『偽イスラエル政治神話』(31)

結論

電網木村書店 Web無料公開 2000.4.7

原著者ロジェ・ガロディの「結論」 2

[本書で展開した主張の要約]

 政策に奉仕する神話で歴史を神聖化せずにいうと、批判的な歴史は、つぎのように要約できる。

 ヒトラーは、その最初の政治的宣言以来、人種主義的な思想に基づいて、共産主義の次にユダヤ人を標的に選んだ。彼の主要な使命は共産主義の破壊にあった。彼は、長らく、共産主義を、実業家による再軍備の手段の引き渡しと、たとえばミュンヘンにおける事態[訳注1]のような、彼らの政策による国民の引き渡し以来の、“ヨーロッパの民主主義”の寛容と譲歩の産物だと評価していた。彼のユダヤ人との戦いにおける最初の口実は、矛盾に満ちていた。一方で彼は、ロシアの一〇月革命はユダヤ人の仕業であり、ユダヤ人の共謀によって、ヨーロッパにも共産主義政権が確立される恐れがあると言い張り、世界的な共産主義の化身の表現として、“ユダヤ=ボルシェヴィズム”という呼び名を広めた。ところが他方では同時に、ユダヤ人を、世界的な資本主義の化身として非難したのである。

訳注1:ミュンヘンにおける事態。ヒトラーは一九二三年一一月八~九日のミュンヘン一揆に敗れて投獄されたが、その発端は、賠償支払いの遅滞を理由とするフランス・ベルギー軍によるルール地方の占領だった。ミュンヘンを中心とするバイエルン地方では、中央政府が〈受け身の抵抗〉さえ中止したことへの抗議の声が高まり、行政・軍・警察首脳が〈三頭政治〉で実権を掌握し、ベルリンへの進軍まで企画した。しかし、最後には、ヒトラーの突撃隊だけの孤立したデモ行進が、警察隊の射撃を受けて鎮圧される結果となった。

 国家社会主義党の綱領では、すでに、《ユダヤ人は同胞ではありえない》と宣言していた。

 このように、文化、音楽、科学などのすべての分野で最も輝かしい業績を発揮している多くの人々を、ユダヤ教の信仰を口実として、ドイツ国民から排除するのは、宗教と人種を故意に混同する行為に他ならない。

 この怪物的な排除の思想から出発して、詩人ハイネを否定し、天才アインシュタインを追い出すことになるのだが、彼は、すでに一九一九年九月一六日、友人ゲムリッヒに宛てた手紙の中で、彼自身の“最終的目標”(letztes Ziel)として、“ユダヤ人を遠ざけること”を挙げていた。この“最終的目標”は、それとの戦いで彼自身が破れた“ボルシェヴィズム”の場合と同様に、彼の死ぬまで変わらぬ目標だった。

 この“ユダヤ人を遠ざけること”は、彼の変わらぬ政策の一つであるが、彼の経歴の変遷に伴って、違う形を取った。

 彼が政権を握って以後、彼の財務大臣はユダヤ人代表のシオニストと一九三三年八月二八日に協定を結び、ドイツのユダヤ人をパレスチナに“移送”(ヘブライ語では“ハアヴァラ”)する政策を推進した。(ブロシャット、ヤコブセン、クラウスニック『親衛隊国家の解剖学』82)

 二年後、一九三五年九月一五日のニュルンベルグ法制定により、一九二〇年二月二四日にミュンヘンで国家社会主義党が定式化していた綱領の4および5条が、法律化され、効力を持つに至った。この条文は、ドイツ帝国の市民権に“血の擁護”を課すもので、“カトリックの王”[スペイン国王と同義]がスペインで一六世紀に、ユダヤ人や“ムーア人”に対抗する“血の純潔”(“linpieza del sangre”)の口実とした場合と同様に、旧約聖書のネヘミアとエズラの物語に見習っている。この法律は、国家機能、および民間社会の支配的な部署から、ユダヤ人を排除することを許した。この法律は、異人種間の結婚を禁止し、ユダヤ人を外国人と規定した。

 差別政策は、一九三八年の水晶の夜を、以後の口実として、さらに野蛮さを加えた。

 一九三八年一一月七日、パリ大使館の顧問、フォン・ラトが、グリンスパンという名の若いユダヤ人によって暗殺された。

 この事件は、ナチの新聞で交響曲よろしく一斉に報道された。一一月九日夜から一〇日に掛けて、本物のユダヤ人追放の暴動が荒れ狂い、彼らの商店は襲われ、掠奪され、ショーウィンドーが破壊された。水晶の夜の呼び名は、割れたガラスのイメージからきたものである。

 結果は陰惨だった。《八一五の商店、一七一の住居、二七六のユダヤ教会堂、それ以外に一四のユダヤ人社会の記念物が襲われ、破壊された。二万人のユダヤ人、七人のアーリア人、三人の外国人が逮捕され、三六人が死に、三六人が負傷した》(ニュルンベルグ裁判記録・ゲーリング以下、これを提出された被告が、すべて真正と認めた一九三八年一一月一一日付けのハイトリッヒからゲーリング宛ての報告書)

 この事件は、激情に駆られたドイツ人の民衆の暴動ではなくて、ナチ党が組織したポグロムであった。その証拠となるのは、調査を依頼された国家社会主義党の最高裁判事、ヴァルター・ブッフの報告(ニュルンベルグ裁判記録)である。彼は、一九三八年一一月一一日以後に逮捕された一七四人の党員の裁判を担当していたが、それらの党員たちは、ハイトリッヒの命令を受けてポグロムを組織し、参加していたのだった。

 しかし、この一七四人の党員の中には、下級幹部しかいなかった。

 政府と総統本人は、関与を否定した。犯罪を認めた例外はゲッベルスだけだった。しかし、命令が“最上部”から出たという仮説を排除することはできない。ゲーリングが直ちに、つぎのような三つの差別拡大の命令を出しているので、なおさら、この疑惑は強まる。

 第一に、ドイツのユダヤ人に、総額で一〇億マルクの罰金支払いを課した(ニュルンベルグ裁判記録)。

 第二に、ユダヤ人をドイツの経済的職業から排除した(同前)。

 第三に、水晶の夜の事件で起きた被害に関して、保険会社が被害当事者に支払うべき保証費用を、被害当事者にではなくて、政府に収めるように決定した(同前)。

 衝撃的な問題点は、このようなドイツのユダヤ人に対する圧迫に用いられた口実と、その仕打ちが、パレスチナのアラブ人に対してイスラエルが行っていることと、いかにも類似していることである。

 一九八二年、ロンドンで、イスラエルの外交官が襲われるという事件が起きた。イスラエルの指導者たちは、直ちに、それがPLOの仕業であると非難し、PLOの基地を破壊するためにレバノンを侵略し、二万人を殺した。ベギン[当時のイスラエル首相]とアリエル・シャロン[同国防相]は、かつてのゲッベルスと同様に、“彼らの水晶の夜”を演じたのだが、罪のない被害者の数は桁違いに多かった。

 違いは、また、レバノンに対する侵攻の火蓋を切る時の口実の立て方にもあるのだが、実際には、イスラエルの指導者たちの長期にわたる計画が背景にあった。ベン=グリオンは一九四八年五月二一日、彼の『ジュルナル』に、つぎのように書いていたのである。

《アラブ連盟のアキレス腱はレバノンにある。この国のイスラム政権には人工的な基盤しかないから、容易に転覆できる。キリスト教政権の樹立が可能である。レバノンの南の国境線は、リタニ川になるべきだ》(前出『ベン=グリオン/武装した予言者』)

 六月一六日には、モシェ・ダヤン将軍が、その方法を正確に語った。

《あとは、将校を探すことだけだ。ただの大尉で良い。わが方の大義名分を立てる必要があるから、買収して、マロン派[キリスト教徒]の人々を救う宣言を請け負わせる。その後、イスラエル軍がレバノンに入って、キリスト教政権を樹立できるだけの領土を占領する。あとはすべて、ルーレットの上のサイコロのように回転する。レバノン南部の領土は、すべてイスラエルに併合される》(『ジュルナル』79)

 シャロンの宰領下に準備され、その目の前で実行された徹底的な虐殺もさることながら、レバノンにおける犯罪を、さらに嫌悪すべきものにしているのは、その基本原理自体であり、その口実すらも、もともと、PLOになすりつけることが不可能なのであった。

 サッチャー夫人[当時のイギリス首相]は、下院で、この犯罪がPLOの明白な敵の仕業であるという証拠を提出した。犯人が逮捕され、警察の調査の所見が発表された直後、彼女は、つぎのように声明したのである。

《主犯が襲撃目標の人物を挙げたリストの中には、ロンドンにいるPLOの幹部の名前もあった。……以上の事実は、暗殺者が、イスラエルの主張とは違って、PLOの支持者ではないことを立証している。……私は、イスラエルのレバノンに対する攻撃が、この襲撃事件によって引き起こされた報復であるとは信じない。イスラエルは、この事件を、レバノンに対する敵対行為を再開する口実として、利用したのである》(『インターナショナル・ヘラルド・トリビューン』82・6・8)

 以上のようにイスラエルのプロパガンダが否認された経過は、フランスでは、まるで気付かぬ振りの黙殺で終わった。なぜならば、この否認の経過は、新しい侵略の口実に使われていた“防衛の正統性”という伝説を、崩壊させるものだったからである。

 レバノン戦争には、ヒトラーの人種主義の内的な論理の中における“水晶の夜”の場合と同様に、イスラエル国家のすべての侵略と強奪に共通するシオニストの教義の内的な論理が、刻み込まれていた。

 ユダヤ人の状況は、“水晶の夜”以後、それ以前にも増して悲劇的に変化した。一九三八年には、エヴィアン協議会が開かれ、三三の“西側の民主主義国”が集まった。ソ連とチェコスロヴァキアは代表を送らず、ハンガリー、ルーマニア、ポーランドは、オブザーヴァーを送って、ユダヤ人を自分たちの国から追い出してくれと要求しただけだった。

 ローズヴェルト大統領はエゴイズムの手本を示した。“ウォーム・スプリングズ”での記者会見で、つぎのように語ったのである。

《合衆国への移民割り当て数については、見直しも、追加も、まったく予定していない》(「エヴィアン協議会から三〇年」『ル・モンド・ジュイフ』68・4/6掲載記事)

 エヴィアンでは、《迫害されている人々を引き受けたり、彼らの境遇を真剣になって考えて心配する》ことには、誰一人として熱意を示さなかった(『ナチズムに関する十の教訓』76)。

 一九四三年三月、ゲッベルスは、つぎのような皮肉を飛ばすことができた。

《ユダヤ人問題の解決には、どの案が一番良いのだろうか? いつの日にか、どこかの領土で、ユダヤ人国家を創設するという案なのだろうか? いずれは、そうなるだろう。それにしても、奇妙なことがある。なにかといえば、すぐにユダヤ人に好意的な世論が燃え上がる諸国の内の、どの国を取って見ても、間違いなしに常に、ユダヤ人の受入れを拒絶しているのだ》(前出『憎悪の日読祈祷書』)

 ポーランドの敗北後には、ユダヤ人問題を臨時に解決する方法の可能性が出てきた。一九三九年九月二一日、ハイトリッヒは、“最終的目標”(Endziel)と言う表現を使って、保安部の幹部に、ソ連領内の新しい最前線に一種の“ユダヤ人居留地”を建設するように命じた。(同前)

 フランスの敗北によって、ナチには、新しい展望が開かれた。ユダヤ人問題と、その“最終的解決”のために、フランスの帝国主義支配下にあった植民地を利用することができるようになったのである。

 一九四〇年に休戦して以後、すべてのユダヤ人をマダガスカルに追い払う案が、飛び出してきた。

 一九四〇年五月以後、ヒムラーは、《東部の外国人の取り扱いについての、いくつかの考察》と題して書き留めた。

《すべてのユダヤ人をマダガスカルその他の植民地に移住させることによって、ユダヤ人と言う概念が消え去ることを希望する》(前出『季刊現代史資料』57)

 一九四〇年六月二四日、ハイトリッヒは、リッペントロップ外相宛てに、今や、ユダヤ人問題の《領土的な最終的解決》(eine territoriale Endlosung)の予測ができるようになったと書き送った(前出『ヒトラーと最終的解決』82)。

 それ以後、“マダガスカル計画”の技術的な練り上げが行われた。一九四〇年七月三日には、外務省のユダヤ人問題担当者、フランツ・ラデマッヒャーが、詳しい報告書を提出した。そこには、つぎのように記されている。

《目前に迫った勝利の結果、ドイツにとって、私の考えでは、同時にヨーロッパのユダヤ人問題を解決する可能性が開けている。望ましい解決策とは、ユダヤ人を全部ヨーロッパから追っ払うこと(“Alle Juden aus Europa”)である。

 専門報告班DIIIは、ユダヤ人問題の解決策を、つぎのように提案する。平和協定において、フランスはマダガスカル島を、ユダヤ人問題の解決のために使用できるように引き渡し、同島に居住するフランス人、約二万五千人の移住と補償に責任を持つ。同島は、ドイツの委任統治下に入る》(ニュルンベルグ裁判記録「ドイツ対外政策資料」)

 一九四〇年七月二五日には、ポーランド総督のハンス・フランクが、このマダガスカルへの移送にはヒトラー総統も賛成しているとした上で、しかし、イギリス海軍が海上を封鎖しているので、この重要問題に関する海上輸送は実現不可能だと認めた(ニュルンベルグ裁判記録)。

 代わりに臨時の解決策を探す必要が出てきた。

 口頭弁論では、つぎのような発言があった。

《親衛隊長官とドイツの警察長官が、地理的限界の考慮を抜きにして、[ユダヤ人問題の]最終解決(Endlosung der Judenfrage)に必要な方法の全体に、責任を持つことになった》(同前)

 ユダヤ人問題は、以後、ナチが占領したヨーロッパの範囲内に戻った。

 マダガスカル計画は、とりあえず、延期された。

《ソ連との戦いによって、最終的解決のための(fur die Endlosung )新しい領土の配分が可能になった。その結果、総統は、ユダヤ人をマダガスカルへではなくて東部に移動させると決定した》(同前)

 総統は実際に、一九四二年一月二日、つぎのように語っていた。

《ユダヤ人はヨーロッパから立ち去るべきである。ロシアに行くのが一番良い》(『ヒトラー独白録/一九四一~一九四四』80)

 ドイツ軍がソ連軍に押し返される状況を反映して、“ユダヤ人問題”の解決には、《無情な厳しさ》(『東部諸国におけるユダヤ人迫害』)が求められた。

 一九四四年五月、ヒトラーは、二〇万人のユダヤ人に一万人の親衛隊の看守を付けて、軍需工場で働かせるように命じた。集中収容所の居住条件は非常に悪かった。発疹チフスが流行し、何万人もの犠牲者が出て、火葬場の焼却炉の増設が必要になった。

 さらには、移送される流刑囚は、自分の移送路を自分で建設しなければならなかった。悪条件の中での疲労と食料不足によって、その大部分の、何万人もの流刑囚が死んだ。

 このようにして、流刑囚の犠牲者名簿は、ユダヤ人、スラヴ人の名前で埋まった。彼らを奴隷なみに酷使した残酷な支配者のヒトラーは、人間の価値を、利用できる労働力としてしか認めていなかったのだ。

 これらの犯罪を過少評価してはならない。犠牲者たちの言語を絶する苦難についても同様である。正確な事実の評価をすれば、この恐ろしい情景を描き出すために、ダンテの地獄から火の海を借りてきて薄明りを付け加えたり、神学的かつ犠牲的な“ホロコースト”の保証人になったりする必要はないのである。

 まったく誇張がない歴史が、そして、そういう歴史のみが、神話よりも優れた最良の告発者なのである。

 そして何よりも、そういう事実に即した歴史の方が、一種類のみの罪のない犠牲者に関してのポグロムの次元と比較して見れば、実際に五千万人の死者を出した人道に対する犯罪の全体像を、矮小化せずに伝えることになるのである。しかも同時に、この野蛮行為に面に向かって武器を手にした戦いでも、何百万人もの死者が出ているのだ。

[歴史の真実の確立こそが最良の検事論告]

 繰り返して言うが、以上の歴史的な評価は、まだ仮のものに過ぎない。すべての批判的な歴史においてと同様に、または、すべての科学の場合と同様に、以上の歴史的な評価は、見直すことができるものであり、また、新しい材料が出現すれば、それに応じて見直されるべきものなのである。何トンものドイツの文書類が、アメリカ軍に押収され、アメリカに運ばれた。いまだに完全な公開はなされていない。ロシアにある文書類の方は、長らく研究者の接近が禁じられていたが、最近、公開され始めた。

 だから、まだまだ、大きな仕事が残っている。神話と歴史を混同しないような条件を作り出す必要がある。これまでのような、各種の知的テロリズムの駆使による研究以前の結論の押しつけを許してはならない。

 実のところ、ニュルンベルグ裁判記録を“聖典承認”しようとする彼らの動きは、その主張の理論的基礎の脆さを、自ら暴露しているのである。歴史は、他の諸科学に負けず劣らず、触れることのできないア・プリオリから出発してはならないものなのである。

 ニュルンベルグ裁判が広めた数字については、最も重要な部分の誤りが明らかになった。アウシュヴィッツの死者の数字、“四百万人”の方は、すでに“百万人より少し多い”となっており、“権威筋”までが、この見直しを受け入れ、この犯罪の記念碑を作り直したのである。

 “六百万人”の教義に関しても、すでに、最も非妥協的なジェノサイド論の擁護者、ライトリンガーでさえもが、著書、『最終的解決』の中で、四百五十万人という数字への変更を余儀なくされている。ただし、この数字自体も、世論や学生を相手にメディアが操り広げるプロパガンダの題目として通用しているだけで、最早、科学的な議論の世界では相手にされていない。

 重要なことは、これらの「ア・プリオリ」算術の空虚さを説明したり、気味の悪い死者の数の精密な調査を行うことではない。これらの用意周到な嘘を繰り返し宣伝することによって、歴史の組織的系統的かつ手前勝手な変造を強制してきた意図が、どこにあったのかを明らかにすることが、最も重要なのである。

 まず必要なのは、ユダヤ人殉教者名簿の現物を作り上げることだったのであり、そのために「陳腐化」を防ぐという口実が設けられた。その目的は、千七百万人のロシアの民間人や、九百万人のドイツ人などの、その他のすべての犠牲者たちを二流扱いにするだけでなく、ユダヤ人の苦難に対してだけ、のちの名称、「ホロコースト」のような、神聖な性格の特権を授与し、それを他のすべての犠牲者に対しては拒絶することにあった。

 つぎに必要となったのは、以上の目的を達成するために、すべての正義の基本的な法則と、真実を確立する努力を踏みにじることだった。

 たとえば、つぎのようなことが必要になった。“最終的解決”は、絶滅、または“ジェノサイド”を意味しなければならない。ところが、実際には、いかなる記録文書も、そう解釈できないのである。すべての記録文書が常に意味するのは、すべてのユダヤ人をヨーロッパから排除することであり、その行き先は、東部だったり、アフリカのどこかの居留地だったりしたのである。それだけでも、すでに十分に恐ろしいことだったのだが。

 そこでさらに、すべての記録文書を偽造する必要が生じた。たとえば、“移送”を、“絶滅”と訳すのである。この種の“方法”による翻訳を行えば、どんな記録文書からでも、都合の良い材料を作り出すことができる。こうして、恐ろしい虐殺が、さらに“ジェノサイド”へと発展したのである。

 この種の記録文書の意図的な小細工を、一例だけ示しておこう。ジャン=クロード・プレサックは、著書、『アウシュヴィッツの火葬場』(93)[訳注1]の中で、この恐ろしいほどの多数の死亡者名簿に、付録の恐怖を付け加えたいという熱心さが高じた余りか、ドイツ語の“Leichenkeller”という単語に出会う度に、直訳すれば“死体の穴蔵”、つまり、“遺体安置室”でしかないのに、“ガス室”(同前)と訳している。そうしておいて、彼は、“暗号化された言葉”という考えを持ち込み、死刑執行人(名前はメッシング)には、《“死体の穴蔵”が“ガス室”だと書く勇気がなかったのだ》(同前)と称しているのである。

訳注1:ここでガロディが例に挙げているプレサックの原著の六五頁では、chambre a gaz (la Leichenkeller 1)[ガス室(遺体安置室1)]となっており、その隣が、vestiaire (la Leichenkeller 2)[更衣室(遺体安置室2)]だという主張になっている。

 ところが、この“暗号化された言葉”という仮説は、記録文書を自分の都合の良いように利用するために、しばしば活用されてはいるものの、何の根拠も持たないのである。まず最初に、ヒトラーとその共犯者たちは、すでに本書でも詳しく指摘したように、自分たちの他の犯罪を隠す努力を、まったくしておらず、その上に、図々しくも明確な用語で発表していた。さらに、イギリスは、当時、極めて高度な暗号解読の技術と機械の開発に成功し、ドイツの通達類を明瞭に受信していた。何百万人もの人間を工業的に絶滅させるというような、巨大な技術的計画が実行されていたとすれば、その関係の通達類は必ずや数多かったに違いないのである。

 ヒトラー支配下の記録文書には、“領土的な最終的解決”という用語が、実に頻繁に登場する。この用語が、組織的系統的に拒否されている状況は、やはり、「ア・プリオリ」の結論、すなわち、“六百万人”、または、“ジェノサイド”の正当化を否定するような、すべての分析を拒否しようという意図が働いていることの、何よりの証明である。

 同じく手前勝手な論理が必要とされ、いまだにまかり通っているのは、“目撃証人”の評価の問題である。“ガス室”の存在に関しては、相当数の“目撃証人”による言明があったにもかかわらず、ドイツ領土内には“ガス室”はなかった。ところが、東側の“ガス室”の存在に関しては、いまだに、同工異曲の証言が、絶対に異議を差し挟めないものとして、通用され続けているのである。

 最後に、科学的かつ公開の場での専門的な鑑定にもとづく議論の拒否がある。その一方には、言論弾圧および黙殺による返答の拒否がある。これでは、疑惑を解消できるはずがない。

 歴史の真実の確立こそが、ヒトラー主義に対する最良の検事論告である。

 本書の使命は、まさに、この一点にある。


(32)イスラエルの"新しい歴史家たち"[付録]