Races? Only one Human race United We Stand, Divided We Fall |
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5.
アウシュヴィッツ
5.1.
序論
5.1.1.
ホロコーストのあいだの「オペラ」
「私たちは皆、アウシュヴィッツの名前を知っている。大半の人々は、アウシュヴィッツをユダヤ人の『死の収容所』として知っているだろう。多くの人々は、それがポーランドにあったことを思い起こすことができるだろう。詳しいことは知らない人も多いかもしれないが、少なくともその名前は知っている。いずれにしても、それは現代文化の一部である。
アウシュヴィッツは普通、ユダヤ人(ユダヤ民族ではない、そんなものは存在しない)を絶え間なく、組織的に、計画的に絶滅した場所として描かれている。
まったくの恐怖、いたるところに広がる苦難の雰囲気、差し迫る死のアセンブリー・ラインについての多くの証言や記述がある。一体、このような場所に囚人用の水泳プールがあるということなどはありうるのであろうか。社会教育センター、討論グループ、劇場、少年合唱隊、オペラの上演があり、しかもすべてが、囚人によって運営され、かつ囚人のためであったというなことがありうるのであろうか。まったくありえない。それは、私たちが親しんでいるイメージにはそぐわない。
定説とはなっていいない証拠や見解を述べている書物、論文、ビデオがある。それを有名書店で手に入れることはできない。しかし、これらの書物、論文、ビデオを捜し求めれば、上記の情報を手に入れることができるであろう。
戦時中のさまざまな航空写真が公表されているが、この水泳プールはそこに登場している。もちろん、これらの写真が偽造されていることもありうるかもしれない。しかし、囚人用のプール――クローズ・アップされている――は、今日のアウシュヴィッツを撮影したフィルムに登場している。このビデオには、ツアー・ガイド長で、今日の収容所の監督者であるフランツィシェク・ピペル博士との驚くべきインタビューも入っている。このフィルムを作成したのは、デイヴィッド・コールであった。
コール氏はアメリカ系ユダヤ人である。おそらくビデオは偽造かもしれない。しかし、他の施設が実際に存在した、存在しているとすれば、水泳プールも存在しているのであろう。
他の施設が実在していた証拠としては、とくに、『イェルサレム・ポスト』(国内版)、1995年1月25日、7頁をあたってみればよいであろう。
筆者はオリジナルのコピーを持っている。イスラエルから送られてきたものである。1頁半の記事の題は、『殺戮の只中で、子供たちは兄弟愛の歌を歌った』というものである。『1943年、10歳になるダニエル K.はアウシュヴィッツに到着した。彼は、今では大学教授となっているが、死の収容所の別の顔を思い起こしている』と出だしは始まっている。『[ベートーベンの第九交響曲]からの合唱が、…1943年、アウシュヴィッツ・ビルケナウのユダヤ人少年合唱団によって歌われた。…私もその一員であった・・・私が文化や歴史、音楽に始めて親しんだのは収容所においてであった。』
『1944年3月、私はジフテリアにかかって、収容所の病院に送られた。私の母は、病院で一緒にいられるように頼んでいた。[回答は記されていない]…看護婦、医者、患者は生き残った・・・』
なぜ、看護婦、医者がいたのであろうか。殺されるはずの人々のために病院が存在したのであろうか。少年は、2-3年間、食事、衣服、住居を与えられたのであろうか。ダニエル K.は続けている。
『われわれのグループの青年指導者の一人が、…子供たちのための教育センターを作ってくれるように頼んだ。彼は許可を得た。ほどなく、この教育センターは、家族収容所のための精神的・社会的センターとなった。[家族収容所!]それは、収容所の魂であった。』
『このセンターでは、少年オペラも含む音楽や劇が上演された。さまざまなイデオロギー、シオニズム、社会主義、チェコ民族主義が議論された…イムレという指揮者がいて、…少年合唱団を編成した。リハーサルは、音響効果のよい大きな便所バラックで行なわれた…』
『1944年秋、労働に適した囚人の大集団がドイツに送られていた。』(引用終了)
なんと、囚人の『大集団』が労働に適格のまま存在していたのである。絶滅やガス炉などもいつものように数多く触れられているが、それについては、意図的に無視した。それらは私たちのまわりにうんざりするほどころがっているからである。
私の目的は、これらのレジャー施設が認められて存在していたという事実に関心を向けることである。これらが実在したことには疑問の余地がない。これらが実在したことは、私たちすべてが親しんでいる話に、新たな、思考を呼び起こすような光を投げかけている。すなわち、アウシュヴィッツは、普通描かれているような場所ではなかったのではないか。」
Dan McSweeneyによる上記の記事は、1997年5月1日、オーストリアの新聞Killoy Sentinel
(New South Wales)
に掲載された。この記事にあるコールのビデオは目を見開かせるものであるが、今日でも購入できる。[88]
この記事にあるレジャー施設は、ここにあるような通常の文献にまったく登場していなかったわけではない。むしろ、強制収容所での体験を扱った文献や同じテーマを扱った第二次的文献には、入院、重病の「労働不適格」者への高価な治療、歯医者、遊び場、コンサート、スポーツ(ビルケナウにはサッカー場もあった)、アウシュヴィッツ町へのアクセスなどの話で満ちている。もちろん、これらの話は中心的なテーマではない。よく知られている恐怖物語、虐殺行為のかたわらで、言及されているにすぎない。このような話を意識的に探して、編集したとすれば、アウシュヴィッツの証人たちが描いているイメージとはまったく逆であること、アウシュヴィッツ自体ではないことに気づくことであろう。それだけで、われわれの「思考の糧」となるであろう。目撃証言は、極端なまでに誇張されてきた。これを丹念に分析しなくてはならない。しかし、誰が、この見返りのない仕事を引き受けるのであろうか。
ポーランドの上部シレジアの町アウシュヴィッツの名前は、民族社会主義者による「ユニークな」ベルトコンベアー的ユダヤ人絶滅をさす同義語として使われているけれども、世界を見回しても、この強制収容所についてのバランスのとれた記述は存在してこなかった。このテーマについての数千の著作が存在するが、そのうち、わずか3つだけが、検討対象に値する。
ダヌータ・チェクの『アウシュヴィッツ・カレンダー』。これは戦後のポーランドの共産主義者による宣伝のための著作であるが、収容所の歴史についての既存の資料に対して、理論的に明確かつ批判的な検討をまったく行なわないまま、実際の事件、発明された事件を年代誌風に編集したものである。[89]
プレサックの著作は、収容所の5つの建物、焼却棟だけに焦点をあてており、この建物の技術と作動についての解明を目的としているが、[67]、[90]
技術的・建築学的専門能力がないために、この目的の達成は、惨めにも失敗している。[91]
ペルト(Robert van Pelt)とドヴォルク(Deborah Dwork)は、アウシュヴィッツの町の歴史に関する著作のなかで、強制収容所についてはごく表面的にしか扱っていないが[92]
、ペルトの最近の著作は、おそらくかなり狭すぎるほど、殺人ガス処刑に焦点をあてている。しかし、プレサックがすでに提起している論点を超えてはいない。[69]
書店の本棚で手に入れることができるものは、その大半が証言報告をまとめたものにすぎない。[93]
やっと1990年代初頭になって、すなわち、東ヨーロッパの共産党体制が崩壊したのちに、第三帝国の諸部局の資料が利用可能となり、それを利用して、アウシュヴィッツ収容所の信頼すべき歴史を書ける環境が整った。この面では、モスクワにあるZentralbauleitung der Waffen SS
und Polizei Auschwitz
(アウシュヴィッツ武装SS・警察中央建設局)の資料[94]
、プラハの軍事史文書館にあるKriegsarchiv der Waffen SS
(武装SS戦争文書)の資料、アウシュヴィッツ博物館にあるアウシュヴィッツ強制収容所資料がとくに重要である。これらの文書館には10万以上の資料があるので、このテーマについての実証主義的な研究が登場するには、まだ数年が必要であろう。このような研究はまだ始まったばかりであるが、それが出現すれば、アウシュヴィッツ強制収容所についてのわれわれのイメージは、確実に、大きく修正されることであろう。
当面、十分な資料にもとづいた研究が存在していないので、アウシュヴィッツの歴史を概観するにあたっては、プレサックの記述に依拠することにする。プレサックはアウシュヴィッツの技術の「専門家」として賞賛されつづけているけれども、アウシュヴィッツの歴史に関する彼の記述は[67][90]、批判の対象となっていないからである。[95]
アウシュヴィッツⅠ収容所は、Stammlager
(中央収容所)とも呼ばれ、アウシュヴィッツの町の周辺に位置しているが、その建物は、もともとは、オーストリア・ハンガリー帝国の兵舎の一部であり、1939年9月にドイツがポーランドに侵攻したのち、強制収容所に改造された。ビルケナウの町の周辺にある収容所Ⅱ(アウシュヴィッツ・ビルケナウとして知られている)は、ロシア戦役の開始後に、公式には、ロシア軍捕虜を受け入れるための武装SS捕虜収容所として作りかえられた。両収容所とも上部シレジアに30以上の小規模な付属収容所を持つ収容所群に属していた。それは、ドイツがアウシュヴィッツに建設した大規模化学プラント、とくに、ドイツの大工業体I.G. Farbenindustrie AG石炭精製ブナ工場(人造ゴムと燃料生産のための液化・ガス化プラント、アウシュヴィッツから東のモノヴィツ村の近くにあった)に労働力を提供するためであった。図10参照。なかでも、ビルケナウ収容所は、労働不適格な囚人を収容するために使われた。最終的な計画では、その収容人員は20万から30万であり、第三帝国の強制収容所のなかでもユニークであった。しかし、この収容人員計画が達成されたことはない。
衛生施設の発展が始まったばかりの環境の中で、大量の人間を収容所という限られた空間に押し込めたために、第三帝国のすべての収容所では、深刻な保健衛生問題が生じた。囚人や収容所で働く民間人は、あらゆる種類の害虫、とくにシラミとのみを収容所に持ち込んだ。シラミは、東ヨーロッパでたびたび蔓延したことのあるチフスの媒介者であった。このために、収容所は衛生設備をそなえていた。とくに、殺菌駆除施設は、たとえば、この用途でよく使われていたチクロンB(液体シアン化水素をしみこませた多穴性の物質)で、新たにやってきた囚人の衣服や所持品を殺菌駆除した。囚人は毛髪を切られ[96]、シャワーを浴びねばならなかった。殺菌駆除施設や資材が収容所に不足していたり、収容所で働く民間人の殺菌駆除が不十分であったこともあったために、チフスがしばしば発生し、大量の囚人と看守を殺した。
死亡率が高かったので、これらの収容所は焼却施設をそなえていた。1942年夏、チフスが蔓延し、そのピーク時には、毎日300名以上が死亡した。大量の死体を処分するために、ビルケナウに4つの焼却施設を建設することが計画された。しかし、この4つの焼却棟のうち、2つが稼働直後に故障した。4つの焼却棟の処理能力が、必要とされていたよりもはるかに高かったので、故障した2つの焼却棟は修理されずに、休止状態となった。アウシュヴィッツ中央収容所も一つだけ焼却施設を持っていたが、それは、ビルケナウの施設の稼働とともに、休止状態となった。
今日、歴史家たちは、上記の焼却施設がもともとの目的、すなわち自然死した死者の焼却だけではなく、のちに、とくにユダヤ人の大量絶滅のために使われたと考えている。このような歴史家によると、囚人に対して使われた"arbeitsunfähig"
(労働不適格)という用語は、「生きるに値しない」という意味に等しかったという。すなわち、働くことができない囚人は、到着するとすぐに殺されたというのである。この目的のために、特別な焼却施設の中のいくつかの部屋が改造され、害虫駆除のためのチクロンBを使って、その部屋の中で、人間が殺された(ガス処刑された)という。そして、犠牲者は、一部が焼却炉の中で、一部が戸外の壕の中で焼却されたという。
目撃証言によると、殺人ガス室はアウシュヴィッツⅠの焼却棟に存在したという。ここは今日でも現存しているが、後述するように、ごまかしの手がかなり加えられている。その他の殺人ガス室は、3キロほど離れたアウシュヴィッツⅡ、ビルケナウ収容所に存在したという。これらのガス室は、収容所の4つの焼却棟、および、殺人ガス処刑用に改造された、収容所外の2つの農家にあったという。
ビルケナウ収容所には、チクロンBを使った殺菌駆除施設が存在したが、そのうち、建設区画1a/b (Bauabschnitt 1a/b)にあった建物5aとb (BW 5a/b)
だけが現存している。これらの建物の中で、おのおの一つの翼室が、シアン化水素を使った所持品の殺菌駆除に一時的に使われたという。以下は、アウシュヴィッツ中央収容所とビルケナウの建物の配置と使用目的である。図11と12。
図10:第二次大戦中のアウシュヴィッツの周辺地図。IGファルベン工場地区の境界線はのちのものであり、工場地区を大まかに示しているにすぎない。ビルケナウ強制収容所地区は、1945年の計画に対応しているが、その計画は実際には、完了しなかった。 |
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図11:1991年のアウシュヴィッツ国立博物館の案内小冊子によるアウシュヴィッツⅠ中央収容所の地図 |
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図12:
中央収容所の北西約2kmのところにあるアウシュヴィッツⅡ・ビルケナウ捕虜収容所、1944年末の状況。影のかけられている建物は現存しているが、そのうちのいくつかは廃墟となっているか、土台だけである(焼却棟Ⅱ-Ⅳ)、残りは、戦後に、ポーランド市民が建築資材として持っていってしまった。1991年のアウシュヴィッツ国立博物館の案内小冊子による。 |
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近代戦以前には、武器の使用よりも戦争中の疫病の方が、多くの兵士と民間人を殺してしまうことは当たり前であった。このような状況に変化をもたらしたのは、合衆国が国際法に違反して、非武装の市民に対して、無慈悲に、犯罪的に使用した原子爆弾であった。
第一次大戦中の東部戦線でもっとも恐れられた疫病は、チフスであった。[98] ロシア戦線では何十万のドイツ軍兵士がチフスで死亡し、戦後になって、厳格な防疫措置がとられたことで、やっと国内へのチフスの流入を防ぐことができた。それ以降、医療関係者、軍部は疫病の危険性を深刻に認識するようになった。[99]
たとえば、ドイツの百科事典Der große Brockhaus、1930年のライプツィヒ版第6巻にはチフスについての包括的な項目がある。この感染性の高い疫病は、人間の身体につくシラミを媒介としてだけ広がるというのである。[100]
「この病気はRickettsia prowazeki (1910年にRicketts、1913年にProwazekによって発見された)、感染したシラミの腸と唾液腺になかにある微生物によって引き起こされる。…
チフスはおもに、不潔で栄養状態のよくない環境のもとで発生する。湿った人口過密な居住区画、病院、監獄、移民船などである。凶作や穀物価格の高騰が生じたときにも発生する。このために、飢餓チフス、病院チフス、監獄チフス、船チフス、戦争チフスとも呼ばれる。チフスは、ロシア、バルカン半島、北アフリカ、小アジア、メキシコで蔓延している。タラセヴィチによると、1918-1921年にロシアでは、人口の20-23%にあたる2500万-3000万人がチフスに感染した。…
チフスの流行を防止するには、ありとあらゆる手段を使って、身体についたシラミを駆除することである。」
第二次大戦中のドイツの医師の経験もこれと異ならなかった。[101]、[102] 疫病の話題は無数の出版物に登場している。実験も行なわれ、この病気の対策についての知識が増大した。
F. Konrich教授博士は、論文「ドイツの捕虜収容所の衛生設備について」[103]のなかで、ここで問題となっている疫病は「…ここ[ドイツ]ではかなり前から消滅している」と述べているが、これはまったく正しい。しかし、1942年7月初頭に、アウシュヴィッツ強制収容所でチフスが発生したとき、管理当局がすべて過剰に反応した理由も十分に理解できる。[104]チフスの発生をもたらしたのは、アウシュヴィッツに移送されてきた囚人というよりも、収容所で働く民間人労働者であった。また、この疫病を隔離・根絶する措置が精力的に取られたので、収容所周辺住民への広がりを防ぐことができた。
シラミを根絶する、これによってチフスを隔離・根絶する――同時に、穀物虫、のみ、ゴキブリ、シロアリ、ねずみといった害虫も駆除する――もっとも効果的な方法は、揮発性の高いシアン化水素を使って毒処理することである。
液体シアン化水素は保存期間が短く、正しい取り扱いをしないと、非常に危険である。第一次大戦が終わると、シアン化水素は、扱いが容易で安全なかたちで市場に現れた。シアン化水素をしみこませた多穴性の物質である。それには、安定剤と、刺激性の警告物質も含まれていた。シアン化水素は低い濃度の場合には、少ししか臭わないので、ほとんどの人がその臭いに気がつかない。そこで、臭いで警告する物質も付け加えられた。チクロンBと呼ばれたこの製品は、特別な道具でしか開けられないような缶に詰められていた。チクロンBへの付加物のために提出されたパテントの数は、安定剤と刺激性の警告物質については、簡単明瞭な解決策がなかったことを示している。[105] 法的には、チクロンBの安定剤と刺激性の警告物質のあいだには、扱いに大きな相違があった。ドイツの法律では、チクロンBの安定剤は付加を義務づけられていたが[106]、反対に、刺激性の警告物質は義務づけられていなかった。[107]
チクロンBはフランクフルトのデゲシュ[108]社が製造免許を持ち、製造していた。[109] 第二次大戦が終わるまで、チクロンBは、食糧倉庫、列車や船のような大型輸送機関での害虫やげっし動物の駆除にきわめて重要な役割を果した。[110]、[111] それはヨーロッパでもアメリカでもそうであった。[112]
たとえば、G.
ペテルス博士は自著Blausäure zur Schädlingsbekämpfung
(害虫駆除用のシアン化水素)[113]の中で、すでに1910年に合衆国で行なわれていたシアン化水素をつかった船の燻蒸、殺菌駆除を受ける列車を収容するトンネル設備(図13参照)について報告している。公共の建物、兵舎、捕虜収容所、強制収容所でのチクロンBの使用についても、当時の文献で扱われている。[114]、[115]、[116]、[117]もちろん、チクロンB以外のガスを使った害虫駆除もあった。[118]、[119] チクロンBは、DDTやその後継剤に取って代わられるまで、戦後になっても重要な役割を果たした。[120]、[121]
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図13:
A
シラミの生息している列車がブダペストのガス処理トンネルに入る。[112] |
戦時中戦後の時期から大量の出版物を利用することができる。[113]、[114]、[117]、[122]、[123]、[124]、[125]、[126]
また、やはり、戦時中と戦後に、家や部屋を燻蒸するにあたっての詳細な手順を記したガイドラインもある。[127]、[128]これらは、今日適用されている規定とほとんど変わらない。[129] 以下はこれにもとづいた、技術と手順の概要である。
もともと、個人の所持品の殺菌駆除には、普通の部屋(床面積10-30㎡)が一時的に改造された。窓やドアを、フェルトの資材や紙片を使ってできるかぎり気密とし、部屋を暖房・換気するための措置をとった。ガス・マスクを付けた作業員が、殺菌駆除する所持品のある部屋の床に均等にチクロンBをばら撒く。この手順は、害虫駆除のための普通の部屋の通常の燻蒸と同様であった。このように改造された部屋は、今日でもアウシュヴィッツⅠ中央収容所で見ることができる。燻蒸のために臨時に気密化された部屋を使うのは、気密が完全でないために、危険を伴っている。
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のちに、窓のない特別な気密設備が作られ、それは、効果的な暖房・換気装置を備えていた。また、室内のガスをもっと急速に循環させるために、空気循環システムを備えたものも作られた(いわゆる、デゲシュ循環手順、図14)。ここでは、チクロンBの缶は外部装置で開けられたので、作業員が危険にさらされることはもはやなかった。缶の底が自動的に穴を開けられ、調剤がかごに落ち、そこに送風機が温風を吹き込み、その結果、シアン化水素がすみやかに放出され、煙を運び去った。いわゆる循環手順を備えた施設は、高価な害虫駆除剤を節約するために、比較的小さく、数㎥であった。
これらの専門設備は衛生施設群の一部であることが多かった。一般的に、この建物群は、次のように構成されていた。(図15参照)。[103]
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図15:衛生施設群の組織図 |
今日のダッハウ強制収容所(ミュンヘン近郊)にも見ることができるように、同じ建物群に焼却棟を設置することも普通であった。ダッハウの建物群の中では、衛生施設は衣服の殺菌駆除のためのデゲシュ社の空気循環システムをもっており、囚人シャワー室の右側と左側に脱衣室と着衣室、ならびに焼却棟を備えていた。(今日ダッハウで「ガス室」とされている部屋は、実際には、上記の図に不可欠な囚人シャワー室であり、博物館が意図的に誤った名称をつけている。)
衣服の殺菌駆除のための濃度は、害虫の種類と外部条件に応じて異なっており、普通は、空気1㎥につき5-30gのシアン化水素である。時間も非常に異なっており、2時間から10時間以上にまたがっている。暖房(25℃以上)と空気循環装置をそなえた近代的な設備では、濃度20g/㎥で1-2時間が効果的である。他方、普通の部屋での殺菌駆除は、24時間以上も続くことがある。
ここでは、1939年のドイツ軍規則(Heeresdienstvorschrift
194)が定めた技術用語を使うこととする。[127] この規則は、収容所を殺菌駆除しようとする作業員、すなわち医師がどのように作業に取り掛かるべきかを定めているからである。
「殺菌(Disinfection)
Disinfectionとは、… 物品、室内、排泄物、感染した人々の身体にいる疫病を引き起こす媒体を駆除することである
「駆除(Disinfestation)
Disinfestationとは、部屋、物品、人々から、病原菌を運び、経済的損失をもたらし、人々を苦しめるような害虫(小生物)を取り除くことである。」
この規則は、殺菌・駆除についてのよく知られている物理的、化学的方法すべてをリスト・アップしている。同様に、武装SS衛生研究所は1943年に、「作業ガイドライン」"Entkeimung, Entseuchung und Entwesung"[114]を発行している。
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図16:ガス処理を適用できるさまざまな対象:製粉所、船舶、倉庫、穀物倉庫、家、鉄道、自動車、トラックについてのデゲシュ社の広告。[131] |
武装SSおよび強制収容所での衛生に責任を持っていたのは、"Hygieneinstitut der Waffen-SS"[132](武装SS衛生研究所)であった。それは、1942年にベルリンに設立され、アウシュヴィッツ近くのライスコに"Hygienisch-bakteriologischen
Untersuchungsstelle Südost d. W-SS" (武装SS衛生・バクテリア実験ステーション南東)をそなえた支部を持っていた。この実験センターのファイルは現存している。(1943年から1945年までの151巻)[133]
守備隊の医師(軍医将校)と医療関係者が衛生措置の実行に責任を負っていた。アウシュヴィッツの場合でもそうであるのだが、この医師は、衛生措置に関連するあらゆる計画について、特別専門家として相談を受けることになっていた。シアン化水素が使われるときには、特別に訓練を受けた専門家が要請された。アウシュヴィッツでは、この役目を担ったのは"disinfectors(殺菌駆除作業員)"であった。
一般的に、アウシュヴィッツでは4つの殺菌駆除手段が使われた。
アウシュヴィッツ収容所で稼動していた殺菌駆除施設のデータは、部局長C(ベルリン)あての1943年1月9日の"Hygienische Einrichtungen im
KL und KGL Auschwitz"[134] (アウシュヴィッツ捕虜収容所、強制収容所の衛生施設)
のリストと 1943年7月30日の"Aufstellung über die im KL.
und KGL. Auschwitz eingebauten Entwesungsanlagen Bäder und Desinfektionsapparate"[135](アウシュヴィッツ捕虜収容所、強制収容所に設置されている駆除施設、入浴・殺菌システムのリスト)から見ることができる。
後者の資料には、24時間の作業での処理能力が次のように記されている。
a.
強制収容所
(予防拘禁収容所):
ブロック1:
クライン社製造の1台の温風駆除装置、1940年秋以来、1800名、約3600の毛布。
ブロック3:1台のシアン化水素ガス駆除装置(すなわちチクロンB)、1400名、約20000の洗濯対象品[136]。
ブロック26:1台の温風装置、2000名。
Deutsche Ausrüstungs-Werke (ドイツ装備工場、すなわちカナダⅠ)の駆除装置:1台のシアン化水素ガス駆除施設(BW 28)、約30000の洗濯対象品、毛布など(1942年夏以降の稼動)。
民間労働者駆除バラック:ホッホハイム社製の1台の温風駆除施設、1日2000名、常設の多くのシャワー入浴施設と殺菌消毒装置をそなえる。
b.
捕虜収容所(K.G.L., Birkenau):
B Ia
にあるBW 5a : 1台の駆除装置(ヴェルナー社製)と1台の温風装置(ホッホハイム社製)、1942年11月以降稼動、2000名。
8000の毛布のために、1台のシアン化水素燻蒸室が建設され、1942年秋以降稼動。
B Ib
にあるBW 5b: BW 5aと同様の設備。
ここにリスト・アップされている施設すべては、改築されていった。上記の二つの資料が示しているように、囚人の数の増大とともに、衛生施設の数も増えていった。プレサックは、検証できる資料を明示していないが、チクロンBを使った25の部屋が存在していたと述べている。[137]
これらの施設で殺菌駆除を受けた人々の数を知ることができれば、その結果をまとめることができるであろう。しかし、この数は明らかになっていない。チェクは自著[89]のなかで、長期にわたるこのような資料がアウシュヴィッツ文書館で利用できると述べているが、われわれは今のところそれを検証できない。ここでは、既存の殺菌駆除施設が収容所の人員に対して一貫して十分であったかどうか明言することはできない。プレサックは二番目の本[138]の結論部で、1942年の「9月7-11日」の最初のピークには「一日375名が死亡した」と述べているが、このことは施設の処理能力が十分でなかったことを明らかに示している。
SS国家管理局とその後継部局のなかにあったSS-Hauptamt Haushalt und Bauten
(SS中央予算建設局)は二つの政策を作成したが、それは収容所での措置に影響を与えたにちがいない。1940年6月5日の最初の決定[139]は、HCNをもはや使わず、それに代えて、温風を使うことを定めた。その理由は、間に合わせの害虫駆除室でHCNを使うことは信頼性にかけ、多くの事故を引き起こし、危険すぎるというものであったろう。21ヵ月後の1942年3月11日の第二の決定[140]は、最初の決定を覆し、「すべての害虫駆除室をHCNを使ったものに代えることを」要請していた。この決定はこの点について次のように述べている。
「この形式からの逸脱、すなわち、温風や温風蒸気での害虫駆除が認められるのは、HCNの安全な取り扱いが保証されない臨時の施設に関してだけである。」
1943年2月11日、C部Ⅳ課は所長に書簡を送り[141]、おそらく、1940年6月5日の書簡について、「殺菌駆除のためにHCNの使用を禁じた処置」と述べている。これは、全力を尽くして、すべての稼動施設を信頼できるHCNを使ったものに改造するが、HCNの使用が認められるのは安全性と信頼性が保証されている場所に限定され、間に合わせの害虫駆除室にHCNを使うことは認められないということを意味している。
責任ある部署にいる人々は、意志決定をたびたび行なわなくてはならなかったので、危険な疫病が民間人にまで拡大して、予想もできない結果が生じてしまう事態に直面すると、適切な措置をとって、適切に行動するであろう。シアン化水素(=チクロンB)は、この当時もっとも信頼できる害虫駆除剤であった(詳しくは、"Blausäure als Entlausungsmittel in Begasungskammern"、[142]
もしくは"Entlausung mit Zyklon-Blausäure in Kreislauf-Begasungskammern"を参照。[143]) 唯一の問題は、このような施設に適切な場所を見つけることであった。それは、実際には収容所の外であったろう。 (5.4.3.節参照)
1942年9月2日、E. Wirths博士が守備隊医師としてアウシュヴィッツに着任した。記録を読むと、彼は自分の職務を適切に果たしたといえる。とくに、ここでは、上層部に対する彼の批判について触れておこう。
時間の経過とともに、囚人の数はたえず増えていき、不幸なことに、疫病の流行は1回ではすまなかった。それゆえ、ここでは、ヴィルツ医師が抱いた結論と、彼が取った措置をまとめておこう。
1942年12月4日、ヴィルツ博士は、ビエリツ地区管理会議での議論について本部に報告している。テーマはチフスの蔓延であった。軍医、国防軍、政府代表といった多くのさまざまな人々がこの議論に参加した。疫病の蔓延がきわめて深刻に受け取られていたのかを物語っている。[144]
「彼は次のように報告している。現時点では、3つの大きな駆除、シャワー、サウナ施設が稼動可能であり、そのうち2つが囚人用で、1つがSS隊員用である。これらの施設の処理能力は24時間で3000-4000名である。チクロンBによる駆除は、この手段では100%の成功が保証されていないので、まったく中止されている。」
建物BW5a
と5bは囚人用であった。これらの施設の処理能力は、この時点での囚人の数には十分であったろう。しかし、同じ時期に、19台のデゲシュ社製空気循環燻蒸室の外枠が中央収容所の建物BW160(入所建物)に完成されようとしていたことを考慮しておかなくてはならない。上記の書簡の別のパラグラフには、カトヴィツの守備隊医師が2つの可動式ボイラー設備の貸し出しを申し出ているとある。
1943年4月18日、ヴィルツは所長あての報告のなかで、ビルケナウの下水システムについて警告を発して、「疫病の大きな危険が不可避である」と結論している。[145]
1943年5月7日、ヴィルツは、部局C長、SS少将、武装SS技師中将カムラー博士との議論なかで、"II. Bauten in Zuständigkeit
des Standortarztes" (II.
守備隊医師の管轄下にある建物)[146]という節で次のように説明している。
「…劣悪な便所施設、不十分な下水システム、病院バラックの欠如、病人のための別個の便所の欠如、洗浄・入浴・駆除施設の欠如のために、大きな任務を果たす囚人の健康状態を維持することは保証し得ない。」
ヴィルツ博士は不十分な点とそれを正す方法も明確に指摘している。
ここで、われわれは、歴史的文脈をよく知らない読者に、誤った結論に飛びつかないように警告しておかなくてはならない。戦時中にこれらの施設を建設するのに必要な資材や物資を手に入れるには、さまざまな問題があるが、読者はこうしたことについてよく知らないであろう。比喩的にいえば、煉瓦一つを購入するのにも文書の許可が必要であった。
また、当時の東ヨーロッパでは、下水システムはどのようなものであれ、手始めとなる事業であり、このことは、多額の費用と高い技術を使って二つの収容所のために建設された下水処理施設にはまさにあてはまることであったことを指摘しておかなくてはならない。
上記に引用した文書はこう続けている。
「少将はこれらの事柄の緊急性を認め、欠陥を修復するためにできる限りのことをすることを約している。しかし、彼は、良好な衛生環境についての医学的報告を受けとっている一方で、まったく反対の状況を示している報告も受けとっていることに驚いている。そこで、中央建設局長は、T1943年5月15日までに、修復計画を提出するように命じられている。」(強調――引用者)
ヴィルツは、まず、便所施設から修復しなくてはならないと考えた。たとえば、便器の覆いである。そうでなければ、「…疫病の大きな危険が不可避である」からであった。[147] 1943年5月10日、WVHA (Wirtschafts-Verwaltungshauptamt、経済管理本部)C部長がこれらの覆いを発注した。[148] この問題は、ジプシーの子供遊び場に屋根覆いをつける問題で終わった。[149]
「ジプシー収容所の子供遊び場ブロック29と31の屋根が損傷しているので、私は、屋根覆いフェルト100ロールを要求する(緊急)」
一方、1943年5月28日、[150]、彼は、6台の空気循環害虫駆除装置を選び――手書きで書きとめられているように――、1943年5月29日、建設局の暖房専門家イェーリングがそれらを発注した。1943年6月1日には、水質検査[151]などが行なわれたという。[151] これらの多数の往復書簡は、中央建設局の書類分類システムでは、「衛生状態」という別個の書類となった。[152]
ヴィルトの現場調査は大規模でさまざまであり、それだけで一つの論文に値する。彼は、囚人厨房の腰掛などの検査を含む、厨房の人員の検査にまで責任を負っていた。ヴィルツ博士がほとんどすべてのことに目を光らせていたことは、資料からも明らかである。
ヴィルトの忠告や勧告は日増しに多くなっていった。もちろん、今日のわれわれの社会と同じように、SS隊員の中には、日和見主義者や出世主義者がいた。しかし、その一方で、ヴィルト博士の例は、SS隊員の中に、信念と義務感を持ち、自己の信念に忠実な職業倫理と勇気を持つ人物がいたことを示している。
1943年5月9日の覚書のコメント部分には、次のような一節がある。
「当座の措置として、少将は、新しい害虫駆除装置の貸し出しを申し出ている。」
(強調――引用者)
おそらく、アウシュヴィッツ強制収容所のもっとも魅力的な側面のひとつは、高周波装置の設置であろう。それは、技術的には、今日使われている高周波炉のさきがけであった。1930年代末に、ジーメンス社がこの技術を開発し、戦時中に大量生産可能なところまでこぎつけていた。これは、1936年のベルリン・オリンピックをテレビ中継するために作られた強力な電波管の副産物であった。強力な電波はアンテナ周囲の昆虫を殺したからである。ドイツ国防軍は、東部地区で蔓延している疫病の防疫措置を改善したがっていたので、この技術を財政的に支援した。強制収容所の軍需産業に割り当てられていた囚人の労働力は、戦争末期にはとりわけ貴重になっていたので、ドイツ帝国指導部は、最初の装置を兵士の衣服の害虫駆除にではなく、ドイツ帝国最大の作業場、すなわちアウシュヴィッツに投入することを決定した。しかし、連合国による空襲のために、この装置の完成は1年遅れた。このために、数万の囚人が命を落とした。アウシュヴィッツ収容所当局はその設置を1943年と予想しており、そのために、他の害虫駆除計画を延期していた。この装置は1944年夏に稼動し始めたが、その速度と費用の面で、革命的な効果を発揮した。個人の所持品は湿気を与えられて、コンベア・ベルトの端に置かれ、数分後に、完全に衛生・駆除措置を受けて、もう一方の端に登場した。[153]
5.2.4.
害虫駆除施設BW 5a
と5b
アウシュヴィッツ・ビルケナウでチクロンBを使った個人所持品の害虫駆除室をもって現存している唯一の建物は、B1aとb地区の建物(Bauwerk, BW)5aと5bである。二つの建物は対称形に設計された。これらの建物の西(東)翼は、少なくとも一時的ではあるが、チクロンBを使った害虫駆除に使われた。設計図では、これらの部屋は"Gaskammer"
(ガス室)と呼ばれていた。図17参照。
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図17:
改築以前の建物5aと(対承継の建物5bのHCN害虫駆除翼室の平面図。建物5bのサンプルが採取された場所は書き入れてある[154]。 |
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図18:
1943年の改築以後の建物5aの温風害虫駆除翼室の平面図。建物5aのサンプルが採取された場所は書き入れてある。[154] |
これは決して些細なことではない。当時、「ガス室」という用語が、これを設計する建築家によっても、害虫駆除専門家によっても、もっぱら個人所持品の害虫駆除施設を指していた重要な証拠である。シアン化水素を使った害虫駆除についての、当時の重要文献のひとつはF. Puntigam, H. Breymesser,
それゆえ、それと反対のことを示す証拠がない限り、この当時のドイツ側資料で[ガス室]という用語が使われていれば、それは、個人所持品の害虫駆除のための部屋を指していると考えなくてはならない!
それゆえ、これ以降は、ガス室という用語が、人間の処刑のための部屋をさす場合には、その用語を一重括弧でくくって使うことにする。これには二つの理由がある。
1.
もともと、ドイツの技術用語Gaskammer
は毒ガスを使った害虫駆除室だけを指していた。この用語を人間の処刑のための部屋に適用することは、当時の用語法の誤用である。
2.
「ガス室」という単語との混同を避けるためにも、表記上の区別が必要である。
図17は、ほぼオリジナルな状態での、建物5aと5bの二つの害虫駆除室の平面図である。建物5aの部屋は1943年夏に改築され、二つの小さな温風室を設置された。これは、図18で見ることができる。[154] 建物は、普通の煉瓦壁と、地上レベルのコンクリートの土台を持ち、内部は、石灰石のモルタルで漆喰が塗られていた。建物5bの部屋は個別の天井を持っておらず、屋根の枠組みは不明の資材(おそらくヘラクライト)の板で下から覆われている。今日の建物5bと同様に、建物5aの害虫駆除翼室には、もともと窓がなかったが、改築の結果、開けることのできないはめ殺しの窓を備えるようになった。
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図19:建物5bの害虫駆除翼室の排気口、現在は装置とはつながっていない。水道管の端を内側に見ることができる、図20も参照。 |
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図20:建物5bの害虫駆除翼室の内部のシャワーヘッドつきの水道管システム。これらの水道管は何とも結びついていない。換気口で中断している、図19参照。 |
建物5bの害虫駆除室の切妻壁には、二つの丸い穴がある。それは、直径50cmほどで、それぞれ、排気穴、吸気穴に対応している、図19。屋根には3つの換気煙突がある。この部屋には稼動中には、3つの炉があったにちがいない。[155] 内開きの二重ドアが設計図には書き込まれているが、やはり、内開きの一重ドアに取り替えられた。今のところ、この害虫駆除室がどのような装備を備えていたのかについては、推測できるだけである。
部屋の床面積は130㎡ほどであるが、屋根枠に向かって開かれているので、容積は少なくとも400㎥であろう。しかし、高さ2m以上のスペースは、使うことのできないデッド・スペースとみなされていたにちがいない。したがって、膨大な量のHCN/チクロンBが浪費されることになった。1回のガス処理で、室内の個人所持品の多少にかかわらず、少なくとも4-5kg(1㎥あたり10g)のシアン化水素を含んだチクロンBが必要であったからである。[156] たとえば、1年に100回の燻蒸が行なわれるとすると(3日、4日に1回)、0.8トンほどのチクロンBがこの建物5aだけで消費される。1942年にアウシュヴィッツに搬入されたチクロンBの総量は7.5トンであるから、その10%にあたることになる。[157]
この害虫駆除施設に加えて、ビルケナウには別のHCN害虫駆除施設があった。ビルケナウ収容所への搬入は、付属の労働収容所(30以上)にチクロンBを供給していた。また、囚人バラックもこの殺虫剤でしばしば燻蒸されていた。[158] このことを考えると、アウシュヴィッツ収容所に搬入されたチクロンBの量は、通常の害虫駆除目的であったといいうる。
チフスの流行が完全におさまることはなかったので、この1年の搬入量だけでは、アウシュヴィッツ収容所群のすべての収容所の個人所持品と建物を害虫駆除するにはまったく不足していた。
HCNを使った害虫駆除のために、建物5aと5bの害虫駆除室がどのくらい使われたのかについては、今のところ確定されていない。これに関する資料はまったく発見されておらず、また、前述の資料は、チクロンBの使用を1942年12月までに、すなわち、この施設の稼動してから数週間後に、(少なくとも安全が確保されていない施設では)中止するように求めているからである。
建物5bのこの部屋の注目すべき特徴は、図20にあるように、傾いた屋根の留め金に固定されたフックに付けられた、込み入った水道管である。シャワーヘッドを付けた水道管もある。水道管は何とも結びついていない。不思議なことに、それらは、換気口のところで中断しており、そこに設置されていた換気装置が取り除かれてから、付けられたと考えられる。もちろん、これらの建物には、まったく別の場所にシャワー室がある(図17参照)。しかし、かつて存在していたシャワー装置は、まったく取り除かれている。これらの部屋へのドアは開かれており、見学者はこの特殊な設備を検証できる。この建物のオリジナルなドイツ側の図面や文書は、この水道管がドイツ占領時代に設置されたとは述べていない。すなわち、それらは何らかの理由で、戦後に設置されたのであろう。
プレサックによると、中央収容所の焼却棟に殺人「ガス室」が実在したことを示す物的資料的証拠はまったく存在しないが、多くの目撃証言があるという。[159]
「殺人ガス室の実在性を確定する証拠としては、関係者の証言が残っているにすぎない…」
プレサックは、これらの証言には、多くの矛盾、技術的に不可能な点があり、概して信用できないと述べている。彼は、「誇張する一般的な傾向」の存在を認め、収容所長ヘスの目撃証言と記述のなかにある大きな誤りや技術的不可能性を次のように述べることで説明している。
「彼は見ることなく、現場にいたのである。」
すなわち、プレサックは、ヘスはチクロンBを扱うにあたっての方法、リスク、危険をまったく知らなかったと主張している。しかし、このことは、チクロンBでバラックを燻蒸するときの注意――ガス中毒の事例を考えると必要な注意――についての所長ヘスの命令[158]と矛盾している。チクロンBに関係する事故を警告する所長特別命令は、収容所全体に配布されたが、ホロコースト定説に従えば、遅かれ早かれ同じガスで死ぬことになっている囚人に対して、配慮しなくてならないという義務感が存在していたことを示している。ヘスの証言には、あとで立ち戻ろう。
さらに、プレサックは、SS隊員ペリー・ブロードの証言の形式と基本的なトーンが不正確なのは、ブロード自身がSS隊員であり、ポーランドとはまったく結びつきがないにもかかわらず、この証言が、SS隊員に対するポーランド人のむき出しの憎悪はいうまでもなく、ポーランド愛国主義に彩られているためであり、この「証言」――そのオリジナルは失われている――がポーランド人によってわずかに書き換えられたためであると説明している。言い換えれば、ポーランド人がつぎはぎしたこの「文書」は、その由来を批判的に検証する限り、まったく価値のないものである。にもかかわらず、プレサックは、殺人ガス処刑についてのこの証言を基本的に正確であるとみなしている。[160]
中央収容所の「ガス室」は、同じ場所にあった旧オーストリア・ハンガリー軍の兵舎の厨房であった地上階の建物のなかの部屋である。[161] 焼却棟Ⅰの床と天井は、強化コンクリートであり、外壁はレンガ造りで、タールのコーティングで防腐措置が施されている。入り口を除いて、建物は、土が壁に向かって積み上げられているために、事実上は地下になっている。内壁は漆喰で塗られている。
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図21:アウシュヴィッツⅠ/中央収容所の焼却棟1のオリジナルな状態での平面図。死体安置室はのちに、「ガス室」として使われたという。「162」
1:入り口; 2:配列室 3:洗浄室; 4:死体安置室; 5:炉室; 6:
石炭室; 7:
骨室 |
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図22:
1944年に防空シェルターに改築されたのちの、アウシュヴィッツⅠ中央収容所の焼却棟Ⅰの平面図。[166]
1:
堰;
2:
作戦室;
3:旧洗浄室、今は便所つきの防空シェルター;
4:
防空シェルター;
5:
旧炉室 |
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図23:
その後の偽造後の今日のアウシュヴィッツⅠ/中央収容所の焼却棟Ⅰの平面図。[168]
1:
「ガス室」'; 2:まがいもののチクロンBの投下穴 ; 3:
便所の排水口; 4:死体安置室と洗浄室の旧隔壁; 5:防空シェルターからの換気煙突; 6:
今日では犠牲者の入り口と呼ばれている防空シュート; 7:骨室, 8:
石炭室; 9:再建された炉; 10:炉室への新しい通路、古い入り口 11:古い炉の跡; 12:まがいものの煙突 |
図21は、死体安置室を持つ通常の焼却棟として設計・建設された、開戦時の平面図である。[162] これはまた、土を積み上げたのは、均等の冷たい気温を保証するためであったことを説明している。同じ理由で、死体安置室と炉室との隔壁は、防熱バリアーをはさんだ二重壁である。
死体安置室を、窓、外部ドア、強制換気装置なしで使うのは考えられないが、私の知るかぎりでは、この死体安置室に換気システムを設置したという資料はまったく存在しない。
死体仮置き室はのちに、「ガス室」として使うように改築されたといわれてきた。のちに、殺人ガス処刑目的で、チクロンBを室内に投下するために、3つか4つのハッチが屋根に、および強力な換気扇の設置のためにさらに1つか2つのハッチが開けられたという。[163] しかし、アウシュヴィッツ博物館長ピペルは、次のような見解である。[164]
「焼却棟Ⅰにはまったく換気装置がなかった。ドアが開かれ、ガスは対流によって排出された。」
プレサックは、解放直後にソ連側が撮影した焼却棟の屋根の写真を掲載している。そこでは、屋根フェルトのうえの3つの黒い点が、チクロンBの投入穴のくぼみであったという。[163]、[165] しかし、彼の著作に掲載されている写真は、何かを識別するには質が悪く、まして、建築上・技術上の結論を下せるような素材ではない。だから、プレサックの憶測には根拠がない。
1944年秋、焼却棟は防空シェルターに改築された。建物の変更、とくに、薄い隔壁を厚い壁と取り替えたことは図22から見てとることができる。[166] それが存在していたと推定する場合に限るが、チクロンBの投入穴と換気穴はふさがれたという。
この改築作業は、資料の中で、細かく記述されている。[167] 屋根にあけられていた古い穴をふさぐことはまったく言及されていない。むしろ、ガス気密窓とドアおよび新しい穴を開けることが言及されている。
「ガス気密ドア、窓シャッター、窓の設置、
暖房炉、および換気出口、吸入穴、パイプのために石壁に開口部を作ること。」
このことは、この時期以前には、ガス気密ドアや窓、換気装置のための開口部、その他の目的の開口部(チクロンBの投入穴)が存在しなかったことを強く示唆している。もし存在していたとすれば、古い開口部がこれらの目的のために使われたであろうし、もしくは、それらをふさぐことが言及されていたはずであろう。
防空シェルターは死体安置室/「ガス室」を分割することで作られたが、そこに直接入るには、新しく付け加えられた、堰をもつ入り口から入らなくてはならなかった。今日、この新しい入り口は犠牲者が入っていった入り口として展示されている。実際には、「ガス室」に直接入る入り口は存在しない。外から直接には入ることはできなかったのである。[163] 便所も同様に、以前の洗浄室のなかに作られた。
図23は、今日の状態での焼却棟の平面図である。[168] プレサックによると、死体安置室/「ガス室」から炉室に入る入り口は、オリジナルな場所ではなく、戦後に新しく作られた場所にある。防空シェルターのなかの、壁から洗浄室――これは死体安置室(のちの「ガス室」)の一部ではない――までの隔壁は取り壊された。したがって、注意深い見学者であれば、二つの便所からの排水パイプが「ガス室」内部に入っていくのを見ることができる。プレサックは根拠を示していないが、屋根はタール紙で新たに覆われ、その過程で、「ガス室」のチクロンBの穴の痕跡と換気穴の痕跡が覆われてしまい、それゆえ、戦後ポーランド博物館が新たにあけた粗雑なチクロンBの投入穴は同じ場所にはなかった、と述べている。プレサックのこの説には驚かざるをえない。内部からは、屋根/天井は漆喰で塗られていないむき出しのコンクリートであるからである。内部から作業をすれば、ふさがれてしまったとされているオリジナルの開口部の場所を定めることは可能なことにちがいないし、同じ場所に開口部を作ることができるはずだからである。
博物館当局が見学者の質問に答えているように、炉室のなかの二つの煙突開口部、および煙突自身は、建物の外部とはまったくつながっておらず、オリジナルの設備があったとされる場所に、戦後、「博物館の目的にしたがって作り直された」ものであった。[169]
フランスのジャーナリストで有名な反修正主義者Eric Conanは次のように書いている。[170]
「もう一つのデリケートなテーマ:共産党当局が残した偽造にどのように対処するか。1950年代と60年代に、消え去ってしまったか、廃墟に近くなっているいくつかの建物が大きな誤りを抱えながら、再建され、本物として展示されている。『新しすぎた』ものは世間には公開されなかった。殺人ガス室として展示されていた害虫駆除ガス室についてはいうまでもない。このような逸脱行為は、否定派を大いに助けてきた。否定派はこの逸脱行為から自分たちの神話のエッセンスを取り出している。焼却棟Ⅰは典型的な事例である。その死体安置室には、最初ガス室が設置されていた。それは、1942年の初頭、ごく短期間だけ稼動していた。ガス処刑には区画の閉鎖が必要であるが、それは収容所の業務を妨げた。このために、ユダヤ人犠牲者を工業的に処理するとすれば、殺人ガス処刑をビルケナウに移すことが1942年4月末に決定された。焼却棟Ⅰはその後、手術室を持った防空壕に改築された。1948年、博物館が設立されると、焼却棟Ⅰがオリジナルといわれた状態で再建された。しかし、そのすべてが虚偽である。[171] すなわち、ガス室の広さ、ドアの位置、チクロンB投入の開口部、炉、煙突の高さが何人かの生存者の記憶にもとづいて作り直された。1970年代末、当時は、博物館員はまだこのことを認めるのをためらっていたので、ロベール・フォーリソンがこれらの偽造を利用した。[172] アメリカの修正主義者[88]が、まだ本物として展示されていたガス室内でビデオを撮影した。そこでは、この人物が自分の『発見』について見学者に意見を求めている。…今のところ、事態はそのままであり、見学者には何も語られていない。このことが事態をいっそう紛糾させている。のちに何をすべきか見ることであろう。」(強調――引用者)
語形変化にしたがえば、彼らは嘘をついていたし、嘘をついているし、これからも嘘をつくであろうというわけである。
戦後にこのような非現実的な「再建」が行なわれたことを考慮して、ユダヤ系アメリカ人の建築学教授ペルト――実際には文化史の教授にすぎないが――は、ユダヤ系カナダ人のホロコースト史家ドヴォルクと共同で、次のような、少なからずあいまいな結論に達した。[173]
「ソ連軍が1945年に収容所を解放したとき、『人間』を『下等人種』に変容させる建築はそのまま残っていた。その後、そのすべての痕跡は取り除かれた。書店で販売されているガイドブックはこの建物[焼却棟Ⅰ]にはまったく言及していない。おそらく、博物館を設立した男性と女性は、その意味するところと、自分たちの抵抗イデオロギー――全面的な犠牲を否定するイデオロギー――とを調和させることができなかったのであろう。おそらく、見学者へのサービスのための元手の必要という問題にすぎなかったえあろう。教義的な理由からであれ、実際的な理由からであれ、今日の見学者受け入れセンターのなかでのオリジナル配置を壊してしまったことは、戦後の混乱であり、損失であった。
ロシア人が1945年に発見した収容所に、追加と削除が行なわれた。囚人の受け入れ場所を削除したことは、現在の博物館収容所の北東の端の外側に焼却棟1を再建することで埋め合わされた。煙突とガス室を持つこの焼却棟は、収容所見学の荘厳な終末となった。見学者が目撃しているこの焼却棟が、戦後に作り直されたものであることは、彼らには語られない。
戦後、アウシュヴィッツが博物館となったとき、収容所全体の歴史を一つの構成部分に凝縮するという決定がくだされた。大量殺人が行なわれた悪名高い焼却棟は、2マイル離れたビルケナウの廃墟の中にあった。委員会は、見学の旅の最後に焼却棟が必要であると感じ、
焼却棟Ⅰが、ビルケナウの焼却棟の歴史を代弁するために再建された。この簒奪計画は、かなり詳細であった。ビルケナウの究極的シンボルである煙突が、作り直された。屋根には、下のガス室にチクロンBを投入するかのように、4つのハッチ状の開口部が作られた。3つの炉のうち2つがオリジナル・パーツを使って作り直された。これらの作り直しを説明する表示はまったくなく、見学者が、それが起こったと考えている場所を通過するときにも、ガイドは作り直しについては沈黙している。」
この「簒奪」説にはダイナマイトがつまっている。この説は、焼却棟Ⅰで起こったとされている事件、目撃者ルドルフ・ヘス、ペリー・ブロード、その他数少ない人々が証言している事件が実際にはこの場所では起こらなかったことを意味しているからである。さらに、このことは、その他すべての目撃証言の信憑性を――ビルケナウについてのも含む――最初から掘り崩しているからである。二人の著者はこのことに気づいているのであろうか。
少なくとも、天井、外壁、ならびに土台だけはオリジナルの状態を保っていることについては異論はないであろう。もしも、チクロンBの投入穴と換気穴が強化コンクリートの屋根に存在していたとすれば、内部から、強化コンクリートの亀裂に対応する場所に見ることができるであろう。これらの亀裂を消し去っても、何らかの痕跡が残るはずだからである。しかし、今日現存しているチクロンBの投下穴以外には、屋根に穴が存在していたことを示すものはまったくない。それゆえ、別の場所に存在していたとされる穴は存在していなかったのである。
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図24、25:アウシュヴィッツ中央収容所の焼却棟Ⅰの死体安置室の内部天井にある崩壊現象。50年以上経過して、表面の近くにある鉄筋が錆びていき、それがコンクリートに亀裂を生じさせ始めた。博物館当局は一時的に、これらの穴(右側)に漆喰を塗ろうとしたが、無駄であろう。 |
今日でも見ることのできるコンクリートの穴は漆喰を塗られていないし、切断された鉄筋の残りも専門的なやり方では取り除かれていない。穴には、木製の枠が取り付けられ、タールでシールされている。このようなやっつけ仕事は、毒ガス処理という、細心の注意を必要とする仕事にふさわしくないし、ドイツ的な熟練技能にもあてはまらない。
もしも、戦時中にSSがコンクリートを穿って、穴を開けたとすれば、チクロンBを均等に室内に配分するように、オリジナル(!)の死体安置室(「ガス室」)の天井に、これらの穴を均等に配置するはずであろう(図21と23を参照)。しかしながら、現存の投下穴の配置が意味を持つのは、戦後に「博物館目的のために」偽りの寸法で「作り直された」もの(B. Bailer-Galanda)[169]のためにとくに作られた場合だけなのである。このことは、ソ連人かポーランド人が以前の防空シェルターの内壁を壊したのちに、これらの穴が穿たれたという説に対する強力な状況証拠である。また、今日見ることのできる投下穴は、ふさがれたとされるそれ以前の穴の痕跡をまったく参考にせず、戦後に作られたものであると推定することにも異論がないが、この事実は、ソ連人かポーランド人が以前の防空シェルターの内壁を壊したのちに、これらの穴が穿たれたという説を確証している。[174]
焼却棟の平屋根は、すべての平屋と同様に、防水ではない。雨による腐食が進み、表面の近くにある鉄筋が錆びて、コンクリートに亀裂を生じさせたために[175]、部屋の内部では崩壊現象が起きている、図24参照。もちろん、博物館当局はこれらの場所に漆喰を塗ろうとしたが、すぐに漆喰は、鉄筋の錆びが砕けることによって破壊されてしまった。博物館の管理人は、砕けたモルタルとコンクリートから落下したくずを掃除せざるをえない。屋根に以前の投下穴が残っていたためにこれらの崩壊が起こっていると説明するのは正しくない。4つの事実から反論しうる。
1.
鉄筋は、どのような穴であっても、それを穿つときに取り除かれなくてはならなかったであろう。
2.
天井の古いコンクリートとのちに穴をふさぐために使われた資材との境目を見ることができるであろう。腐食の場所はすべて、コンクリートが同質の構造であることを示している。
3.
これらの場所は、オリジナルの死体安置室の天井に均等に配置されていなくてはならないだろう。
4.
これらの場所は、平らで、規則的な形(円形、四角形、長方形)となっていなくてはならないだろう。
以上のことから確実に結論できるのは、この部屋を殺人「ガス室」として使用したとされている時期に、チクロンBの投下穴はまったく存在しなかったということである。部屋の換気装置が存在したという痕跡もない。さらに、外側から[ガス室]に直接入る入り口もない。犠牲者は死体室(配列室)か炉室を通って入らなくてはならなかった。したがって、犠牲者たちは、ぞっとするような光景を見ながら、すでに殺されている同僚の死体のかたわらを苦痛に満ちて通っていかなくてはならなかった。このような環境のもとでは、犠牲者をだますこともできず、カモフラージュすることもできないであろう。犠牲者から意識的な協力や黙認を取りつけることもできないであろう、「ガス室」への直接の入り口がないということは、フォーリソンの言葉を借りれば、「ドアがなければ、絶滅もない」ということである。
規模、設備、建築様式の面で、これらの焼却棟は、当時のドイツ、および現代のドイツの民間焼却棟施設に匹敵する。[176] この意味で、ビルケナウ収容所の建設者の裁判に触れておこう。1972年、法廷は、主任建設者W.
デヤコと主任建設者F.
エルトルという二人の被告を無罪とした。大量殺戮に関与協力したという嫌疑が立証できなかったからであった。[177] この裁判の過程で、焼却棟の建設についての現存の図面と文書に関する専門家報告が書かれたが、それは、これらの建物が大量殺戮装置として使われたり、改築されたりすることはありえなかったという結論に達していた。[85] 最近の目撃証言では、アウシュヴィッツの主任建設者ヴァルター・シュライバーが、これらの焼却棟の計画について次のように述べている。[178]
Q.:
あなたの権限は。
A.:
監督技師として、フタ社を監督し、SS中央建設局と交渉しました。また、わが社の発送状を点検しました。
Q.:
収容所に入りましたか。どのようなことが起こりましたか。
A.:
はい。収容所の通りを妨げられずに、どこにでも歩いていくことができました。収容所を出入りするときに、看守に呼び止められるだけです。
Q.:
囚人の殺戮や虐待について、見たり聞いたりしましたか。
A.:
いいえ。しかし、比較的劣悪な状態の囚人の列を収容所の通りで見ることができました。
Q.:
フタ社は何を建設したのですか。
A.:
とくに、大きな死体安置室を持つ焼却棟ⅡとⅢでした。
Q.:
これらの大きな死体安置室は大量殺戮のためのガス室であったというのが定説ですが。
A.:
私たちが利用可能な図面からは、そのようなことはまったく推測できません。私たちが描いた図面と臨時の発送状は、これらの部屋を普通の地下室としているだけです。
Q.:
鉄筋コンクリートの天井の中の投下ハッチについて知っていますか。
A.:
いいえ、記憶にはまったくありません。しかし、これらの部屋は防空シェルターとしても使えるように考えられていたのですから、投下穴は逆の効果をもたらしてしまうことでしょう。私ならば、このような措置には反対したでしょう。
Q.:ビルケナウの地下水位は極端に高いのに、なぜこのような大きな地下室が建設されたのですか。
A.:
わかりません。しかし、もともとは、地上の死体安置室が建設されるはずでした。地下室の建設は、維持とシールの面で大きな問題を引き起こしました。
Q.:
あなたが欺かれており、SSはあなたに知らせることなく、あなたの会社にガス室を作らせたとは考えられませんか。
A.:
建設現場で何が起こっているか知っている人であれば、それはありえないことがわかるはずです。
Q.:
ガス室について知っていますか。
A.:
当然です。東部地区にいた者なら、殺菌駆除室を知っていました。私たちも殺菌駆除室を建設しました。それは、殺人ガス室とはまったく異なっています。私たちはこのような施設を建設し、それがどのようなものであるか知っていました。私たちは建設会社として、装置の設置の後に、しなくてはならない仕事を抱えていました…
Q.:
あなたの会社が、工業的な大量殺戮のためのガス室を建設したという話を知ったのはいつのことですか。
A.:
戦後になってからです。
Q.:
それを知って驚きませんでしたか。
A.:
驚きました。戦後、ドイツで上司と接触して、この件について尋ねました。
Q.:
何を知りましたか。
A.:
彼も戦後になって知ったそうです。しかし、フタ社が問題の地下室をガス室として建設したことはないと保証してくれました。
Q.:
フタ社が撤退したあとに、建物の改築が行なわれたとは考えられませんか。
A.:
考えられますが、時期的な要素を考えると、その可能性はないと思います。結局、SSには協力してくれるものが必要でしょうし、SSは、囚人を使っても、自分たちだけでは作業できないでしょう。ガス室については戦後に知るようになったのですが、ガス室の稼動のための技術的必要にもとづけば、私たちが建設した建物は、必要設備の面でも、実際の作業の面でも、この目的のためにはまったく不適当でしょう。
Q.:
それをなぜ公表しなかったのですか。
A.:
戦後当初は、私は別の問題を抱えていました。現在は、そうすることは許されていません。
Q.:
この件で、証人として尋問されたことがありますか。
A.:
連合国も、ドイツ当局も、オーストリア当局も、焼却棟Ⅱ、Ⅲ、Ⅰの建設についての私の知識、旧総督府での私の活動に関心を示しませんでした。フタ社での私の仕事は知られていたにもかかわらず、この件で尋問を受けたことはありません。フタ社での仕事については、履歴書、求職書に記しました、しかし、事実についての知識は危険であるために、その知識をぜひ広めようとは考えませんでした、しかし、今となっては、嘘がますます大きく広がっていき、私のような証人がゆっくりと、確実に死に絶えつつありますので、私は、喜んで、私の話を聞いてもらい、本当のことを明らかにしておきたいと思っています。重い心臓病をかかえていますので、いつ死んでも不思議ではありません。今がそのときなのです。」
ペルトは焼却棟Ⅱについて次のように述べている。[179]
「アウシュヴィッツはもっとも神聖な場所のようです。私は何年も準備してそこに出かけました。愚か者[ロイヒター]がまったく準備もせずにそこに立ち入りました。それは冒涜です。もっとも神聖なる場所に入って、のろいの言葉を吐くべきではありません。」[00:44:30]
「焼却棟Ⅱは、アウシュヴィッツの最上[意味不明の単語、悪名高いという意味か?]の場所です。2500平方フィートのこのひとつの部屋の中で、地球上のどの場所でよりも多くの人々が命を落としました。50万人が殺されたのです。人間の苦難の地図を描くとすれば、虐殺行為の地図を描くとすれば、こここそが絶対的な中心でしょう。」[01:00:00]
「ホロコースト修正主義者が正しいということになれば、私たちは第二次世界大戦についての私たちの歴史観を失うでしょう、民主主義についての歴史観を失うでしょう。第二世界大戦は生きるか死ぬかの戦争でした。善と悪のあいだの戦争でした。この戦争の核心であるアウシュヴィッツを全体の構図から取り出してしまえば、私たちはすべてを理解できなくなってしまいます。私たちは全員で、精神病院に入ることでしょう」[01:23:30]
ペルト教授は、ホロコーストを信じなければ、精神病院に収容されるだけであると考えているが、このような考え方に惑わされてはならない。だが、ペルトの証言が焼却棟Ⅱ(焼却棟Ⅲ、あまり集中しては使われなかったとされているが、焼却棟Ⅱの対称形)の重要性を強調していることに注目すべきであろう。焼却棟Ⅱについて以下で論じておこう。
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図26 (上):
アウシュヴィッツⅡ/ビルケナウ収容所の焼却棟Ⅱと焼却棟Ⅲ(対称形)の死体安置室1(いわゆる「ガス室」)の平面図
a:死体安置室Ⅰ(「ガス室」)30×7×2.41m
b:死体安置室Ⅱ(「脱衣室」)49.5×7.9×2.3m
c:死体安置室Ⅲ(のちに分割された)
d:死体を地上の炉室に運ぶエレベーター
e:換気口
f:コンクリートの支柱
g:コンクリートの梁 h:のちに付け加えられた地下室への入り口
図27 (下):
アウシュヴィッツⅡ/ビルケナウ収容所の焼却棟Ⅱと焼却棟Ⅲ(対称形)の死体安置室1(いわゆる「ガス室」)の立面図。[180]
1.
排気口
2.
吸気口
3.
地面
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十分な換気装置を備えた、この特別死体安置室は、疫病の犠牲者用の配列室として当時も使われていたし、今日でも使われている。この地下室は、"Infektionsleichenkeller" (感染死体安置室)と技術文献では呼ばれている。図26は、焼却棟Ⅱの死体安置室1(いわゆる「ガス室」)の平面図であり、焼却棟Ⅲの死体安置室1はその対称型になっている。図27はその立体図である。[180] 立面図からもわかるように、これらの死体安置室の大半は、地下にある。細長い形状、地下、という位置、炉室と接触していないことのために、この区画は、なべて低温であった。これは、これらの部屋が死体安置室として計画され、図面でもそのように呼ばれていることと合致している。
アウシュヴィッツでは、疫病が蔓延したピークの時期には、1日に数百名が死に、その死体をどこかに保管しなくてはならなかったので、このように大きな地下室が計画されたとしても、驚くべきことではない。プレサックでさえも、これらの部屋は無害な死体安置室として計画され、犯罪的な目的を持っていなかったことを認めざるをえなくなっている。
プレサックが掲載している資料によると、この施設は、中央収容所に新しい焼却棟を建設するという1941年の計画に由来している。[181] ビルケナウの焼却棟にアクセスする道は、煙突翼の側にあった(図29を参照)。しかし、中央収容所のためのオリジナル図面では、建物のもう一方の側にアクセスする道があった。さらに、ビルケナウの地下水位は高かったので、死体安置室の場所を完全に地下にはできなかった。[182] それゆえ、地下室は、持ち上げられて、地下水に完全に覆われないようにされた。地下室の上には土が積み上げられたので、車両が直接地下室にアクセスすることはできなくなった。だから、外側から地下室に直接にアクセスすることは阻まれた。このために、死体安置室3の事務所に階段がつけられ、また、死体安置室2の端にもつけられたのである(図29参照)。
1942-43年の冬に、ドイツ軍がスターリングラードで敗北したのちに、戦況が劇的に転換し、すべての建設計画はコスト削減され、できるかぎり人力が必要とされた。このために、新しい階段には、古い階段のように死体滑降路がついていなかった。その他のコスト削減のための変更が、焼却棟Ⅲになされた。[183] 焼却棟ⅣとⅤ使われた資材の質が悪かったので、これらの焼却棟はすぐに可動停止してしまった(次章参照)。
焼却棟ⅡとⅢの、死体滑降路を持ったオリジナルの地下階段はこのときまでに完成していたが、そこにアクセスするには難儀であった。これらの階段が作られてしまったという事実が、中央収容所のための古い計画があわててビルケナウの新しい状況に移し変えられてしまったことを示している。
死体安置室の壁は、二重の煉瓦でできており、隙間にはタールの層が塗りこめられている。[183] 内壁は、硬いセメント豊かな材料で塗られており、天井とコンクリートの支柱は、木造の支えのしるしを示しており、漆喰で塗られてはいない。鉄筋コンクリート製の屋根は、タール層から分離している。タール層は、それを覆っているかなり薄いセメント層による環境的・機械的損傷から保護されている。屋根の上と二つの煉瓦の壁のあいだのタール層は、ビルケナウの湿地帯の高い地下水位の水を防ぐバリアーとして、不可欠であった。二つの死体安置室には、いくつかの排水溝があった。
5.4.1.2.
強迫観念に付きまとわれた「犯罪の痕跡」の探求
プレサックは、アウシュヴィッツ博物館の大量の資料、のちには、モスクワに保管されている中央建設局の資料を渉猟した最初の研究者であった。また、今では広く使われている「犯罪の痕跡」という用語を作り出した最初の人物であった。プレサックは、殺人「ガス室」が建設されたことを立証する資料がまったくなかったので、意味論的な詐術にうったえ、無害な資料に犯罪的な意味を付け加えた。それは、アウシュヴィッツの焼却棟には何か正しくないことがあるという糸口とされた。しかし、研究が進むと、プレサックその他が作り上げ、ときには空想的な頭脳の曲芸にともなわれたこれらの「犯罪の痕跡」すべてが、崩壊してしまった。そのうち、もっとも有名なものをあげて、手短に反駁しておこう。
事実1:
階段を介した外部からの追加入り口路は、焼却棟ⅡとⅢの地下室に、のちに設置された。
間違った追加の主張:
古い、オリジナルの階段入り口にあった死体滑降路は破棄された。[184]
間違った結論:
死体滑降路のない新しい階段が作られ、同時にオリジナルの階段入り口路が破棄されたことは、一つのことだけを意味している。すなわち、もはや死体が地下室に滑り落ちていくのではなく、まだ歩くことのできる人間が数ステップを下っていったのである。したがって、彼らは入るときにはまだ生きており、建物に入ったのちに殺された。[185]
正しい結論:
新しい階段は、計画の変更にもとづいて必要であった、前章参照。このことは、計画の題「道路側への入り口路の変更」によっても確証されている。[186] さらに、死体滑降路は破棄もされていない。事実、マットーニョが示した以下の図面すべてに登場している。[187]
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図28:
アウシュヴィッツ中央収容所のためにもともと計画された新しい焼却棟の配置図 |
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図29:
焼却棟Ⅱの配置図、変更された計画。別の側(対称形の焼却棟Ⅲ)からのビルケナウの死体安置室と入り口路の高い位置にあわせるため。 |
「焼却棟Ⅲのための1943年2月22日の中央建設局図面2136」[188]
焼却棟Ⅲのための1943年3月18日の中央建設局図面2197」[189]
焼却棟ⅡとⅢのための1943年9月24日のフタ社の図面109-15」[190]
焼却棟ⅡとⅢのための1943年10月9日のフタ社の図面109/16A[191]
さらに、「滑降路」は、焼却棟Ⅱについての、1943年3月13日のHäftlingsschlosserei
あての中央建設局指示200と204に、存在しているものとして言及されている。[192]」
さらに、焼却棟ⅡとⅢの死体安置室は、その稼動期間すべてを通じて、疑いもなく、『自然死』(疫病、消耗、老衰など)し、焼却を待つ収容者の死体―少なくとも数千体――を一時的に保管するために使われていた。このような滑降路を持たない階段を通ったのは、まだ自分で階段を上り下りできる、生きている人々だけであったとすれば、次のような疑問が生じるであろう。『自然死』した収容者の死体は、どのように死体安置室に入ったのであろうか(もしくは、どこに保管されたのであろうか)。彼らも歩いていったのであろうか。そうではあるまい。彼らは運ばれたのである。数階段を下って運ばれなくてはならなかったのである。焼却棟の内部だけではなく。滑降路をもたない建物に死体を運ぶのは、不可能な作業なのであろうか。そうではあるまい。だから、滑降路がなくなったことは、生きている人々だけが建物に入っていったことを立証しているのであろうか。もちろん、立証してはいない。では、SSはなぜ、新しい階段に滑降路をつけなかったのであろうか。おそらく、たんに、ビルケナウという新しい場所での変更のために、すべての計画の費用が膨らんでしまったため、SSはコストダウンをはかりたかったためではないだろうか。この説明の方が、はるかにシンプルで論理的ではないだろうか。