炉; 4:
石炭室; 5:医務室; 6:
死体安置室; 7:
換気煙突; 8:
下水道; 9:
炉室; 10:
焼却炉 |
「…絶滅施設としてはもっとも知られないもの…このような証言を検討してみると、矛盾が明らかとなる。」
"チクロンBの機械的な換気の計画は存在したが、それは実現されなかった。ガスの排出は空気の対流によって、すなわち、ドアを開けることによって行なわれた。」
プレサックは、新著の中でも上記の見解を変えていない。[284] ユダヤ人の大量絶滅は、焼却棟ⅣとⅤが計画中であったときに、とりわけ農家ⅠとⅡで完全に行なわれていたとされているので、焼却棟ⅣとⅤの設計と建築には誤りがあると考えることは馬鹿げている。だから、今日でも、プレサックは、この焼却棟には「犯罪的計画」があったと考えている。[285] そして、「ガス気密窓の設置」、「ガス室の床にコンクリートをしきつめること」という表現のある文書、さまざまな関連で「ガス気密ドア」に触れている文書が、この犯罪性を立証しているというのである。[286]
個人所持品の殺菌駆除についての章ですでに明らかにしたように、ドイツ語の"Gaskammer" (ガス室)という単語は、この当時、個人所持品の殺菌駆除室をさして、広く使われていた。そして、焼却棟と殺菌駆除施設を同一の建物に設置することも、この当時広く行なわれていた。[287] このようなことを考慮すると、いくつかの文書の中で「ガス室」として登場している部屋は、もともとは、殺菌駆除室として使われるように計画されていたと考えることができるであろう。この仮説を支持する一つの要素は、たとえば、これらの部屋を温めるための炉が廊下から温められるようになっていること、これらの部屋の設置される電灯が爆発に耐えられるようになっていること、奥まったところに設置されていることである。[288]
焼却棟ⅣとⅤに関しては、問題の部屋は殺菌駆除室として考えられていたが、この目的のために完成せず、ましては使われもしなかったと考えなくてはならない。いずれにしても、HCNの使用には不可欠である換気システムが設置されたという証拠はまったく存在しない。[289] その理由は、1943年初頭から、ドイツ当局はこれらの焼却棟のすぐ近くに大きな温風殺菌駆除施設を持つ大規模な衛生施設群(いわゆる[中央サウナ])の完成にあたっており、また、ベルリンが約束していた高周波殺菌駆除施設を早期に使うことができると予想していたためであろう(5.2.3.6章を参照)。
W. Rademacher
の指摘によると、プレサックは、「210個のガス・ドア鋲留」がアウシュヴィッツで発注された資料を個人的に引用している。この資料は、ガス気密という用語("gasdicht")が使われていたとしても、殺菌駆除室を処刑目的で使用したわけではないことを意味している。アウシュヴィッツの殺人「ガス室」には100ほどのドアが必要であったとは主張されてこなかったからである。[290] ドアや窓にフェルトの隔離素材が使われていれば、すなわち、空気の流れを遮断する仕組みとなっていれば、それは、強制収容所の囚人バラックの窓とは異なった特徴を持っていたので、「ガス気密」と呼ばれていたのであろう。[291]
プレサック自身も、アウシュヴィッツ資料のなかで、[ガス室]という用語が犯罪的な意味を持っていない証拠資料を提供している。ある資料は「ガス室のための1個の鍵」と述べている。アウシュヴィッツで発見されている「ガス気密」ドアすべて、およびこのようなドアの現存写真は、これらのドアには鍵がついていなかったことを示しているので、この資料が言及しているのは、たとえば、かんぬきと鍵を必要とするチクロンBの保管倉庫などの部屋のドアについてであろう。[292]
焼却棟ⅣとⅤは地上の建物であるが、その壁は単純な煉瓦造りであった。爆破されたとき、双方の土台の壁、コンクリートの土台まで破壊された。1mほどの焼却棟Ⅴの土台壁は作り直されたと思われる。[293] 50cmほどの焼却棟Ⅳの土台壁は、あとになってから、別の瓦礫を使って作り直されたようである。[56]
この廃墟がわれわれに明らかにしていることは、コンクリートの土台以外はおそらく本物ではないのだから、コンクリートの土台だけが本物だということである。これらの部屋を殺人「ガス室」として使用するもう一つの技術的前提条件は、中の犠牲者が投下ハッチの近くに行くことができなくなるようにするということであろう。そうしなければ、チクロンBを室内に投下しようとしているSS隊員をはしごから押しのけて、簡単に逃げることができてしまうからである。犠牲者の手がハッチに届かないようにするには、頑丈な鉄の留め金のついた床と石造の壁にU字型の頑丈な鉄網が固定されていなくてはならない。しかし、現存しているこれらの部屋のコンクリート床には、この種のものまったく取り付けられていないのである。
5.4.3.
農家1と2
目撃証言によると、二つの農家(ブンカー1と2と呼ばれることもある)がビルケナウ収容所の北西西にあり、それらは殺人「ガス室」に改造されたということになっている。しかし、その場所とデザインの詳細は不明である
。プレサックは、この点に関して目撃証言を矛盾したものとしている。[294] たとえば、ペリー・ブロードの証言について、彼は、「…利用できないものである。…それは、ポーランド人によって、ポーランド人のためにリライトされているからである」とか「これらの話を総合することは不可能である」と述べている。これらの建物の特徴と場所についてのヘスの話も表面的にすぎない。[295] フランクフルトでのアウシュヴィッツ裁判判決によると[296]、これらの施設で行われたとされるガス処刑は、焼却棟Ⅳと焼却棟Ⅴでのガス処刑と酷似していたという。この手順は、Richard Böckの証言[297]によって、そして、ある程度、Milton Buki[298]、ルドルフ・ヘス、Szlama Dragon、Maurice Benroubi、Moshe Maurice Garbarz、Johann Paul Kremer(フランクフルトでのアウシュヴィッツ裁判)、André Lettich[299]によって明らかにされている。
プレサックは、農家2の土台壁の残骸といわれるものの写真を公表している。[300] 連合国の航空写真を分析すると、農家2があったとされている場所の近くに一時的な建物があるだけであり、農家1の痕跡はまったくない。[252]、[301] この写真が撮影されたときには、ハンガリー系ユダヤ人の絶滅が進行しており、数千の犠牲者が毎日殺害され、この地区の大きな戸外壕で大量の焼却の煙が出ていたという。[302] しかし、大きな焼却壕の痕跡も、おびただしい煙を吐き出す炎も、あるいは燃料の山もない。1944/45年の冬に撮影された一つの写真だけに、焼却棟Ⅲの西に数少ない大量埋葬地が写っている。おそらく、それは、ドイツ人が撤退を始めて、1944年秋に、施設を閉鎖・解体したのちの、収容所での混乱した状況での犠牲者のためのものであったろう。[303]
細菌発見された資料は、これらの農家のうち一つはたしかに実在し、殺菌駆除に使われていたことを証明している。SSは、危険がともなう場合には、チクロンBを使った個人所持品の殺菌駆除を収容所内で行なうことを禁止されていた。収容所の外にある農家を改造して、臨時のHCN殺菌駆除施設として利用することは、収容所自体には危険ではないために、施設のおかれていた困難な状況から生じたことであろう。建物区画BⅢの外にある「既存の建物」に入浴施設とサウナが設置されることになるということに触れている資料が2、3存在する。[304]
2001年後半、いくつかのヨーロッパの新聞が、イタリアの研究者がビルケナウの「ブンカー1」を発見したと報道した。[305] しかし、マットーニョが明らかにしたように、これは詐欺に他ならない。古いブンカーとされた農家は、ブンカー1があったとされている場所とはまったく別の場所にあり、たんに農家にすぎなかった。[306]
プレサックは、アウシュヴィッツの焼却棟の処理能力が限られていたので、殺人ガス処刑の犠牲者の死体の多くが戸外の壕で焼却されたと述べているさまざまな目撃証言を引用している。これらの壕は、焼却棟Ⅴの北および農家(ブンカー)1と2の近くにあったという。これらの壕の大きさは、長さ20-60m、幅3-7m、深さ1.5-3mほどであったという。[307]
ロイヒターはその専門家報告の中で、1988年にビルケナウの地下水位が高いことを発見したので、深い壕を掘って、そこに火をつけて燃え上がらせることは不可能であるとしている。[26] ビルケナウの地下水位が高いのは、収容所がソラ川がヴィスワ川に合流する地点の近くにあるからである。今日でも、収容所から数百m離れた場所に沼地がある。
しかし、ロイヒターは、目撃証言が語っている事件の起きた1942-1944年にも、同じような地下水位が高かったかどうかは調査しなかった。ビルケナウ収容所には洗練された排水運河網があり、それによって地下水位は低くなっていたと指摘されてきた。[308] この排水システムは今日でも、うまく機能している。収容所周辺の地下水位は基本的に地面と同一であるのに、図57が示しているように、収容所の中では、今日でも、地下水位は地面から60-70cmほど低い。この写真は、1991年8月15日、長い旱魃の時期に撮影された。収容所の西にある中央サウナの前の堀が写っている。
しかし、この排水システムは、1942-1944年にはどの程度効果的であったのか。もっと重要なことに、収容所の北の区画、および収容所の排水システムの外にあった農家の周辺ではどのように効果的であったのか。
図 57:
当時も現在も、ビルケナウ収容所の地下水位は変わっていない。1991年真夏、中央サウナの前の排水溝、約70㎝。目撃証言によると、数mの深さの壕で死体の焼却が行なわれたというが、それは不可能である。 |
当時の地下水位が今日の地下水位とさして異ならなかったことを示す二つの状況証拠がある。第一の証拠は、焼却棟Ⅳの近くにあった有名な小さな池である。それは、戦時中にも同じように存在していたと思われる。もしも、排水システムによって、地下水位が数m下がっていたとすると、焼却棟Ⅳの近くの池は、多くの目撃証言とは逆に、干上がってしまっていたことであろう。このことは、地下水位が今日まで変わっていないことを立証している。第二の証拠は、焼却棟ⅡとⅢの死体安置室および中央サウナの建物区画のいくつかが地下にあることである。それらすべては、建物の地下部分を耐水タール層によって水の浸入を防ぐというかたちで建設されている。このことは、まず、このような水の浸入を防がなくてはならなかったことを示している。また、収容所の排水溝の深さはわずか1-1.5mであるので、地下水位を下げることができても、1m以下であったことになる。もっとも、最大値は、排水溝のすぐそばで達成されるにすぎないが。
Michael GärtnerとWerner Rademacherの包括的研究[182]、ならびにマットーニョの研究[309]は、高い地下水位が引き起こす問題についての収容所当局の対応に関する大量のドイツ側資料を研究して、1941年末から1944年中ごろまでの時期、ビルケナウの地下水位、とくに収容所周辺の地下水位が非常に高く、地面と同じ高さに達して、地域全体を湿地帯にしてしまったことを明らかにしている。3名の研究者全員が、地下室を持つ建物を建設できるのは排水を常に行い場合に限ることを明らかにしており、マットーニョは、戸外便所として壕を掘ることはアウシュヴィッツ地区全体の飲料水を汚染してしまうので、それを禁止する文書を発見している。もちろん、深い壕での死体の大量焼却はやはり飲料水を汚染してしまうので、許可されなかったことであろう。
一般的に言えば、戸外の壕で死体を焼却することは、焼却棟での焼却よりも多くの時間と燃料を消費し、不完全燃焼のために多くの痕跡を残してしまうけれども、もちろん可能である。1999年、Myroslaw Dragan博士は、80ポンドの鹿を深さ1m、幅70cm、長さ1.2mほどの壕で焼却する実験を行なった。比較的少量の木材を使用したこの焼却は、4-5時間続き、ほぼ完全に成功した。[310] Dragan博士は、戸外焼却では、小さな、狭い穴の方が、大きな広い穴よりも、さらには地面の上での焼却よりも効率的であることを発見した。壕の土の壁が焼却炉の壁のように作用し、炎からの大量の熱を保管・反射するからである。もちろん、壕の壁を固定する粘土が大量に土に含まれており、地下水が壕に流れ込んで、火を消してしまわないという条件のもとではあるが。
しかし、ビルケナウの状況はこれとは非常に異なっていた。証人たちは、壕が非常に幅広かったと証言している。さらに、ゲルトナー、ラデマヒャー、マットーニョが明らかにしたように、これらの焼却壕があったとされる場所の周囲の地下水位は、かなり高いので、深い壕を掘って、数百の死体をそこに入れ、燃料を注いで、水の浸入を防ぎながら、何時間も燃やし続けることは不可能であった。すなわち、これらの壕はすぐに水で満杯になってしまうので、このような条件のもとでは、数mの深さの壕での死体の焼却は不可能なのである。
図58:白い円内:アウシュヴィッツのチフス犠牲者の古い大量埋葬地の場所と思われる。 |
ビルケナウでは、1942年のチフスの流行によって生じた死体は大量埋葬地に埋められたことが知られている。しかし、地下水汚染の危険があったので、1943年春に、それらは掘り起こされた。この当時、新しい焼却施設はまだ稼動していなかったので、少なくとも死体の一部は野焼きされたのであろう。このためには、表面の草と土の上層部を取り除いたことであろう。損傷を防ぎ、木材と死体の灰を吸収させるためであった。しかし、数mの深さの穴は掘られていない。
たしかに、ビルケナウ収容所西の発掘現場には数cmの深さのところに、あらゆる種類の廃棄物(ガラス、陶器の破片、金屑、鉄片など)と交じり合った灰や骨(人のものか家畜のものかは議論の余地があるが)が存在する。この場所は、ドイツの管理下の収容所、あるいは、戦後のポーランド管理下の収容所、もしくはその二つ同時のゴミ集積場であったにちがいない。
ボールは、連合国の偵察機によるビルケナウ収容所の航空写真を詳しく分析して、1944年夏と秋には、焼却壕やそれに必要な燃料貯蔵所がまったく存在しないこと、ましてや、目撃証人が述べているような炎や煙も存在しないことを明らかにした。[311] しかし、大量埋葬地が存在した場所は指示している(図58参照)。
もっとも原始的な臨時の殺菌駆除施設でさえも、アウシュヴィッツその他の地域の初期においても、換気システムと、暖房システムを常備していた。ただし、後者は有用ではあるが、絶対に必要であるというわけではない。しかしながら、換気システムを持たない部屋を、その対象がシラミであれ人間であれ、毒ガスをつかった燻蒸用の部屋とみなすことは絶対にできない。また、殺人「ガス室」は、入り口以外に、外部からの毒ガス物体投入穴を備えていなくてはならない。殺菌駆除施設には、それは絶対に必要というわけではないが、有用である。それゆえ、重要な点は、外部からの毒ガス投入装置を備えておらず、換気設備を備えていない部屋を、殺人「ガス室」と見なすことはできないということである。部屋の装備についてまとめると、表2の結果となる。
ここでは、仮説上の殺人「ガス室」は、逃亡を防ぐ構造を持っていなくてはならないこと、その装備はパニックに耐えるようなものでなくてはならないこと、その換気能力は殺人目的にかなうように十分なものでなくてはならないこと、処刑後に毒ガスを排出するには、「ガス室」内外とその周囲の人々が中毒になったり、死んだりしないようにするために、特別な措置が必要であること、このような事実は考慮していない。
表2:
実際の「ガス室」あるいは「ガス室」とされている部屋の装備と適応性 |
|||||
装備/
建物 |
毒ガス投入装置 |
暖房 |
換気 |
殺菌駆除室としての適応性 |
処刑室としての適応性 |
殺菌駆除室 |
¡
|
l
|
l
|
yes |
投入装置があれば |
焼却棟Ⅰ |
× |
× |
¡
|
ほとんど/多分 |
no |
焼却棟ⅡとⅢ |
× |
× |
l
|
多分 |
no |
焼却棟ⅣとⅤ |
l
|
l
|
× |
ほとんど |
ほとんど |
農家I、II |
¡
|
× /
¡
|
× /
¡
|
ほとんど/多分 |
no |
l
=
有、可;
¡ =
おそらく有; × =
無 |
研究書では、焼却棟ⅣとⅤの部屋の装備についてほぼ意見が一致しているけれども、資料や物的証拠がないために、情報はある程度推測の域を出ていない。同じことが、ほとんど資料のない農家についてもいえる。
幸運なことに、第三帝国時代に、もっとも多くの人々を毒ガスによって処刑したとされている一つの「ガス室」は、ほぼ完全な状態で保存されている。焼却棟Ⅱの死体安置室1である。すべての目撃証言とは逆に、この地下室の天井には、稼動していたとされる時期を通じて、チクロンB投下穴が存在しなかった。焼却棟Ⅲの死体安置室1の屋根はほぼ完全に壊れているので、物理的な証拠は存在しない。しかし、焼却棟Ⅲは焼却棟Ⅱの対称形であるので、論理的には、チクロンB投下穴が存在しなかったという結論を焼却棟Ⅲにも適用しうるであろう。もしそうであるとすれば、これらの部屋は、目撃証人が述べているように、毒ガスを使った大量殺人の場所として使うことはできない。
広い意味で、アウシュヴィッツの中と周囲の技術的な状況を考慮すると、殺人大量ガス処刑説全体がまったく馬鹿げたものであることに気づくであろう。収容所管理当局は、チクロンBを使った殺菌駆除の方法と技術的前提条件をよく知っており、この分野での最新技術についても知っていた。[143] しかし、収容所当局は、これらの方法を使う代わりに、とくに、ブンカーⅠとⅡ、のちには焼却棟ⅣとⅤについてはとりわけ、大量ガス処刑のために、もっとも粗雑な方法に逆戻りしたという話となる。
数百、数千の人々が部屋の中で、毒性の高いガスによって殺されたとされているが、その部屋は、
同時に、最新の殺菌駆除施設がドイツ占領下のヨーロッパ各地で建設されており、その部屋は、
これらの設備を搬送するにあたって、重大な障害はまったくなかった。アウシュヴィッツ中央収容所には、HCNを使った最新の殺菌駆除技術が導入されていたし(5.2.3.5章を参照)、ビルケナウの中央サウナは、最新の温風殺菌駆除技術を使った施設を備えていたのである。さらに、ドイツは、この当時、シラミの駆除のために、今日よく知られている高周波技術さえも開発していた。なんと、ドイツは収容者の生命を救うために、アウシュヴィッツに非常に高価な設備を設置していたのである。一方、ドイツは、その殺人「ガス室」の一つにすら、チクロンBをつかった技術的に適切な施設を設置できなかったということになっている。まったく馬鹿げた議論であるとしかいいようがない。
殺人「ガス室」がアウシュヴィッツに存在したという説も馬鹿げた議論であるとしかいいようがない。われわれは、殺人「ガス室」としてもっとも頻繁に使われたとされている最大の部屋を、自称目撃者が述べているように、殺人目的で使うことはできないことを立証してきた。中央収容所の殺人「ガス室」についての証言も信用できない(5.3章を参照)。これらの部屋を犯罪目的で使ったことを示す資料が存在しないことを考慮すると、アウシュヴィッツの殺人「ガス室」の実在を証明する、信頼すべき証拠、「犯罪の痕跡」もまったく存在しないと結論せざるをえない。
このような事実を考慮すると、主流派の歴史家やメディアでさえもこの事実に関心を持っていることは驚くべきことではないだろう。2002年5月、ドイツ最大の左翼系週刊誌『シュピーゲル』の記事は、ビルケナウのⅡとⅢのいわゆるガス室に関する資料や証言について次のように述べている。
「それらは、1943年夏の初めに死体安置室を大量殺戮に使うために1943年の3月4月に、実験が行なわれたことを示している。明らかに、実験は成功しなかった。…おそらく、実際の虐殺は収容所の外の二つの改造農家でおもに行なわれた。」[312]
言い換えると、メイアーによると、虐殺は不吉な農家あるいはブンカーで起こったという話なのだから、ペルト教授博士が「虐殺の地図」の「絶対的中心」と呼んだ場所、ひいては、ビルケナウの焼却棟までも放棄しようとする傾向があるということである。しかし、その農家についても、文書資料的証拠はほとんどないのである。
メイアーによると、大量殺戮の犠牲者の死体の最終処分は、おもに深い壕の中での戸外焼却によって行なわれたことになっているという。しかし、このような焼却の痕跡は当時の航空写真には写っておらず、ビルケナウの地下水位が高いために、深い壕の中で火を燃やし続けることはできないために、深い壕の中での死体の戸外焼却説は間違っている。
もし、アウシュヴィッツの「ガス室」についての化学的問題に関心がなければ、第6章を飛ばしてもかまわない。毒物がどのように「ガス室」に投入したのかという問題に答えられないかぎり、殺人の方法についての憶測、その化学的痕跡といった問題は、実態のない、アカデミックな空論にすぎない。それゆえ、アウシュヴィッツに関するわれわれの研究はここで終了することができる。
しかし、化学的問題は多くの関心を集めており、熱い論争を呼び起こし、激論をあおっているので、フォーリソンとロイヒターが提起した化学的問題について、詳しく整理しておこう。それは、シアン化水素の反応が呼び起こした残余物(鉄青)の生成に関する問題である。
注
"David Cole Interviews Dr. Franciszek Piper, Director, Auschwitz
State Museum" , VHS Video, distributed by CODOH, P.O. Box 439016, San
Diego, CA 92143, USA (online: codoh.com/cole.ra (includes audio));
テキストだけの短縮版はDavid Cole, "A
Jewish Revisionist's Visit to Auschwitz", JHR 13(2) (1993), pp.
11-13 (online: codoh.com/gcgv/gcgvcole.html (excerpt)) |
|
Kalendarium der Ereignisse im Konzentrationslager Auschwitz-Birkenau
1939-1945, Rowohlt Verlag GmbH, Reinbek bei
|
|
J.-C. Pressac, Les crématoires d'Auschwitz. La machinerie du
meurtre de masse, CNSR, Paris 1993; German: Die Krematorien von
Auschwitz. Die Technik des Massenmordes, Piper, Munich 1994;
特別な言及がなければ、この脚注への言及は、フランス語のオリジナル版をさしている。 |
|
プレサックの最初の本に対する批判については、R. Faurisson, JHR,
11(1) (1991), pp. 25ff.; ibid., 11(2) (1991), pp. 133ff. (online
French.: www.vho.org/F/j/RHR/3/Faurisson65-154.html); F. A. Leuchter, The
Fourth Leuchter Report, Samisdat Publishers Ltd.,
|
|
Robert van Pelt, Deborah Dwork, Auschwitz: 1270 to the Present,
Yale University Press, New Haven and London 1996;
また、 Carlo Mattogno's criticism "Architektonische
Stümpereien zweier Plagiatoren", VffG, 4(1) (2000), pp. 25-33
(online: www.vho.org/VffG/2000/1/Mattogno25-33.html; Engl.: "Auschwitz 1270
to the Present" (online: http://www.codoh.com/granata/irving-eng.html)を参照。 |
|
この点に関してはNorman G.
Finkelstein, Ruth Bettina Birn, A Nation on Trial: The Goldhagen Thesis and
Historical Truth, Metropolitan Books, New York 1998の彼の非難を参照。また、Richard Widmann's
criticism, "Holocaust-Literatur versus Holocaust-Wissenschaft",
VffG 2(4) (1998), pp. 311ff. (online:
www.vho.org/VffG/1998/4/Buecher4.html)も参照。 |
|
Tsentr Chranenija Istoriko-dokumental'nich Kollektsii (hereafter TCIDK);
また、Gosudarstwenny Archiv Rossiskoy
Federatsiiの資料も参照。 |
|
Manfred Köhler, "Pressac und die deutsche Öffentlichkeit",
in: Herbert Verbeke, op. cit. (note. 43), pp. 19-30 (online:
www.vho.org/D/anf/Koehler.html); Engl.: "Pressac and the German Public",
online: www.vho.org/GB/Books/anf/Koehler.htmlを参照。 |
|
第三帝国では、害虫駆除ののちに、一定の長さの毛髪が産業目的のために集められたという。注75参照。 |
|
以下の記述はおもに、H.J. Nowakの研究, "Shortwave Delousing
Facilities in Auschwitz", in: E. Gauss (ed.), op. cit. (note 43),
pp. 312-324 (online: www.vho.org/GB/Books/dth/fndNowak.html)にもとづいている。 |
|
疫病チフスは、European、Classic、or Louse-Borne Typhus、Jail Feverとも呼ばれ、リッケチア・グループに属するバクテリアによって引き起こされるシラミ媒介病である。チフスという用語は、英語ではさまざまなリッケチア・バクテリアが引き起こす病気すべてをさすものとして使われているが、ドイツ語の用語は"Fleckfieber"であり、それは英語では、1つの型のチフス、すなわちダニの媒介するロッキー山脈熱病だけをさしている。http://www.merck.com/pubs/mmanual/section13/chapter159/159a.htmを参照。 |
|
O. von Schjerning, Handbuch der Ärztlichen Erfahrungen im
Weltkrieg 1914/1918, volume VII Hygiene, J. A. Barth Verlag, Leipzig 1922,
in particular, pp. 266ff: "Sanierungsanstalten an der Reichsgrenze". |
|
ブロックハウス百科事典はHandbuch der Inneren
Medizin,
2nd ed., 1925.
にあるA. Schittenhelmの"Flecktyphus"
という論文をあげている。 |
|
R. Wohlrab, "Flecktyphusbekämpfung im Generalgouvernement",
Münchner Medizinische Wochenschrift, 89(22) (1942), pp. 483-488. |
|
W. Hagen, "Krieg, Hunger und Pestilenz in Warschau 1939-1943",
Gesundheitswesen und Desinfektion, 65(8) (1973), pp. 115-127;
ibid.,
65(9) (1973), pp. 129-143. |
|
Friedrich Konrich, "Über die Sanierungsanstalten der deutschen
Kriegsgefangenenlager", Gesundheits-Ingenieur,
|
|
Cf. Wilhelm Stromberger, "Was war die 'Sonderbehandlung' in
|
|
この点については、まもなくインターネット上に掲載されるはずであるWolfgang Lambrecht,
Otto Karl, Das Handelsprodukt Zyklon B、 www.vho.org/D/Beitraege/Zyklon.htmlも参照。 |
|
Deutsche Reichsbahn Eisenbahnverkehrsordnung (EVO, German Reich
railway regulations), annex C to §54 EVO, Vorschriften über die nur bedingt
zur Beförderung zugelassenen Gegenstände vom 1. Okt. 1938 (Regulations on
Objects Permissible for Restricted Transport Only, dated 1 October 1938),
p. 50: |
|
L. Gaßner, "Die gesetzlichen Bestimmungen der Anwendung
hochgiftiger gasförmiger Stoffe zur Schädlingsbekämpfung in Deutschland"
(The legal provisions relating to the use of highly poisonous gaseous
materials for pest control in
|
|
Deutsche
Gesellschaft für Schädlingsbekämpung (ドイツ害虫駆除協会)、 I.G. Farbenindustrie AGの関連子会社。 |
|
ホロコースト物語と関連した、会社の歴史については、Jürgen Kalthoff,
Martin Werber, Die Händler des Zyklon B, VSA-Verlag, Hamburg 1998を参照。はるかに事実関係の面と技術的面で正確なのは、Wolfgang Lambrecht,
Otto Karl, op. cit. (note 105)である。 |
|
O. Hecht, "Blausäuredurchgasungen zur Schädlingsbekämpfung",
Die Naturwissenschaften, 16(2) (1928), pp. 17-23. |
|
G. Peters, W. Ganter, "Zur Frage der Abtötung des Kornkäfers mit
Blausäure", Zeitschrift für angewandte Entomologie, 21(4) (1935),
pp. 547-559. |
|
G. Peters, "Eine moderne Eisenbahn-Entwesungsanlage",
Anzeiger für Schädlingskunde, 14(8) (1938) pp. 98f.; cf. F.P. Berg, op. cit. (note. 131). |
|
Gerhard Peters, Blausäure zur Schädlingsbekämpfung, Ferdinand
Enke Verlag,
|
|
Walter Dötzer, "Entkeimung, Entseuchung und Entwesung", in J.
Mrugowsky (ed.), Arbeitsanweisungen für Klinik und Laboratorium des
Hygiene-Instituts der Waffen-SS, 2nd ed., Urban & Schwarzenberg, Berlin
and Vienna 1943. |
|
F.E. Haag, Lagerhygiene, Taschenbuch des Truppenarztes, vol.
VI, F. Lehmanns Verlag,
|
|
F. Puntigam, "Die Durchgangslager der Arbeitseinsatzverwaltung
als Einrichtungen der Gesundheitsvorsorge",
Gesundheits-Ingenieur, 67(2) (1944), pp. 47-56. |
|
このテーマの最近の取り扱いについては、F.P. Berg, op.
cit. (note. 131)を参照。 |
|
G. Peters, Die hochwirksamen Gase und Dämpfe in der
Schädlingsbekämpfung, F. Enke Verlag,
|
|
DEGESCH, Acht Vorträge aus dem Arbeitsgebiet der DEGESCH,
1942, p. 47;
ニュルンベルク裁判資料NI-9098 from the
|
|
H. Kruse, Leitfaden für die Ausbildung in der Desinfektion und
Schädlingsbekämpfung, Muster-Schmidt, Göttingen 1948. |
|
H. Kliewe, Leitfaden der Entseuchung und Entwesung, F. Enke
Verlag,
|
|
F. Puntigam, H. Breymesser, E. Bernfus, Blausäuregaskammern zur
Fleckfieberabwehr, Sonderveröffentlichung des Reichsarbeitsblattes, Berlin
1943. |
|
G. Peters, "Gefahrlose Anwendung der hochgiftigen Blausäure in
Entlausungskammern", Arbeitsschutz, 5(III) (1942), pp. 167f. |
|
F. Puntigam, "Raumlösungen von Entlausungsanlagen",
Gesundheits-Ingenieur, 67(6) (1944), pp. 139-180. |
|
E. Wüstinger, "Vermehrter Einsatz von
Blausäure-Entlausungskammern",
Gesundheits-Ingenieur, 67(7) (1944), p. 179. |
|
このテーマについての最近のまとめは、Friedrich P. Berg, "The
German Delousing Chambers", JHR, 7(1) (1986), pp. 73-94 (online:
codoh.com/gcgv/gcdelouse.html); cf. also Berg, op. cit.
(note 131)。 |
|
Entseuchungs- und Entwesungsvorschrift für die Wehrmacht, H. Dv. 194, M. Dv.
Nr. 277, L. Dv. 416,
|
|
Richtlinien für die Anwendung von Blausäure
(Zyklon) zur
Ungeziefervertilgung (Entwesung), Gesundheitsanstalt des
Protektorats Böhmen und Mähren, Prag o.J.; Dokument NI-9912(1) at the
International Military Tribunal, reproduced by Herbert Verbeke (ed.), op.
cit. (note 43), pp. 94-99. |
|
Technische Regeln für Gefahrstoffe, TRGS 512, Begasungen, BArbBl.
no. 10/1989, p. 72, in: Robert Kühn, Karl Birett, Merkblätter Gefährlicher
Arbeitsstoffe, ecomed, Landsberg 1990.
|
|
Ludwig Gaßner, "Verkehrshygiene und Schädlingsbekämpfung",
Gesundheits-Ingenieur, 66(15) (1943), S. 174ff.; cf. F.P. Berg, op.
cit. (note 131). |
|
Der praktische Desinfektor, Heft 2, Verlag Erich Deleiter,
Berlin 1941, inside cover; cf. F.P. Berg, "Typhus and the Jews", JHR,
8(4) (1988), pp. 433-481 (online:
www.vho.org/GB/Journals/JHR/8/4/Berg433-481.html). |
|
TCIDK 502-1-26-117. |
|
Heinz Bobrach et al., Inventar archivalischer Quellen des
NS-Staates, K. G. Saur, Munich 1995, volumes 3/1, 1991.
約110000の実験が行なわれている。多くの有益な情報はファクシミリのかたちでHefte von Auschwitz, nos. 1 through 19,
special editions, Auschwitz State Museum Publishers, Auschwitz Museum, since
1959で見ることができる。 |
|
TCIDK 502-1-332-46/46a. |
|
TCIDK 502-1-332-9/10. |
|
プレサックによると、1941/1942年以降稼動。op. cit.
(note 67), p. 25. |
|
Ibid., p. 550. |
|
J.-C. Pressac, op. cit. (note 90), p. 157 |
|
TCIDK 502-1-333-145 |
|
TCIDK 502-1-336-94 |
|
TCIDK 502-1-332-37 |
|
Gerhard Peters and W. Rasch, "Die Blausäure als Entlausungsmittel
in Begasungskammern", Der praktische Desinfektor, September 1941,
pp. 93-96. |
|
Gerhard Peters, Emit Wüstinger, "Entlausung mit Zyklon-Blausäure
in Kreislauf-Begasungskammern. Sach-Entlausung in Blausäure-Kammern", Zeitschrift für hygienische Zoologie und Schädlingsbekämpfung, issue 10/11
(1940), special printing. TCIDK
502-1-332-86/90;これは、1941年7月3日に、アウシュヴィッツ建設局に到着している。 |
|
TCIDK 502-1-332-117/119 |
|
TCIDK 502-1-332-219 |
|
TCIDK 502-1-233-33/38 |
|
TCIDK 502-1-322-219 |
|
TCIDK 502-1-322-31 |
|
1944年3月23日のアウシュヴィッツ中央建設局あて書簡から、TCIDK 502-1-332-175. |
|
TCIDK 502-1-332-28 |
|
TCIDK 502-1-332-212 |
|
TCIDK 502-1-149-135 |
|
この点については、 H.-J. Nowak, op.
cit. (note 97); H. Lamker, "Die Kurzwellen-Entlausungsanlagen in
|
|
J.-C. Pressac, op. cit. (note 67), pp. 55-58, Plans of
Buildings 5a/b, pp. 59f. exterior photos. Building alteration plan no. 2540
for conversion to hot air delousing installation, dated
|
|
Ibid., p. 53. |
|
チクロンBの缶のラベルに記されている重さは、缶に含まれているHCNだけ、すなわち、媒体物質の重さを除外した重さを指していた。たとえば、1kgのチクロンBの缶は、1kgのHCNプラス2kgほどの媒体物質の重さである。すなわち、1kgは、全体では3kgの重さである。 |
|
Office of Chief of Counsel for War Crimes, British Military
Tribunal, Case against B. Tesch et al., here, the sworn statement of A.
Zaun,
|
|
また、バラックの害虫駆除にさいしてのガス中毒を避けるようにと言うヘスの命令も参照。それは、J.-C. Pressac, op.
cit. (note 67), p. 201も掲載されている。書くバラックの容積は、40m×12m×3.5m>1500㎥ほどであるから、15kgのチクロンBが必要であった。ビルケナウの100のバラックだけで、なんと1.5トンも必要であった。 |
|
J.-C. Pressac, op. cit. (note 67), p. 123. |
|
Ibid., pp. 126-128.
|
|
Ibid., p. 129.
|
|
Ibid., pp. 151/153. |
|
Ibid., pp. 131f. |
|
D.D. Desjardin, "My Visit to Auschwitz-Birkenau,
|
|
J.-C. Pressac, op. cit. (note 67), p. 149;解放直後の焼却棟Ⅰの屋根の写真。
|
|
Ibid., p. 156. |
|
"Herstellung der für die Beheitzungsöfen, sowie für die Ent- und
Belüftung erforderlichen Mauerdurchbrüche und Schläuche", letter from the
Auschwitz Air Raid Warden,
|
|
J.-C. Pressac, op. cit. (note 67), p. 159. |
|
Ibid., p. 133;また、1991年5月7日のアウシュヴィッツ国立博物館からJoel P.
|
|
" |
|
In the original: "Tout y est faux: [...]" |
|
See Serge Thion (ed.), op. cit. (note 33), pp. 316f.; R.
Faurisson, "The Gas Chambers...", op. cit. (note 35), p. 335. |
|
Op. cit.
(note 92), pp. 363f. |
|
この点については、D. Coleとのインタビューを参照。 op. cit.
(note 88).
|
|
コンクリートの中の鉄筋が有効であるのは、鉄筋がコンクリートの中深く挿入され、コンクリートのきわめて持続的なアルカリ環境による腐食から数十年にわたって保護される場合だけである。コンクリートはこの環境では二酸化炭素によってゆっくりと炭化され、結果としてペーハー値は中性化されるからである。問題の死体安置室の天井の鉄筋は、とくに、二酸化炭素を含む雨がコンクリートに進入すると、ペーハー値が急速に落ちる(すなわちアルカリ性でなくなる)表面に直接存在する。図25にある亀裂を参照。この亀裂のために雨が速やかに進入する。 |
|
筆者は、1939年に、ザクセンハウゼン強制収容所に建設された焼却棟の平面図のスケッチを持っている。それは、デザインの面でも規模の面でもアウシュヴィッツの焼却棟ⅡとⅢに似ているが、ここで大量殺戮が行なわれたという話にはなっていない。現代の焼却棟のデザインも参照すべきである。H.-K. Boehlke, Friedhofsbauten, Callwey Verlag,
|
|
主任建設者W. DejacoとF. Ertlに対する公判 (note 84). |
|
シュライバーは、ビルケナウの焼却棟を建設したフタ社カトヴィツ支社の監督技師であった。また、Werner Rademacher, "In
memoriam Dipl.-Ing. Dr. techn. Walter Schreiber", VffG
4(1) (2000), pp. 104f. (online:
www.vho.org/VffG/2000/1/Rademacher104f.html)も参照。 彼は、1999年に死んだ。 |
|
Van Pelt's testimony in Errol Morrisのドキュメンタリー映画Mr Death, op. cit. (note 9)のなかのペルト証言、時間は[分:秒:フレーム]で示されている。 |
|
J.-C. Pressac, op. cit. (note 67), pp. 319-329.
焼却棟ⅡとⅢの図面 |
|
Ibid., p. 183,
焼却棟ⅡとⅢの非犯罪的計画についてはとくに、p. 264を参照。 |
|
Michael Gärtner, Werner Rademacher, "Grundwasser im Gelände des
KGL Birkenau ( |
|
J.-C. Pressac, op. cit. (note 67), p. 187,
焼却棟ⅡとⅢの建設デザインの費用と調査。 |
|
Judgment of Judge Gray, D. Irving vs. D.E. Lipstadt, op. cit.
(note 66), §7.61, 13.76, 13.84. |
|
On Gray, see preceding footnote; J.-C. Pressac, op. cit. (note 67), pp. 213, 218. |
|
J.-C. Pressac, op. cit. (note 67), pp. 183f., 302f.;Walter
Dejacoによるオリジナル計画に関しては、 J.-C. Pressac, op. cit. (note 90), Document 9を参照。 |
|
以下のリストはCarlo Mattogno's "Architektonische
Stümpereien...", op. cit. (note 92), p. 29から。 |
|
J.-C. Pressac, op. cit. (note 67), p. 305. |
|
Ibid., p. 307. |
|
Ibid., p. 327. |
|
Ibid., p. 328. |
|
The Trial of Höß, volume 11a, p. 88. |
|
J.-C. Pressac, op. cit. (note 67), pp. 433ff. |
|
Ibid., p. 432. |
|
Ibid., p. 430. |
|
Ibid., p. 488. |
|
See also four Pressac footnotes above; see also Gray, judgment, op. cit.
(note 66), §13.69, 13.82. |
|
C. Mattogno, "Leichenkeller von Birkenau: Luftschutzräume oder
Entwesungskammern?" VffG 4(2) (2000), pp. 152-158 (online:
www.vho.org/VffG/2000/2/Mattogno152-158.html); Engl.: "Morgue Cellars of
Birkenau: Gas Shelters or Disinfesting Chambers?" (online:
http://www.codoh.com/granata/leichen.html). |
|
Archiwum Panstwowego Muzeum w Oswiecimiu
(hereafter APMO),
BW 30/34, p. 47. |
|
APMO, BW 30/34, p. 40. |
|
TCIDK, 502-1-336 (page number illegible). |
|
TCIDK, 502-1-312, p. 8. |
|
TCIDK, 502-1-316, p. 431, "Zweitschrift" in 502-1-323, p. 137. |
|
1944年1月22日の"Desinfektions- und
Entwesunsanlage" (中央サウナ)についての引渡し交渉の物品項目。TCIDK, 502-1-335, p. 3. |
|
TCIDK, 502-1-316, S. 430. |
|
J.-C. Pressac, op. cit. (note 67), pp. 434-436. |
|
Ibid., pp. 285, 302. |
|
See also Pressac footnote above; see also Gray, judgment, op.
cit. (note 66), §13.84. |
|
J.-C. Pressac, op. cit. (note 67), p. 49. |
|
Ibid., p. 436. p. 430の物品項目リストでは、ガス気密ドアに触れている手書きの項目は焼却棟Ⅱについてだけ登場している。 |
|
Ibid., pp. 227, 311, 312. |
|
H.J. Nowak, W. Rademacher, "'Gasdichte' Türen in
|
|
J.-C. Pressac, op. cit. (note 67), pp. 46-49, 425-428, 486,
500. |
|
Miklos Nyiszli's book Auschwitz: A Doctor's Eyewitness Account,
Arcade Publishing, New York 1993はp. 128で、囚人が空襲のときにガス室に避難したと述べている。Martin Gilbert's
|
|
Samuel Crowell, ibid.; see also "Defending Against the
Allied Bombing Campaign: Air Raid Shelters and Gas Protection in Germany,
1939-1945", online: www.codoh.com/incon/inconabr.html; "The Gas Chamber
of Sherlock Holmes: An Attempt at a Literary Analysis of the Holocaust Gassing
Claim", online: www.codoh.com/incon/inconshr123.html; "New Documents on
Air Raid Shelters at Auschwitz Camp", online:
www.fpp.co.uk/Auschwitz/documents/LSKeller/MoscowDocs.html; "Comments on
Mattogno's critique of the bomb shelter thesis", online:
www.codoh.com/incon/inconscrmtgno.html; "Bombenschutzeinrichtungen in
Birkenau: Eine Neubewertung", VffG 4(3&4) (2000), pp. 284-330;
Engl. "Bomb Shelters in Birkenau: A Reappraisal", online:
www.codoh.com/incon/inconbsinbirk.html. |
|
死体安置室1の排気ダクトは、プレサックの掲載している図面に見ることができる。J.-C. Pressac, op.
cit. (note 67), pp. 224, 289;
焼却棟ⅡとⅢの監視設備に関する章。ibid., pp. 355ff.;
焼却棟ⅡとⅢの各部屋の換気設備の出力。ibid., p. 374 and 377;
排気出口のサイズ。ibid., p. 234;
排気出口の覆いの図。 |
|
プレサックについては、上記の注を参照。ペルトも、またアーヴィング・リップシュタット裁判でのグレイ判事も同じような見解を抱いている。Pelt Report, op. cit. (note 66), p. 208,
op. cit. (note 66), §7.62. |
|
この点については、Carlo Mattogno, "Auschwitz.
das Ende einer Legende", in: Herbert Verbeke (ed.), op. cit. (note
43, also the English version), pp. 134f. (online:
|
|
Invoice no. 729 dated
|
|
エンジンの通常出力は2 HP (1.5 KWほど)であった。出力データは40mm水位のバック・プレッシャーに対応している。技術者ハンドブックによると、焼却棟ⅡとⅢの排気シャフト抵抗の増加計算は、予想されるバック・プレッシャーが、とくに換気口をカバーする小さな穴の原始的な蓋のために、高いであろう(50-60mm水位の区域では)ということを示してきた。二つの送風機が使われたのはおそらくこのためであろう。資格のある技術者ハンス・ラムカーとの個人的な話。
|
|
プレサック(ペルトとともに)は、これらの送風機の出力を8,000 m³/hとしているが、根拠はない(Yisrael Gutman,
Michael Berenbaum (ed.), Anatomy of the Auschwitz Death Camp, Indiana
University Press, Bloomington 1994, pp. 210, 232)。彼は、単純に二つの送風機の出力を加算したのであろうが、それは認められない。送風機は並行稼動しているのではなく、連続的に稼動しているからである。 |
|
W. Heepke, Die Leichenverbrennungs-Anstalten, C. Marhold,
|
|
Gerhard Peters, Emil Wüstiger "Sach-Entlausung in
Blausäure-Kammern", Zeitschrift für hygienische Zoologie und
Schädlingsbekämpfung, 10/11 (1940), pp. 191-196, here p. 195. |
|
J.-C. Pressac, Les crématoires d'Auschwitz, op. cit. (note 90) p. 18. |
|
前もっての暖房:J.-C. Pressac, op.
cit. (note 67), pp. 221, 223.
水道管の除去: ibid., p.
286;この論争は、プレサックの夢想する「犯罪の痕跡」にもとづいているので、まったく無益であはあるが、詳細については、H. Verbeke, op.
cit. (note 43)も参照。 |
|
とくに、水道管に関する、プレサックについての上記の注も参照。ペルトも同意見である。Pelt Report, op. cit.
(note 66), p. 296。アーヴィング・リップシュタット裁判での判事グレイも同意見である。 op. cit.
(note 66), §7.68. |
|
E. Neufert, op. cit. (note 176). |
|
J.-C. Pressac, op. cit. (note 67), p. 230.
強制排気送風機の余熱は利用されるはずであったが、これらが負担過多となり取り除かれたので、死体安置室1を前もって暖房する計画は破棄された。 |
|
TCIDK 502-1-26-21,
|
|
Robert van Pelt, Deborah Dwork, op. cit. (note 92), p. 330. |
|
Memorandum from Kirschnek dated
|
|
Topf, invoice no. 171 dated 22. February 1943 relating to the
installation for the ventilation of crematorium II. TCIDK, 502-1-327,
pp. 25-25a. See also C. Mattogno, op. cit. (note 218), pp. 136-139.
|
|
See also C. Mattogno, "Architektonische Stümpereien...",
op. cit. (note 92), p. 31. |
|
APMO, Standort-Befehl, D-AuI-1, p. 46. |
|
これについては、Carlo Mattogno, „Sonderbehandlung" ad Auschwitz. Genesi e Significato, Edizioni di Ar,
Padua 2001を参照。 |
|
APMO, BW 30/34, p. 78. |
|
プレサックに関する上記の2つの注を参照。van Pelt, Pelt Report, op. cit.
(note 66), pp. 200, 254. |
|
Akademischer Verein Hütte (ed.), Hütte, Ernst und
|
|
Werner Rademacher, "The Case of Walter Lüftl", in Ernst Gauss
(ed.), op. cit. (note 22), pp. 78ff. (online:
www.vho.org/D/gzz/3.html); C. Mattogno, "Die 'Gasprüfer' von
Auschwitz", VffG 2(1) (1998), pp. 13-22 (online:
www.vho.org/VffG/1998/1/Mattogno1.html). |
|
シアン化水素は湿気によって毒性のある残余物を生成する。gases AreginalガスとCartoxガスが使われた。G. Kunike, Das ABC
der Vorrats- und Hausschädlinge und ihre Bekämpfung, Theodor Weicher,
|
|
Alberto Cantagalli, Nozioni teorico-pratiche per i conduttori di
caldaie e generatori di vapore, G. Lavagnolo Editore, Turin 1940, p. 308;
taken from C. Mattogno, op. cit. (note 239), p. 19. |
|
Henryk Tauber: J.-C. Pressac, op. cit. (note 67) p. 484;
Filip Müller, Sonderbehandlung, Steinhausen, Munich 1979, p. 95;
Charles Sigismund Bendel: E. Kogon et al., op. cit. (note 42),
p. 227; Michal Kula: E. Kogon et al., op. cit. (note 42), p.
231; いわゆる穴と投下装置に関する目撃証言の要約と批判については、G. Rudolf, op.
cit. (note 68), pp. 34-37を参照。 |
|
Op. cit. (note 67), crematorium II, p. 340, 1943年2月9日から11日ごろのあいだに撮影されたものであろう。 |
|
D. Czech, op. cit. (note 89), p. 454. |
|
Taken from Jean-Marie Boisdefeu, La controvers sur
l'extermination des Juifs par les Allemands, volume 1, Vrij Historisch
Onderzoek, Berchem 1994, p. 168. |
|
From D. Czech, op. cit. (note 89), p. 398, and J.-C. Pressac,
op. cit. (note 67), p. 335. |
|
J.-C. Pressac, op. cit. (note 67), p. 341.
もちろん、プレサックはチクロンB投下穴が実在したと主張している。しかし、実際にはこの種のものを見ることはできない。
|
|
Alliied aerial photographs, National Archives Air Photo Library,
|
|
R. Lenski, op. cit. (note 25), pp. 356ff.,
写真技術鑑定士Kenneth R. Wilsonの証言。 pp. 8927-8941e of the trial
transcript; see also B. Kulaszka (ed.), op. cit. (note 25), pp. 353f.
Wilsonによると、1944年9月13日の写真に点を発見することはできない。
|
|
図42はボールの親切な許可を得て、Air Photo Evidence
website (air-photo.com/altered/altered.html)
から掲載したものである。 |
|
J. Ball, op. cit. (note 43), p. 48,焼却棟Ⅱの死体安置室1、1944年9月13日に撮影された写真、 RG 373 Can B 8413,
exp. 6V2. |
|
この写真にはごまかしが多い。たとえば、バラックの屋根の上を進んでいる囚人集団が書き込まれいてる。J.C. Ball, ibid.,
p. 42; Ball, "Air Photo Evidence" in: Ernst Gauss (ed.), op. cit.
(note 22), pp. 271-284 (online: www.vho.org/GB/Books/dth/fndaerial.html)を参照。オリジナルとされている写真には、二つの焼却棟(Ⅱ+Ⅲ)の死体安置室1の上にある点は、異なった方角を示している。ボールとの個人的な会話より。
|
|
County Court Munich, ref. 451 Cs 112 Js 3326/90 and ref. 432 Cs 113
Js 3619/90. |
|
この点については、半公式的なドイツの現代史研究所からの書簡を参照。そこでは、アウシュヴィッツ国立博物館との関連で、焼却棟Ⅰの施設が作り直されたこと、ビルケナウの焼却棟のオリジナルな廃墟の状態が手短に触れられている。H. Auerbach, Institut
für Zeitgeschichte,
|
|
J.-C. Pressac, op. cit. (note 67), pp. 365f. |
|
Ibid., pp. 483f.; Pelt Report, op. cit. (note 66), p. 106. |
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この件については、資格のある建築技師Carl Hermann
Christmannに感謝している。 |
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この件については、図面も提供してくれた、視角のある建築技師R. Faßbenderに感謝している。 |
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J.-C. Pressac, op. cit. (note 67), p. 354. |
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Kurier,
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天井の完成は1942年/1943年の冬であり、大量殺戮の開始は1943年3月であったという。J.-C. Pressac, op. cit. (note 67), pp. 338fも参照.
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どうか鉄のロッドを曲げ戻さないでいただきたい。最近の写真をみると、このようなことをしているときに、誰かがこれらの鉄のロッドのうち2本を折ってしまったことがわかる。そのようなことをするつもりではなくして、一本のロッドを折ってしまったのは1997年2月のFredrick Töben博士であった。もう1本のロッドを折ってしまった人物はわからない。Carlo Mattogno, "Keine
Löcher, keine Gaskammer(n)" VffG 6(3) (2002), pp. 284-304 (online:
www.vho.org/VffG/2002/3/Mattogno284-304.html)を参照。 |
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Carlo Mattogno, op. cit. (note 262)は、アウシュヴィッツ国立博物館がその穴をもっと規則的な四角形にしようとしたために、穴の大きさが大きくなってきていると指摘している。 |
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Pelt Report, op. cit. (note 66), p. 295. |
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Dino A. Brugioni, Robert G. Poirier, op. cit. (note 248), p.
15; see also G. Rudolf, op. cit. (note 68), p. 39. I am grateful to
Fritz P. Berg for this argument. |
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"No Holes? No Holocaust? A Study of the Holes in the Roof
of Leichenkeller 1 of Krematorium II at Birkenau" published by author in
early 2000; online: http://www.revisingrevisionism.com. |
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Ibid., p. 36. |
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Carlo Mattogno, op. cit. (note 262). |
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Höß trial, vol. 2, pp. 99-100.
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J.-C. Pressac, op. cit. (note 67), p. 487; on p. 287,プレサックはプランス語の書き込みのあるもっと粗雑な図面をを掲載している。それは、戦争直後にソ連調査委員会の求めに応じて、フランス人の囚人が作成したものであろう。 |
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R. van Pelt, op. cit. (note 69), pp. 194, 208; caveat
emptor:
クラ証言についてのベルトの翻訳には 誤りが多いにもかかわらず、そして、クラの証言にあるデータは非常に乏しいにもかかわらず、ペルトはそれを利用して、5つの詳細な図面を作成している。しかし、しかし、ペルトの空想にもとづいていたり、そうでない場合には、クラの空想にもとづいている。 |
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E.g., a cabinet's drawer is a Schublade. |
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チクロンBの放出速度については、chapter 7.2. and
7.3.1.3を参照。 |
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煉瓦造りの吸気ダクトは、ファンが設置されている屋根裏部屋と地上から簡単にアクセスすることができた。J.-C. Pressac, op.
cit. (note 67), pp. 276, 291, 329, 369を参照。この吸気ファンをHCNの注入のために使うことにより、ガス処刑においては排気煙突を介したHCNの損失が生じる、すなわち、焼却棟に近づく人々を危険にさらす。しかし、その危険は、仮説上のガス処刑が終わったのちにすべてのHCNを除去する場合よりも、はるかに少ない、したがって、この技術を使うことに対する反論とはなりえない。また、このばあいのHCNの損失は蔵のやり方よりもかなり少ないであろう。もっと詳しくは、chapter 7.3.1.3を参照。 |
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chapter 5.4.1.2.5を参照。 |
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フォーリソンから受け取った図面。同じような図面がJ.-C. Pressac, op.
cit. (note 67), p. 401にもあるが、下質が非常に低い。. |
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J.-C. Pressac, op. cit. (note 67), pp. 379ff.,焼却棟ⅣとⅤに関する章。 |
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Ibid., p. 384.
ガス気密ドアとハッチの図版については、pp. 46-49, 425-428,
486, 500を参照。 |
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Ibid., p. 386. |
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焼却棟は、焼却棟Ⅳの写真をibid., p. 417自説の証拠としている。しかし、廊下は建物の北側にあるのに、この写真は南側から撮影されているので、図面のあるドアは、用途不明の部屋への入り口ドアである。彼が、森の中に隠れている焼却棟Ⅴを指しているとすれば、この写真には何かが写っていると所長することはできない。
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焼却棟のなかに医務室があるのは、今日でも不思議なことはではない。E. Neufert, op.
cit. (note 176)を参照。 |
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J.-C. Pressac, Le Monde Juif, no. 107, Juli-September 1982,
pp. 91-131. |
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プレサックは新著のなかでも同じように論じている。op. cit. (note 90), pp. 67,
89. |
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J.-C. Pressac, op. cit. (note 67), p. 386. |
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Ibid., p. 447. |
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Ibid., pp. 406, 442-455. |
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典型的な例として、デゲシュ社の空気循害虫駆除室を持つダッハウ強制収容所の焼却棟の建物を参照。 |
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シアン化水素を使った燻蒸のあいだの爆発という重大な危険性については、chapter 6.3も参照。 |
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この点について、プレサックは、換気設備が設置されたのはやっと1944年5月末であったと主張してるが、これの点についての彼の指摘には根拠がない。Germar Rudolf, "Some
Technical and Chemical Considerations about the 'Gas Chambers' of
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少なくとも、今日ビルケナウに現存している囚人バラックの窓は、粗雑であり、風が隙間から吹き込んでくる。しかし、これらのバラックが本物であるのか、戦後に作り直されたものであるのかはっきりとはしていない。 |
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J.-C. Pressac, op. cit. (note 67), p. 456. |
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Ibid., p. 390. |
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Ibid., pp. 161ff. |
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R. Höß, in: M. Broszat (ed.), Kommandant in
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Judgment of the so-called Frankfurt Auschwitz Trial, ref. 50/4 Ks
2/63, p. 99; see note 83. |
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いわゆるフランクフルトでのアウシュヴィッツ裁判での予備審問における証人R. Böckへの尋問。Staatsanwaltschaft beim LG
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J.-C. Pressac, op. cit. (note 67), p. 163. |
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J. Graf,
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J.-C. Pressac, op. cit. (note 67), p. 176. |
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Pfeiffer, Hansa Luftbild GmbH, aerial photographic analysis of
Allied photograph dated Aug. 25, 1944 (note 248), letter dated July 17, 1991;
J. Konieczny, The Soviets, But Not the Western Allies, Should Have Bombed
the Auschwitz Camp, Polish Historical Society, unpublished paper. |
|
J.-C. Pressac, op. cit. (note 67), p. 253. |
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J.C. Ball, in E. Gauss, op. cit. (note 252), p. 283を参照。 |
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TCIDK 502-1-24-77, Nov. 30, 1942; 502-1-24-33, Dec. 3, 1942;
502-1-332-46a, Jan. 9, 1943; 502-1-26-66, April 9, 1943; 502-1-238-10, Sept.
30, 1943. |
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Le Monde,
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C. Mattogno, "Die 'Entdeckung' des 'Bunkers 1' von Birkenau: alte
und neue Betrügereien", VffG 6(2) (2002), pp. 139-145 (online:
www.vho.org/VffG/2002/2/Mattogno139-145.html); Engl. see the presentation of
Russ Granata, "The 'Discovery' of 'Bunker 1' of Birkenau",
www.vho.org/~granata/Discovery.html |
|
J.-C. Pressac, op. cit. (note 67), p. 162-164, 171, 177
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J.-C. Pressac, op. cit. (note 67), p. 209, drainage plan POW
camp Birkenau. |
|
"'Verbrennungsgruben' und Grundwasserstand in Birkenau",
VffG 6(4) (2002), pp. 421-424 (online:
www.vho.org/VffG/2002/4/Mattogno421-424.html); Engl.: "'Incineration Pits'
and Ground Water Level in Birkenau", The Revisionist, 1(1) (2003),
pp. 13-16 (online: www.vho.org/tr/2003/1/Mattogno13-16.html). |
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頭蓋骨の断片だけが、壕の隅に残っていた。M. Dragan博士の話。私は、1999年6月に、彼が遺骸を調査することを手助けした。 |
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J.C. Ball, op. cit. (note 43). |
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F. Meyer, "Die Zahl der Opfer von Auschwitz", Osteuropa,
52(5) (2002), pp. 631-641, here p. 632; for critical reviews of these
artciles, see Germar Rudolf, "Cautious Mainstream Revisionism",
The Revisionist, 1(1) (2003), pp. 23-30 (online:
www.vho.org/tr/2003/Rudolf23-30.html); Carlo Mattogno, "Auschwitz. The new
Revisions by Fritjof Meyer", The Revisionist, 1(1) (2003), pp.
30-37 (online: www.vho.org/tr/2003/Mattogno30-37.html).
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