『アウシュヴィッツの争点』(35)

ユダヤ民族3000年の悲劇の歴史を真に解決させるために

電網木村書店 Web無料公開 2000.7.4

第2部 冷戦構造のはざまで

第4章:イスラエル・コネクションの歴史的構造 5

西ドイツ当局がアウシュヴィッツ裁判傍聴で入国を拒否

 ラッシニエは、自分の収容所での実際の経験にてらして、「ガス室による大量虐殺」という話が世間に広まっているのにおどろき、戦後ただちに「そんなものはなかった」と発言しはじめた。そのころのラッシニエの立場は、さきにしるしたように社会党の下院議員、またはレジスタンス活動にたいする最高の勲章授与者である。ところがラッシニエは、その証言をマスメディアから無視されだけでなく、非難の的となり、はなはだ当惑した。

 そんな経験からますます「ホロコースト・タブー」の実情に強い疑問を感じたラッシニエは、『赤道通過』(一九四八年刊)、『ユリシーズの嘘』(一九五〇年刊。『ホロコーストとユリシーズの嘘』所収))などのいくつかの著作で、「ガス室について決定的判断をくだすのは早すぎる」という趣旨の主張を発表していた。真相をたしかめるために、一九六三年から六五年にかけておこなわれたアウシュヴィッツ裁判のさいには傍聴を希望したが、西ドイツ当局から入国を拒否されて不可能になった。

 ニュルンベルグ裁判の状況についてはすでにくわしく紹介したが、その後に継続してひらかれた「ホロコースト」関連裁判の状況も同様だった。アメリカ人のブッツ博士は『二〇世紀の大嘘』の中で米独の研究書を引用しつつ、つぎのような欠陥を指摘している。

「一九六一年のアイヒマン裁判」では「被告側の証人は許可されなかった」。同裁判でも「一九六三年から一九六五年のアウシュヴィッツ裁判」でも、被告側弁護士は、書証を十分に調べるだけの訓練をへた調査助手のスタッフをまったく持たず、それにくわえて、かれらが入手できる書証のすべては検察側の力で統制されていた。

 もともと「書証」については、ニュルンベルグ裁判でも検察当局の一方的な選別によって法廷に提出されたもの以外は、まったく利用できなかったのである。それにくわえて、ラッシニエのような批判的意見の持ち主を「入国拒否」して、傍聴を制限するのであれば、これまた「裁判公開の原則」の無視にほかならない。

 ラッシニエの主著を再編集した英語版の『ホロコースト物語とユリシーズの嘘』は、「歴史見直し研究所」で入手してきたが、四六五ページの大著である。

 かれは「ガス室」の存在を否定しただけでなく、ナチス・ドイツはユダヤ人を移住させる以外の政策を立てたことはないと強調していた。とりわけ重要なのは、戦後の初期に発表された「ホロコースト」物語の真相をあばくための、つぎのように実証的な姿勢である。

「かれはその死をむかえるまで、[ユダヤ人]絶滅政策説に立つ著作を調べつづけ、その著者の追跡をこころみた」(『六百万人は本当に死んだか』)

 その結果、「ガス室」の存在について、ある著者は「ほかの人から聞き、それ以後、自分が目撃証人であるかのようにふるまってきた」ことを認めた。ある著者は「漠然とした噂以外になんらの証拠をもしめせなかった」。ある著者の情報源だった「目撃証人は、その著作が出版される前に死んでいた」。「六〇〇万人」の根拠をしめすことができた著者は皆無だった。

 ユダヤ人で、オーストリアの社会民主党の指導者でもあったベネディクト・カウツキーの場合には、ラッシニエとの会見が以後のドラマチックな展開につながった。『悪魔と罪』という著作の中で、かれは、「アウシュヴィッツで何百万人ものユダヤ人が抹殺された」と主張していた。かれは実際に一九三八年から四五年まで、アウシュヴィッツの三カ所をふくむ各地の収容所に収容された経験の持ち主だったが、ラッシニエとの会見の結果、「抹殺」説は「他人からの伝聞」であることを認めた。その後の著作ではラッシニエとの約束にもとづいて、そのことをしるした。

 こうした実証的調査の積みかさねのうえに立って、ラッシニエは『ヨーロッパのユダヤ人のドラマ』(『ホロコースト物語とユリシーズの嘘』所収。第三部)のなかで、絶滅論に立つユダヤ人のホロコースト史家、ラウル・ヒルバーグのニュルンベルグ裁判研究を批判しながら、つぎのようなきびしい言葉で論じていた。

「(ホロコーストの犠牲者数の計算は)しかるべき死体の数によって、イスラエルという国家にたいしてドイッが戦後一貫して毎年支払い、いまも支払いつづけている莫大な補償金の額を正当化するための課題でしかない。(中略)端的にいえば、それは単に、純粋に、そして非常に卑劣なことに、即物的な課題でしかないのだ。(中略)ドイツは約六○○万人の死者数を基礎に計算した賠償金を払っている。ところがさらに、そのイスラエルヘの賠償にくわえて、六○○万人のうちのすくなくとも五分の四が実際には戦後まで生き残っていて人数が計算できるわけなので、それらの諸外国に現在も住んでいる人々、およびその後に死亡した人々ヘの補償金の受取人にたいして、ナチズムの犠牲者としての実質的な賠償を支払っている。このことは、六○○万人のうちの莫大な多数部分にたいしてドイツが二度支払っていることを意味する」

 これらの、きびしい主張をもりこんだ著作は、マスメディアから一斉キャンペーンの攻撃をうけた。ラッシニエは、序文の執筆者、出版者とともにうったえられ、一審は無罪、二審は有罪で罰金と執行猶予の禁固刑の判決、最後にふたたび無罪をかちとるという苦労をしいられた。改訂版もだしたが、以後、マスメディアは無視という戦術にでた。

 現在、ラッシニエの業績をひきついで「ホロコースト見直し論」の中心になっているのは、やはりフランス人で、すでに紹介ずみのロベール・フォーリソン博士である。フォーリソンはもともと、フランス文学の研究で「文書鑑定」を専門としていた。一九六〇年になってはじめてラッシニエの著作にふれて「ホロコースト」への疑問をおぼえ、以後、見直しの研究をつづけることになった。


(36)「左翼」でユダヤ人、プリンストン大学の著名な歴史学教授