『偽イスラエル政治神話』(30)

結論

電網木村書店 Web無料公開 2000.4.7

原著者ロジェ・ガロディの「結論」 1

(a)人類の人間化の叙事詩としての神話の正しい利用法について

 すべての人々は、文字の発明以前でさえも、口承伝説に磨きを掛け、時には現実の事件を根拠にしながらも、共通の特徴としては、彼らの起源や、社会的組織や、文化的儀礼や、首長の権力の源泉や、共同体の将来の計画などについて、しばしば、詩的な正当化を試みてきた。

 これらの偉大な神話は、人類の人間化の叙事詩として、神、または伝説的な先祖の軍功を物語り、偉大な反乱の時代の意義を説明する。それらの反乱は、人々が自分たちの力と義務、彼らが置かれた当時の条件の苛酷さに対する任務を自覚し、具体的な姿を通して、彼らの経験にもとづき、希望を抱くことから始まったである。神話は、将来の最終的な状態を映し出す。そこでは、彼らのすべての幸福な夢と“救済”が完成する。

 各大陸の神話から数例を借用するに止めるが、たとえば、インドの『ラーマーヤナ』は、われわれに、主人公のラーマとその妻、シータの苦難と勝利の物語を通して、男性と女性の崇高な姿、彼らの名誉の感覚、汚れのない人生への要求に対する誠意などを描き出している。ラーマという英雄の名前そのものが、神の名、ラームに近い。神話の力は、このように物語以上に非常に強くて、何千年にもわたり、人々の人生の地平に偉大な人間の肖像を打ち建てることによって、彼らの人生に霊感を与えてきた。[現存の]『ラーマーヤナ』は、ヴァールミーキ[伝承では三世紀の詩人]が作った詩編から何世紀も経て、その最も優れた口承の伝説が文字化されたものを、さらに一五世紀の詩人、ツルシダスが編集し直したものである。『ラーマーヤナ』には、より深い神秘に満ちた幻想の作用と、常に未完成な人間の上昇への願いの詩が満ちている。ガンディーは、死の間際に、彼を暗殺した者を祝福したのだが、ガンディーの唇から最後に出た言葉は、ラームだったのである。

 同じ問題が『マハーバーラタ』でも、「バガヴァッド・ギータ」[神の歌。6巻の中の哲学的詩編]において、その頂点に達する。そこでは、アルジュナ王子が、クルクシェートラでの決戦の最中に、人生と自分の戦いの意味について、最終的な疑問を提示するのである。

 別の文明、すなわち、人間と自然との関係についての別の理解にもとづく、別の人間と神についての神話としては、たとえば、『イリアード』がある。『ラーマーヤナ』とヴァールミーキの関係と同じく、『イリアード』についても、すべての民間の口承伝説が文字化された際に、ホメロスの作品とされた。『イリアード』でも、たとえば、ヘクトルのような登場人物を通して、人が描き得る限りでの、最も崇高な人間の姿を映し出す。ヘクトルは、人々を救うために、死の運命を覚悟しながら、不屈に歩み続けるのである。

 アイスキュロスの『プロメテウス』も同様に、二千年以上も経た一九世紀のシェリー[一七九二~一八二二。イギリスのロマン派詩人]による『プロメテウス解縛』とともに、自由を求める戦いの偉大さの永遠の象徴となっている。アンティゴネの“不文律”に関する訴えも、同様に、書き物よりも、権力よりも、法よりも、さらに高い“崇高な生き方”を望む、すべて人々の頭と心に、こだまのように絶えることなく蘇り続けるのである。

『カイダラ』のようなアフリカの神秘に満ちた偉大な叙事詩も、グリオ[呪術師などの訳例もあるが、ここでは語り部の意味]の口承伝説から文字化された作品となっている。作者とされるハムパト・バは、アフリカのホメロス、またはヴァールミーキである。アズテクの集団移住を歌った無名の作者についても、一生涯を掛けて一九世紀のヨーロッパの人々の自由な意志に関する神話、『ファウスト』を熟成させたゲーテについても、『白痴』と題した小説で、すべての近代の偶像の破壊者としてのムイシュキン公爵を描くことによって、イエス・キリストの新しい解釈を示したドストエフスキーについても、やはり、同様のことが言える。似たような別のイエス・キリストの生き方が、予言者の騎士、ドン・キホーテの冒険を通して描かれている。この騎士は、金力にもとづく新しい支配の誕生を見た世紀の中で、ありとあらゆる制度と衝突する。そこでは、恐れを知らず、非難を物ともしない高潔な騎士が、幻想と失敗しか味わうことができないのである。

 これらの群像こそが“世紀の伝説”の例証なのであり、その存在によってこそ、今再び、ヴィクトル・ユーゴーとともに、高らかに鐘を鳴らして、人間の再生を告げることができるである。

 それらの全体像は、人間の真の“神聖な歴史”を構成するものであり、慣習および権力の重圧を越えるための失敗した試みをも通して、人間の偉大さと正しさを、歴史的にもとづいて証明するものである。

 人々が“歴史”と呼ぶものは、勝利者たち、すなわち、帝国の支配者、人々の土地を荒らす将軍たち、偉大な科学や技術の発明者を服従させて、経済的または軍事的な支配の道具として使い、世界の富を財政的に略奪してきた勝利者たちによって描かれている。

 それらについても足跡が残っている。石の記念碑や、城塞や、凱旋門や、宮殿や、彼らの栄誉を称えた書物や、カルナック神殿の壁画のようにラムセスの軍隊の凶暴さを浮き彫りにした石像や、または、十字軍の詠唱隊員、ギベール・ドゥ・ノジャンが残した年代記の弁解的な回想録や、または、ユリウス・カエサルの『ガリア戦記』のような貪欲な征服の回想録や、または、おべっか使いのラス・カーズの筆を通して、ナポレオンがフランスを歴史上で最も下劣にしてしまった軍功を自慢している『セント・ヘレナ回想録』などに、それらの記録は残っている。

 この種の歴史の場合には、神話の利用は当たり前のことだが、神話を凱旋行進の戦車に鎖でつなぐことさえ遠慮なしにやらかす。

(b)歴史の変装をした神話と、その政治的利用

 本書『偽イスラエル政治神話検証』は、宗教的にも、政治的にも、いかなる意味でも混乱を目的とするものではない。

 シオニストによる『トーラ』と“歴史的文書”、とりわけ『ヨシュア記』、『サムエル記』、『列王紀』に関する解釈への批判は、いかなる意味でも、聖書の価値、人類の人間化、神性化の叙事詩で聖書が啓示した価値を過少評価することにはならない。アブラハムの自己犠牲は、人間が、仮の道徳や脆弱な論理を、それらを相対化する無条件の価値によって乗り越える場合の永遠の模範である。同様に、出エジプトの物語は、すべての屈従からの離脱、解放を求める抑えようのない神への訴えの象徴として、不動の位置を占めている。

 私が否定するのは、それらの聖句を、部族的、国家主義的なものに変形するシオニスト流の読み方である。シオニストは、神と人間、それも、すべての人間の、あるがままのすべてとの契約という巨大な思想を矮小化し、人間の歴史上で最も邪悪な思想を導き出している。一部の不公平な神、すなわち偶像化された神による「選ばれた民」という邪悪な思想に基づいて、あらかじめ、支配と、植民地化と、虐殺を正当化している。これではまるで、あたかも、ヘブライの歴史以外には、世界中のどこにも、“神聖な歴史”が存在しなかったかのようである。

 私の本書における論証に関しては、その鎖の鐶の一つといえどもおろそかにせず、出典を明記した。私の主張は、決して、イスラエル国家の破壊を目的とする思想から発したものではなくて、ただ単に、その神聖視への反対から発したものである。イスラエルの土地は、フランスや、ドイツや、アメリカなどの、他のどの土地とも同じく、約束された土地ではなくて、それぞれの世紀の歴史的な段階の軍事力の行使によって、征服された土地なのである。

 大砲の一撃によって、歴史を際限なく作り直そうというのではない。ただ単に、これ以上、ジャングルの掟の支配を続けさせないために、すべてに関しての共通の国際的な法の適用を求めているのである。

 中東に関する特殊な問題を単純にいえば、第二次世界大戦の終了直後に国連が定めたパレスチナ分割決議、および、隣り合う国境線の蚕食、水の盗用、占領地での住民追い出しを同時に排除する二四二号決議の適用に帰着する。不法に占領した地区への入植、イスラエル軍や武装した入植者によって守られた植民地という現実は、占領行為の継続に他ならない。この状態は、本物の平和、二つの平等で独立した民族の平穏で長続きのする同居、アブラハムの流れを汲む三つの宗教が合流する場所としてのエルサレムに関して、排他的な所有を主張することなしに、お互いが尊敬し合う関係によって象徴される平和の実現を、不可能にしている。

[“ホロコースト”神話の国家による政治的利用]

 同様に、「ホロコースト」神話の批判も、単なる犠牲者の死体の数の勘定の問題ではない。たとえ一人であっても、その信仰や民族的名所属の如何によって迫害されることがなくなれば、それだけ人間全体への犯罪が少なくなるのである。

 ところが、この犯罪が犯された時には存在していなかった国家によって、政治的な利用が行われている。その被害の程度が他のすべてと比較にならない状態だったと主張するために、数字の誇張と、“ホロコースト”という用語がそうであるように、宗教的な用語を使う神聖化までが行われ、それよりさらに残酷な民族虐殺が忘れられてしまったのである。

 最も巨大な利益を得ているのはシオニストである。彼らは、排他的に犠牲者を独占し、それを踏み台としてイスラエル国家を創設した。第二次世界大戦では五千万人の死者が出たのに、ユダヤ人だけがヒトラー時代の犠牲者であるかのように主張し、それを根拠にして、すべての法の上に居座り、国内および国外での、ありとあらゆる不当な強請行為を合法化している。

[千年を支配したコンスタンティヌス寄進状の嘘]

 何百万もの善意の人々の考え違いを非難する積もりはない。彼らは、すべてのメディアによって普及された嘘だらけの神話を信じている。当然のこととして、たとえばガス室の犠牲者の問題で憤激したり、聖書の言葉通りの読み方にもとづいて、現代の解釈をまったく知らずに、「選ばれた民」に対する神の約束を信じ込んでいる。

 敬虔なキリスト教徒たちは、四世紀からルネッサンスまでの一千年以上もの長期間にわたって、[ローマ帝国皇帝]コンスタンティヌス[一世]によるローマ司教への法王の国の“寄進”[教皇による王権支配を企んだヨーロッパ中世最大の偽書『コンスタンティヌス寄進状』]を信じ込んでいた。この嘘は、千年を支配したのである。

 私自身の祖母は、何千人もの信仰厚い人々と同様に、一九一四年八月二日、自分の目で、血が流れる十字架が空に昇るのを確かに見たと言い、そのことを死ぬまで信じていた。

 この現在の本の目的は、シオニストの神学による諸々の悪事を判断することが、誰にでもできるように、すべての参考資料を提供すること以外にない。シオニストは、アメリカの無条件な支持を得て、すでに五回も戦争を引き起こしており、彼らのロビーを駆使してアメリカの有力者に影響を及ぼし、そこからさらに世界の世論を動かし、世界の統一と平和への脅威となっている。

(c)偽造者と批判的な歴史

 最後に、われわれにとっての課題は、どんなに小さな情報についても、われわれが確認できる出典や確証の材料を用意することであり、すべての嘘と根本的に一線を画することである。嘘は宿命的に、宗教や共同体への不信を生み出し、憎悪と迫害を呼び起こす。

 この種の卑しむべき行為の典型は、『シオンの長老の議定書』である。これについては、拙著『パレスチナ/神の伝言の土地』の中でも、九頁も費やして、警察による偽造の過程を明らかにした。私が教えを受けた原典は、アンリ・ロランが一九三九年に出した反駁の余地のない論証、『われわれの時代の黙示録』である。この本は、翌年の一九四〇年、ヒトラーによる焚書の対象となった。ナチによる反ユダヤ主義プロパガンダの絶好の材料を台無しにする本だからだったからである。復刻本が一九九一年に出版されている。

 アンリ・ロランは、つぎの二つの剽窃文書を発見した。この二つの文書を基にして、今世紀の初頭、ロシアの内務省の警察官吏、フォン・プレヴが、問題の偽造文書を作成したのである。

1 一八六四年にフランスのモウリス・ジョリイが、ナポレオン三世に反対する立場で書いた『モンテスキューとマッキャヴェリの地獄での対話』と題するパンフレットである。そのどの章にも皇帝の圧制に対しての、あらゆる批判が転載されていて、すべての政治的支配に対して適用できる内容になっている。

2 ロシアからの移民、イリア・ツィオンが、ロシアの大蔵大臣、ヴィッテ伯爵に反対するために出した『ヴィッテ氏の圧制はロシアをどこへ導くか?』という題の評論である。発表されたのは一八九五年であるが、これがまた今度は、一七八九年以前に、カロヌ氏に反対するために出されていた風刺書の剽窃であって、これも、すべての大蔵大臣と国際的な銀行との関係に関して使える内容なのである。この剽窃文書に関しての特筆すべき点は、これがさらに、ヴィッテ伯爵を憎んでいたフォン・プレヴによって、ヴィッテに関する報告の手本にされたことである。

 この卑しむべき種類の探偵小説的偽造文書は、生憎なことに、かなり利用されてしまった。特に、いくつかのアラブ諸国での利用に関しては、私は、早くから批判を加えている。この誤った利用によって、シオニストとイスラエル、および彼らの国際的な圧力団体は、彼らの中東政策に対するすべての批判を、偽造者の仕業と同一視する機会を得たのであり、それによって、さらに非難を強めることができたのである。

 多くの読者は、結論に到達するのを非常に急ぎ、しばしば、無味乾燥な証拠を挙げる作業を嫌うものである。しかし、以上に列挙した理由にもとづいて、私は、読者には余分な手間となり、疲労の原因となることを意識しながらも、あえて、いかなる問題についても、必ず出典を明示したのである。


(31)原著者ロジェ・ガロディの「結論」-2