ナチス〈ホロコースト〉をめぐる真実とは?
イスラエル建国・パレスチナ占領の根拠は?
電網木村書店 Web無料公開 2000.5.5
訳者解説(その3)
さてさて、さらにまた遅れて継ぎ足しするのは申し訳ないが、昨年中に最終校正を済ませて、先に記したようなパリ地裁ガロディ裁判の傍聴取材に行く予定をしていたところ、これまた様々な事情から、順序が逆になってしまった。
ガロディ裁判そのものについては、さる二月二八日(土曜日)の朝日新聞夕刊に、「ユダヤ人虐殺に疑義/哲学者に罰金刑/パリの裁判所」という一段三行ゴシック文字見出しのベタ記事が載った。同じくゴシック文字の[パリ28日大野博人]に続く短い記事全文は次の通りである。
パリの軽罪裁判所は二七日、著作の中でナチスによるユダヤ人虐殺に疑義を呈したとして哲学者のロジェ・ガロディ氏に対して、罰金一二万フラン(約二五〇万円)の判決を言い渡した。
この著作は、その内容自体よりも、貧しい人たちの救済活動を続け、『フランスの良心』とも呼ばれているピエール神父が推薦したことから、国民の間に大きな戸惑いと物議を引き起こした。
ガロディは共産主義からカトリックへと転向し、さらにイスラム教へと改宗した哲学者。アラブ諸国の知識人やイスラム教徒の間では英雄視されている。
右の内、本書の読者にはすでに明らかなように、「共産主義からカトリックへと転向」とあるのは短絡的な理解の誤りで、少なくとも「(ソ連は社会主義でないと主張し始めた結果として)共産党から除名となり、(宗教者としては)プロテスタントからカトリックへと転向」とすべきところである。一応、朝日新聞の広報室に電話で注意しておいた。
パリ支局の「大野博人」記者は、私がパリで公判開始以前に、日本の大手メディアの支局回りをした際、直接会って詳しい状況を話し、持参した資料を手渡した内の一人である。結局、日本人は誰もパリ地裁の取材には現われず、私一人だったし、上記の記事にもガロディの著作そのものを読んだ気配は見えない。
だが、この短い記事の前段も中段も、簡素に押さえた客観報道形式であり、悪意は感じられない。後段の、「アラブ諸国の知識人やイスラム教徒の間では英雄視されている」という部分には、私の「争議団」式の直接「オルグ」の効果が少しは現われたのかなと思える響きがある。
裁判の日程は、先に記したように当初は、同月八、九、一五日の三日間のそれぞれについて午後一杯の期日で予定されていたものであるが、結果として、八、九の両日は定刻の五時を過ぎて六時三〇分ごろまで、一五日には九時三〇分ごろまで、さらに翌日、一六日の午前中に二時間、午後に二時間の延長期日を加えて、やっと結審となった。
法廷の座席は区切りなしのベンチ型で、約三〇名程の法律家席も、約四〇名程の記者席も、約一〇〇人程の傍聴席も、約二〇名程に制限していた立ち見の空間も、すべて超満員だった。最大時には広いロビーに約一五〇人が、傍聴席の空きを待ちつつ裁判の進行状況を見守り、かつ、いかにもフランス風に手振り身振りを交えて、そこここで議論の花を咲かせているという状況であった。これも日本とは違って、ロビーでの取材は、活字メディアばかりではなく、テレヴィ、写真に関しても許されているばかりか、記者証のない者でも自由にヴィデオカメラや写真カメラを使用できた。私も、そのすべてを行ってきた。
特徴的かつ決定的な事実は、アラブ系のメディアが殺到していたことであった。法廷でロジェ・ガロディ「被告」が、問題の著書『偽イスラエル政治神話』に対するフランス国内での処遇について抗議すると同時に、それがすでに約三〇か国で翻訳出版されており、日本語版の訳者も法廷にきていると証言したため、その訳者本人である私も注目され、アラブ系のラディオとテレヴィのインタヴューの申し込みを受ける結果となり、そのいくつかに応じてきた。フランスの大手テレヴィ取材陣もきていたが、日本の大手メディア取材陣と実によく似たサラリーマン型で、フニャっと座ったまま待ち、おそらくデスクの注文通りなのであろう、法廷の出入りシーンだけを撮っていた。私の方が積極的に話し掛けても、意識的に避けているものかどうか、ともかく、ポケッとして無反応だった。ただ、たったた一人だけが、実に正直に、自分は雇われている立場だから個人的意見は言えないと答えた。
パリ取材の全体についても稿を改めざるを得ないが、私の脳裏に最も強く刻まれた現場の実感は、先の記事で「アラブ諸国の知識人やイスラム教徒」と記された人々の位置付けであった。本書がアラブ語に訳されていることや、本書の出版後にガロディが何度もアラブ諸国を訪れていることについては、訪仏以前にも情報を得ていた。ところが、右のように法廷の中も外も埋め尽くしていた傍聴者支援者の約半数が、この「アラブ諸国の知識人やイスラム教徒」だった。より正確に言うと、そのほとんどは、フランスで働き、学んでいる「モズレム」(彼ら自身の表現)だったのである。
ガロディ側の数多い証人の中でも、パレスチナ人、モロッコ人とエジプト人の法律家、この三人のアラブ人の証言が、咄々としたフランス語ながら、またはそれゆえにこそ、最も迫力があった。
しかも、それまでに聞いてはいたものの、パリの街路にも地下鉄にも、黒人、褐色人、白人風だが中東型の人々が、これまたまさに溢れていた。いわゆる「3K」労働の担い手も彼らであった。私は、「アラブ諸国」と言うよりは、むしろ、フランスの国内問題としてのアラブ人の位置付けを痛感したのである。裁判所では、鋭くシオニストを告発するイラン人の作家とも知り合いになれた。まだたったの一人だが、これでアラブ人以外の「イスラム教徒」または「モズレム」にまで、私の交友範囲が広がった。特に親しくなり、二度も自宅に招待され、フランス人の妻、キャリーの手料理による世界三大珍味、トリュフまで振る舞ってくれたパレスチナ人のインターネット活動家、バジル・アブエイドとの「遭遇」は、私の人生でも最大の曲がり角の一つとなる経験であった。
ここでは、短く付け加えるに止めるが、フォーリソンには安宿の世話までしてもらい、同じホテルに泊まって、何度もの長時間にわたる面談の機会を得た。渡仏前に記しておいたフォーリソンの政治的な立場については、その通りで、彼は、ソルボンヌ大学の教授だった頃に教員の組合の執行委員をしていたので、「左翼だという人もいる」と注釈しながら、「政治的経歴はない」と明言した。私の「文は人なり」という資料の読み方が当たっていたのである。
本書の初版の編集者、ギヨームとも裁判所で会い、前述のLa Vielle Taupeの件の確認を得た。
カルパントラの件は、バジルに聞くと、やはり現地では有名な話で、名乗り出た「チンピラ」が有罪で投獄されはしたが、誰も警察の処置を信じていないそうである。
その他、何人もの意見を聞いたが、それらを要約すると、ガロディは「政治的」で、フォーリソンは「正直な人」といったところが、最も核心を衝いているようだ。フォーリソンは、ガロディが再版で自分を含めた見直し論者の名前が入った部分を削った処置を怒っているが、ガロディは、法廷で、外国向けに複雑な国内事情に関する部分を削ったという主旨の答弁をしていた。バジルはバジルで、フォーリソンがパレスチナ問題に熱心ではないのが不満だという。私は、これらのそれぞれの異なるスタンスの群像が、期せずしてそれぞれの視点から歴史の真実に迫るスカラーを発揮し、その総合的なベクトルが現在の政治的事件の土台をも白日の下に晒し出し始めていると感じた。
なお、前述のような日本大手メディアのパリ支局「オルグ」に前半を費やし、中間はバジルらとの交友の深まりで連日の過密日程となり、その上に最後の一日までが裁判期日の延長という不測の事態となったために、予定していた図書館などでの資料調査の時間がなくなってしまった。
特に、本訳書一八六頁の「ホロコースト」に関する『リベラシオン』(79・3・7)からの引用については、別途、これが前出のピエール・ギヨームの投書であり、セルジュ・ティオン著『歴史的真実か、政治的真実か?』では、最初の区切り以外は別の文章になっているという情報が入っていた。ガロディよりもむしろ、初版の編集者だったギヨーム自身が、別の箇所を入れ、[中略]などの注記を忘れた可能性が高い。だから、掲載紙の方の原文を確認したかったのだが、その時間が取れず、裁判所のロビーで一緒に並んで写真まで撮ったギヨームとも、公判が終わってからという意味の「アプレ」の約束のまま、再会なしに帰国せざるを得なかった。私の超エコノミー切符の期日は、変更不可能だったのである。本訳書一八六頁の「ママ」は、そういう途中経過の報告として読んで頂きたい。
課題は増えるばかり。日暮れて道遠しの感なきにしもあらずだが、この間、多くの激励の言葉をかたじけなくした。少しづつ世間の風向きが変わってきたような気がする。
以上でWeb公開終了。