『アウシュヴィッツの争点』(10)

ユダヤ民族3000年の悲劇の歴史を真に解決させるために

電網木村書店 Web無料公開 2000.6.2

第1部:解放50年式典が分裂した背景

第1章:身元不明で遺骨も灰も確認できない
「大量虐殺事件」2

最初から矛盾だらけだった犠牲者数と「六〇〇万人」の起源

「ホロコーストの生きのこり」については、朝日新聞の特集記事、「問われる戦後補償、下」(93・11・14)にも数字がしるされている。「連邦補償法」の対象が「二二〇万件」、「16カ国との包括補償協定」の対象者が「二〇万人」である。「連邦補償法」の対象については、おなじ朝日新聞社がその後に発行した『アエラ』(94・8・29)で、「約二百万人」(件)になっている。さしひき「二〇万件」または「二〇万人」の数字の差がある。おおざっぱな話だが、「件」と「人」とは、おなじものらしい。そうだとすると、「二二〇万」と「約二〇万」を足して「約二四〇万」人と考えていいのだろう。

 そのほかに「州による補償」などの、対象人員数がしるされていない部分がある。『アエラ』のほうには、一九九三年の暮れにドイツが、「新設したロシア基金に四億マルク(約二百六十億円)、ベラルーシ(白ロシア)とウクライナ基金にそれぞれ三億マルクずつ払い込んだ」とある。これも補償の対象人員はわからないが、ツンデルの「もう一つの自由の声放送」によると、旧ソ連でナチス・ドイツに占領された地域にすんでいたユダヤ人には、移住の際に補助金がでているそうである。旧ソ連からは、湾岸戦争後に大量のユダヤ人がイスラエルに移住した。ツンデルの三四二万五千人という数字には、これらのすべての補償の対象人員がふくまれているらしい。「いちばん重要なことは、メディアが総計数字を隠蔽していることだ」というのがツンデルの主張である。

 たとえば朝日新聞は、一九九五年の元旦から「深き淵より/ドイツ発日本」と題する連載特集記事をくんだ。この年は、ドイツにとっても日本にとっても、「戦後五〇年」だからである。

 その第一回の記事には、「約六百万のユダヤ人を虐殺した『ホロコースト』は、生存者四十万人に深い傷を残している」とあった。「約六百万」のほうは情報源がわかっているから、別におどろくことはない。だが、「生存者四十万人」の根拠はいったい何だろうか。早速、電話でたしかめてみた。さいわい、執筆者担当者本人に聞くことができたが、イスラエルの国立ヤド・ヴァシェム博物館が発表している数字そのままなのだそうである。いかにもすくないし、さきにあげた朝日新聞の報道とも矛盾する。それらの疑問点をただしたところ、執筆を担当した記者自身がデータの錯綜ぶりになやんでいるい。

 連載の第二回では、「六百万ものユダヤ人を虐殺したというが、数はもっと少なかったはずだ」という発言者不明のコメントをのせている。これでバランスをとっているのだろう。「発言者不明」にした理由はあきらかにドイツの刑法改正にある。ドイツではいま、この種の発言をしたことが発覚すれば、「最高禁固五年」の刑に問われるのである。

 ポール・ラッシニエの著書『ヨーロッパのユダヤ人のドラマ』(『ホロコースト物語とユリシーズの嘘』所収)では、ホロコースト史家として著名なユダヤ人のラウル・ヒルバーグの研究を紹介しつつ批判しているが、ヒルバーグ説では戦前のヨーロッパのユダヤ人の人口は「九一九万人」になっている。その内の「三〇二万人」がロシアにいたことになっているので、それを差し引くと「六一七万人」にしかならない。

 最近の著作の例で見ると、『中東軍事紛争史・・』の「一九四〇年頃におけるユダヤ人分布」(出所「ユダヤ年鑑」)では、「ヨーロッパ」のユダヤ人が「九八九万五〇〇〇人」になっている。ヒルバーグの計算よりも八〇万五〇〇〇人おおいが、国別の明細はしるされてない。

 戦争中のソ連やアメリカへの移住の数字については、これまた諸説あるようだ。国境線の長い超大国の場合、普段でも違法移民をふせぐのはむずかしい。戦時の避難民の流入に関しての調査は、さらに困難なのではないだろうか。

 このような過去の人口統計についての議論も、オープンに展開してもらいたいものである。たとえば、本書の巻末に収録した『東ヨーロッパのユダヤ人社会の分解』などは、三二九ページのほとんどすべてが人口統計資料の分析に当られている。

 この問題についても、専門家集団による綿密な国際的共同作業の実現を期待したい。

 では逆に、「六〇〇万人」という数字はどういう根拠で計算されたものだったのだろうか。

 そのこたえの一つは、大型パンフレット『移送協定とボイコット熱1933』のなかの「“六〇〇万”は早くも一九三六年に」という項目にしるされていた。これによると、ハイム・ヴァイツマン(英語読みはワイズマン)が、一九三六年一二月二五日にエルサレムでおこなった演説のなかですでに、つぎのように「六〇〇万人」という表現をしていた。

「六〇〇万人のユダヤ人が、かれらを必要としない地域[ヨーロッパのこと]におしいっていると非難されている」

 ヴァイツマンは、この発言の当時、世界シオニスト機構の議長であリ、一九四八年にはイスラエルの初代大統領に就任した。文脈から判断すると、ヴァイツマンは「六〇〇万人」をヨーロッパのユダヤ人全部の数字としてつかっている。

 さらに戦後の一九四五年、ヴァイツマンは、ときのイギリス首相ベヴィンと会談した。『ユダヤ人問題とシオニズムの歴史』では、その会談の内容の一部を、ヴァイツマンが一九四五年にアトランティック市でおこなった演説を報道した『JTAビュレティン』(45・12・23)からの引用によって、つぎのように紹介している。

「ベヴィンがユダヤ人はあまりに先頭に立とうと努めすぎると非難した時、ワイズマンは、六〇〇万人の大虐殺の後で、生き残った人々がユダヤ人の郷土の避難場所を求め、一〇万人の移民許可を要求したとしても、それは多大なことであろうか、と尋ねたのである」

 これらの文脈の「六〇〇万人」は、さきにあげた「ナチス・ドイツ時代のヨーロッパにおける一九三九年のユダヤ人の人口」の「六五〇万人」とほぼ匹敵する。ヴァイツマンらにとって「六〇〇万人」という数字は、「ヨーロッパのユダヤ人の総人口」の意味だったと考えれば、それなりに計算のすじがとおる。

 日本でも、むかしはよく「一億の民」という表現がつかわれていた。

「六〇〇万人の大虐殺」はもともと、単純に「皆殺し」の意味だったのではないだろうか。そうだとすれば、数字の議論そのものがむなしくなるような話である。

 ラッシニエは『ヨーロッパのユダヤ人のドラマ』(前出)の冒頭で、ヒルバーグの数字の自己矛盾をいくつか指摘している。それによるとヒルバーグは、ユダヤ人犠牲者の総数を「六〇〇万人」ではなくて、「五一〇万人」にしたり、「五四〇万七五〇〇人」にしたりしている。内訳は、「ガス室」によるものが、アウシュヴィッツで「一〇〇万人」、より「設備の悪い」他の収容所で「九五万人」、小計で「一九五万人」になる。「アインザッツグルッペン」(親衛隊員で編成された東部戦線の遊撃分隊)によるものが「一四〇万人」、のこりがさらに「能率の悪い」収容所での数字だが、これが「一七五万人」になったり、「二〇六万九五〇〇人」になったりしているというのだ。

 いずれにしても、これらの数字は、ニュルンベルグ裁判の主要法廷、国際軍事裁判で「六〇〇万人」の概数が認定された以後の試算によるものである。ただし、『ロイヒター報告』の指摘によると、そこで提出されていた証拠「L・022」では、一九四二年四月から四四年四月までの間に、ビルケナウだけでも「一七六万五〇〇〇人」の「ガス殺人」がおこなわれたという主張になっていた。ヒルバーグによるアウシュヴィッツの「一〇〇万人」は、この証拠「L・022」以下である。


(11)「約一五〇万」は元収容所司令官ホェス「告白」の範囲内