『偽イスラエル政治神話』(15)

第2章:二〇世紀の諸神話

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第2節:ニュルンベルグの正義の神話 3

(a)書証‐1

 基本的な書証とは、“最終的解決”が何であったかを決定付けるものであり、まず最初には絶滅の命令であり、それが最高級の責任者によるものだということである。すなわち、ヒトラー、ゲーリング、ハイトリッヒ、ヒムラーらの名による処刑の命令書である。

[イスラエル中央文書館も「絶滅命令書はない」]

 まず最初は、ヒトラーによる「絶滅」の命令書である。

 これまでにおける「ジェノサイド」、お次は「ホロコースト」の理論家たちの努力の甲斐もなく、その痕跡はまったく発見されていない。一九六八年に、オルガ・ヴォルムセル=ミゴット夫人は、つぎのように記している。

《アウシュヴィッツのガスによる絶滅の明瞭な命令が存在しないのと同様に、一九四四年の中止命令も存在しない》。

 彼女はさらに正確を期す。

《ニュルンベルグ裁判でも、その継続の裁判でも、クラクフでのホェス裁判でも、イスラエルでのアイヒマン裁判でも、収容所司令官裁判でも、一九六六年一一月から一九七五年八月までに行われたフランクフルト(第二次アウシュヴィッツ)裁判でも、一九四四年一一月二二日付けでガスによるユダヤ人絶滅終了を命ずるヒムラーの署名入りの有名な命令書、すなわち“最終的解決”の中止に関する命令書は、提出されなかった》(『ナチ収容所囚人システム』68)

 テル・アヴィヴの“中央文書館”のクボヴィ博士は一九六〇年に、つぎのように認めた。。

《ユダヤ人を絶滅せよと記したヒトラー、ヒムラー、ハイトリッヒらの署名入りの文書はまったく存在しない。……“絶滅”という言葉は、ユダヤ人問題の最終的解決に関するゲーリングからハイトリッヒへの手紙には出現しない》(『ユダヤ人に対する戦争』78)

 一九八二年一月には、“見直し論者”による批判的研究と戦うために、パリのソルボンヌ大学で討論会が開かれたが、そこでの対決の終了後に持たれた記者会見の中で、レイモンド・アロンとフランソワ・ヒュレは、こう宣言せざるを得なかった。

《最高級の詳しい探索にもかかわらず、ユダヤ人を絶滅せよいうヒトラーの命令は、いまだに発見されていない》

 一九八一年には、ラカー[72初版の大著『ユダヤ人問題とシオニズムの歴史』の著者]が、こう証言している。

《今日にいたるまで、ヨーロッパのユダヤ人社会の破壊を目的とするヒトラーの署名入り命令書は、発見されていないのだから、すべての可能性から見て、その命令は出されていない》(『恐ろしい秘密』81)

[再検証を禁止し議論を拒否する歴史家たちの論理]

 これだけのことが明らかになっても、ヴィダル=ナケとレオン・ポリアコフの煽動に乗って、つぎのような声明に署名した他の歴史家たちがいる。

《……どうしてあのような大量虐殺が技術的に可能だったかということを、「われわれは自分自身に問い掛けてはならない」。それは実際にあったことなのだから、技術的に可能だったのである。このようなことが、この問題の歴史的な探索に関しての「義務的な出発点」である。われわれには、この真実を単純に訴える義務がある。ガス室の存在に関しての議論は存在したことがないし、「議論をしてはならない」のである》[三四名の歴史家の連名発表『ル・モンド』79・2・21]

 ……われわれは自分自身に問い掛けてはならない

 ……義務的な出発点

 ……議論をしてはならない

 三つの禁止、三つのタブー、調査に対する三つの決定的な制限。

 このような文書は、歴史の歴史の中で、まったく「歴史的」な画期を刻印する。ここでは、証明されなければならない「事実」が、すべての調査、すべての批判より以前に、勝利の直後に勝利者によって一度だけ行われた決定に関するすべての調査と、すべての批判に対しての、三つの強制的な取り消しの権限を持つ絶対的な真実および触れてはならない禁止事項であるかのように、主張されているのである。

 しかし、歴史は、もしもそれが科学的基準に適うという評価を望むのであれば、絶えざる調査と、ユークリッドの公理やニュートンの法則のように、決定的な確立が信じられている問題に関してさえも、現に行われているような再検証を必要とするものなのである。

[百五十万人に変更されたアウシュヴィッツ記念碑]

 この問題に関しても、すでに顕著な実例がある。

《アウシュヴィッツ国際委員会は一九九〇年一二月、アウシュヴィッツの記念碑に記された“四百万人の死者”という文字を、“百万人以上の死者”に書き換えようと提案した。委員会の議長、モーリス・ゴールドスタイン博士は、これに反対した》(『ル・ソワール』91・10・19/20)

 実際のところ、ゴールドスタイン博士は、古い記念碑を変える必要については、まったく反対してなかった。その代わりに、新しい記念碑には数字を入れないように希望したのだった。なぜなら、彼は、近い内にまた再び、当時考えられていたのよりもなお低く、数字を下げる必要が出てくることを、知っていたからである。

 ビルケナウ[アウシュヴィッツ第二キャンプ]の入り口にある記念碑には、一九九四年まで、つぎの文字が刻まれていた。

《ここで、一九四〇年から一九四五年の間に、四百万人の男、女、子供が、ヒトラーのジェノサイドによって虐待され、殺された》

 歴史家のウラジスラウ・バルトツェウスキが議長を勤め、二六名の国籍の違うメンバーが加わる国立博物館国際委員会が動いた結果、記念碑の文字は、つぎのように、真実からの距離を少し縮めた感じに修正された[訳注の追加]。

《この場所が永遠に人類に対する絶望の叫びと警告となることを願う。ここで一五〇万人の男、女、子供がナチに殺された。その多くがヨーロッパ各国のユダヤ人だった》(『ル・モンド』95・1・27)

 この実例は、歴史が、憎悪の宣伝者による知的テロリズムの手から逃れるためには、絶えざる「見直し」を必要とするということを示している。歴史は、「見直し論」でなければ、変装したプロパガンダである。

訳注の追加:先行の拙著『アウシュヴィッツの争点』(1995.6.26.p.56)では、この数字の変更の経過について、つぎのように記していた。
《フランスの名門時事報道週刊誌『レクスプレス』(本国版1995.1.19/25,国際版1995.1.26)のメイン記事「アウシュヴィッツ/悪の記念」によると、「約一五〇万人」という数字への変更を決定を下したのは「ポーランド共和国大統領官房」であった》

[書証分析、証言吟味、凶器鑑定が本来の手続き]

 それでは、正しい意味での歴史、すなわち、批判、“見直し論”、いうなれば、書証の分析に立脚し、証言の真正さを吟味し、凶器を鑑定する本来の訴訟手続きに戻ろう。

 第一は、国家社会主義党の計画の中で、ユダヤ人がどう扱われていたかである。

 ユダヤ人問題は、国家社会主義党(NSDAP)の計画の4節から出始める。

《全面的に市民であるものだけがドイツ国籍を持てる。全面的に市民であるということは、宗教とはかかわりなく、ドイツ人の血統を引くということである。それゆえ、いかなるユダヤ人も、全面的な市民ではありえない》

 同質の者からなる共同体の成員として、「Staatsburger」が市民を示し、「Volksgenosse」が全面的な市民を示す。さらに5節では、つぎのように定めている。

《ドイツの国籍を持たない者は、客員(Gast)の資格によってしかドイツ国内で暮らすことができず、外国人が滞在する場合の現行法に従わなければならない。》

 続いて7節では、ドイツの国籍を持たない者に対する一定の条件の下での滞留禁止を定め、8節では、非ドイツ人の新しい移住の中止と同時に、一九一四年八月二日以後にドイツに入国した非ドイツ人の迅速な国外退去の強制を定めている。この最後の部分は明らかに、第一次世界大戦の最中および戦後も、一貫してドイツ国内に大量に流入し続けていた東ヨーロッパのユダヤ人のことを指している。

 23節でも、この問題を取り扱っている。そこではユダヤ人は報道機関で働く権利を持たないと定め、さらに24節で、ナチ党が"ユダヤ人の功利主義的精神"と戦うことを確認している。

a……ユダヤ人の絶滅に関するヒトラーの命令

 ラウル・ヒルバーグ[アメリカに住むユダヤ人の歴史家]は一九六一年に、その著書、『ヨーロッパのユダヤ人の破壊』の初版の中で、ヒトラーが出したユダヤ人の絶滅に関する命令は二つあり、一つは一九四一年の春(ロシアへの侵攻時)で、もう一つは数か月後だと書いていた。

 しかし、一九八一年になると、《第二版の中では改訂が行われ、ヒトラーが出したユダヤ人の絶滅に関する命令についての言及は、ことごとく削除された》(『改訂されたヒルバーグ』)

 一九六一年の版では一七一頁に、《死の命令という局面は、どうして出現したのだろうか? 基本的には二つのヒトラーの決定によってである。一九四一年の春に一つの命令が出された》(前出『ヨーロッパのユダヤ人の破壊』61)と記されていた。

 その命令は、どのような状態で出されたのであろうか?

ヒルバーグ……《私が引用している記録を記したヨデル将軍によると、その状態は、つぎのようである。アドルフ・ヒトラーはユダヤ人の政治委員の一掃を望むと語った。これが出発点である。……このようなことがヨデル将軍の記録による命令の中身である》(トロント裁判記録)

ヒルバーグ……《命令は口頭である》

 このように、ヒルバーグは、ヒトラーがこう語ったと、ヨデル将軍が語ったと、語っているのである……!

 反ユダヤ主義的な最初の罵倒に引き続き、その後の『我が闘争』の中でも、ヒトラーは、ドイツのユダヤ人を追い出したいという意志を公言している。本書では、これから以後、“最終的解決”という表現を用いたドイツ語の書証のみを取り上げることによって、その正確な定義を確定する。

 一九四〇年一月二四日、フランスに対する勝利の直後、ハイトリッヒが大蔵大臣のリッペントロップに出した一通の手紙の中で、“領土問題の最終的解決の一案”(“Eine territoriale Endlosung”)を提出した(『ヒトラーと最終的解決』82)。

 ヨーロッパの外にユダヤ人の“居留地”を作るというのがハイトリッヒの提案だったが、これを受けてリッペントロップが指示したのが、“マダガスカル計画”だった。

 同じ一九四〇年七月には、ユダヤ人問題の担当者だったフランツ・ラデマッヒャーも、この指示を、つぎのように簡潔に表現していた。

《ユダヤ人を全部ヨーロッパの外へ!》(『ユダヤ人問題の最終的解決』77)。

 このような“領土問題の最終的解決”は、ヨーロッパを支配下に置くドイツの新しい状況に対応するものだった。ドイツのユダヤ人を追い出すだけでは済まなくなったのである。

 すべてのヨーロッパのユダヤ人をマダガスカルに移住させる“最終的解決”計画の責任者となったラデマッヒャーは、その実現のために必要な期間を四年と見込み、“財政措置”の章で、つぎのように記していた。

《提案されている最終的解決(Endlosung)の実現には、相当額の財源が必要である》(ニュルンベルグ裁判記録)

b…ハイトリッヒ宛て一九四一年七月三一日のゲーリングの手紙

 ハイトリッヒはゲーリングに対して、つぎのように要求した。

《一九三九年、あなたは私に対して、ユダヤ人問題に関する対策を講じるように命令した。現在の状況下、私には、あなたが私に任せたこの仕事を、われわれがロシアで獲得した新しい領土にも広げる義務があるのではないか。……?》

 これもやはりユダヤ人の殺害ではない。単純に、新しい条件を考慮した上での、地理的なユダヤ人の移送の意味でしかない(トロント裁判記録)。

 唯一の“最終的解決”は、このように常に、ヨーロッパからユダヤ人を追い出すために、戦争が可能にする限り、つまりは獲得できるという想像の上で、ヨーロッパの外側のできるだけ遠い場所にゲットーを設置して、たとえば最初の案だったマダガスカル計画のように、そこにユダヤ人をすべて閉じ込めるという内容のものであった。

 秘密の暗号の言葉を使ったのだという仮説は成立しない[原注1]。なぜならば、他のナチの犯罪に関しては、明瞭な記録が残存しているからである。たとえば、安楽死、イギリスの工作隊の死刑、アメリカの空軍兵士へのリンチ、スターリングラードを占領した場合の住民の男すべての絶滅などの命令であるが、《これらの犯罪に関する記録は、すべて残存している。それなのに、この事件に関してだけは、まったく何も残存していない。原本もない。写しもない》(同前)。さらに付け加えると、これだけ大規模な行動を実施するための指令も残存しておらず、必要な特殊部隊が設置された痕跡もないのである。

原注1:この種の暗号の実物は、何を何で表現しても構わないものである。フランスがナチス・ドイツの占領下にあった時代に、レジスタンス運動がロンドン向けに発した暗号による連絡は、たとえば、《マルガリートとのデートを忘れないでね》といったようなもので、これが、《某地点の橋を爆撃せよ》という指示だった。

《一九四二年一月、ゲシュタポ長官ハイトリッヒは、ベルリンの指導者たちに、総統が、それ以前に計画されていた海外へのユダヤ人の移送を取り止め、すべてのユダヤ人を東方の領土に向けて移送する決断を下したと知らせた》(同前)

 一九四二年五月、ハイトリッヒの事務局内で回覧された覚書きによって、大臣たちは、ヨーロッパのユダヤ人が東方に集中され、《戦争の終結を待って、さらに、マダガスカルのような遠方の領土に設置される国家的郷里に移送される……》(同前)ことを知った。

 ポリアコフは、つぎのように記している。

《それが放棄されるまでの間、“マダガスカル計画”は、ドイツの指導者たちによって、“ユダヤ人問題”に関する“最終的解決”という名で呼ばれていた》(ポリアコフ『エルサレム裁判』63)

 そこで、万難を排してでも、肉体的な絶滅政策の理論を維持するためには、言い抜け方の工夫が必要になってくるのである。たとえば、こうである。

《ユダヤ人問題の最終的解決は、ヨーロッパのユダヤ人を絶滅しようとするヒトラーの計画を指すための、便宜的な用語である》(ライトリンガー『最終的解決』)

 このような暗号の仮説には、暗号が何を何で表現しても構わないものであるにしても、正当化する材料がまったくない。この点に関しては、二つの実例がある。

[最終的解決とは領土による解決のみ]

 第一番目……一九四一年七月三一日のゲーリングの手紙である。つまり、先に引用したハイトリッヒの手紙への一か月後の返事なのだが、その間に、用語の意味が突然変わったとでも言うのだろうか!

 この手紙でゲーリングは、ハイトリッヒへの命令を補足している。

《先の命令24・1・1939によって、あなたに割り当た仕事は、言うなれば、ユダヤ人問題に関して、移民と移送の手段により、状況に応じて最も有利な解決を図ることであった。今度は以上に補足して、……ヨーロッパにおけるドイツの勢力圏内でユダヤ人問題の全面的解決(Gesamtlosung)を達成するために、すべての必要な準備に取り掛かることを命ずる。……私は、あなたに、われわれが切望しているユダヤ人問題の最終的解決(Endlosung der Judenfrage)を実現するための組織的な体制、具体的な配備、資材を列挙した全面的計画(Gesamtentwurf)を早急に提出することを命ずる》(ヒルバーグ『ヨーロッパのユダヤ人の破壊』2版に引用されているニュルンベルグ裁判記録)

 ライトリンガー[絶滅論者]は、この記録を自著に引用しするに当たって、冒頭に記された移民と移送に関する部分を削除している。この手紙は、ヨーロッパ全体をヒトラーが支配するに至った一九四一年七月に書かれている。ヒトラーがポーランドを支配していたものの、フランスはまだ支配していなかった一九三九年という時期の“状況に応じて”採用された移送という手段についての、新たな拡大を命ずるものである。それにかかわらず、その冒頭の部分を削除しているのだから、その削除の意図は明白である。

 ゲーリングの手紙の意味は冒頭の一節から読めば完全に明瞭である。それまでにドイツで実行されていたユダヤ人の移民または移送の政策は、新しい征服に対応して、ヨーロッパにおけるドイツの勢力圏全体に拡大されなければならない。“全面的解決”は、新しい状況を考慮に入れたものである。これこそが戦争の終結後の唯一の“最終的解決”なのであって、そこでは、ロシアも含む全ヨーロッパで勝利した場合、《ヨーロッパからすべてのユダヤ人を追放する》というヒトラーの一貫した目的の通りに、アフリカ、または別の場所へと、最終的な移送が可能になるのである。

 以上を要約すると、ハイトリッヒに対するゲーリングの命令は、仮想の図式に役立てるための勝手な解釈を漁るのでない限り、それまではドイツに関してのみ適用されていた命令を、ヨーロッパに適用しただけのものなのである。この目的は疑いもなく非人道的で犯罪的である。しかし、そこには、ニュルンベルグの検事、ロバート・M・W・ケンプナーが、この手紙を根拠にして、《この数行によって、ハイトリッヒとその協力者たちは、(ユダヤ人)殺害の公式な命令を受けていた》と宣言したような、"絶滅"の考え方は、一瞬たりとも含まれたことはなかったのである。

 ゲーリングは、ドイツ語の“Gesamtlosung”(全面的解決)を“最終的解決”(Endlosung)とした英語の訳文に抗議し、その誤りをジャクソン検事に認めさせ、正しい表現に直させた(ニュルンベルグ裁判記録)。

 早くも一九四〇年六月二四日に、ハイトリッヒは、リッペントロップに対して、「最終的解決」を早急に実現したいという彼の希望を伝えている。彼は、こう書いている。

《現在ドイツの支配下にある領土内に約三二五万人のユダヤ人がいるという現実は、総合的な回答を迫るものであり、最早、移民による解決は不可能である。従って、「領土」による最終的解決が必要となっている》(アイヒマン裁判記録)

 同時期に、ヒムラーも、ヒトラー宛てにメモを送っているが、その結論は、つぎのようなものであった。《私は、すべてのユダヤ人をアフリカまたは別の植民地に移民させることによって、ユダヤ人問題を決定的に片付けたいと願っている》(『季刊現代史資料』57、一九七号)

 ヒトラーは、この提案に賛成した。なぜなら、一九四二年二月一〇日、外務省の“ドイツ第三課”の責任者、ラデマッヒャーが公式の手紙の中で、つぎのように書いているからである。

《最近のソ連との戦いで、最終的解決のための新しい領土の配分が可能になった。その結果、総統は、ユダヤ人をマダガスカルへではなくて東方へ移動させると決定した。従って、最早、最終的解決のためにマダガスカルを考慮する必要はない》(ニュルンベルグ継続裁判・ヴィルヘルムシュトラッセの記録。ライトリンガー『最終的解決』の引用によるが、そこでまたもやライトリンガーは、何ら正当な理由を示さずに、“創作”とか“偽装”とかいう“解釈”をしている)

 原本の実際の表現は[最終的解決ではなくて]、Gesamtlosung der Judenfrage[ユダヤ人問題の「全面的」解決]であって、完全な全面的解決だったのだが、[この違いの問題点は前述の通りなので]ここでは繰り返さない。

 ところで、ゲーリングは、この言葉[全面的解決]を、一九四一年七月三一日付けの手紙の最初の節で初めて使ったのである。その手紙でゲーリングは、ハイトリッヒに対して、その[全面的解決の]準備に関する命令(ニュルンベルグ裁判記録)を下しているのだが、その節の最後では、die Endlosung der Judenfrage [ユダヤ人問題の最終的解決]という、それまで専ら使用されていた慣用的な用語を用いているのである。この[二つの]用語は、同じ意味で使っているのであって、その目的物[ユダヤ人]の消去によって、問題を清算しょうという意味ではなかったのである。[前述のように]ニュルンベルグでは、一九四六年五月二〇日、[この点に関する]意図的な翻訳の明瞭な瑕疵を、ゲーリング自身から指摘されたので、ジャクソン検事は、その抗議を認めざるを得なかった(同前)。この偶発的な出来事は、それがすべての[絶滅政策説の]理論を崩壊させるものだったにもかかわらず、メディアは一言も報道しなかった。

 第二番目……ある主張を正当化するために、言葉の意味を恣意的に変える第二の例は、ベルリンで一九四二年一月二〇日開かれた・大ヴァンゼー・会議である。

 会議の始めにハイットリッヒは、自分が《ヨーロッパのユダヤ人問題の最終的解決(Endlosung der europaschen Judenfrage)の準備を遂行するための責任者》に任命されたと挨拶する。……《彼は以後、「地理的な限界を考慮に入れることなくユダヤ人問題の最終的解決に向けて」、それに必要な全面的な手段の責任者となる。》(ゴシック文字の強調は私、R.G.[ロジェ・ガロディ]である)

 ハイットリッヒは続いて、それまでに行ってきた反ユダヤ主義の政策を要約する。

 a…ドイツ民族の生存にかかわる身分からのユダヤ人の追放。

 b…ドイツ民族の生存圏からのユダヤ人の追放。

 東部(ソ連)戦線へのドイツ軍の電撃的な前進という事実を前にして、ハイトリッヒは、この新しい状況に対応する任務を追求する。

《総統から前もって許可を得ているが、移民は、「別の可能な解決法、つまり、東部へのユダヤ人の移送に席を譲った」》(ゴシックは同前)

《これらの方法を一時しのぎにすぎないものと考えてはならない。この分野ですでに獲得した実際の経験は、将来のユダヤ人問題の最終的解決にとって意義深いものがある》(ニュルンベルグ裁判記録)

 この決定的な解決は、実際には、戦争が終わらないと実現しないのだが、常に同じ方向で追求され続けてきた。つまり、ヨーロッパのすべてのユダヤ人の追放である。これと同じことをヒトラーは、パリ大使、アベッツに対して、明確な表現で語っていた。総統は、彼に、「戦争が終わったらヨーロッパのすべてのユダヤ人を追放する」という意図を語ったのである(同前「ドイツ対外政策資料」)。

以上で(その15)終り。(その16)に続く。


(16)書証-2/2